2014年12月5日金曜日

『資本主義の終焉と歴史の危機』 水野和夫

(震災レポート29) 震災レポート・拡張編(9)
 ―[脱成長論 ①]


                                  中島暁夫



 これも今回の大震災(原発事故)をきっかけに書かれた論考ではないか…少なくとも当方はそのように読んだ。現在、世界に吹き荒れているグローバル資本主義の嵐…。その象徴としての、9・11同時多発テロ、9・15のリーマン・ショック、そして3・11の福島原発事故…。それらにこの著者は、資本主義というシステムの終末の姿を見ようとしている。…このシステムは、もう終わらせないといけない…そのような著者の、怒りとも、祈りともいえるような思いが、静かに熱く伝わってきた。



                                         
『資本主義の終焉と歴史の危機』 水野和夫
 
                    (集英社新書)2014.3.19――[前編]
                                        (2014.4.16 3刷)



〔1953年生まれ、日大教授。早大大学院経済学研究科修士課程修了、証券会社系シンクタンクでエコノミスト(30年)を経て、内閣府官房審議官などを歴任。著書に『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』『世界経済の大潮流』など。〕


【はじめに】資本主義が死ぬとき

・資本主義の死期が近づいているのではないか。その理由は、もはや地球上のどこにもフロンティアが残されていないから。
・資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺」つまりフロンティアを広げることによって「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム。
・「アフリカのグローバリゼーション」が叫ばれる現在、地理的な市場拡大は最終局面に入っていると言っていい。もう地理的なフロンティアは残っていない。(※人類誕生の地・アフリカが、最後のフロンティア…。そして今、そこからのエボラ出血熱に人類は脅かされている…)
・また金融・資本市場を見ても、各国の証券取引所は株式の高速取引化を進め、一億分の一秒で取引ができるようなシステム投資をして競争している。→ このことは、「電子・金融空間」の中でも、時間を切り刻み、一億分の一秒単位で投資しなければ利潤をあげることができないことを示している。→ 日本を筆頭にアメリカやユーロ圏でも政策金利はおおむねゼロ、10年国債利回りも超低金利となり、いよいよその資本の自己増殖が不可能になってきている。
・つまり、「地理的・物的空間」(実物投資空間)からも「電子・金融空間」からも、利潤をあげることができなくなってきている。→ 資本主義を資本が自己増殖するプロセスと捉えれば、資本主義が終わりに近づきつつあることがわかる。
・さらにもっと重要な点は、中間層が資本主義を支持する理由がなくなってきていること。…自分を貧困層に落としてしまうかもしれない資本主義を維持しようというインセンティブ(経済的誘引)がもはや生じない。→ こうした現実を直視するなら、資本主義が遠くない将来に終わりを迎えることは、必然的な出来事だとさえ言えるはず。
・資本主義の終わりの始まり……この「歴史の危機」から目をそらし、対症療法にすぎない政策(※アベノミクスも?)を打ち続ける国は、この先、大きな痛手を負うはずだ。

【1章】資本主義の延命策でかえって苦しむアメリカ

○経済成長という信仰

・(政界でもビジネス界でも)ほとんどの人々は、「資本主義が終わる」あるいは「近代が終わる」などとは夢にも思っていないよう。→ アメリカをはじめどの先進国も経済成長をいまだに追い求め、企業は利潤を追求し続けている。(※従って、著者は〝異端〟のエコノミスト…)
・私が資本主義の終焉を指摘することで警鐘を鳴らしたいのは、こうした「成長教」にしがみつき続けることが、かえって大勢の人々を不幸にしてしまい、その結果、近代国家の基盤を危うくさせてしまうから。→ もはや利潤をあげる空間がないところで無理やり利潤を追求すれば、そのしわ寄せは格差や貧困という形をとって弱者に集中する。→ そして現代の弱者は、圧倒的多数の中間層が没落する形となって現れる。(※これは堤未果の著作とも通底…)
・確かに新興国と呼ばれる国々は、このあと20年や30年は成長を続ける可能性がある。労働力を安く買い叩くことで利益をあげ続けるグローバルなブラック企業(※ユニクロも?)もあるだろう。…けれども、それは局所的な現象にすぎない。→ 資本主義が経てきた歴史的なプロセスを検証すれば、成長が止まる時期が近くまで迫っていることが明白にわかる。
・中世封建システムから近代資本主義システムへの転換期(1450~1640年)を、歴史家ブローデルは「長い16世紀」と呼んだが、私たちは今、同じような歴史の峠に立っている。…現在が、(中世から近代への転換点に匹敵する)500年に一度の大転換の時期であること。→ それを端的に教えてくれるものが、利子率の異様な動き。

○利子率の低下は資本主義の死の兆候

・昨今の先進各国の国債利回り…際立った利子率の低下が目立つ。→ 先鞭をつけたのは日本…10年国債の利回りが、1997年2.0% → 2014年0.62% → さらに米英独の10年国債も、金融危機後に2%を下回り、その後、短期金利の世界では事実上ゼロ金利が実現(P14に図)。
・1997年までの歴史の中で最も国債利回りが低かったのは、17世紀初頭のイタリア・ジェノヴァ。金利2%を下回る時代が11年間続いた(P15に図)。→ 日本の10年国債利回りは、400年ぶりにそのジェノヴァの記録を更新し、2.0%以下という超低金利が20年近く続いている。→ 経済史上、極めて異常な状態に突入している。
・利子率低下の重大さ……金利は、資本利潤率とほぼ同じと言えるから。→ 資本を投下し、利潤を得て資本を自己増殖させること(※G-W-G´)が資本主義の基本的な性質なのだから、利潤率が極端に低いということは、すでに資本主義が資本主義として機能していないという兆候。
・ジェノヴァをはじめとする16世紀末~17世紀初頭のイタリアでもそうだった。…「銀と金は投資の手段を見出すのが困難である。『資本がこれほど安く提供されたのは、ローマ帝国の衰退以来ヨーロッパの歴史において初めてであるが、これは実は並々ならぬ革命である』」(ブローデル著『地中海』より)。…つまり、投資がすでに隅々まで行き渡ってしまい、「革命」と言えるほどに利子率が低下した(詳細はP15~17)。→ これが「利子率革命」。(※本書ではこの利子率が、資本主義の行く末を示す重要なキーワード)

○繰り返される「利子率革命」

・利子率=利潤率が2%を下回れば、資本側が得るものはほぼゼロ。そうした超低金利が10年を超えて続くと、既存の経済・社会システムはもはや維持できない。…これこそが「利子率革命」が「革命」たるゆえん。→ そして、16世紀末~17世紀初頭(「長い16世紀」後半)のジェノヴァが、まさにそうした「利子率革命」によって社会の大変動の洗礼を浴びた。
・そして現在、先進各国で超低金利の状態が続いていることを、私は「21世紀の利子率革命」と呼んでいる。…繰り返すが、この「利子率革命」は、利潤を得られる投資機会がもはやなくなったことを意味。なぜなら利子率とは、長期的に見れば実物投資の利潤率を表わすから。
・このような資本利潤率の著しく低い状態の長期化は、企業が経済活動をしていく上で設備資産を拡大していくことができなくなったということ。→ 利潤率の低下は、裏を返せば、設備投資をしても、十分な利潤を生み出さない設備、つまり「過剰」な設備になってしまうことを意味。…この点について、「長い16世紀」におけるジェノヴァの「山のてっぺんまでブドウ畑」(当時の最先端産業はワイン製造業)に、21世紀の日本で匹敵するのが「山のてっぺんから地の果てまで行き渡ったウォシュレット」(日経新聞2013.2.24)。→ 日本では世界がうらやむような投資が隅々まで行き渡ったと言える。(※う~ん、基本的にはもう新規に欲しい物はない、ということか…。〝断捨離〟の流行も…)

○1970年代前半に大転換が始まった――資本主義の終わりの始まり

・この異常なまでの利潤率の低下が始まったのは、1974年。…この年、イギリスと日本の10年国債利回りがピークとなり、1981年にはアメリカ10年国債利回りがピークをつけた。→ それ以降、先進国の利子率は趨勢的に下落していく(P20に図)。
・1970年代には、オイル・ショック(1973年、79年)、そしてベトナム戦争終結(75年)があった。→ これらの出来事は、「もっと先へ」と「エネルギーコストの不変性」という近代資本主義の大前提の二つが成立しなくなったことを意味。←→ 「もっと先へ」を目指すのは空間を拡大するため。空間を拡大し続けることが、近代資本主義には必須の条件。…アメリカがベトナム戦争に勝てなかったことは、「地理的・物的空間」を拡大することが不可能になったことを象徴的に表している(※その後のアメリカの、中東での悪戦苦闘…)。…そして(イランのホメイニ革命などの)資源ナショナリズムの勃興とオイル・ショックによって、「エネルギーコストの不変性」も崩れていった。→ つまり、先進国がエネルギーや食糧などの資源を安く買い叩くことが、70年代からは不可能になった。
・「地理的・物的空間」の拡大もできず、資源も高騰していくのだから、1970年代半ば以降の資本利潤率の低下は、当然の結果。…そして、この時期からの利潤率の低下を表現したものが「利子率革命」にほかならない。→ ブローデルの「長い16世紀」にならって、現代の大転換期を私は「長い21世紀」(1970年~)と呼んでいる。…「長い21世紀」の始点を1970年代に置くのは、この利潤率の低下が、これまで世界を規定してきた資本主義というシステムの死につながるものだから。

○「交易条件」の悪化がもたらした利潤率の低下

・次は、先進国における利潤率の低下を「交易条件」という概念によって分析してみる。
〔交易条件とは、輸出物価指数を輸入物価指数で割った比率で、輸出品一単位で何単位の輸入品が買えるかを表わす指数(※ざっくり言えば、交易の利益度か)。…詳細はP22~23〕
・〔P23に「交易条件の推移」の図〕…1973年の第一次オイル・ショックまでは交易条件は改善傾向にあったが、①二度のオイル・ショックで交易条件は大幅に悪化。→ その後(1980~90年代)、日本は省エネ技術と合理化で再び交易条件を改善したが、1999年以降、②資源価格が高騰したことで再度、悪化に転じてしまった。…前回①の悪化は、供給サイドの問題(産油国が原油の供給をストップ)だったので、長期化は避けられたが(それでも悪化は10年強続いた)、今回②は、数十億人の新興国の近代化が資源価格高騰の背景にあるので、それだけ交易条件の悪化が長期化することになる(詳細はP24~25)。→ こうした原油価格の高騰により、1970年代半ば以降、先進国では投入コストが上昇し、粗利益が圧迫された。つまり、先進国の「利潤率=利子率」の趨勢的な下落が始まった。

〔資本主義の延命策〕

○アメリカの資本主義延命策――「電子・金融空間」の創造

・交易条件が悪化するということは、モノづくり(※輸出産業?)が割に合わなくなったことを意味。…(それでも「地理的・物的空間」が拡大してさえいれば、製品1個あたりの粗利益が減少しても販売個数を増やすことで、利益の総額を増やすことができるのだが)…ベトナム戦争終結によって、アメリカが軍事力を背景として市場を拡大させることは難しくなった。→ 既存の「地理的・物的空間」(=実物経済)で先進国は高い利潤を得ることができなくなった。…まさに中世のイタリアの領主や貴族と同じ事態に直面した。
・本来ならば、「地理的・物的空間」での利潤低下に直面した1970年代半ばの段階で、先進各国は資本主義に代わる新たなシステムを模索すべきだった(※「長い16世紀」にヨーロッパの中世社会が、近代社会システムに移行していったように)。←→ しかしアメリカは、別の「空間」を生み出すことで資本主義の延命を図った。すなわち「電子・金融空間」に利潤のチャンスを見つけ、「金融帝国」化していくという道だった。(※資本主義の延命策としての「マネー資本主義」…)
・「電子・金融空間」とは、IT(情報技術)と金融自由化が結合してつくられる空間のこと。→ ITと金融業が結びつくことで、資本は瞬時にして国境を越え、キャピタル・ゲイン(資本利得)を稼ぎ出すことができるようになった。→ その結果、1980年代半ばから金融業への利益集中が進み、アメリカの利潤と所得を生み出す中心的な場となっていった。
・アメリカの「電子・金融空間」の元年は1971年…この年、ニクソン・ショックでドルは金と切り離され、ペーパー・マネーになった(※まだ学生だった。もう43年前の話か…)。→ いかりを外されたドルは自由に目盛りが伸び縮みし、バブルが起きやすくなった。…また、同じ年にインテルが(今のPCやスマートフォンに不可欠な)CPUを開発した。→ 極端に言えば、地球上の人がすべて「電子・金融空間」に参加することが可能となった。
・そして1985年以降、アメリカは金融帝国化……全産業利益中、金融業の占めるシェアは、1984年9.6% → 2002年30.9%…(P27に図あり)。…この金融業のシェア拡大は、金融のグローバリゼーションと軌を一にしている。→ 債権の証券化などの様々な金融手法を開発することで、世界の余剰マネーを「電子・金融空間」に呼び込み、その過程でITバブルや住宅バブルが起こった。…アメリカは世界中のマネーをウォール街に集中させることで、途方もない金融資産をつくり出した(※このことは「震災レポート22」の「里山資本主義」の中でも触れた)。→ こうして、原油価格高騰に合わせるように、アメリカ主導の金融自由化が推し進められていった。…高騰したエネルギーを必要としない「空間」をつくることが、利潤を極大化させる唯一の方法だったから。(※まさに〝資本主義の延命策〟…)

○新自由主義と金融帝国化との結合

・しかし、アメリカの金融帝国化は、決して中間層を豊かにすることはなく、むしろ格差拡大を推し進めてきた。この金融市場の拡大を後押ししたのが、新自由主義だったから。
・新自由主義とは、政府よりも市場の方が正しい資本配分ができる、という市場原理主義の考え方。…アメリカでは1980年代のレーガンの経済政策「レーガノミクス」に始まって、クリントン、ブッシュへと引き継がれてきた。→ 資本配分を市場に任せれば、労働分配率を下げ、資本側のリターンを増やすから、富む者がより富み、貧しい者がより貧しくなっていくのは当然。…これはつまり、中間層のための成長を放棄することにほかならない。
・1991年にソ連が崩壊し、東側の諸国が資本主義の世界市場に取り込まれ、新たなマーケットが一気に広がった。→ 1995年にはアメリカが「強いドル」に政策転換し、経常収支の赤字額を上回る資金を世界中から集めて、それを世界へと再配分していくようになった。…この「マネー集中一括管理システム」により、アメリカは「アメリカ投資銀行株式会社」となり、金融帝国となった。→ その後、1999年に金融サービス近代化法によって、(1933年の銀行法以来、原則禁止されていた)銀行業務と証券業務の兼業を認め、マネー創出のメカニズムを根本的に変えてしまった(金融帝国のシステムも完備された)。
・従来、マネーは銀行の信用創造によってつくられていた。それには家計の所得が増加してある程度貯蓄率が高くなければならない(※実体経済)。←→ しかし、1970年代半ば以降、利潤率は低下し、所得の増加率が鈍化(→貯蓄も鈍化)してしまったので、銀行を通じて創造されるマネーは従来のようには増えなくなった。→ そこでアメリカ政府は、商業銀行の投資銀行化を政策的に後押しした。…金融・資本市場を自由化し、資産価格(株や債券、不動産など)の値上がりによって利潤を極大化するほうが、資本家にとってみればはるかに効率的だから。(※かつてホリエモンが参入した世界…?)
・マネーが銀行の信用創造機能によってつくられるときの主役は労働者(※実体経済社会のいわば基本的存在)であり、商業銀行。…家計が消費を我慢して所得の中から貯金することによって、銀行による多くの貸し出しが可能になるから(※昭和のよき時代…?)。←→ ところが、金融・資本市場でマネーをつくろうとすれば、主役は商業銀行ではなく、レバレッジ(テコの作用)を大きくかけられる投資銀行となる。→ こうして、貯蓄行為をおこなう家計(※一般労働・生活者)は「地理的・物的空間」から主役の座を降り、その座を「電子・金融空間」において、巨額の資金をボタンひとつで、国境を自由に越えて動かすことができる資本家に譲り渡した(※「マネー資本主義」の誕生…)。→ 「電子・金融空間」で集めたマネーを運用して、アメリカ金融帝国はITバブル、住宅バブルを起こしていった。

○資本主義の構造変化

・〔P33に「資本主義の構造変化」の模式図〕…先進国は、安く買い叩ける地域、高く売れる地域を求めて、常に外側へ外側へと拡大する。…「長い16世紀」からオイル・ショックの前後までは、交易条件(粗利益)と市場規模を改善・拡大していけば、名目GDP(粗利益×市場規模)の増加が保証されていた。←→ ところが1970年代半ばに、交易条件、市場規模、両方とも外に拡大していくことが難しくなった。
・資源価格が高騰し、さらに先進国では少子化が進行して、販売数量の増加率が鈍化。…日本も含めてG7は、1970年代半ばに合計特殊出生率2.1を一斉に下回っていく。→ つまり、国内の市場も増えない上に、海外の市場もアメリカのベトナム戦争終結で拡張が止まった。
・このように、1974年以降、「地理的・物的空間」が広がらなくなり、モノづくりやサービスの実物経済で利潤を高めることができなくなってきた。→ そこで、二次元の平面空間ではなく、三次元に「電子・金融空間」をつくり、レバレッジを高めることで金融による利潤の極大化を目指していくことが起きた。
・金融はグローバリゼーションにも一番なじむ。→ 1995年以降、日本やアジアで余っているお金は、アメリカの「電子・金融空間」に簡単に投資できるようになっていった。…具体的には、インターネット・ブームがまず生じ、その崩壊の負の影響を打ち消すために欧米で住宅ブームが起きた。…そのときブームを巻き起こすのに証券化商品が大きな役割を果たした。
・その結果、1995年からリーマンショック前の2008年の13年間で、世界の「電子・金融空間」には100兆ドル(!)ものマネーが創出された。→ これに回転率を掛ければ、実物経済をはるかに凌駕する額のお金が地球上を所狭しと駆け巡った。…1999年までは商業銀行は自己資本の12倍までしか投資してはいけないという制約があったが、金融サービス近代化法が成立したことで、アメリカの商業銀行は子会社を通じて証券業務に参入できるようになり、事実上、無限大に投資できることになっていた。
・しかし、こうしてでき上がったアメリカ金融帝国も、2008年に起きたリーマンショックで崩壊した。…自己資本の40倍、60倍で投資をしていたら、金融機関がレバレッジの重さで自壊(欠陥金融商品による無理な膨張が破裂)してしまったというのがリーマンショックの顛末。→ そしてリーマンショックが誘引となって、EUの巨大金融機関はアメリカの大手投資銀行以上に大きな痛手を被り、全地球をカバーしていた「電子・金融空間」も縮小に転じた。

○日本の来た道を繰り返すアメリカ

・リーマンショックを経た現在のアメリカは、積極財政と超低金利政策で成長を取り戻そうとしたバブル崩壊後の日本と同じ経済構造に直面している。→ 実際に、2008年にFRBは事実上のゼロ金利政策に踏み切り、さらに長期国債買い入れの検討を表明して、非伝統的金融政策に舵を切った。
・こうしたアメリカの超低金利は、1997年の日本とよく似ている。→ アメリカの長期金利が2%を下回っていったプロセスも、1990年代の日本とほぼ同じだった。…過剰債務の返済に必要なキャッシュ・フロー(現金収支)を生み出すために、企業のリストラが加速し、賃金が下落する。→ それが経済のデフレ化をもたらしていった。
・アメリカが日本以上に深刻なのは、リーマンショック後、国際資本の移動が縮小し、他国の貯蓄をそれ以前ほどに自由に使えなくなっている点にある。
・実物経済の利潤低下がもたらす低成長の尻ぬぐいを、「電子・金融空間」の創出によって乗り越えようとしても、結局バブルの生成と崩壊を繰り返すだけ。…まさにクリントン政権時のサマーズ財務長官が指摘した「3年に1度バブルは生成し、崩壊する」ようになったのだ。→ バブルの生成過程で富が上位1%の人に集中し、バブル崩壊の過程で国家が公的資金を注入し、巨大金融機関が救済される一方で、負担はバブル崩壊でリストラなどの形で中間層に向けられ、彼らが貧困層に転落することになる。(※格差拡大 → 民主主義社会の不安定化…)

○「長い16世紀」の「空間革命」――「海」を通じた支配の始まり

・現代の経済覇権国であるアメリカによる資本主義の延命策…新しい空間(電子・金融空間)を創造して、高い投資機会を見出そうとするグローバリゼーションは、現代の「空間革命」と呼ぶべきもの。
・実は利潤率の低下した「長い16世紀」にも同じことが起きている。…「陸の国」スペインから「海の国」イギリスへと覇権が移ったことを「空間革命」と呼ぶ(カール・シュミット)。→ 海を制したイギリスは、海洋支配をもとに全世界を網にかけていく。…1600年に東インド会社を設立して、半ば略奪的な行為を重ねながら、資本を蓄積していった。→ いわばイギリスは海という「空間」を創造し、それまでの領土にもとづいた陸のシステムとはまったく異なる新しい貿易のルールを築いた。
・空間革命が起きた16~17世紀の資本家たちは、中世末期の中心地であるスペインやイタリアに投資しても、超低金利のために富を蓄積できない状況に陥ったため、投資先をオランダ、イギリスに変えて繁栄していった(ブローデルの言う「金融資本家の時代」)。…こうした変化は、現在の先進国の資本家たちが「地理的・物的空間」では利潤をあげられずに、「電子・金融空間」や新興国市場に投資先を求めるのと非常によく似ている。
・「長い16世紀」というのは、それだけではなく、中世のイデオロギーや価値観、システムが一新された時代でもあった。→ 神が主役の時代から人間が主役の時代になり、政治・経済システムも中世荘園制・封建制社会から近代資本主義・主権国家へと一変した。…つまり、新たな空間を創造すると同時に、そこでのルールや価値観もすべて変わった。…だからこそ「革命」と呼べるのだろう。

○「長い21世紀」の「空間革命」の罪

・ひるがえって「長い21世紀」の「空間革命」はどうか。…「地理的・物的空間(実物投資空間)」に見切りをつけた先進国の投資家たちは、「電子・金融空間」という新たな空間をつくり、利潤極大化という資本の自己増殖を継続している(※対症療法的な延命策)。…しかし、「電子・金融空間」で犠牲になっているのが雇用者(※対症療法の副作用)。
・振り返ってみれば、「地理的・物的空間」で利潤をあげることができた1974年までは、資本の自己増殖(利益成長)と雇用者報酬の成長とが軌を一にしていた。資本と雇用者は共存関係にあった(※労資協調…?)。←→ しかしグローバリゼーションが加速したことで、雇用者と資本家は切り離され、資本家だけに利益が集中していく。…21世紀の「空間革命」たるグローバリゼーションの帰結とは、中間層を没落させる成長にほかならない。(※労働組合の実質的崩壊と非正規社員の激増…)
・グローバリゼーションをヒト・モノ・カネの国境を自由に越えるプロセスであると捉えている限り、それはグローバリゼーション推進論者や礼賛論者の思うつぼだ。→ そう定義すれば、「周辺」に置かれている国や地域、あるいはその国の企業が、グローバリゼーションに乗り遅れてはいけない、乗り遅れることは死を意味するなどといった脅迫観念に駆られ、グローバリゼーション政策に邁進することになる。…〝金融ビッグバン〟しかり、〝労働の規制緩和〟しかり、最近では〝TPP〟しかり…。
・グローバリゼーションとは、「中心」と「周辺」からなる帝国システム(政治的側面)と資本主義システム(経済的側面)にあって、「中心」と「周辺」を結びつけるイデオロギーにほかならない。…もっと直截的に言えば、グローバリゼーションとは、「中心」と「周辺」の組み替え作業だ。…BRICS(ブラジル,ロシア,インド,中国,南アフリカ)が台頭する以前の20世紀末までは、「中心」=北の先進国(さらにその中心がワシントンとウォール街)、「周辺」=南の途上国という位置づけだった。→ しかし、21世紀に入ると、北の先進国の「地理的・物的空間」では満足できる利潤が獲得できなくなって、実物投資先を南の途上国に変え、成長軌道に乗せた。
・資本主義は「周辺」の存在が不可欠だから、途上国が成長し、新興国に転じれば、新たな「周辺」をつくる必要がある。→ それが、アメリカでいえばサブプライム層であり(※刑務所の囚人も?)、日本でいえば非正規社員であり、EUでいえばギリシャやキプロス(※移民も?)。
……21世紀の新興国の台頭とアメリカのサブプライム・ローン問題、欧州のギリシャ危機、日本の非正規社員化問題は、コインの裏と表なのだ。(※う~ん、説得力あり…)

○「資本のための資本主義」が民主主義を破壊する

・こうした国境の内側で格差を広げることもいとわない「資本のための資本主義」は、民主主義も同時に破壊することになる。…民主主義は価値観を同じくする中間層の存在があってはじめて機能するのであり、多くの人の所得が減少する中間層の没落は、民主主義の基盤を破壊することにほかならないから。
・民主主義を機能させるには情報の公開性を原則としなければならない(※日本はこの「情報の公開性」がまだまだお粗末…)。→ (中世までは知は神が独占していたが)近代では個々人が主役となったことで、ある特定の人や国家も、情報を独占することは許されない。→ そういった意味でスノーデン事件は、おそらく21世紀の大問題に発展すると思う。
・情報は誰のものか、という議論は、中世から近代への移行期だった「長い16世紀」において、ラテン語を独占していたローマ・カトリックと、俗語(ドイツ語や英語)でしか情報を伝えられないプロテスタントとのたたかいだった。→ 結果はプロテスタントの勝利。…情報を独占する側が常に敗者となるのが歴史の教訓。…この観点からみても、スノーデン事件が問いかけているのは民主国家の危機なのだ。(※資本主義の終末期に入って、国家や資本の側による〝情報の独占〟への傾斜が露出してきている…ex. 特定秘密保護法、TPP交渉の秘密主義…)

○賞味期限切れになった量的緩和政策

・民主国家の危機という意味では、リーマンショック以降のアメリカの量的緩和政策も、その文脈で捉えることができる。…マネーの膨張は、中間層を置き去りにし、富裕層のみを豊かにするバブルを醸成するものだから。
・そもそもマネタリスト的な金融政策の有効性は、1995年で切れている。…金融緩和の有効性を主張する彼らの言い分は、貨幣数量説(貨幣の数量が物価水準を決定する)に基づくもの。→ しかし、低金利のもとでは、この説の前提が崩れており(詳細はP44)、さらに取引量の中には(実物経済での取引高だけではなく)金融市場での株や土地の売買取引が多く含まれている。→ 実際、実物経済の需要が縮小しているアメリカでは、株価の上昇があっただけ。(※日本も今、アメリカの後追いをしているが…)
・現在、金融経済の規模は実物経済よりもはるかに膨らんでいて、「電子・金融空間」には余剰マネーが140兆ドルあり、レバレッジを高めれば、この数倍、数十倍のマネーが「電子・金融空間」を徘徊する。←→ これに対して、実物経済の規模は74兆ドル(2013年)。……(例えば、金融技術でレバレッジをかければ瞬時にして実物投資10年間分の利益が得られる。)…そんな状況では、量的緩和政策によってベース・マネーを増やせば増やすほど、物価ではなく資産価格の上昇、すなわちバブルをもたらすだけ。(※バブルの創出と崩壊の繰り返し…)
・しかも、グローバリゼーションの時代では、このバブルが自国内に起きるかどうかさえ分からない。量的緩和をしたところで、ドルも円も国内には留まらないから。→ 現に新興国に流れ込んだマネーは、新興国の不安定性を高めることにつながり、量的緩和の規模の縮小だけでも(※新興国からのマネーの引き上げをもたらし)市場は大きく揺れている(※アルゼンチンやブラジルの経済危機…)。→ 量的緩和政策の景気浮揚効果は、グローバリゼーションが進む以前の閉鎖経済を前提とした国民国家経済圏の中でしか発揮されない。

○オバマの輸出倍増計画は挫折する

・超低金利の時代に入ったアメリカは、世界の「成長教」の教祖でいる限り、もはやバブルを繰り返す金融帝国としてしか生き残ることはできない。(※う~ん、大胆な予測…)
・すでに20世紀前半に、かのシュミットが20世紀を「技術の時代」と特徴づけ、その技術進歩教は魔術と同じだと指摘している。…確かに20世紀に先進国は技術革新によって成長を遂げ、豊かになったのだが、2008年の9・15(リーマンショック)や2011年の3・11(福島原発事故)で、金融工学や原子力工学も結局は人間にとって制御できない技術だったことがわかった。→ 技術革新で成長するというのは、21世紀の時代では幻想にすぎない。〔※う~ん、技術は進歩を続けるが、それが必ずしも成長とか豊かさ・幸福度に結びつくとは限らない。→ これからは、科学者(技術者)や経済学者(エコノミスト)、政治家・官僚・財界だけに任せるのではなく、(宗教も含めた)人文的な叡智なども結集していく必要がある、ということか…〕
・アメリカの黒字を支えているのは金融収支やライセンス料。→ 強いドル政策のもとで、世界中から資本を集めて新興国に投資をしてリターンを得るしかない。…アメリカが製造業で復活するのは、どだい無理。→ グローバリゼーションによって新興国が台頭してきている以上、新興国で消費されるものは新興国で生産せざるを得ない。…そうでないと新興国の雇用が増えず、経済のパイも拡大しないとなれば、新興国の政治体制が危うくなるから。
・従って、先進国が輸出主導で成長するという状況は、現代では考えられない。自国通貨安政策(※アベノミクスも?)によって輸出を増加できるのは、先進国のパワーで途上国をある程度押さえつけるような仕組み、つまり資源を安く買い叩くことができる交易条件があった1970年代までの話。→ その意味ではオバマの輸出倍増計画も旧システムの強化策にすぎない。…没落していく中間層に対して配慮している点には共感するが、先進国が直面している構造デフレの根本的な解決にはなり得ない。(※アベノミクスも同様…?)

○近代の延命策としてのシェール革命

〔枚数の関係で要点だけ記すと〕…シェール革命も成長イデオロギーのもとであれば、いずれ限界を迎える。→ 金融帝国化したアメリカは、シェール革命すらも金融商品化していくから、「電子・金融空間」の中に組み込まれていき → その結果は、バブルの生成と崩壊 → 過剰債務と賃金低下。…中東を代表とする現在の石油産油国の中で、民主主義的な社会を運営している国は皆無。→ 多額のマネーが流れているはずなのに、その恩恵を受けているのは王侯貴族などごく一部の人間だけ。…それを考えれば、シェール革命が(市場原理主義を金科玉条とする)新自由主義と結びつくのであれば、今より過酷な格差社会をアメリカにもたらす可能性すらある。(詳細はP48~50)

○バブル多発と「反近代」の21世紀

・これまでバブルが崩壊するたびに、世界経済は大混乱に陥ってきた。しかし、バブルが崩壊して起こることは、皮肉なことに、さらなる「成長信仰」の強化。
・巨大バブルの後始末は、金融システム危機を伴うので、公的資金が投入され、そのツケは広く一般国民に及ぶ。→ つまり、バブルの崩壊は需要を急激に収縮させ、その結果、企業は解雇や賃下げなど大リストラを断行せざるを得ない。…まさに、「富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」(ウルリッヒ・ベック『ユーロ消滅?』)ことになっていて、ダブル・スタンダードがまかり通っている。
・バブル崩壊は結局、バブル期に伸びた成長分を打ち消す信用収縮をもたらす。→ その信用収縮を回復させるために、再び「成長」を目指して金融緩和や財政出動といった政策を総動員する(※これもアベノミクス…)。→ そのマネーがまた投機マネーとなってバブルを引き起こす。…つまり、先進国の国内市場や海外市場はもはや飽和状態に達しているため、資産や金融でバブルを起こすことでしか成長できなくなったということ。→ こうして、バブルの生成と崩壊が繰り返されていく。
・「犬の尻尾(金融経済)が頭(実物経済)を振り回す」時代(バーナンキ)、「バブルは3年に1度生成し、弾ける」(サマーズ)→ そして今また、欧米でも日本でも同じようなバブルの生成と破裂が繰り返されようとしている。
・私にはこうした動向は、脱成長の時代に逆行する悪あがきのようにしか思えない。…「近代自らが反近代をつくる」といったことが今、目の前で起き始めている(※まさに近代の末期症状か…)。→ 2001年の9・11(アメリカ同時多発テロ)、2008年の9・15(リーマンショック)そして2011年の3・11(福島原発事故)は、まさに近代を強化しようとして、反近代(デフレ、経済の収縮)を引き起こした象徴だと言える。

【2章】新興国の近代化がもたらすパラドックス

〔※この章は、枚数の関係でなるべく要点だけにとどめる。詳細は本書を参照ください。〕

○先進国の利潤率低下が新興国に何をもたらしたのか

・〔1章でみてきたように〕1974年以降、実物経済において先進国が高い利潤を得ることができるフロンティアはほとんど消滅してしまった。→ 「地理的・物的空間」の拡大は困難になり、(資源を輸入して工業製品を輸出する)先進国の交易条件が悪化し、「地理的・物的空間」(実物経済)に投資してもそれに見合うだけのリターンを得ることができなくなった。…つまり、ある一定期間(ex. 工場なら10年、店舗なら30年)資本を投下し、利潤を得ていくという資本主義のシステム自体が限界に突き当たった。
・そのことを端的に示すのが、資本の利潤率とほぼ一致する長期利子率(10年ものなどの長期国債の利回り)の低下。→ そして現在、日本とドイツは、16世紀初頭のイタリア・ジェノヴァ以来の超低金利時代、すなわち21世紀の「利子率革命」を経験している。
・利潤率の低下に耐えきれなくなった先進国、とくにアメリカが目論んだのが、新たな利益を得られる「空間」を創造することだった。→ (本来は1970年代に「終焉の始まり」を迎えたはずの資本主義を)アメリカは「電子・金融空間」を創設することによって、その後、30数年にわたって「延命」させてきた。
・同時に、先進国の資本主義が創出した「電子・金融空間」は、もう一つの市場を生み出すことになる。…それがBRICSに代表される「新興国市場」。→ つまり、「電子・金融空間」を無限に拡張することで新しいマネーを創出し、その上で新興国の近代化を促すことによって、新たな投資機会を生み出そうと目論んだ。

○先進国の過剰マネーと新興国の過剰設備

・新たな投資機会をねらうアメリカの思惑通り、BRICS諸国は2000年代に入って急成長を遂げたが、しかし現在、その経済成長率に陰りが見えてきている。…中国、ブラジル、インドなどの経済成長率の鈍化と、成長率を超えるインフレ率の進行…。
・新興国の成長の足踏みの原因は、新興国の成長モデルが輸出主導だから。…先進国の株式市場は回復したかのように見えても、実物経済はリーマンショック後の後遺症からいまだ立ち直っておらず、消費は冷え込んだまま(正確に言えば、先進国の消費ブームは二度と戻ってこない)。→ 新興国の輸出も増えない。(詳細はP58~59)
・そもそもグローバリゼーションとは、「中心」と「周辺」の組み替え作業であって、〝ヒト・モノ・カネが国境を自由に越え世界全体を繁栄に導く〟などといった表層的な言説に惑わされてはいけない。20世紀までの「中心」は「北」(先進国)であり、「周辺」は「南」(途上国)だったが → 21世紀に入って、「中心」はウォール街となり、「周辺」は自国民(具体的にはサブプライム層)になる組み替えがおこなわれた。→ 中間層が没落した先進国で、消費ブームが戻ってくるはずがない。
・経済危機(リーマンショック、欧州危機)の後も、先進国の過剰マネーは新興国の過剰設備を積み上げてきたが、新興国の過剰設備には、過剰な購買力を有した先進国の消費者の存在が不可欠。←→ しかし、先進国の国民が「周辺」となり、消費ブームが二度と起こらない以上、新興国の輸出主導モデルに持続性はない。(※新興国に明日はない…?)
・現在の課題は、先進国の過剰マネーと新興国の過剰設備をどう解消するか、なのだ。…この問題の困難さは、この二つの過剰の是正が信用収縮と失業を生み出すことにある。⇒ 時間をかけるしかないのだ(※ソフト・ランディングのために…)。…そしてこの間、先進国ではゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレが続くことになる。(※う~ん、このことを正しく認識できないと、さらに〝悪あがき〟の泥沼にはまっていく…?  → この問題は後の章でも扱う。)

○新興国の成長が招く資本主義の臨界点

・新興国の成長は、地球全体を見たときに、そう単純に喜ぶことはできない。むしろ、危惧すべきこと。→ 新興国の成長が続くということは、無限の膨張を「善」としてきた資本主義システムが、「限界」に向かってさらにスピードをあげていくことだから。
・2008年以降、アメリカ、EU、そして日本が行なった金融緩和の影響もあり、行き場を失った余剰マネーが莫大に存在する。→ その余剰マネーが、今まで以上に大量に新興国に流れ込むようになった。(※ハード・ランディングの危険性…)
・先進国の量的緩和は、「電子・金融空間」を無限に拡張するための手段。→ その量的緩和をいつ止めるのかが議論され、緩和の「縮小」だけでも市場が大きく揺れているが(※今まさにその渦中…)、本当は量的緩和に「完全な出口」はない。…なぜなら、量的緩和は「電子・金融空間」を自壊寸前まで膨張させるものであり、緩和を縮小すればバブルが崩壊する。→ そうすれば、量的緩和を以前にもまして強化せざるを得ないから。〔※まさに「犬の尻尾(金融経済)が頭(実物経済)を振り回す」、そして「バブルは三年に一度生成し、弾ける」…P52〕
・では、膨大な資金が流れ込んだ新興国の成長は、いつか止まるのか(これは資本主義の最終地点を見極めることでもある)。→ そのことを考える上で参照すべきなのが、ブローデルの言う、「長い16世紀」(1450~1640年)に起きた「価格革命」。…これとほぼ同じ現象が、同じメカニズムで、この「長い21世紀」(1970年~)にも起きているから。…私たちは21世紀の「価格革命」の最中にいるのだ。

○「長い16世紀」のグローバリゼーションと「価格革命」

・「価格革命」とは、供給に制約のある資源や食糧の価格が、従来の枠組みでは説明できないような非連続的な高騰をすることで、通常のインフレとは異質なもの。…通常のインフレは、ある一定の空間内で需給逼迫によって引き起こされる現象。←→ 一方「価格革命」は、異なる価値体系をもっていた空間と空間が統合・均質化(グローバル化)する過程で起きる現象。
・そして「革命」的な価格水準の変化が起きる商品とは、空間が統合される前に「周辺」だった地域が供給していたモノ。…「長い16世紀」の「価格革命」では、「周辺」の東欧諸国が、「中心」のローマに供給する穀物の価格が急騰した。←→ 後述する「長い21世紀」の「価格革命」では、原油などの資源価格が高騰。
〔16世紀のヨーロッパにおいて、中世の封建システムが近代の資本主義システムへと変化していくメカニズムは、枚数の関係で省略。→ 詳細は、P63~71〕
・(「価格革命」に着目する意味)…この価格の大変動は単なるインフレではなく、政治・経済システムを根底から揺さぶるものだから。→ そして、「価格革命」の収束は、新たなシステムが誕生するときにしか起きない。…「価格革命」は、すなわち「歴史の危機」を意味している。⇒ 「長い16世紀」の「価格革命」は、それまでの時代のシステムであった荘園制・封建制から資本主義・主権国家システムへの移行が起こるという、非常に大きな「歴史の危機」を引き起こした。

○「長い21世紀」の「価格革命」とBRICSの統合

・「長い16世紀」がそうであったように、「長い21世紀」でもグローバリゼーションが進行しているが、その規模でいえば、BRICSの約30億人を世界市場に統合するという、はるかに大きな規模で進行している。→ その大規模なグローバリゼーションの影響で、非連続的な資源価格の高騰が起きている。
・1995年の国際資本の完全自由化 → 世界中のマネーがアメリカ・ウォール街のコントロール下に入ったことで、「電子・金融空間」が国境を越えて世界で一つに統合された。
・この1995年から2008年(リーマンショック)までの13年の間に、債権の証券化などレバレッジの高い商品が開発され、世界の金融空間で新興国の近代化に必要な量をはるかに超えるマネーが創り出された。→ 加えてリーマンショック後の先進各国による量的緩和が投機マネーの量をさらに増加させた。
・その結果、資源価格、とりわけ原油価格が高騰するようになった。→ 21世紀に入ると、供給ショックが起きたわけではないのに、20世紀の価格変動とまったく違う姿を示していて、2002年までのレンジに戻る気配はない。(P73に「原油価格高騰の推移」の図)
・つまり、今回の「価格革命」も、新興国の人々にとって耐えがたい物価上昇をもたらしている。…「価格革命」が起きるのは、異なる経済圏が統合されるとき、「周辺」の経済圏が「中心」を飲み込んでしまうとき(新たに統合される新興国の人口のほうが先進国よりも多い)。→ 中国、インド、ブラジルといった人口の多い国で、先進国に近い生活水準を欲して、それに近づけようとすれば(※これは当然の欲求…)、食糧価格や資源価格の高騰が起き、1960~70年代半ばの日本が一億総中流に向かったのと違って、高度成長する新興国と停滞する先進国の両方の国内で、人々の階層の二極化(※自国民の「周辺」化 → 格差社会)を引き起こすことになる。(※今まさに、世界で進行している危機…)

○現代の「価格革命」が引き起こした実質賃金の低下

・さらに、「長い16世紀」に起きた労働者の実質賃金の低下(詳細はP63~64)と同じ現象も、現在の先進国で起きている。…20世紀で最も実質賃金が低かったのは1918年(第一次世界大戦が終了)であり、ここから20世紀の「労働者の黄金時代」がスタートした(1918~1991年、イギリスの実質賃金は4.9倍に上昇…年率2.2%の上昇)。とくに第二次大戦の終結した1945~1973年は、世界的な経済成長のもとで福祉国家が実現した「黄金の時代」だった。…中世の「労働者の黄金時代」(詳細はP67~69)は、500年後の20世紀に再現された。(※う~ん、あの「昭和のよき時代」は、世界史的にも裏づけられるのか…)
・しかし、1970年代半ばに現代の「価格革命」が始まった。→ 資源価格が高騰したせいで、企業はそれまでのように利潤をあげることができなくなり、その利潤の減少分を賃金カットで補おうとした。→ 1999年以降、名目GDPと雇用者報酬の関係に「革命」的な変化。
・1865年~1998年の130年間、イギリスでは名目GDPの増加率と同じだけ雇用者報酬も増えていた(1960年代以降の日本も同様)。→ ところが、1999年以降、この関係は崩壊。…つまり、企業の利益と雇用者報酬とが分離し、2006年に至っては企業の利益は上がっているのに、雇用者報酬が減少。→ 日本の実質賃金の推移を見ても、1997年をピークに、好不況にかかわらず実質賃金は激しく低下している。(詳細は、図も含めてP75~77)
・こうした傾向は、データが存在する130年間の歴史において初めてのこと。…つまり1990年以前には、労働と資本の分配比率について初期に決めた割合(ex.7対3)を、一世紀以上にわたってその比率を変えなかった。→ ところが、20世紀末にグローバリゼーションの時代になって、資本側がこの比率を変えようとした。
・つまり、資本側はグローバリゼーションを推進することによって、国境に捉われることなく生産拠点を選ぶことができるようになり→ 資本と労働の分配構造を破壊。…資本側の完勝といっていい。→ 景気回復も資本家のためのものとなり、民主主義であったはずの各国の政治も資本家のために法人税を下げたり、雇用の流動化といって解雇しやすい環境を整えたりしている。(※アベノミクスもまた…)

○「長い21世紀」の「価格革命」はいつ終わるのか?

・「長い16世紀」でも「長い21世紀」でも、資源価格の急騰と実質賃金の減少が並行して起きている。→ では、「長い16世紀」において「価格革命」はいつ収束したのか(このことは、21世紀の「価格革命」の終わりを考えることでもある)。
・21世紀の中国が恒常的なインフレ状態にあるように、「長い16世紀」の新興国であったイギリスでも消費者物価が1477年から上昇し続けた。→ そしてイギリスの一人当りGDPが、当時の先進国イタリアに追いついた時点で、「価格革命」は収束した。…17世紀半ばのこと。
・それになぞらえて考えるならば、中国の一人当りGDPが日米に追いついた時点で、21世紀の「価格革命」も収束するだろうと予測できる。→ 日中の関係で試算すると、およそ20年後になる(詳細はP79)。…つまり、2030年代前半に中国の一人当り実質GDPが日米に追いつくまで、資源価格の上昇と新興国のインフレ、つまり「価格革命」は収束しない。→ 今から20年後、あるいはもう少し先に、新しい政治・経済システムが立ち上がってくるかもしれない、というおおよその予測は成り立つ。(※う~ん、当方も、この予測を見届けてみたいものだが、時間的にとても無理か…)

○資本に国家が従属する資本主義

・21世紀の「価格革命」とは、それまでの国家と資本の利害が一致していた資本主義が維持できなくなり、資本が国家を超越し、資本に国家が従属する資本主義へと変貌していることを示すもの(※TPPも…?)。…つまり「価格革命」とは、「電子・金融空間」創出の必然的帰結の出来事として捉えるべきこと。「電子・金融空間」でつくられた「過剰」なマネーが、新興国の「地理的・物的空間」で過剰設備を生み出し、モノに対してデフレ圧力をかける一方で、供給力に限りがある資源価格を将来の需給逼迫を織り込んで先物市場で押し上げる。
・16世紀以来、500年かけて、人類は国家・国民と資本の利害が一致するように資本主義を進化させてきたが、21世紀のグローバリゼーションはその進化を逆転させようとしている。…資本主義の発展によって多くの国民が中産階級化(※一億総中流化)するという点で、資本主義と民主主義はセカンドベストと言われながらも支持されてきた(※戦後民主主義への支持…)。…資本が国境を越えられなかった1995年までは、国境の中に住む国民と資本の利害は一致していたから、資本主義と民主主義は衝突することがなかった。
・近代主権国家とは,資本と国民の利害が一致して中間層を生み出すシステムなのだが、一億総中流が実現したとたんに、資本はそれを破壊しようとする。これは反近代的行為にほかならない。まさに「近代が反近代をつくる」(アドルノ)→ 資本主義は、中産階級を没落させ、粗暴な「資本主義のための資本主義」に変質していった。……これは見方によっては、資本主義の「退化」。近代は自らのピークにおいて、資本という「超国家」的存在の絶対君主(※グローバル資本主義)を登場させてしまったから。

○新興国の近代化がもたらす近代の限界

・新興国の近代化は、これまでの先進国の近代化とは大きく異なる点がある。…それは、13.6億人の中国人全員、12.1億人のインド人全員が、豊かになるわけではない、ということ。
・16世紀に近代が幕を開けて以来、約500年をかけて、先進国12.4億人(全人口の18%)は豊かになった。…この近代資本主義の特徴は、およそ全人口の2割弱にあたる先進国が、独占的に地球上の資源を安く手に入れられることを前提としている(ex. 欧米の石油メジャーが原油価格を支配することで、石油を1バレル3ドル以内で好きな量だけ購入できるという仕組みが1970年代半ばまで続いていた)。←→ 従って、その仕組みに参加できなかった現在の新興国は、ほとんど成長率が横ばいのままだった。
・ところが、今起きている21世紀のグローバリゼーションは、BRICSの29.6億人、さらに残る27.2億人に対して、かつての先進国と同様に豊かになれるだろうとの期待をもたらしている。…しかも、先進国12.4億人が500年かけて達成した生活水準を、56.8億人がわずか20~30年で達成して豊かな生活を手に入れようとする。→ 先進国並に自動車や電化製品を所有すれば、それだけガソリンや電力や鉄の消費量も増加する。…世界の電力消費量は現在の2倍、粗鋼の消費量は約3倍強、エネルギー消費量も約3倍になると推計される(詳細は、図も含めてP84~88)。
・これから数十年かけて、原油の消費が3倍に増えれば、それを織り込んで今以上に原油価格が高騰するだろう(実際に1990年代~現在、原油価格は約5倍になっている)。…さらに言えば、ここには資源の有限性という観点は織り込まれていない。→ 70億人のエネルギー消費をまかなえるだけの化石燃料は地球上にはないのだから、全世界の近代化というのは不可能なシナリオ。(※核燃料のウランも、石油よりかなり前に枯渇してしまう、と言われている…)

○グローバル化と格差の拡大

・今までは、2割の先進国が(8割の途上国を貧しくさせたままで)発展してきたために、先進国に属する国では、国民全員が一定の豊かさを享受することができた。→ しかし、グローバリゼーションの進んだ現代では、資本はやすやすと国境を越えていき、豊かな国と貧しい国(※「中心」と「周辺」)という貧富の二極化が、国家の中に現れることになる。
・つまり、近代において南=貧困、北=富裕というように(※いわゆる「南北問題」)、西側先進国は格差を自国内には進入させないようにしていたのだが、グローバリゼーションの時代になると、北側にも格差が入り込むようになった。…いわばグローバリゼーションとは、南北で仕切られていた格差を、北側と南側の各々に再配置するプロセスといえる。
・すでに先進国では1970年代半ばを境として、中間層の没落が始まっている。…ex. アメリカでは、所得上位1%の富裕層が全所得に占める割合が、1976年の8.9% → 2007年の23.5% にまで高まった(P91に図あり)。…実に1928年以来の高い水準(この1928年の翌年にウォール街で株価大暴落があり、世界大恐慌を引き起こしたことは実に象徴的)。…同じように2007年の翌年には「100年に一度」と言われるリーマンショックが起きた。→ バブル崩壊のたびに企業がリストラを進めるため、先進国では中間層が最大の被害者となる。
・そして、これから近代化を推し進めていく新興国の場合、経済成長と国内での二極化(格差拡大)が同時に進行していくことになるだろう。…そこが、これまでの先進国の近代化とは大きく異なる点(先進国は、曲がりなりにも成長がピークを迎えるまでは所得格差は縮小していった)。→ これからの新興国は、格差拡大を伴いながら、近代化が進んでいくことになる。(※これが昨今の中国やブラジルでの「反政府騒動」の背景か…)
・近代システムは、(先進国に限られた話とはいえ)中間層をつくり上げる仕組みとしては最適なものだった。…中間層が、民主主義と資本主義を支持することで近代システムは成り立っていた。←→ ところが、現代のグローバル資本主義では、必然的に格差が国境を越えてしまう(格差を国内に持ち込んでしまう)ので、民主主義とは齟齬をきたす。→ 従って、日本で1970年代に「一億総中流」が実現したようには中国で13億総中流が実現しないとなれば、中国に民主主義が成立しないことになり、中国内で階級闘争が激化することになるだろう(※自称「社会主義国」で階級闘争が激化するというパラドックス…)。→ このことは、中国共産党一党独裁体制を大きく揺さぶることになると予想される。(※香港での反政府デモなどはその前兆…?)

○中国バブルは必ず崩壊する

・1995年以降、アメリカは「電子・金融空間」を築き上げ、わずか十数年で140兆ドルを超えるマネーを創出したが、リーマンショックと欧州危機によって、そうした余剰マネーの行き場を新興国に集中。→ しかし、これを新興国で吸収できるはずがない。(詳細はP92~93)
・それでも余剰マネーは、少しでも利潤の多く得られるところを目指して世界中を駆け巡るから、どうしても新興国に過剰な投資が集まる。→ 景気の減速によって過剰設備が危険視されている。→ そこで起きるのがバブルとその崩壊。…このことはすでに先進国、ことに日本とドイツが実証している。
・日本とドイツの抱える過剰な生産設備は、アメリカの過剰な消費によってかろうじて持ちこたえたが、リーマンショックによってその構図も崩壊した。→ それと同じことがBRICSでも起きる。…中国に国内外の余剰マネーが一斉に集まってくる。→ そこで過剰生産となれば、中国の外側に中国の過剰設備を受け入れることのできる国はないので、日本以上のバブル崩壊が起きるのは必然と思われる。(※恐ろしい予測…)
・ただ、日本でのバブル崩壊は、中成長の段階で起きた(オイル・ショックによって、10%成長 → 4%成長 になり、そこでバブル崩壊が起きてゼロ成長になった)。…しかも、国際資本の移動性が完全になる1995年より前の出来事。←→ 一方、中国では、まだ高い成長率の段階で、もうすでにバブルが起きている(これは短期的な不動産バブルの問題だけではない)。
・中国が世界の工場と呼ばれた時代なら、固定資本投入が過剰でも、世界市場が受け皿になってくれたから、まだ余裕があった。→ しかし、輸出主導の経済が終わり(世界的な消費の縮小)、中国が内需主導の経済に転換できないのなら、過剰設備の使い道はなくなる。→ 投資に見合う市場が見つからない「生産能力過剰時代」を迎えることになる。…つまりマネーのグローバリゼーションを背景に、世界中から投資が集まったそのバブルが、まさに弾けようとしている。→ そのとき、中国もデフレに陥り、ゼロ金利、ゼロ成長になっているだろう。
・資本主義とは、内在的に「過剰・飽満・過多」を有するシステムなのだ。…日本はバブル崩壊後、いわゆる「失われた20年」に突入したが、成長率が高い中国のバブル崩壊が、世界経済に与える影響は日本の比ではないだろう。…しかし、リーマンショックや欧州危機にも有効な対処ができていないことを踏まえると、もはやグローバル資本主義に対して、国民国家は対応不全に陥っている状況…。 →(以下、この章は枚数の関係で省略)
・〔この章の結び〕…結局、近代を延命させようとする21世紀のグローバリゼーションは、エネルギーが無限に消費できることを前提としているから、16世紀以来の近代の理念となんら変わりがない。→ 従って、近代の延長上で成長を続けている限りは、新興国もいずれ現在の先進国と同じ課題に直面していく。…すでに現在、少子化やバブル危機、国内格差、環境問題などが新興国で危ぶまれていることからもそれは明らか。
・だとすれば、もはや近代資本主義の土俵の上で、覇権交替があるとは考えられない。⇒ 次の覇権は、資本主義とは異なるシステムを構築した国が握ることになる(「長い16世紀」にオランダやイギリスが中世封建システムに替る近代システムを打ち出したように)。…そして、その可能性を最も秘めている国が、近代のピークを極めて最先端を走る日本なのだ。←→ しかし、日本は第三の矢である「成長戦略」を最も重視するアベノミクスに固執している限り、残念ながらそのチャンスを逃すことになりかねない。(※う~ん、今のテイタラクでは…)

【3章】日本の未来をつくる脱成長モデル

○先の見えない転換期

・資本主義を延命させる「空間」は、もうほとんど残されていない。…中国が一時的に経済成長のトップに躍り出ても、そう遠くない将来、現在の先進国と同じように「利潤率の低下」という課題に直面することになる。→ その時点で、21世紀の「空間革命」は終焉を迎え、近代資本主義は臨界点に達するだろう。(※20年後、あるいはもう少し先…?)
・資本主義の後に、どのような社会・経済システムが生まれるかはまだ分からない。…中世から近代への移行期が「長い16世紀」(1450~1640年)であったように、それまで数世紀にわたって続いたシステムが、一夜にして変わることなどできない。…「新しい時代が始まり、生への不安は、勇気と希望に席をゆずる。この意識がもたらされるのは、やっと18世紀に入ってのことである」(ヨハン・ホイジンガ『中世の秋』)…我々の生きる「長い21世紀」(1970年~)も、「長い16世紀」と同じ状況(※近代から○○への移行期…)にあると考えられる。……しかし、こうした難しい転換期において、日本は、新しいシステムを生み出すポテンシャルという点で、世界の中で最も優位な立場にあると私は考えている。(※この「新しいシステムを生み出すポテンシャル」を探求していくことが、この「震災レポート」の今後の課題…?)

○資本主義の矛盾をもっとも体現する日本

・その理由は、先進国の中で最も早く資本主義の限界に突き当たっているのが日本だから。→ それは1997年から現在に至るまで、超低金利時代がこの国で続いていることが立証している。
・資本主義は、1970年代半ばを境に「実物投資空間」の中で利潤をあげることができなくなったのだが、そのことを裏付けるデータは、近代の先頭を走る日本において最も見つけることができる。…ex. 日本の交易条件が大きく改善したのは、1955年~72年まで。…ex. 日本の一人当り粗鋼消費量がピークをつけたのは1973年度〔鉄の消費量は近代化のバロメータ → それが(バブル期も含めて)横ばいで推移しているのは、この40年にわたって、日本の内なる空間で需要が飽和点に達している証拠。→ いわば近代社会を特徴づけていた大量生産・大量消費社会が、1970年代半ばにピークを迎えたことになる。〕…ex. 1973年度に、日本の中小企業・非製造業(国内に営業基盤)の資本利潤率が9.3%でピークを付けたのも同じことを示している。…ex. さらに1974年は、日本の合計特殊出生率が(総人口を維持できる限界値である)2.1を下回った年でもある(これ以後、出生率は低下を続けている)。⇒ このようにあらゆる指標が「地理的・物的空間」の膨張が止まったことを示唆している。

○バブルは資本主義の限界を覆い隠すためのもの

・なぜ先進国の中で日本がいち早くバブルを経験したのか(日本の先行性を読み解く鍵)

〔80年代の日米の経済の違い〕

(1章でみたように)「地理的・物的空間」の限界に突き当たったアメリカは、金融帝国化に舵を切っていくわけだが、当初は国際資本の自由な移動が不完全であり、また交易条件悪化の負荷を最も強く受けていたため、1970年代~80年代は停滞を余儀なくされた(詳細はP108)←→ 一方、日本は、省エネ技術によって二度のオイル・ショックを乗りきり、1980年代に入ると、自動車と半導体の生産によって「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を誇るようになる。→ いわば、日本はわずかに残された「実物投資空間」を制して、世界一の経済大国にのし上がった。…しかし、近代延命レースのトップを走ったがゆえに、資本主義の臨界点に達するのも早かった。その証が1980年代のバブル。
・金融バブルの発生には、次の二つの条件を満たすことが必要。
①貯蓄が豊かであることに加えて、時代が大きく変わるようなユーフォリア(陶酔)があること。
②「地理的・物的空間」拡大が限界を迎えてしまうこと。
……①については、1980年代の日本の貯蓄率は年平均で約13%と高く、また「首都改造計画」やリゾート開発ブームで、「土地は値上がり続ける」というユーフォリアも醸成されていた。②の条件の「地理的・物的空間」の膨張が止まったのも、日本が最初だった。→ 日本は中間層が7割を占める社会(一億総中流)をつくることに成功し、消費行動が似ていたため、乗用車やテレビなど財の普及率が速いスピードでおおむね100%に近づき、飽和点に達した。…また、少子化が先進国の中で最も早く進行したことで、成長が問題解決の決め手にならない領域に真っ先に突入した。
・こうして金融バブル生成の二つの条件を満たした結果、実物経済とはかけ離れた資産価格の高騰、すなわち土地バブルが日本で起きた。←→ 欧米でも長期金利が1980年代初頭にピークに達して、近代資本主義経済における「地理的・物的空間」の拡大による利潤増大はできなくなっていたが、金融バブルを引き起こす条件はまだ整っていなかった。(ex. アメリカは個人貯蓄率が低く、財政や経常収支の赤字に悩まされていた)。
・1990年代後半、国際資本の完全自由化を実現させて、ようやく過少貯蓄の国・アメリカは、(過剰貯蓄の国・日本をはじめとして)世界の貯蓄を利用できるようになった。→ こうしてバブルの条件が整うと、ITバブル、住宅バブルと、アメリカ金融帝国でも立て続けにバブルが引き起こされていくようになった。

○「自由化」の正体

・金融の自由化や貿易の自由化は、グローバリゼーション礼賛者がよく言う「ウィン・ウィン」の関係にあるわけではない。元来、自由貿易からして貿易がお互いに利益をもたらすというのは、ごく限られた条件でしか成立しない(ex. イギリスとインドとの綿花貿易…詳細はP111)
・(ウォーラーステイン『近代世界システムⅣ』より)…「自由貿易は、実際、もう一つの保護主義でしかなかった。つまり、それは、その時点で経済効率に勝っていた国のための保護主義だった」「自由主義は、最弱者と自由に競争でき、抗争の主役ではなく犠牲者であるにすぎないか弱い大衆を搾取できる完璧な力を、最強の者に与えたかったのである」…(※TPPも結局これか…?)→ 金融自由化も、同じ考え方で実施された。…現代の「新自由主義者」たちは、19世紀の自由主義者の後継者なのだから、最弱の貧者は自己責任で住宅を奪われ(ex. サブプライムローン)、最強の富者は公的資金で財産は保護された。
・このように歴史の危機において繰り返し起きる金融バブルを、景気循環の中での一過性のものだと捉えている限り、資本主義の本質を見抜くことはできない。…なぜならバブルとは、資本主義の限界と矛盾とを覆い隠すために、引き起こされるものだから。(※う~ん、この説は初耳で驚きなのだが、経済学界の中ではどうゆう議論になっているのか…?)
・資本主義の限界とは、資本の実物投資の利潤率が低下し、資本の拡大再生産ができなくなってしまうこと(もはや実物経済では稼げない)。→ そのため、土地や証券といった「電子・金融空間」にマネーを注ぎ込み、バブルを引き起こすことで、資本主義が正常運転しているかのような偽装を図る。(※今のアメリカの株高も…?)
・しかしこの偽装は、すぐにバブル崩壊という形で露呈する。→ そして、バブル崩壊の後に待っているのが、賃金の減少や失業。→ それに対処するという名目で国債の増発とゼロ金利政策が行われ、超低金利時代と国家債務膨張の時代へと突入していく。……利潤極大化を最終のゴールとする資本主義は、自らがよって立つ原理(資本の自己増殖)のために、バブル経済化もいとわないことによって、超低金利というさらなる利潤率の低下を招いてしまう。(※う~ん、これが「バブルの正体」か…)

○資本の絶対的優位を目指すグローバリズム

・1991年のバブル崩壊後の日本は、長期停滞と同時にグローバリゼーションの波にも巻き込まれていく。→ 1995年に国際資本の完全移動性が実現すると、資本は国境を越えて、利潤率の極大化を目指すようになった。→ ただでさえバブル崩壊不況に陥っていた日本は、この金融グローバリゼーションに巻き込まれることで、より一層、資本主義の矛盾を露呈させていく。
・つまり、バブル生成とその崩壊も、グローバリゼーションも、もとをただせば1970年代半ば以降のフロンティアの消滅に起因していることだから、日本は先進国グループに先立って、資本主義の最終局面を迎えることになった。→ その顕著な現象は、「利子率革命」によって引き起こされる「景気と所得の分離」。…〔日本では1990年代後半から実質賃金の低下が始まるが、それがバブル崩壊だけによるものならば、景気回復とともに賃金水準も回復していくはず(※今、アベノミクス論者はそう主張…)〕。←→ しかし、現実には2002年~2008年、戦後最長の景気回復があったにもかかわらず、賃金は減少(P77に図)。…そして日本だけでなく、英米でも同様に、景気と所得との分離が確認されている。
・つまり、資本主義の最終局面では、経済成長と賃金との分離は必然的な現象。換言すれば、このままグローバル資本主義を維持しようとすれば、「雇用なき経済成長」(※雇用されても〝非正規〟の低賃金…)という悪夢を見続けなければならない。→ そのことを雄弁に物語るのが、1990年代以降の日本の労働政策…1999年には労働者派遣法が改正され、製造業などを除き派遣対象業務の制限を撤廃(2004年に製造業への派遣も自由化)。
・資本の絶対的優位を目指すグローバリズムにとっては、人件費の変動費化(※〝雇い止め〟の自由)を実現するには、労働市場の規制緩和は不可欠だった。→ (グローバリゼーションに対応して生産拠点を海外に容易に移せるようになった大企業と、企業のようには容易に働く場所を変えられない雇用者の力関係を考えるとわかるように)労働市場の規制緩和は、総人件費抑制の有力な手段として独り歩きするようになった。(※う~ん、「規制緩和」の正体…)
・〔労働市場の規制緩和は本来、労働の多様化の要請に応えて導入されたもの。つまり、柔軟な労働機会を提供する、労働者に便宜をはかるものだったはず〕←→ しかし企業は…利潤低下 →  バブル経済に依存 → そのバブルが崩壊 → 企業リストラのために、派遣社員の大量の雇い止めを実施。…どんな立派な法律も、為政者が時代認識をしっかりと持っていないと、その立法趣旨とかけ離れて利用されてしまう。(※昨今の政治家や企業人の、末期的な劣化現象…)

○金融緩和をしてもデフレは脱却できない

・(日本は近代の延命レースでトップを走ったがゆえに、その矛盾を体現)→ 「雇用なき経済成長」でしか資本主義を維持できなくなった現在、経済成長を目的とする経済政策は、危機の濃度をさらに高めることにしか寄与しないだろう。…その格好の事例が今まさに現在進行形で展開しているアベノミクス…。→ 円安(による資源髙)によって物価は確かにプラスに転じたが、肝心の賃金はそれに見合って上昇していない。そして、金融緩和(第一の矢)によるデフレ脱却はできない(詳細はP117~118)。
・貨幣が増加しても、それは金融・資本市場で吸収され、資産バブルの生成を加速させるだけ。→ そしてバブルが崩壊すれば、巨大な信用収縮が起こり、そのしわ寄せが雇用に集中する(賃下げ、リストラ…)のはすでに見た通り。(※アベノミクスの不吉な結末…)

○積極財政政策が賃金を削る理由

・アベノミクスの積極的な財政出動(第二の矢)も無意味であることは、90年代以降の日本が実証している。…1992年以来、歴代政権が切れ目のない総需要対策で200兆円以上もの外生需要(公共投資?)を追加しても、日本経済を内需中心の持続的成長軌道に乗せることはできなかった。…理由は明らかで、すでに経済が需要の飽和点に達していたから。
・2002年~08年の戦後最長の景気拡大期において、実質GDPが年平均2.1%と成長できたのは、アメリカのバブルや新興国の近代化に牽引された外需主導の拡大にすぎない。…当時は一見、日本の「失われた10年」が終わったかのように思われたが、実際には景気は輸出主導で回復しただけで、個人部門(個人消費支出+民間住宅投資)は年率0.6%しか伸びず、戦後の景気回復の中で最も増加率が低かった。
・その後、リーマンショック(2008年)で外需がしぼむと、日本は深刻な不況に陥った。…〔それまでは、米国「世界の〝投資〟銀行」がつくった幻の購買力(※返済不能のローン等)に、日本の大企業・製造業が自動車など高級品を中心に輸出を大幅に増やしたのだ。〕
・さらに、財政出動は「雇用なき経済成長」の元凶にもなってしまう。→ 公共投資を増やす積極財政政策は、過剰設備を維持するために固定資本減耗(設備の維持・補修費)を一層膨らまし → 賃金を圧迫することになるから。…〔2002年~2008年の景気回復期に、製造業の名目GDPは2.7兆円増加…このプラス成長の中身は、①固定資本減耗(設備の維持・補修費)が1.5兆円増(増加の原因は「過剰設備」…かつての過剰な設備投資のせいで、その維持コストが高くついている)。②雇用者報酬は1.5兆円減(!)。③企業利益は2.7兆円増。〕→ つまり、企業利益を2.7兆円増加させた一方で、雇用者報酬(賃金)は1.5兆円も減少したのだ。(詳細は、図も含めてP120~121)…(※こういう報道を日本のマスメディアはしているのか…?)
・なぜこのような分配が行なわれたのか。…その理由は、「戦後最長の景気回復期」に、企業利益を確保し配当を増やさないでいれば、企業経営者は翌年の株主総会でクビになってしまうから。つまり、企業経営者は配当を増やすために雇用者報酬を削減したのだ。→ かつての日本経済の姿と異なり、21世紀の日本では、景気回復は株主のためのものとなり、雇用者のためのものではなくなったのだ。(※昨今の安倍政権と財界との蜜月ぶり…!)
・そして、雇用者報酬の減少のそもそもの原因は、過剰設備の維持のためだったということになる(詳細はP122~123)。→ 現在の日本では、財政出動によって設備投資を拡大させると、その撤退に大きな代償(除去損が発生)を払わざるを得ない。(※震災対策のためという「国土強靭化計画」など、まともなチェックはされているのか…? リニア新幹線はどうなのか…?)

○構造改革や積極財政では近代の危機は乗り越えられない

・以上見たように、量的緩和政策(第1の矢)は実物経済に反映されず、資産価格を上昇させてバブルをもたらすだけ。…一方、公共投資を増やす積極財政政策(第2の矢)は、過剰設備を維持するために固定資本減耗を一層膨らます。→ そしてこの二つの経済政策は、どちらとも雇用の賃金を犠牲にすることになる。…量的緩和のあとバブルが崩壊すれば、企業リストラと称して急激な賃金引き下げや大量失業を招くし、積極財政のあと景気回復すると、(既述のように)固定資本減耗と企業利益を合わせた増加額が、付加価値の増加を上回ってしまい、賃金が抑制されることになるから。
・日本の得意分野である「モノづくり」で実物経済をもう一度立て直せば、という反論 ←→ しかし、それも時代の逆行にすぎない。…グローバリゼーションによって、新興国が成長を追い求めている現在の状況では、先進国が製造業を復活させることはほとんど不可能(※高級ブランド品とかだけ?)→ それを無理やりにでも改革しようとするのが構造改革(第3の矢)と呼ばれるもの。…既存のシステムがうまく機能しなくなると、時の為政者が構造改革を断行したがるのは、いつの時代にも見られること。→ しかし、大構造改革もまた失敗するのが歴史の常…。(※「観光立国」とか言って、苦しまぎれに〝カジノ〟とか言い出している…)
・既存のシステムは、これ以上「膨張」できないために機能不全に陥っている。←→ それにもかかわらず、既存のシステムを強化したところで、新しい「空間」は見つからない。→ 改革者の意に反して、既存のシステムの寿命を縮め、時代の歯車をいっそう早回しすることになる。…我々はもう少し歴史から学ぶべき。→(16世紀のスペイン帝国の事例…P125~126)
・スペインは中世の領土拡大モデルをそのまま強化したあげく、財政破綻に陥った。→ 同様に、現在の先進国は、成長信仰をそのまま強化したあげく、財政危機に陥っている。…成長を信奉する限り、それは近代システムの枠内にとどまっており、近代システムが機能不全に陥っているときに(※資本主義の終焉)、それを強化する成長戦略はどのような構造改革であっても、近代の危機(※歴史の危機)を乗り越えることはできない。
・このような袋小路に陥ってしまうのは、いまだに「成長がすべての怪我を癒す」という近代資本主義の価値観に引きずられているから。→ しかし、成長に期待をかければかけるほど(資本が前進しようとすればするほど)、雇用を犠牲にする(※本末転倒の末期症状…)。

○ケインズの警鐘

・成長を求めるほど危機を呼び寄せてしまう現在、私たちは、近代そのものを見直して、脱成長システム、ポスト近代システムを見据えなければいけない。(高橋伸彰『ケインズはこう言った』)…「金利を下げられない国も、金利が下がっても不平・不満がなくならない国も、どちらも文明が破綻する」…欧州危機以来、ギリシャなどの南欧諸国は、国債金利を下げられない。…国の信用が失われ、大幅に上乗せ(リスク・プレミアム)した金利でないと資金調達ができずに苦しんでいる。←→ 一方で、日米英独仏ら経済大国の国債金利は低下しているが、国内の不平・不満がなくなるどころか、ますます高まっている。
・利子率の低下とは、資本主義の卒業証書のようなもの。→ 従って、金利を下げられない国は、まだ資本主義を卒業できていない状態にあり、金利が下がっても不平・不満がなくならない国は、卒業すべきなのに「卒業したくない」と駄々をこねている状態(※う~ん、ユニークな解釈…)。…近代引きこもり症候群の人たちが、政界や実業界で実権を握って、近代システムの弊害が見えるがゆえに実際に引きこもっている若い人に、なにを内向きな考え方をしているのだと、非難しているのが今の日本。…まさに「倒錯日本」なのだ。(※う~ん、まさに〝逆転の視点〟…)
・低金利(ゼロ金利に近づく)ということは、次のように解釈できるはず。…もともと利子は、神に帰属していた「時間」を人間(※資本家?)が所有することを意味していた。→ その結果、たどり着くゼロ金利というのは、先進国12億人が神になることを意味。…これは、時間に縛られる必要から解放されたということ、「タイム・イズ・マネー」の時代が終焉を迎えるということ。(※雇用者から見れば、強いられた賃労働=時間労働からの解放…? 生命体としては、自然の生態系に見合った時間の回復…? …う~ん、難しすぎる問題なので、今は保留…)
・同様に「知」についても、中世までは神の独占物 → 近代になって、国家と大手マスメディアが「知」(情報)を独占していたが、インターネットやスマートフォンの普及により、先進国の人間は、世界中で何が起きているのかを瞬時に知ることができるようになった。…これもまた、12億人が神になったということ。→ そういう意味では、資本主義とは、神の所有物を人間のものにしていくプロセスであり、それが今、ようやく完成しつつある、というふうに解釈できる。…〔3章、次回に続く〕 
                           (10/22 つづく)
     

〔まだ3章の途中ですが、枚数が多くなりすぎたので、[前編]はここまでとします。…ここまででも、現在、世界で日々進行している様々な(バラバラな)事象が、一つの視点によって見事に関連づけられ、解き明かされていくという、とてもスリリングな知的興奮を感じさせられました。…次回の『資本主義の終焉と歴史の危機』―[後編]では、私たちがこれから進むべき道(方向性)を探っていく予定です。〕
                           (2014年10月22日)
                             

2014年10月1日水曜日

『土の学校』 木村秋則 石川拓治


(震災レポート28) 震災レポート・拡張編(8)―[農業論 ⑤]

                   中島暁夫


 ちょっと寄り道のつもりだった「農業論」が、5回目になってしまった。最後はやはり、農業というものの面白さと奥の深さに気づかせてくれた、「奇跡のリンゴ」の木村秋則さんを取り上げたい。今回も、かなりの数にのぼるその著作の中から、何を選ぶか、かなり悩んだのだが、結局、比較的最近出された次の本を取り上げることにしました。(さらに興味のある方は、巻末に参考資料を記したので、そちらも参照されたい。)


                                         
『土の学校』 木村秋則 石川拓治
          幻冬舎 2013.5.30

                                         
〔木村秋則:1949年青森県弘前市生まれ。(株)木村興農社代表。…妻が農薬に弱かったことをきっかけに、無農薬のリンゴ栽培を始める。10年近くにわたる無収穫・無収入の日々を経て、絶対不可能といわれた、農薬も肥料も使わないリンゴ栽培に成功。2006年、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演し、大反響を呼ぶ。半生を描いた『奇跡のリンゴ』(石川拓治著)はベストセラーとなり、映画にもなった。現在は独自の農法「自然栽培」を広めるため、国内外で指導にあたる。〕

〔本書は、木村秋則が話した内容を、ノンフィクションライターの石川拓治がまとめたもの。〕


【はじめに】

・「なはなじょして、諦めね?」(お前はどうして諦めないんだ?)…よく、そう聞かれたものです。…だけど、山ほどあった理由の中で、なんだか怒られそうな気がして、人にはあまり言ってこなかった答えがあります。畑が面白かったのです。

・いや、もちろん畑はひどい有様でした。農薬抜きでリンゴを育ててみようだなんて、バカなことを考えたばっかりに、害虫だの病気だのが蔓延して、私のリンゴ畑は枯れ木の山みたいになっていました。何年もそういうことが続いていました。今でもあの時代のことを思い出すと、気持ちが塞ぎます。けれど、それでも、畑には面白いことがたくさんあったのです。肝心のリンゴはひとつも実っていないのに。
・私は青森県弘前市に住むリンゴ農家です。木村秋則と言います。岩木山の麓の農園で、20代の頃からかれこれ40年リンゴを育ててきました。最初は私も、誰にも負けないくらいたくさんの農薬と肥料を使って、大きなピカピカのリンゴを育てていたのです。ところが無謀にもリンゴの無農薬栽培に挑んだばっかりに、病気と害虫が蔓延し、リンゴの木は秋になる前に葉をほとんど失いました。
・農薬を使わなくなってからの最初の約10年間は、私の畑のリンゴの木は花を咲かせることさえできなくなりました。…リンゴ畑は荒れ果て、家計は火の車、周囲には大変な苦労をかけ続けでした。…その当時、リンゴの無農薬栽培は絶対不可能と言われていました。甘くて大きな現代のリンゴは、農薬や化学肥料を使うことを前提に品種改良されているようなものだからです。
・無農薬リンゴの作り方なんて本は、図書館や書店をどれだけ探してもありませんでした。何もかもが、私には未知の経験でした。毎日のように、畑では不思議なことが起きました。…生まれたばかりの赤ん坊のように、自分を取り囲むすべてのものを、私は夢中で見て、聞いて、匂って、触り続けました。ない知恵を絞って、考え続けました。来る日も来る日も、リンゴの木を、畑の草を、虫を、空を、土を、見つめ続けました。…そうやって農薬を使わずにリンゴを育てる方法を、答えを探し続けるしかありませんでした。
・その間に、自然はたくさんのことを教えてくれました。たとえば、山の草と畑の草はどう違うか。どの草が美味しくて、どの草が不味いか。…季節によって草の味が変わることを知ったのも、リンゴの葉を食べる害虫は平和な優しい顔をしているのに、その害虫を食べてくれる益虫が怪獣みたいに恐い顔をしているのを知ったのも、あの頃のことです。…学校で学んだことの何十倍も、何百倍も大切なことを、私はあの畑で学んだのです。
・月明かりの下、山の土を掘り返したあの夜(※絶望のあまり岩木山中で自殺を試みた夜)が、今思えば大人になった私の2回目の入学式でした。…その土こそが、私の学校でした。その土が、不可能を可能にする方法を教えてくれたのです。土の中では、今このときにも、私たち人間には想像もつかないたくさんの不思議なことが起きているのです。…その秘密を、これからみなさんにお話しするとしましょう。

1.土は何から作られているか?

・自分がいつも踏みしめている土が、どうやってできるか…、それを考えるようになったのは、山の土がふかふかで柔らかいことを知った、あの不思議な夜からでした。…この山の土こそが答えなのだと知って、それから私は毎日のように、土を観察するために、山にかよいました。
・私は周りの木々を見上げました。毎年毎年、この木々が落とした枯れ葉が、森の底に降り積もっていたのです。…森の土は、落ち葉が姿を変えたものでした。いや、落ち葉だけではなく、キノコやカビや、いろんな草もそこに生えていたし、昆虫だのミミズだのも、目に見えないほど小さな微生物も、私が掘っていった枯れ葉の中にも混ざっていたことでしょう。鳥や狸や熊だって、そこで死ねばいつかはこの葉と同じようにバラバラになって、分解されて土へと化していくのです。(※人間もそうだった…)
・枯れ葉の底の土は、ほんとうにふかふかと柔らかくて、ツンと鼻を刺激する、独特のなんとも言えない清々しい匂いがしました。その匂いの元が何かはわからなかったけれど、スーパーの袋にその土を詰めて持ち帰りました。畑の土と匂いを比べてみようと思ったのです。
・比べてみるまでもありませんでした。私の畑の土は、そんな匂いはまったくしなかった。…図書館で調べたら、匂いの元はどうやら放線菌というバクテリアの一種で、森の土作りには欠かせない生き物だということがわかりました。土とは、そこに棲む生きとし生けるものすべての命の営みによって作られているものなのです。(放線菌:カビ様の微生物で、糸状の菌糸が放射状に伸びる細菌)

2.ひと握りの土の中には何匹の微生物がいるか?

・この答えは、正確を期するなら、「わからない」が正しい。①土とひとくちに言っても、場所によって生き物の数がぜんぜん違う、②今までそんなものをきちんと数えた人はいない。…最近読んだ本には、ひとつかみのよく肥えた土には、なんと1000億という単位の細菌が生息していると書いてありました。また別の細菌学者が書いた本によれば、この地球上のすべての細菌の重さを合わせると、全人類の体重の合計の2000倍を超えるのだそう…しかも、その細菌の大半は土の中にいるらしい。
・昔、ある企業の研究所で、当時はまだ珍しかった電子顕微鏡で、土の中に棲んでいる微生物を覗いたことがある(無肥料・無農薬の私の畑は、研究者たちにとっては宝の山らしく、いろんな分野の学者の先生や企業の研究員がよく訪ねてくる。普通の畑にはいるはずのない昆虫、菌類、バクテリアだのが、私の畑では見つかるから)。…そこには、信じられないような世界が広がっていたのです。海底のアンコウのように、他の微生物をおびき寄せて食べる微生物までいました。ジャングルや海の底と同じように、そこにも食うモノと食われるモノの繰り広げる世界があったのです。…その小さな生き物たちにとって、ひと握りの土はまさしく自分たちの生きる世界であり、宇宙であるわけです。

3.土は汚い?

・最近の都会では、一日に一回も土を見ずに暮らすことが普通になったと聞きます。もしも子供が泥だらけになって外から帰ってきたら、たいていのお母さんはこう言うと思います。「まあ、汚い。早く手を洗ってらっしゃい」と。…それにしてもずいぶん変わったなあと思います。…昔は毎日のように泥だらけになって遊んでいました。子供が泥だらけで家に帰るのは当たり前だし、それで怒られたことなんてなかった。農作業をしている親たちだって、似たようなもんでした。…土は、言ってみれば生活の一部でした。土を汚いなんて思ったことは一度もありませんでした。
・その土を、汚いと思うようになった頃から、日本の農業は少しずつ変わっていったような気がします。それと同時に、人間は自然から急速に遠ざかり始めたのだと思います。…土を汚いものだと決めつけて、意識から完全に閉め出すような生活をするのは、何かが間違っています。
・人間という動物は地上に出現してから何十万年という歳月を、その両足で土を踏みながら生きてきたのです。そのことだけは、忘れないでほしいのです。みなさんが毎日食べている、お米や野菜も、その土があって初めて育つことができるのですから。…ところで都会に暮らしているみなさんは、自分の足で土を踏んだのはいつのことか思い出せますか? (※う~ん、思い出せない…)

4.良い土と、悪い土をどうやって見分けるか?

・私は百姓でありながら、それまで(死のうと思って岩木山に登った夜まで)まともに土の匂いをかいだことなんてありませんでした。…そこで私は、山の木々には誰も一滴の農薬もかけていないのに、こんなに青々と茂っていることを、不思議だなと思ったのです。
・不思議だなと思いながら、同時にその答えのヒントも見つけていました。それは、私の足の下の、ふかふかの土です。…もしかしたらこの山の土が答えなんじゃないかと思って、夢中で素手で掘りました。そのときツーンとするいい匂いがしたのです。そこで生まれて初めて、あ、土にも匂いがあるんだと思いました。→ そして、この匂いのする土を作ればいいんだという答えに辿り着いたのです。そのときは、理由も何もわかりませんでした。ただ直感的に、そう思ったのです。

5.肥やしは完成すると臭くなくなる

・私が子供の頃、実家には馬がいました。馬を飼うと、大量の汚れた敷き藁が出ます。その敷き藁で堆肥を作りました。親父たちは堆肥ではなく、肥やしと言っていましたけれど。土を肥沃にしてくれるから、肥やしです。…庭の隅に堆肥場を作って敷き藁を積み、残飯や台所から出る野菜の屑なんかもみんなそこに捨てていました。そうやっていろんなものを混ぜ込んで、肥やしにするわけです。
・もっとも藁や野菜屑を、ただ積み上げておけばいいというわけではなく、切り返しをしていました。堆肥の山を掘り返して、堆肥の山の底の方まで空気を送り込む作業です。これを怠ると、良い堆肥ができません。…横でその作業を眺めていると、堆肥からもうもうと湯気が出ていました。堆肥に触ってみると、びっくりするほど熱くなっていました。熱など加えてもいないのに、どうして堆肥はこんなに熱くなるのだろう。
・大人になって知ったことですが、堆肥が熱くなるのは、微生物が藁や野菜屑などの有機物を分解するときに発生する熱のせいです。温度は60度以上にもなりますから、これはかなり熱い。…この微生物の熱を利用して、まだ寒い春先の時期に野菜の苗を作る技術が、すでに江戸時代には完成されていたそうです。落ち葉や藁、米ぬかなどを配合し、畑に掘った穴の中で、その熱を利用して苗を育てていたと聞きました。
・有機物を分解するとき、この微生物たちは大量の酸素を使います(空気を好むということで好気性菌と呼ばれる)。そのため堆肥を積み上げたままにしておくと酸素が欠乏し、今度は酸素を必要としない嫌気性菌が増えてしまいます。そうなると堆肥が悪臭を発するようになって堆肥作りは失敗です。そうならないように、切り返しをして酸素を堆肥の中に送り込むわけです(親父たちはそうした理屈は、まったく知らなかったでしょうが)。
・完全に分解が進んだ堆肥は、あまり臭わなくなります。普通なら臭いものは放っておけばどんどん腐敗し、より臭くなっていくわけです。ところが堆肥は最初はすごく臭いのに、時間が経つと臭いが薄くなっていく。子供の私には、それも不思議でなりませんでした。

6.雑草が邪魔者になったのはなぜか?

・あの時代までの馬は、田や畑を耕したり、荷物を運んだりするのに必要な、今で言えばある種の農業機械でした(もちろん人間と同じ生き物であり、多くの農家にとっては家族のような存在でもありましたが)。…馬の餌は、田んぼの畔に生えている草でした。従って、馬に餌やりすること(私たち子供の仕事だった)は、同時に畔の草刈りをすることでもありました。
・馬を使っていた時代は、田植えのひとつとってみても、たくさんの人手が必要でした。→ それが今では、かなり広大な田んぼでも、下手したら一人で田植えが終わってしまう。…それもこれも、農耕機械のおかげです。もっと言えば、それで農村地帯では私のような次男坊、三男坊の労働力が余って、その労働力が都会へ流れて、現代の日本の社会を支えるようになったわけです。そういう意味では、農耕機械の発達が日本を繁栄させたと言ってもいいでしょう(※木村さん自身も高校卒業後、集団就職で川崎の日立系の子会社で1年半ほど働く)。
・農耕機械が普及し始めると、全国の農家から馬がどんどん姿を消していきました。私の家から馬がいなくなって、耕耘機が入ってきたのは、小学校の高学年くらいだったと思います(耕耘機が面白くて、兄と一緒によく悪戯もしていた)。馬がいなくなったことよりも、耕耘機が来たことの方が、子供の私には強く印象に残ったのでした(※木村さんの機械いじり好きは、半端じゃないよう…)。…そしてこの頃から、田んぼの畦道に除草剤をまくようになったと記憶しています。草を刈って馬の餌にする必要がなくなったからです。→ 草がただの邪魔者になったのです。

7.リンゴの木の守り神とは?

・土の中だけでなく、植物の中にも菌類などの微生物がたくさん棲んでいると教えてくれたのは、弘前大学農学生命科学部の杉山修一教授です。…無農薬・無肥料で、どうして木村の畑のリンゴは育つのか…最初はそれが不思議で、私の畑を見に来たそう。→ そのときからのもう20年近いつきあいで、今や私のリンゴ畑は、畑であると同時に杉山先生の野外研究室になっています。
・私は、肥料も農薬も使わないこの栽培法を「自然栽培」と名づけ、今では求めに応じて全国のあちこちの農家の方に指導しています。私の栽培法では、食酢(ごく弱い殺菌作用あり)を水で200倍とか300倍に薄めたものをリンゴの木に散布します(薄めないとリンゴの葉が酢の酸に負けてしまう)。→ (普通の農園のリンゴの木にかけても、ほとんど効果はないだろうが)雑草を生やし、土を育て、自然の生態系を復活させた私の畑のリンゴの木は、普通の畑のリンゴの木とは比べものにならないくらい長く丈夫な根を張っています。少しくらいの病気なら自分で治してしまうある種の自然治癒力を備えています。だから、ごく薄い食酢でもタイミングよく散布すれば、病気を防げるのです。
・けれど、それがなかなか信じてもらえませんでした(食酢を散布するくらいで、リンゴが育つはずがない…)。その頃は杉山先生のように、実際に私の畑を調べてみようという科学者は少数派だった。→ 杉山先生は、私の畑の微生物に注目しました。そして私の畑に通っては、あっちこっちからいろんなものを採取して研究を始めたのです。…おかげで私の畑の土壌やリンゴの木には、他の普通の畑よりも遥かにたくさんの微生物が棲んでいるらしいことが分かってきました。その研究は今も継続中です。〔※杉山教授の専門家としての見解は、『リンゴの絆』(巻末参考資料④)P105~114 及び『木村秋則と自然栽培の世界』(同⑤)P56~63 参照〕

8.土の温度を測るわけ

・山の土と私の畑の土がどう違うのか…ツンと鼻を刺激する匂いと、もう一つの違いは温度でした。→ 山の土は掘っても掘っても温かいのに、畑の土は掘っていくと温度が急激に下がってしまう……10センチ掘っただけで6~8度も温度が下がった畑もありました。どうして温度がこんなに違うのか。不思議だなあと思いました。
・山の土が温かいのは、おそらく微生物の働きです。そこに微生物がたくさんいて活発に活動(落ち葉や枯草などの有機物を分解)しているから温かい。←→ 畑の土の温度が低いのは、その反対に微生物の活動が鈍っているせいじゃないか。→ その後、図書館に籠もって本を調べたり、杉山先生のような人に話を聞いたりして、まさにその通りだと確信するようになりました。
・人間のお腹の中に膨大な量の腸内細菌がいたり、植物の中に内生菌(病気を起こさずに植物の体内に棲んでいる微生物)が生息していたりするように、土の中にもたくさんの微生物が存在し働いているのです。…そういう意味では、土も生きているのだと私は思います。土の温度を測るのは、土の命を確かめるためなのです。

9.山のタンポポはなぜ大きい?

・私のリンゴ畑では、ほとんど草刈りをしません。雑草は生やしたままにする。それが私の栽培法の特徴です。どうして、そんなことをするのか。
・土を調べるために毎日のように畑と山を往復していたら、山のタンポポの方が、私の畑のタンポポよりもずっと大きいことに気がつきました。→ ふと思いついて、その根っ子を引き抜いて比べてみると、山のタンポポの根っ子は太く、長く、そしてひげ根もたくさん張っていました(私の畑のタンポポの根っ子はかわいそうなくらい貧弱でした)。
・その頃はまだ私は自分の畑に、鶏糞から作った堆肥をたっぷりと与えていました(弱ったリンゴの木になんとか養分を送りたかったから)。…肥料をたっぷり与えた私の畑のタンポポは貧弱で、肥料なんて誰も与えていない山のタンポポはこんなにも立派に育っている…。→ 肥料はあげない方がいいんじゃないかなと、そのとき思いました。肥料を施すことよりも、私の畑の土で、微生物が活発に働けるようにしてやらねばいけません。しかし、いったいどうやって。
・雑草です。…山奥のその場所も、草が生え放題に生えていました。←→ 私は畑を、高校球児の頭のように、いつだって綺麗に刈り込んでいました。草は畑の作物の競争者だとばかり思っていたけれど、そうではなく、一緒に生きる仲間だと考えるべきだったのです。→ こうして私は、新しい栽培方針を決めました。肥料はやらない。草も刈らない。
・それは考えてみれば、無農薬栽培を試すきっかけになった、福岡正信さんの本にも書いてあったことです(自然農法の提唱者である福岡さんについては、後の頁でもう一度触れる)。…あの最初のときに、福岡さんの本から私がしっかり受け取ることができたのは、今思えば農薬を施さなくても作物は育つのだというメッセージだけだった。…農業の常識が私の心と体に染み込んでいて、そんなに簡単に覆せるものではなかったのです。
・断崖絶壁に追い詰められて、死ぬ覚悟までして、やっと答えが見え始めたときに、山のタンポポと畑のタンポポの違いに気づいて、そこでようやく私は目が覚めたのです。→ 明日から、私の畑にも草を生やそう。肥料を与えるのはもうやめよう。そう心に決めました。…「この畑のタンポポが、山のタンポポと変わらないくらい大きく育つようになったら、きっとリンゴの花も咲くよ」、そう妻に言ったことを憶えています。

10.山の土は肥えていない?

・山の土で作物を育てればいいんじゃないか…。ところが実際に試してみると(稲やリンゴなど)、思ったほど上手くいきませんでした。→ この実験でわかったのは、山の土なら何でもいいわけではないということ。…リンゴの苗木が枯れたのは、その山奥の土が、私の植えたリンゴの苗木を受け入れなかったということなのでしょう。
・山の土の中には、膨大な量の微生物が生きています。けれど、それは肥料をたくさん施したいわゆる〝栄養たっぷり〟の土とは違う。→ 農業の教科書に出てくる肥料の三要素、窒素・リン酸・カリウムの量を実際に調べてみると、山の土には必ずしもすべての養分が、必要なだけ含まれているわけではなかった。今の私の畑も、窒素量は普通の畑よりも多いくらいだけれど、リン酸は不足している(教科書的な肥料分の意味で言うなら、山の土も、今の私の畑の土も、それほど肥えていないことになる)。←→ にもかかわらず、山の土はたくさんの木々を育て、私の畑のリンゴの木も、毎年驚くくらいたくさんの実りを与えてくれる。これはいったいどうしたことでしょう。

11.植物の成長に肥料は必要か?

・私は小学生の頃、理科の授業で、植物が成長するためには光と肥料が必要だと習ったが、この表現は少しおかしい気がする。→ 人が栽培する作物ならともかく、自然の植物は(肥料もなしに)何億年も昔から生き続けているのだから。
・また、植物が成長するのに必要とされる物質は他にも何種類もあるが、中でも窒素・リン酸・カリウムは植物が使う量も多く、肥料の三要素ということになっている。この三要素のどれ一つでも不足すれば、植物の成長に支障をきたすとされている。……私も長年そう信じていました。だから、農薬の散布をやめてからも、堆肥を畑に施していました。←→ 自然の草木が、肥料なんてひと握りも施されなくても、あんなに元気そうに生い茂っているにもかかわらず、です。…そのことを、ただの一度も不思議とは思わなかったことが、今では不思議でなりません。
〔※前回の新留氏によれば、「窒素・リン酸・カリ」という農業界の呪文は、石油由来の窒素肥料の弊害(虚弱体質のような作物)を減らすために、どうしてもカリウムが必要だったから(見た目だけがっしりした体格になる)。つまり化学肥料時代の〝常識〟でしかない。→ ちなみに植物を育てる栄養のうち、水・二酸化炭素・酸素が93%で、窒素は3%、リンは1%、カリウムは0.3% 。〕

12.土は人間の命をはぐくむ母体

・土は人間の食を生産する母体です。…その土の豊かさは肥料分ではなく、そこで活動している微生物と、植物の関係で決まるのではないか。→ そう考えれば、私の畑のリンゴの木は元気に育っているのに、山に植えたリンゴが枯れた理由も(山の土で作った苗床で、苗が上手く育たなかった理由も)わかります。
・植物にとって土中の微生物は、私たち人間にとっての腸内細菌のようなものではないか。…腸内細菌は何百種類もあるが、どういう細菌がどれくらいいるかは、同じ人間でも大きく違う。→ ex. 海藻の繊維質を消化できる腸内細菌を、日本人の多くは持っているが、欧米人はほとんど持っていないと聞いた。…肥満になりやすい体質の人は、ある種の腸内細菌が少ないことも、最近の研究でわかったそう。→ 同じ人間でもそうなのだから、たとえば人間の腸内細菌と、コアラの腸内細菌をそっくり入れ替えたら、おそらくコアラは死んでしまう(ユーカリの葉には毒があって、普通の動物は食べない。コアラはユーカリの葉を、腸内細菌の力で発酵させ、毒を分解し、消化している)。⇒ 山にリンゴの苗木を植えたのは、おそらくそれに類する行為だったのではないか。(※植物と土中細菌とのミスマッチ…)
・土の中の微生物と、上手く共生することができて初めて、植物はそこで生きていくことを許される。そしていったんその土地に受入れられれば、土中のバクテリアは植物が生きていくのに欠かせない栄養を与えてくれさえする。…つまり、土中細菌には、その土に欠けている養分を補って、植物の成長を助ける働きがあるのではないか。そして植物の側はお返しに、光合成で作った炭水化物を土中細菌に与える(※これは前回勉強した)。
・豆類の根につく菌根菌(※根粒菌?)は、空気中の窒素を植物が利用しやすい形に換えてため込む。土中からリン酸を集めて、植物に送る菌根菌(アーバスキュラー)もいる。この菌は、さらに植物を乾燥に強くしたり、耐病性を高める働きもするそう。→ そういう土壌細菌の存在を忘れて、単純に土壌を分析し、この土地は窒素分が多いとか、リン酸分が少ないとか言っても、あまり意味がないのではないか。(※重要なのは、植物と土壌細菌との共生関係…)
・土は生きているのです。それは、無数の微生物の生命活動が織りなすひとつの生態系なのです。そういう土の持つ力は、そこに含まれている養分を分析するだけでは、とても理解しきれるものではありません。〔※現代農業は、これらの微生物を殺菌(土壌消毒)してしまう…〕

13.畑の草は7回変わった

・草刈りを一切やめた私のリンゴ畑は、瞬く間にジャングルのようになり、一時は草が私の肩の高さまで伸びてしまいました。→ 季節にもよりますが、現在の私の畑は、昔のように雑草がはびこっているわけではありません。今では年に2~3回は草を刈っているということもありますが、何よりも畑に生える草の様子が、リンゴの花が初めて咲いた頃とは、完全に別物になってしまったから。…特に草刈りをやめた最初の頃は、毎年劇的に大きく変わっていきました。去年生えていた草と、今年は生えている草が、まったく違うというようなことが何年も続いたのです。少なくとも7回、草たちの姿が大きく変わりました。
・今でも少しずつ畑に生える草の様子は変化し続けていますが、あの頃のようなドラマティックな変化はありません。さすがに他の普通の畑に比べれば、草の種類と量は多いけれど、もはやジャングルではありません。→ 草たちがこれだけ変わったからには、土中細菌の様相も大きく変わったに違いありません。

14.なぜ大豆を植えるのか

・草刈りをやめてから最初の5年間はリンゴ畑に大豆を播きました。雑草のかわりにしようと思ったのと、大豆の根っ子につく根粒菌が土に養分を供給してくれる効果を狙ったのです。
・どこからかたくさんやってくる鳩に食べられながらも、毎年大豆を播き続けました。弱っていたリンゴの木が、少しずつ元気になっていったからです。→ リンゴが元気になるのと反対に、大豆の根につく根粒菌の粒が減っていきました。5年目に大豆の根を引き抜いてみると、根粒がほとんどついていなかった。
・このときの経験から、私の自然栽培では畑に大豆を植えるようにしています(P60に図あり)。植物の必要とする窒素分を補給するためです。…窒素そのものは空気中に含まれているが、普通の植物はそのままの形では利用することができない。→ 大豆の根に共生する根粒菌は、その大気中の窒素を植物の利用しやすい化合物(※アンモニア)に変えることができる。…この働きを利用して、土壌に植物の使える窒素分を供給する。(※このメカニズムは前回にも記述…)
・ただし大豆を植えるのは、慣行農法から自然栽培に移行したばかりの最初の何年間かだけです。…私の場合は、5年目に播いた大豆の根っ子に根粒菌の粒がほとんどついていなかったので、窒素がもう土中に行き渡ったサインだと解釈して、それ以降は大豆を播くのをやめました。
・前にも書いたように、土中細菌には足りないものを補う働きがあるんじゃないか。…土の環境が整うと、大豆の根粒菌に頼らなくても、元々そこにいる放線菌などの働きで、必要な窒素が供給されるようになるのではないか。→ 自然の生態系は、そうやって保たれているのではないか。…土にそういう働きがあるから、自然の野山の草木は、誰もひと握りの肥料も施していないのに、元気よく育っているんじゃないのか。→ 人間が生まれる遥か以前から、そうやって植物は微生物と共生しながら、この地球上で繁栄してきたんじゃないでしょうか。
・そういう意味では、自然栽培に移行するときに大豆を播くのは、人間が肥料や農薬によって破壊してしまった土の中の環境を正常に戻すための、緊急手段みたいなもの。→ いったん土の中の微生物たちが正常に働き始めたら、もう大豆を播く必要はないのです。
・あれから20年近く経ちましたが、その後は一度も大豆を播いていません。→ 今私が自然栽培を指導するときは、3年経ったらもう大豆を播くのはやめようと言っています。畑で3年大豆を育てれば、その土には作物たちが健康に育つのに充分なだけの窒素が供給されることがわかってきたから。…これが自然の素晴らしいところです。土中の窒素分が少なければ窒素を補うし、充分になればやめる。自然は無駄なことをしないのです。
・畑には何も施していないのに、私の畑の土に含まれる窒素量は、肥料を施している普通の畑と変わりません。…毎年、リンゴを収穫しているわけだから、従来の農学からすれば、その分の窒素を外から補わない限り、窒素量は減ってしまうはずです。←→ けれど、減っていない。その証拠に、毎年ちゃんとリンゴはなっているし、土の成分を調べてみても、窒素は足りている。→ なぜ足りているのか。それが土の中のバクテリアの働きなのです。
・窒素分が足りなければ、窒素固定をする細菌が優勢になるとか、リン酸が不足すれば、土中からリン酸を集めてくるアーバスキュラー菌根菌が活発になるとか、そういうことが起きる仕組みが、土には備わっているんじゃないのかなと、私は思うのです。

15.目に見えないものを見る方法

・温度計をいつも持ち歩き、いろんな場所で土を掘り、温度を測るようになってわかったことは、土とひとくちに言っても、場所によって性質がかなり違うということでした。…土に含まれる水分量、日当たり、硬い土、柔らかい土…それから、そういう目に見える性質だけでなく、人間の目には見えない性質の違いがあるということに気づいたのです。
・それは、その土の中に生きているバクテリアをはじめとする微生物の違いです。→ そんな目に見えない生き物の違いを見る方法……土を掘って温度を測るのも、その方法の一つだが、もっと簡単かつ明瞭に、土の中の微生物の姿を見せてくれるものは、草です。
・どこにどんな草が生えているか、よく観察すると、同じような条件の場所には、同じような草が生えている。…ex. 水の流れるU字溝のそばには、葉の細いイネに近い仲間の雑草がたくさん生えている。湿気を好む草たちです。…いつも乾いている運動場には、また別の種類の雑草が生えている。
・それぞれの草には、それぞれの好き嫌い(得意不得意)が当然ある。そしてもちろん土中の微生物にも得意不得意がある。…湿気の多い場所を好むバクテリアもいれば、乾燥した土地に勢力を伸ばすバクテリアもいる。→ そしてそれらの微生物と植物は、あるときは協力し合い、あるときはお互いに排除し合ったりしながら生きている。これを共生関係と言います。
・つまり、そこに生えている草の違いは、そこに生息している土中細菌の違いでもあるのです。→ 草はその存在によって、目には見えない土中細菌の姿を私たちに教えてくれているのかもしれません。

16.土の違いを見極める

・基本的に土の違いを考えないのが、現代の科学であり農業。…この土はどんな性質があって、どんな微生物が多いとか考えずに、種を播くわけです。→ それでもやってこられたのは、化学肥料と農薬があったから。
・水はけの悪い場所には、湿気を好む雑草が生える。そこに棲んでいる土中細菌は、乾いた場所の土中細菌とはまた違っているはずです。→ そんな場所に、乾燥を好む野菜を植えたら、生育が悪いのは当たり前だし、病気にもかかりやすくなる。…それで農薬や肥料を使わざるを得なくなる。
・土の個性をよく見極めて、その土地に合った作物を植えれば、少なくとも農薬や肥料の使用量を今よりも減らせることは間違いない。→ 農薬や肥料の使用量を減らせば、環境への負荷も低くできるし、何よりも支出を減らせる。
・土の性格は、その場所によってみんな違う。→ 違いを見極めることが、賢い農業の出発点だと思う。…もっともそんなことは、昔の百姓なら当たり前のことだった。どこにどんな作物を植えるかで、収穫が大きく違ってしまうから。←→ 農薬や化学肥料が広まってからは、そんなことを考える必要がなくなった。…百姓と土との長年にわたるつきあいに、ひびを入れたのが農薬や化学肥料ではないかと思うのです。(※農業の工業化…、マニュアル農業…)

17.虫の気持ちを読む方法

・そうは言っても、私は農薬や肥料を否定するつもりはありません。農家に生まれた人間として、自分の親たちが農薬や化学肥料にどれほど助けられたかを身に染みて知っているから。…私が小学生だった頃、日本の人口の約30%は農家だった。→ それが現在は2% にまで減ってしまった。人の命をつなぐ食の生産を、全人口のたった2%が支えている。98%は食べるだけです(※国内に限定した見方だが…)。しかも、農業人口の6割以上が、今や65歳以上です。→ 農業に携わる人間がこんなにも減り、おまけに高齢化している。それなのに、私たちはいつでも国産の米を食べ、国産の野菜や肉を買うことができる。…それもこれも農薬や化学肥料、農業機械の進歩があったからでしょう。〔※う~ん、これはあくまでリアルな過程のレベルの話ではないか。→ 問題は、このリアルとこれからの〝未来性〟という課題との兼ね合い、せめぎ合い(折り合い)、と思われる。…このことは、原発問題にも重なる課題だろう…〕
・昔は田植えともなれば(手伝いの人も交えて)ちょっとしたお祭りみたいに賑やかだったが、今では広大な面積を老夫婦2人で田植えしてしまう。田の草取りは今の若い人にはとても考えられないような重労働だったが、除草剤がその苦労もまるで魔術のように消し去ってくれたのです。…何よりもこの私自身が、かつては表彰されるくらいたくさんの農薬や化学肥料を使っていた。…あのとき、誰かに農薬と肥料の使用をやめなさいと命じられたら、きっと私は怒ったでしょう。
・農業に限らず仕事というものは、自分の信念と責任においてなすべきもので、他人に後ろから背中を押されながら、いい仕事をすることなんて絶対にできません(※う~ん、今やほとんどの仕事は、他律的な〝不本意な労働〟になっている…?)。ましてや私の提唱する自然栽培は、中途半端な気持ちで取り組めるものではありません。→ 農薬や肥料を使わない分だけ、人間がやらなければならないことはむしろ増える(ex. 虫が大発生したら自分の手で取るしかない)。…そのかわり、何年もそういうことを続けたおかげで、私は虫の気持ちがかなり読めるようになった(ex.こういう天候なら、いつ頃、どこに卵を産むだろうとか、かなりの精度でわかる)。→ おかげで年月が経つにつれ、虫取り作業にかかる時間が減りました。ただ、そこまでになるには、ここには書ききれないほどの苦労を重ねました。…自分が始めたことだからこそできた、心からやりたいという気持ちが必要な、覚悟のいる農業なのです。(※う~ん、自然栽培は、かなりハードルが高い…)
・私の場合は、リンゴの無農薬栽培に成功するまで約10年間(その間ほとんど無収入)かかったが、今だって、それまで農薬や肥料を使っていたリンゴ畑で、無農薬のリンゴを実らせるのは最低でも7年の歳月がかかります(※今でも7年もかかるのか…)。そんなことを、どうして他人に勧めることができるでしょう。
・もちろん、自分からやりたいと志願してくる方には、いくらでもその方法をお教えします。できる限りの応援もします(※このオープンなところも、木村さんの人柄であり、すごいところか…)。…ただしリンゴの場合は、本気で取り組む気があるかを、確認することにしています。7年もの間、無収入に耐えられるか(それだけの経済的な裏づけがあるか)…その人はいいかもしれないけれど、私のように家族を路頭に迷わせかねない可能性もあるから。

18.なぜ野菜より果樹の無農薬栽培は難しいのですか?

・無農薬にすれば、多かれ少なかれ病気や虫の被害が出るが、果樹の場合は今年受けたダメージが、翌年に持ち越される可能性が極めて高いから。…そのダメージが毎年蓄積して樹勢を弱らせ、枯死してしまうようなことも当然起こり得る。→ 果樹で無農薬栽培を試みる場合は、そういうことをすべてシミュレーションして、大丈夫だと確信してから始めるべき。
・そして大切なのは、全部を一度に無農薬にするのではなく、一部から始めて、上手くいったら少しずつ全体に広げていく、ということ。(それで私が地獄のような苦しみを味わったからこそ、慎重にやっていただきたい…)
・でも今は、(そうした試行錯誤のおかげで)どうすればいいかがわかっています。無理をして、何年も無収入の生活に苦しむ必要はない。リンゴだけでなく他の果物でも同じことです。
・今まで日本各地の果樹農家の方に相談を受けて、様々な果物の自然栽培のお手伝いをしてきました。…桃、ブドウ、梨、シュガープルーン、ネクタリン、でこぽん、温州ミカン、甘夏、晩白柚(ばんぺいゆ)、柿、アップルマンゴーにイエローマンゴー、オリーブ…、とにかく私が試した中に、無農薬栽培ができなかった果物はありません(※すごい!)。ただしバナナだけはお断りしました。あまりにも私の知っている果樹とは勝手が違うので、自信がなかったから。
・あくまでもその経験の範囲内ですが、数ある果物の中でも、この日本で作るのがいちばん難しいのは、やはりリンゴだというのが私の結論です。なにしろ今のところ、無農薬に切り替えてから、とりあえずリンゴが収穫できるようになるまでに7年はかかるのだから。(※ということは、他の果物はそんなにかからない…)

19.自然にまかせきりではない農業

・私がリンゴの無農薬栽培に取り組むことになったのは、福岡正信さんの著書を読んだことがきっかけです。福岡さんは、作物を育てるために「何をしなければならないか」ではなく、「何をしなくてもいいか」と考え抜いて、独自の農法を提唱されました。人為(人の行為)をできるだけ排除した、いわゆる自然農法の提唱者の一人です。
・福岡さんの提唱された不耕起、無農薬、無肥料、無除草という考え方が、私の栽培法の出発点になっているだけでなく、リンゴの栽培が上手くいかず、自信を失いかけたとき、福岡さんの本を繰り返し読んで、どれほど勇気をいただいたか…(福岡さんの存在がもしなかったら、あの絶望と戦い続けた10年間を乗りきれたかどうか自信がありません)。
・けれど、私の自然栽培(私が考えた言葉)と福岡さんの自然農法は、(共に自然という言葉を使っているが)ある意味では決定的に違うものです。…私の栽培法は、「何をしなくてもいいか」という考え方には基づいていません。自分なりの栽培法を見つけていく間に、私と福岡さんでは、目的が違うことに気づいたのです。
・(これは私見ですが)福岡さんは、私からすれば哲学者に近い。…科学とは何か、人間とは何か、というような哲学的な問題がまず先にあって、それを考えるために農業という問題に取り組んでいるのではないか。…つまり真理を追究するための、ある意味での道具としての農業です。
・けれど、私はあくまで百姓です。作物を育てて生計を立て、家族を養うことができて初めて百姓だと言える。…身も蓋もないことを言えば、それで家族を食べさせていかなければ、無農薬・無肥料でどんなに素晴らしいリンゴができても意味がない。→ それに家族を養えるだけの収入が得られなければ、この栽培法が世の中に広まるとはとても思えない。…だから自然栽培では、「何もしない」なんてことはありません。

20.病気が広がらない不思議

・健康な植物には、自分の力で病気を治してしまう、ある種の免疫力(※自己治癒力)があるらしいことがわかってきています。…ex. リンゴの木の斑点落葉病(葉に茶色の斑点のような病巣ができ、放置すると、普通はその斑点がどんどん広がって、落葉してしまう。一枚の葉から、周囲の葉に広がっていく恐ろしい病気)…農薬の使用をやめた私の畑のリンゴの木たちは、かつてこの病気にさんざん苦しめられた。→ ところが今の私の畑では、一枚のリンゴの葉にこの病気が出ても、不思議なことにそれ以上は広まらない。葉のその部分だけが乾燥し、病巣ごと落ちてしまうから。まるでリンゴの木が、病気におかされた部分だけを切り取って落としているように見えました。(P81に図有り)
・その後、杉山先生が行った確認の実験(300ヵ所で人工的な病巣を作った)によれば、私の畑のリンゴの葉はほぼすべて、病気におかされた患部だけが枯れて落ちた。←→ けれど、普通のリンゴの葉では、ただ病気が広がっていくだけで、そういう現象は起きなかったのです。

21.おとなしい病原菌

・私が農薬の使用をやめた直後、リンゴ畑で猛威をふるったもう一つの病気に、黒星病があります(黒っぽいススのようなカビが、リンゴの葉や実の表面につく厄介な病気…P83に図)。→ ところが現在の私の畑では、流行のさなかでも斑点落葉病と同じように、この病気におかされた葉はちらほらあっても、それ以上には広がっていかない。
・その理由も、科学的にはまだ充分には解明されていないが、想像はつきます。→ 病気が広がらないのは、おそらく他の細菌や菌類などの微生物に邪魔されて、大繁殖ができない。…農薬を使わなくなって30年、私のリンゴの木にはたくさんの微生物が生息しています。その微生物たちの作り出している生態系が、斑点落葉病や黒星病の原因となる菌類の増殖を阻害している。
・日和見感染(人間の体の中にいて、いつもは何の悪さもしない細菌が、免疫力が下がったときなどに急に増殖して病気を引き起こす現象)…私の畑の斑点落葉病や黒星病には、それと反対のことが起きたのでしょう。→ つまり、リンゴの内生菌が活発に働くようになったおかげで、今まで悪さばかりしていた病原菌が、おとなしい常在菌のようになってしまった。…それが自然なリンゴの木の姿なのだと私は思っています。(※う~ん、説得力あり…)

22.生態系農家

・福岡正信さんは、自然にまかせて人間はできるだけ何もしないことを理想としました。←→ 私の栽培法では、むしろ人間はできる限りのことをして積極的に自然に関わります。→ 私の目指すのは、農薬や肥料のかわりに、自然の生態系を利用する農業、あるいは畑に自然の生態系の働きを組み込む、と言った方がより正確かもしれません。…微生物たちの働きを上手に利用すれば、農薬の助けを借りなくても病気の蔓延を防ぐことができる。
・ただし、ここで大事なのは、微生物たちの働きを、我々が上手に利用するということ。→ 私たち人間が何もせずに自然にまかせておいたら、じきに畑は畑でなくなってしまう(リンゴはおそらく枯れる)。…なぜなら、あの岩木山山麓に、人間の都合で、私たちはリンゴの木を植えたのです。自然がリンゴの木を選択したわけではなく、人間の都合を岩木山の麓の自然に、言うなれば押しつけた。…何かを押しつけられたら、誰だって嫌がります。病気や害虫は自然の気持ちの表れなのだと思います(※う~ん、この擬人化的表現はちょっと違和感が…。事実的には、植えた植物とそこの土中微生物とのミスマッチ、ということ…?)。
・今まではそれ(病気や害虫)を農薬と化学肥料で押さえ込んできました。→ 農薬や化学肥料にまかせきりにしたその役割を、人間の手に取り戻すこと。それも自然を押さえ込むのではなく、調和させることによって。…生態系の持っているバランス能力(※動的平衡?)を、人間が野菜や果物作りに生かすのです。
・人間が、自然の生態系とリンゴの木の間に入って、リンゴの木がそこの生態系の中で調和して生きていけるように仲立ちとなる。→ 人間と自然が共存していくシステムを作る。…それが私たち百姓の役割であり、これからの畑とはそういうものであるべきだと私は思っています。(※確かに「工業化」よりも、生態系を活かす方が〝未来性〟があるような気がする…)
〔※ちなみに、中沢新一氏の「脱原発」の根拠の一つも、原子力発電が、地球の生態圏の外部(太陽圏)に属する物質現象(核分裂反応)からエネルギーを取り出そうとする技術であり、なおかつ、この「太陽圏」の物質現象が地球の生態圏に及ぼしたものの影響(放射能汚染や放射性廃棄物の処理など)を、長い時間をかけてでも癒していく能力(科学技術)を、私たちの生態圏(人類)はもっていない(自然消滅を待つしかない…ex.「除染」も移染でしかない)、ということ。→ 詳細は、「震災レポート」⑨⑩参照。〕

23.自然は怠け者?

・私の農法では農薬だけでなく、化学肥料も有機肥料も使いません。それは、自然が基本的には怠け者だから。格好よく言えば、自然は無駄なことはしない。
・大豆の根に共生して窒素同化(窒素固定)をする根粒菌の粒は、大豆を初めて植えてから5年も経つと、ほとんどなくなってしまう。つまり、土の中に充分な窒素が供給されると、根粒菌は活動しなくなる。
・それと同じことで、①肥料を施すと、たとえば窒素とかリン酸とかを植物に供給する働きをする土中細菌が、どうやら働くのをやめてしまうらしい。…「あなたがもし宝くじに当たったら、明日会社へ行きますか?」…土壌細菌も同じようなものだと私は思います。…土中に窒素が充分に存在していれば、窒素同化(※空気中の窒素を取り入れて窒素化合物を作る)をする菌根菌は働かなくなる。眠っているのか、あるいはその場に必要とされない微生物は、さっさと淘汰される(追い出される)のかもしれない。…もちろんこれらは、私自身の観察に基づいて私が立てた仮説みたいなものですが…。
・〝怠け者〟なのは土壌細菌も、リンゴの根も同じです。→ ②(私が肥料を使わないもう一つの理由は)肥料を施すと根っ子があまり伸びなくなる。…リンゴの木にしてみれば、必要な養分が肥料によって得られるなら、苦労してわざわざ根を長く伸ばす必要はないでしょう。
・作物の出来を良くするには、まず根を育てなければならない。そのためにも、私は肥料を施しません。→ そのせいか私の畑のリンゴの木は、測ってみたら20m以上も根を伸ばしていました。普通の畑のリンゴの根の何倍もの長さです。…このリンゴの木は少ない養分を求めて、人知れず頑張ってこんなに根を伸ばしたのだなと思ったら、ちょっと涙が出ました。
〔※この項のまとめ:①肥料を施すと(過保護になって)、(植物と共生している)土中細菌が働くのをやめてしまう(怠ける)らしい。②根っ子も(怠けて)あまり伸びなくなる…〕

24.虫の顔はどんな顔?

・人間には、物事を善か悪かのどちらかに分けたがる傾向があるよう。…正義の味方か悪の手先か、益虫か害虫か、善玉菌か悪玉菌か…。→ その方が世の中を理解しやすいし、行動方針も簡単に立てやすい…善に味方し、悪を叩けばいい(単純化)。正義が悪を倒せば、世界は安泰でめでたしめでたし(勧善懲悪)。…テレビの時代劇も、本物の国と国との戦争も、だいたいそういう理屈でやっている。→ リンゴ畑の中もそうでした。私も長い間単純に、そう考えていました。(※現在の政治状況もまた…?)
・だから農薬はいつも法律で規制されている限界ぎりぎり、できるだけたくさん使っていた。…害虫だの病原菌だのは、リンゴの木に悪さをする憎っくき敵、徹底的に殲滅する以外にないと思い込んでいた。→ それさえ真面目にきちんとやっていれば、リンゴ畑はいつも綺麗で、毎年秋にはたくさんの美しいリンゴの実がなりました。→ 私はお礼に、木の根元にたっぷり肥料を施してやったもんです。…まあそういうわけで、リンゴは農薬と化学肥料で作るものだとばかり思っていました。
・その考えが、もしかしたらちょっと間違っているのではないかな、と考えるようになったのは、農薬を使わなくなってからのことです。→ 害虫が大発生して、1匹1匹手で取らなければならなくなった。1本の木から、買い物袋3袋分の虫が取れたこともあった。…そんなとき、ふと、この虫(ハマキ虫)はどんな顔をしてるんだろうと思って、虫眼鏡で覗いてみた。→ そしたらこれが予想に反して、なんとも可愛い顔をしていたのです。
・それから興味を持って、虫を捕まえては虫眼鏡で顔を覗いて見るようになった。→ これが面白いことに、人間が害虫としている虫は、だいたい可愛い顔をしていて、反対にその害虫を食べてくれる益虫は、なんだか怪物のような恐い顔をしていた。
・考えてみれば、害虫というのはリンゴの葉や実を食べる草食動物で、(クモやハチ、クサカゲロウの幼虫など)害虫を食べてくれる益虫は、肉食獣です。…猛獣に比べたら草食獣が平和な顔をしているのは、当たり前のことなのです。

25.草は美味しい?

・リンゴが実らず貧乏のどん底生活が何年も続いたおかげで、草の味については結構詳しくなりました。…リンゴ畑にはありとあらゆる種類の草が生えていたし、農薬も散布していないので、食べられそうな草は、片っ端から食べてみました。
・いちばん美味しいと感じたのは、やっぱりハコベ(胡麻和えとか、和え物にして食べることが多かった)。ただしハコベが美味しいのは花が咲く前。花が咲いてしまうと、葉が硬くなって美味しくなくなる。…それから、牛がいつも美味しそうに食べている牧草(オーチャードグラス)。あれは不味かった。繊維が硬くて食べられない。牛はよくこんなものを食べて消化できるもんだなと思いました。→ だけど考えてみれば、それが牛の能力なわけです。…柔らかくて美味しい葉っぱなら、他の動物が食べてしまう。誰も見向きもしないような硬い葉っぱだから、あんなに豊富にあるわけ。→ その硬い草を消化するために、牛には4つも胃があって、ひがな一日草を噛み続けている。生き物というのはすごいものだと思います。
・まあ、そういうわけで、いろんな草を食べてみてわかったことは、たいがいの草は不味いということ。→ 美味しかったら食べられてしまう。繊維を硬くしたり、苦くなったり、他の動物に食べられないように進化するのは、植物としては当然の戦略なのでしょう。だから、野生の草木で人間が食べて美味しいなんていうのは、むしろ例外的存在。…中には毒を作って、身を守っている植物もいるので、くれぐれもよく知らない草木を、興味本位で食べたりしないでください。

26.敵を作らない農業

・リンゴの葉や実を食べる害虫でも、リンゴの木にためになることを最低ひとつはやってくれている。…それは、(リンゴの害虫を食べてくれる)益虫の食料になるということ。→ その害虫を滅ぼしたら、益虫も滅びる。
・害虫(ここでは食べられる側)というのは、益虫(食べる側)よりも数が多く繁殖力も強い。そうでなければ、天敵に簡単に食べ尽くされてしまうから。→ 害虫をすべて滅ぼして益虫もいなくなった畑に、どこからかその害虫がちょっとでも舞い戻ったらどうなるか。→ 天敵の益虫がいないので、害虫はどんどん繁殖して、あっという間に畑中のリンゴの木にとりついてしまう。…それがつまり、かつて私の畑で起きたことです。…何が間違っていたのか。
・私が間違ったのは、ある虫がリンゴの葉を食べているのを見て、その虫を敵だと決めつけてしまったこと。それは真実のごく一部でしかない。…生態系とは、生きとし生けるものすべてが、網の目のようにつながって生きている、命の全体の働きです。→ その生態系の一部である生き物を、人間の都合で、善と悪に分けてしまうことが、そもそもの間違いの始まりなのだと私は思います。
・害虫とか益虫という言葉に惑わされてはいけない。→ 自然の中には、善も悪も存在しない。生き物はみんな、それぞれの命を必死で生きているだけなのです。どんな生き物も、生態系の中で与えられた自分の役割を果たしているだけなのです。
・敵なんてどこにもいないと気づくことが、私の栽培法の出発点です。…虫が大発生するのは、大発生する理由がある。→ その原因をつきとめて、そうならないように手当てをするのが百姓の仕事です。…虫や病気は原因ではなく、あくまでも結果なのです。虫や病気が蔓延したからリンゴの木が弱ったのではなく、リンゴの木が弱ったから虫や病気が大発生したのです。…虫や病気は、それを教えてくれていたのです。
・そのことに気がついて、私はひとつのマスコットを描きました(リンゴの葉を食べる憎っくき敵であり、つぶらな瞳の可愛いハマキ虫)。→ ようやくリンゴを収穫できるようになってから、お客さんにリンゴを送る段ボールに、そのハマキ虫のイラストを印刷しました(P93にイラスト画あり)。虫や病気と戦うのをやめたとき、自分のなすべきことが見つかったのだということを忘れないために。(※「患者よ、がんと闘うな」…)

27.1本の木には何個くらいリンゴが実りますか?

・リンゴの樹齢や大きさ、それから摘果の程度によっても違いますが、たとえば最も古株の樹齢50年のリンゴの木は、昨年1170個の実をつけてくれました。私の畑で(数えた中での)最高記録は1本の木に1400個以上なりました。(実を言えば、私は今まで一度もリンゴがいくつなるかなんて数えたことはなかった。数えてくれたのは、杉山教授の研究室の学生さん達です。)

28.いちばん好きな季節はいつ?

・冬です。(雪国では冬は)できることはほとんどないので、図書館に出かけて調べものをしたり、ずっと読めなかった本を読んだり、自分の好きなことができます。
・あの頃、冬になれば真っ白な雪が、病気や虫におかされた私のリンゴの木を覆い隠してくれました。周囲の農家からの目も、なんとなく和らぐような気がしたものです。→ 春になれば、雪が溶けて、無残な姿になってしまったリンゴの木が姿を現します。そして、病気や虫が、また襲いかかってくるわけです。…つまり、20年経った今も、トラウマになっている。それだけ余計に、冬が好きになるわけです。(※壮絶なる人生…)

29.栄養が余るから虫が来る

・大豆の根粒菌を利用する方法なら、(既述のように)土の中に必要なだけ窒素が行き渡ると、根粒菌は活動しなくなるので、窒素過多になることはない(サーモスタットつきのエアコンが、自動的に部屋の温度を維持するのと同じ)。
・人間が窒素肥料を施すのは、いわばサーモスタットの壊れたエアコンです。→ 土の中にどれくらい窒素分があるのかわからないままに、毎年窒素肥料を施せば間違いなく窒素過多になる。→ 作物にアブラムシが来るのは、おそらくそのせい。…アブラムシは余分な栄養を食べに来ている。→ そのアブラムシを殺すために農薬を使わなければならなくなるわけ。
・その証拠に、肥料を施さない(窒素過多にならない)自然栽培では、アブラムシの被害を受けることがほとんどない。→ もし肥料を施しているプランターや畑にアブラムシが発生したら、肥料をしばらく控えてみることをお勧めします。(※これもまだ仮説なのだろうが…)

30.大草原とバクテリア
・同じ畑で、同じ作物を毎年育てていると、作物の生育が悪くなり、収穫量ががた落ちします(連作障害)。…現代のように除草剤を使って雑草を根絶やしにすると、土壌細菌も単一構造になってしまう。→ 同じような菌ばかりが増えてしまって、それが連作障害を引き起こしている。→ そして連作障害が起きると、薬を使って土壌消毒をする。これは、土を土と見ていないことの表れだと思う。
・消毒とは、正確に言えば殺菌であり、良い菌も悪い菌も、そこの土壌にいるバクテリアを皆殺しにしている。→ 従って、一時的には連作障害はおさまる。…けれど、3年ぐらいするとまた発生する。土壌細菌がいなくなった空白地帯に、悪さをする細菌が大発生するから(※害虫と同じ構造…)。→ それでまた、土壌殺菌をする。消毒がやめられなくなる。…これを繰り返して、とうとうどんな作物も栽培できなくなった畑(※死んだ土)が、日本のあちこちにある。(※う~ん、〝敵視政策〟のなれの果て…?)
・だけど、私のように肥料を与えていない畑では、今まで何年同じ作物を植えても、連作障害は起きたことがない(※これは前回の新留氏の論とも重なる…)。…それは、私の畑にはいろんな雑草が生えているので、土の中の微生物が単一化していない。→ 雑草は、この連作障害を防ぐためにも必要なのです。
・連作障害は、病気ではない。…土の中の微生物層が単一化しているために起きる現象に過ぎない。⇒ 多種多様な生き物がいて、初めて生態系は守られる。…それは象やライオンのいるアフリカの大草原だけでなく、微生物たちの棲む土の中のミクロの世界でも同じことなのです。(※人間の世界もまた…。ただし、人間とその風土とのミスマッチはある…?)

31.なぜ冬はノコが切れるのか?

・雪の上での剪定(余分な枝を切り、リンゴの木の姿を整える)から、リンゴ農家の一年は始まる。…それは、この時期がいちばんノコギリが切れるから。他の季節だと、樹液に含まれるタンニンが、ノコギリにこびりついて切れ味が鈍る。ところが冬のこの時期は、リンゴの成長が止まっていて、樹液の移動がほとんどない。→ おそらくそのせいで、リンゴの木を切るのがとても楽なのです。

32.葉脈と枝の関係

・剪定の上手い下手で、リンゴの収穫量が大きく変わることもあれば、病気や虫への抵抗力も違ってくる。…リンゴ農家にとって剪定技術は、きわめて大切なもの。
・ところが無農薬栽培を始めてみると、それまで通り(他の農家と同じような)剪定をしたら、黒星病が激発。…他の人の剪定は、肥料や農薬を使うことを前提にした剪定だったから。→ それで何か答えを探していて、葉っぱの葉脈が参考になることに気づいた。
・葉脈というのは、根っ子からの水分や養分を葉の隅々にまで送り、葉緑素で作った炭水化物を運ぶためのもの。…人間の血管、地球全体でいえば川みたいなもの。→ そう思って、木の全体の形を見たら、枝というのも同じ働きをしている。…そう思って見たら、葉脈の形と枝振りはよく似ている。…どっちも水分や養分を運ぶことが目的だから、似ているのは当たり前のことかもしれない。(※こんなこと初めて聞いた…)
・葉っぱの葉脈の形は、植物によって違う。同じように枝振りも、植物によって違う。→ もしやと思って、それからことあるごとに、樹木の枝振りとその葉脈の形を見比べたら、だいたい同じ形なわけ。…葉が広がっている植物は、枝振りも広がっている。すらりと背が高い木は、やはり葉もすらりと細長く葉脈もすっと伸びている。
・葉脈の形がそれぞれの樹木の自然な姿に違いありません。→ それからリンゴの木を剪定するときは、リンゴの葉の葉脈を見ながら、葉脈の物まねをするようなつもりで剪定。→ そしたら、驚いたことにめっきりリンゴの病気が減ったのです。…リンゴ以外の樹木でも同じことだった。→ その果樹の葉を参考にしながら剪定すると、自然栽培に切り替えても病気が出にくくなるのです。(※う~ん、木村秋則、恐るべし…ただこの仮説は、どの程度妥当なのか…?)

33.「奇跡のリンゴ」は庭で育つか?

・もちろん育ちます。…気候に関しては、日本国内であればリンゴは基本的にどこでも育ちます。沖縄でもリンゴを植えている人がいます。(以下、具体的な栽培方法は、P113~116)
・上手くいけば苗を植えて3年目くらいに花が咲き、2~3個は実がなるだろう。→ それ以降の収穫は、その3年の間にリンゴの木や、土を観察し、勉強して、あなた自身がどれくらい農薬や肥料のかわりを果たせるようになったかで決まります。

34.枝を切ると木は元気になる?

・リンゴの苗を植えたときに、最初の剪定をしてください(詳細はP117)。…リンゴの苗がかわいそうと思う方もいるかもしれないが、剪定は正しく行えば木を元気にしてくれます。
・リンゴの苗木は、一度土から抜かれているわけです。そのときに目に見えない根が切れて苗木は弱っている。→ だからその切れた根っ子に合わせて、地上部である苗木のてっぺんを剪定してやる。…根がダメージを受けたら、地上部も少し減らして、リンゴの木の負担を減らしてやるわけ。→ 来年以降の剪定は、リンゴの葉っぱの葉脈を見ながら、枝の伸びが葉脈と同じになるようにイメージしてやってください。(※う~ん、説得力あり…)

35.虫は手で取ろう

・庭のリンゴの木なら、もし虫が来ても、手で取ってやればいい。問題は病気です。…病気の原因となる菌類は、リンゴの葉っぱの表面とか枝とかにすでに存在しているわけです。→ そういう菌類は、いつもはおとなしくしていても、自分が成長できる条件が整えば一気に増殖する。→ そして病気が広がってしまったら、手で取ることはできない。
・だからこればっかりは、病気にならないように予防するしかない。→ 酢を使うわけです。(酢の使い方の詳細は、P119~121)

36.酢の散布法

 (枚数の関係で、この項省略。→ 酢の散布法に興味のある方は、P122~124)

37.自然を逆さまに見る
・人間という動物は、五感の中でも特に視覚が発達しているので、どうしても目に見えるものを中心に世界を認識しようとする。→ そのせいで見落としてしまうこともたくさんある。
・その代表が、土の中のこと。…植物にとって何よりも大切なのは根っ子なのに、そのことをすぐに忘れてしまう。それが、いろんな間違いの元になっているのではないか。→ 土の中に隠れて目に見えないからこそ、想像力を働かせて、今この植物の根っ子はどうなっているかを考えることが大切。
・リンゴの木を育てるときも、リンゴの木がもし弱ったら、真っ先に根がどうなっているのかを考えてください。→ 根っ子さえしっかりしていて健康なら、リンゴは必ず元気を回復します。もし何かの原因で根っ子が弱っていたら、根っ子の負担を減らすために、地上部の枝を減らしてやることを考えてください。(※う~ん、含蓄のある話だ…)
・リンゴに限ったことではないが、私ができるだけ水やりを少なくするように言うのは、土の中にできるだけ酸素がたくさん存在する状態を保ちたいから。…土中細菌の中には、好気性菌と嫌気性菌がいる。自然全体から見れば、もちろん好気性菌にも嫌気性菌にもそれぞれの役割があり、どちらも必要なものだが、作物を栽培したり私たちが暮らしていく上では、できる限りこの嫌気性菌を環境から遠ざけておきたい。…嫌気性菌は酸素を嫌う細菌だが、それゆえ水はけの悪い場所などで増殖する傾向がある。そして嫌気性菌の中には、いわゆる腐敗の原因になったり、危険な毒物を生産するものが多い。…ex. ボツリヌス菌や炭疽菌(※食中毒や伝染病を起こす)
・だから土の中には植物が必要とする以上の水分がないように、水はけをいつも考えて育ててあげてほしい。→ 土の中の根っ子が、放線菌などの好気性菌と上手に共生できるように。
・私は畑を粗く耕すように指導しているが、粗く耕すと土の中に空気をたくさん取り入れることになるから。→ 空気が多ければ好気性菌が増える。隙間がたくさんあるから、作物も根を伸ばしやすい。…根っ子のことを考えれば、粗く耕すのが当たり前だとすぐわかります。
・(たまには自然を逆さまに見て)作物を育てるときは、まず根っ子のことを考える。それから、葉や枝のことを考える、というくらいでちょうどいい。

38.何種類のリンゴを作ってますか?

・収穫期で言うと私の畑では、いちばん早いのが(9月の半ば頃から)津軽という品種、その後は紅月、その次が紅玉、ハックナイン、王林、陸奥、そしてフジ。…フジは日本で今いちばん作られている品種で、雪が降り始める11月中旬くらいまでに収穫します。その他にも、ジョナゴールドとか、少しだけ作っている品種もある(ほとんど出荷せず)。→ というわけで、全部で7~8品種というところです。

39.農家になるにはどうしたらいい?

・これはあくまでも私の意見ですが、これからの(※未来性としての)農家には、いかにコストのかからない農業をするかという努力と、付加価値の高い農作物を作る努力が必要だと思う。→ そのためにも、農薬も肥料も使わない自然栽培を試みることを是非お勧めします。
・ただし、最初から収入を見込むことはできないので、他の仕事で収入を得ながら、少しずつ技量を磨き、耕作面積を増やしながら、プロの農家を目指すのが現実的だと思う。→ 最初は水田から始めるのがいいと思う(リンゴは、手間が水田の5倍はかかると言われ、自然栽培ならさらにその倍はかかる。農業経験のない方が、いきなり取り組むのは難しい)。…稲作は数千年の歴史のある農業だし、農薬や肥料を使わない自然栽培との相性もとても良い。→ 全国には耕作放棄された水田が増えているので、水田を借りるのはそれほど難しいことではないと思う。…家庭菜園を卒業したら、次は水田を探してみてはいかがでしょう。

40.個性的なリンゴ

・同じ品種のリンゴの木は、DNAが同じある意味でのクローンです。→ けれど不思議なことに、その同じ遺伝子のはずのリンゴの木が、私の畑の中だけでもみんなそれぞれに、ぜんぜん違う個性を持っている。…上へ上へと枝を伸ばそうとする木もあれば、横に広がろうとする木もある。毎年のようにたくさんの実をつける木もあれば、あまりつけない木もある。病気に強いのもあれば、弱いのもいる。とびきり美味しい実をつける木もあれば、そうでもないのもある。…もちろん共通するところもたくさんあるけれど、リンゴの木の1本1本はそれぞれに名前をつけてやりたくなるほど個性的なのです。

・1本1本がみんな違う。その違いにしっかりと目を向け、同じ生き物同士、一対一で向かい合うのがリンゴの木との唯一の正しいつきあい方であることを、私は長い百姓生活の末に学びました。→ もちろんそれはリンゴだけでなく、この世界に生きとし生けるものすべてがそうなのです。草だって、同じ種類の草なのに、生えている場所によって、まったく別物のような姿をしている草もある。
・人はこの世界を理解するために、あらゆるものに名をつけ、分類し、理解したつもりになっている。インターネットの世界には、そういう知識が気が遠くなるほどたくさん詰まっている。→ けれどこれから先、どんなに技術が進歩しても、さらに膨大な知識を詰め込んだとしても、私が今向かい合っているリンゴの木の性格については、そこには何も書かれていないのです。〔※う~ん、ともすれば一方の方向に大きく偏りがちな、現今の世相や風潮に対する、(ささやかな)警鐘・異議申し立て?…でもまあインターネットは、道具の使い方の問題か…〕
・本当の意味で自然とつき合うには、一対一で生身の心と体で、自然と向き合うしかないのです。…知識はそのつきあいのためのガイドブックの役割は果たすが、いくらガイドブックを読んでも、それは自然とつきあっていることとはまったく違うのです。…そういう意味では、ここまで私がお話ししてきたことも、ただの知識であり、ガイドブックでしかありません。土を知るには、土まみれになるしかないのです。(※すぐれた〝ガイドブック〟ではある…)

41.リンゴ箱と学校

・もちろん、人間だって、一人一人みんな違う。←→ それなのに、それこそリンゴ箱のように一つの教室に同じ年齢の子供を集めて、みんな同じという前提で教育をしている。それがそもそも間違いだと思う〔※う~ん、日本近代の学校教育のあり方に対する、根底的な(根っ子からの)批判…〕。1本のリンゴの木になるリンゴの実だって、一つとして同じものなんかない。まして、違う親から生まれた一人一人の子供は、みんな違っているのが当たり前なのです。←→ けれどリンゴ箱にリンゴを詰めるときと同じように、どうしても色や形を揃えようとする。→ 他のリンゴよりも小さかったり、色が悪かったり、傷がついているリンゴは、リンゴ箱からはじき出してしまう。落ちこぼれというやつです。
・リンゴならそういうものの方が、案外美味しかったりする(たいていのリンゴ農家は、見かけの良くないリンゴは、家族で食べたり友達にあげたりしている)。…ことに私の栽培法では、農薬や肥料を使う方法に比べて、どうしてもそういう不揃いなリンゴが多い(約3割)。→ その3割のリンゴはいろいろな加工品(ジュース、お酢など)にしている(ちなみにこの3割のリンゴをいかに上手に加工するかに、自然栽培のリンゴ畑の経営はかかっている…)。
・人間も同じだと思うのです。子供たちを一つのリンゴ箱に詰めるのは、あくまでも大人の側の都合です。そうした方が、効率がいいからそうしているに過ぎない(※現今の〝受験〟や〝就活〟も?)。⇒ 子供は一人一人みんな違う。その違いを尊重し、違うことを前提とした教育を、これからはもっと考えていかなきゃいけないと私は思います。(※教育の未来性…)
・それは子供たちだけのためではありません。私の経験では、それが上手くいくとリンゴ畑全体が上手くいくようになるのです。…世界をあっと言わせるような天才や偉人が、子供時代には落ちこぼれと呼ばれていたという例が、どれほどたくさんあることでしょう。
〔※関連参考資料:『反教育論』泉谷閑示(講談社現代新書)2013.2.20 ……音楽家でもある(パリの音楽院に留学経験もある)異色の精神科医の、直球の教育論…〕

42.リンゴはどこまで伸びるか?

・これは私も試したことはないので、本で読んだだけの知識ですが、高さ30mくらいの巨木になるそう。→ 本来ならそんなに大きくなる木を、人間の手が届きやすいように3mとか4mの高さに刈り込んで、毎年たくさんのリンゴの実を実らせてもらっている。…リンゴの木にはいくら感謝しても感謝し足りません。

43.芽の前に出るもの

・大豆を植えたら、いちばん最初に出るのは、芽ではなく根です。→ 大豆に限らず、ほとんどの種がそうです。まず根が出てから、芽が出る。……人間は地面の上から見ているから、どうしても土から顔を出す芽にばかり注目してしまう。だけどよく考えてみれば、根の方が先なのが当たり前です。→ 成長するにはまず、根っ子から水や養分を吸い上げなければいけないから。
・これは種のときの話だけではなく、自然栽培に切り替えると、稲でも大根でも、伸びが悪くなったように見える。…その差は歴然で、田植えをしてからしばらくは、慣行農法の稲の成長の方が明らかに良好。←→ けれどそう思うのも、地上の部分だけを見ているから。
・自然栽培の稲の成長が遅れて見えるのは、地下の根を先に伸ばしているから。つまり根から先に成長する(※基礎をしっかり作っている)。→ 根を引っこ抜いて見れば一目瞭然。貧弱に見える自然栽培の稲の方が、根っ子は遥かに発達している(細かいひげ根をびっしりと生やした、太くて長い根がびっしりと生えている)。…この地下の目に見えない部分が大切なのです。
・根を充分に発達させた後は、いよいよ地上の葉や茎が成長します。→ 成長が悪いように見えた自然栽培の稲は、ある時期を過ぎるとどんどん成長して、あっという間に普通の稲を抜き去ってしまう。⇒ 根っ子をまず先に伸ばすことを考える。…それはリンゴにも人間にも当てはまることだと思います。(※う~む、いろいろな領域にも通底するような、まさに根の深い話だ…)

44.自然の時間を生きる

・リンゴがまだなっていなかった頃は、たくさん時間がありました。…ひがな一日ずっと、1匹の虫を観察していたり、森の奥で草や木にお日様の光がどう当たるかを見て、一日を過ごしたり…。→ 朝日が昇る頃から、日が沈むまでずっと見ていてわかったのは、どの草も一日に1回はどこかで太陽の光を受けているということ。
・これは背の高い木が、背の低い植物のために、ちょっと譲ってやってるのではないかなと思うのです(※う~ん、木村さんの人柄がよく出ている解釈ではある)。というのも、木が成長していくと、下枝が枯れて落ちるのです。…太陽の光が当たらなくて効率が悪いから下枝を落とすのだ、と言う人もいるけれど(※こっちの方が合理的解釈?)、私はそうではないと思う。→ 自分の下に生えている雑草に少しでも光が届くように、木は自ら枝を落としているんじゃないのかなあと思うのです。なぜなら、雑草が生えていた方が木は助かるから(※共生)。
・雑草が生えていた方が、土中細菌が増えるということもある。…それに草が自然のクーラーの役割を果たしている(夏の暑い日に、雑草の生えている場所が、何も生えていない場所より10度近くも温度が低いことがある)。→ 木の根っ子にしても、ひんやりしていた方が気持ちいいに決まっています。だから自ら枝を落として、雑草や丈の低い木に光が届くようにしている。…自然の生態系はそういうふうにして保たれているのではないかなと思うのです。
・まあ、それが当たっているかどうかはわかりません。だけど、虫や草たちのことを観察しながら、そういうことをぼんやり考えている時間は、私にとってとても大切な時間です。…たまには時計のことを忘れ、自然の時間を生きてみることも必要だと思うのです。人間だって自然の産物なわけですから。
                                 (8/27 了)        

【(手元にある)木村さんの参考資料(発行順)】

①『奇跡のリンゴ』石川拓治 幻冬舎 2008.7.25(2008.11.15 7刷) → 文庫化 2011.4月

②『リンゴが教えてくれたこと』木村秋則 日本経済新聞出版 2009.5.8(2009.5.22 2刷)

③『すべては宇宙の采配』木村秋則 東邦出版 2009.8.8

④『リンゴの絆』木村秋則 主婦と生活社 2010.3.8

⑤『木村秋則と自然栽培の世界』木村秋則(責任編集)日本経済新聞出版 2010.6.24

⑥『百姓が地球を救う』木村秋則 東邦出版 2012.3.2

⑦『奇跡を起こす 見えないものを見る力』木村秋則(扶桑社文庫)2013.6.15(単行本 2011.9)

⑧『地球に生まれたあなたが 今すぐしなくてはならないこと』木村秋則 KKロングセラーズ   2014.4.1                                                                                  


 次回は、「経済論」の拡張編として、いま話題の『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫(集英社新書)を取り上げる予定です。
 …記録的な(経験したことのない)異常気象による災害が続いています。地球環境だけでなく、「資本主義」も、もはや〝想定外〟の(未知の)領域に入ってしまったのかもしれません。…そして、来るべき「新しいかたち」は、依然として見えてこない…。
 次回は、秋の気配も深まる頃に…(お身体どうかご自愛ください)。
                               (2014年8月27日)

2014年9月14日日曜日

『日本農業への正しい絶望法』




震災レポート 25



     震災レポート・拡張編(5)―[農業論 ②]


                                中島暁夫






韓国で深刻な海難事故が起きた。中古フェリーの無理な(?)増築、安全性をまったく無視したような過積載と杜撰な積荷管理、未熟な(?)操船、そして極めつけは船長たちの(多数の高校生を含む)乗船客の避難誘導の放棄…。韓国メディアは自国を三流国家と嘆き、その対比に日本の過去の海難事故に対する適切な対処を挙げたという。しかし、すでに福島原発事故における我が国の対処の有様を経験してしまった今、この隣国の海難事故を、とても他人事とは思えないはずだ。…そうした自戒の念を持って、この国の農業問題にも入っていきたいと思う。

 
                                         
『日本農業への正しい絶望法』 神門善久
(新潮新書)2012.9.20  ――[前編]  (2012.10.20 4刷)



〔著者(ごうど)は1962年島根県生まれ。京都大学博士(農学)。明治学院大経済学部教授。著書に『日本の食と農』『さよならニッポン農業』など。〕


【まえがき】

・冷酷な事実を伝えよう。いまの日本農業は、形ばかりのハリボテ化に向かって一目散だ。よい農産物を作るという魂を失い、宣伝と演出で誤魔化すハリボテ農業になりつつある。それは既存農家か新規参入かを問わない。大規模農業か小規模農業かを問わない。有機栽培か慣行栽培(農薬や化学肥料を使った農業)かを問わない。農業者の老若男女を問わない。全面的なハリボテ化だ。
・もともと日本には優れた耕作技能があった。おいしくて安全な作物を自然環境と調和しながら作る技能があった。ところがその技能がどんどん死滅しているのだ。…耕作技能を磨いてよい農産物を作ったとしても、消費者の舌が愚鈍化したため、良し悪しがきちんと評価されない。…土地利用規制の骨抜きが進み、農業者は地力投資に専念できない。…これに追いうちをかけたのが、福島原発事故による放射能漏れだ。どんなに耕作技能を磨いても、放射能汚染には対抗できない。技能の高い農業者ほど失望が大きい。
・その一方、当面の選挙に勝ちたい一心で、民主党と自民党が競って農業補助金のバラマキを構想する。さらには、ここ数年の「農業ブーム」のおかげで、有機栽培などのもっともらしい「能書き」を準備したり、農業者の顔写真を貼ったりすれば、粗悪な農産物でも高い値段がつくというおかしな風潮がある。このような状況では、農業者の関心が補助金の引っ張り出しや、人目をひく粉飾に向かうのもやむを得ない。だが、そんなことをしていては、当面の金稼ぎにはなるかもしれないが、長期的には農業の実力を失うだけだ。
・本来ならば、こういう日本農業の危機を伝えるのが、マスコミや学界の仕事だ。ところが、マスコミと学界は、その真逆で、消費者の舌の鈍化や農業の技能低下から目を逸らした空論を煽っている。
・「改革派」であれ「保護派」であれ、両者は農産物貿易自由化の是非などでしばしば対立するかのように見えるが、それは見せかけにすぎない。両者とも日本農業のハリボテ化という厳しい現実から逃避し、空論を交わすことで馴れ合いの猿芝居を演じているのだ。
・この猿芝居を止めに入ろうとすれば、両陣営から憎悪の目が向けられ、四面楚歌も覚悟しなければならない。私は、四面楚歌を受け容れるつもりだ。…本書は日本農業の本当の問題はどこにあるのかを明らかにしたうえで、どのような方策が残されているのかを検討する。現状も未来も決して甘いものではない。しかし、ここから始めなければ何も好転しない。…もう遅すぎるかもしれない。本書の挑戦は、単なる犬死で終わるかもしれない。それでもなお真実を伝えるのが研究者としての私の責務だ。(※この意気やよしか…)

【1章】日本農業の虚構

1.二人の名人の死 (二人の名人のエピソードについては、P15~18)

・耕作技能の低下こそが日本農業の最大の危機。→ 中身のないハリボテ農業 → 技能がなければ、農薬依存か「名ばかり有機栽培」に陥る。→ どちらのケースでも、農作物は健康に育たず、栄養価も下がる。
・〔具体例〕堆肥づくりの劣化…各地の農業名人は、「土作り」の重要性を指摘。つまり、作物の生育に適した土壌条件を整えること。→ 堆肥づくりは「土作り」の肝。…畜糞を完熟させておらず、堆肥としての有用性が失われている。
・そもそも現在の農業者の多くは、堆肥と肥料の違いといった基本的な区別ができていない。堆肥…家畜の糞尿を炭素源と混ぜ合わせ、天然の微生物の発酵作用によって窒素を一時的に固定させて安定化させたもの。(肥料の場合は、窒素などの作物の生育に必要な成分の供給を目的としているが)堆肥の場合は、窒素分が固定されていて窒素分の供給を目的としていない。…両者は明確に区別されるべきもの。→ この区別もつかないような農業者では、まともな「土作り」なぞできない。(※う~ん、難しい…。肥料ではなく堆肥を推奨している…?)
・天候不順による影響も、病害虫の大量発生も、技能低下が一因。
・技能習得に専念しにくい状態
①「能書き」やら生産者の顔写真やらの演出・宣伝が偏重されるようになり、消費者が舌で農産物のよしあしを判定する習慣を失った結果、よい農産物を作るよりも、演出や宣伝に力を入れたほうがトクという状態にある。〔「川下(消費者)問題」〕
②農地利用が無秩序化し、いくら本人が耕作に励んでも、周辺で不適切な農地利用をされて台無しになる危惧がある。〔「川上(農地)問題」〕
③2011年3月以降は、原発事故による放射能汚染問題も。→(4章と7章で詳述)

2.有機栽培のまやかし

・有機栽培を謳っている農産物の大半は、自然環境に悪くて食味も悪い。これが全国各地の農業視察をしてきた著者の実感(※う~ん、しょっぱなから強烈な一発!)。…堆肥や有機肥料の原料は家畜の糞尿。→ 技能のある農業者が、適切に処理された家畜の糞尿を使えば、確かに環境にも良いし品質の高い農産物を作ることができる。←→ だが残念ながら、技能不足の農業者が多いし、処理が不適切な家畜の糞尿が大量に出回っている。
・処理が不適切な家畜の糞尿が農地に不用意に投入されると、土壌が窒素過多となる。…窒素自体は植物にとって栄養だが、多すぎては害毒になる。→ 窒素過多の土壌で育った農産物は品質が悪い。→ しかも、植物に吸収されなかった畜糞の成分が、河川や地下水へと染み出し、水質汚染を起こす。…農業起源の窒素過多が、都市住民の飲料水にも悪影響を与えているのではないかと危惧されるケースもある。(※著者は、具体的に地名を挙げるのは差し控える、と言っているが、具体的なデータがある、ということか…?)
・畜産の大型化によって大量の糞尿がでるようになった。→ 糞尿処理のために、増殖力が強いが有用性に乏しい微生物(EM菌など)を注入したり、強引に熱処理したりして、とりあえず堆肥らしくみえるものを作るということが横行している。…これらは、いわば「堆肥もどき」にすぎず、作物の品質向上にも環境保全にも資さない。(※主目的は、〝産業廃棄物〟と化した家畜の糞尿を、効率的に処分・再利用しようということか?……これと同様のことが、戦後の「化学肥料」でも行われていたということを、次回以降に取り上げる予定…)
・悪臭公害の原因となる家畜の糞尿は、市町村にとっても処理に窮する産業廃棄物。→ 行政は公営の「堆肥センター」を作って、「堆肥もどき」を生産し、その使用を熱心に推進する。→ 農業者も消費者も乗せられて、「堆肥もどき」を多投して作られた農産物が、「有機栽培」という能書きを付け、あたかも環境によくて高品質の農産物であるかのように喧伝されているケースが散見される。…「有機農業のまち」という看板で宣伝していても、「堆肥もどき」を農地にばら撒いているだけという場合もある。(※う~ん、驚くべき〝不都合な真実〟…?)
・逆に、農薬や化学肥料を絶対的な悪と決めつける理由もない。…そもそも農薬といっても木酢(もくさく)のように江戸時代から使われていて、環境への負荷も小さいものもある。尿素系の肥料は化学肥料に分類されているが、内容物は有機物。→ このように、農薬かどうかや化学肥料かどうかは、境界線を明確に引けるようなものではなく、絶対的な基準とは考え難い。(※境界線は絶対的なものではない、というのは、何事にも言えることだろうし、その点では首肯できる。ただ、木酢とか尿素系の肥料とかは、例外的なのでは…?)
・要するに、環境に適合的においしい農産物を作れるかは、有機栽培かどうかの問題ではない。農業者に技能があるかないかの問題。→ 技能がないままに有機栽培をすれば、不出来な農産物しかできないし環境も破壊する。技能のない者は、農薬や化学肥料を普通どおりに使った「慣行栽培」のほうがまだましな場合が多い。……残念ながら、農業者の年齢や規模の大小を問わず、全国的に日本農業の技能低下が深刻だ。技能のない農業者の作った「名ばかり有機農産物」が増える一方だ。(※う~ん、このあたりが本書の肝か…そして前回の久松氏の見解にも近い印象…。ただ、そんなに「名ばかり有機栽培」が全国的に多いのか…?)
・本来ならば、「まともな有機農産物」と「名ばかり有機農産物」を峻別するのは消費者の仕事。きちんとした味覚を持っている消費者なら、両者の味の違いは明々白々。←→ ところが、今の消費者は、舌ではなく「能書き」で農産物を評価する傾向が強い。…「地産地消」「食育」「こだわり」などのスローガンや生産者の顔写真やらを付けて売られ、それを消費者がありがたがって買っていく(※当方も舌には全然自信がない…)。(詳細はP25~26)
・農業者が「直売所」を不良品の処分場所に使っている場合もある。…最近はスーパーや外食産業などが、農薬の過剰散布を防ぐためのチェックをしているが、直売所ならそういうチェックを免れられるから。直売所を「ごみ箱」と呼んでいる農業者もいる(※ホントかよ…)。もちろん厳しく品質管理をしている直売所もあるのだが、直売所が乱立する中で、杜撰なところも散見される。(※直売所は新鮮で、スーパーや外食店が〝農薬まみれ〟と思っていた…)
・また都市近郊の場合、その農地が都会の汚れた空気や水に晒されている場合もある。そういう環境で育った野菜は品質も悪くなりがち。(※都市近郊では「地産地消」はNG…?)
・流通経費や省エネの点でも、地産地消がよいかは疑問。…ex. スーパーの大根が100円の場合、農家に渡るのはせいぜい30円程度で、差額の70円は流通マージン。だが、このうち輸送経費はせいぜい5円程度。→ つまり、流通マージンの大半は小売マージン(スーパーでの小売値と仕入れ値の差額)であり、消費者への利便性への対価。…営業時間中目ぼしい野菜をきらさずに置くためには、スーパーは無駄を覚悟で多めに仕入れ、小家族に合わせて、ちいさくカットするなど手間もかかる → 小売値を仕入れ値よりも大幅に高くせざるを得ない。…また省エネのためなら、輸送経費なぞというチマチマした部分ではなく、家庭や小売段階での冷蔵を減らす努力のほうが効果的。…そもそも野菜をナマで食べるのは、もっぱら戦後の習慣(※そうなのか…)→ 野菜を煮しめやおひたしにすれば、常温保存ができるし、たくさん食べられるから栄養摂取もよくなる。また、よい農産物は日持ちもする。…要するに、消費者によい農産物の選別能力があり、家庭で適切な処理をすれば、地産地消などよりもはるかに効果的に、保蔵のための無駄な費用や化石エネルギーを節約できる。(※う~ん、久松氏は「野菜の鮮度」の観点から、遠方からの長距離輸送には否定的だったが…。また「里山資本主義」では、地産地消は地元でお金を回す、という観点から支持されていた。…様々な観点の中での優先順位の問題、ということ…?)
・コメについて、「まともな有機栽培」「名ばかり有機栽培」「慣行栽培」の三つを比較するための簡単な腐敗実験(詳細はP29~30)。…腐るということは、大気中の腐敗菌が入り込んで増殖すること。→ 「まともな有機栽培」の場合は、この腐敗の速度が遅い。腐敗菌が入ってきても、コメの中にある微生物と共存するため、腐敗菌だけが増殖するという事態にならないから。…「慣行栽培」は、農薬などで他の微生物が殺されているので腐敗菌が増殖しやすく、腐敗が早い。…だが「名ばかり有機農産物」の場合は、「慣行栽培」よりもさらに早く腐敗する。農薬を使っていないから、コメの中には微生物はいる。しかし、それ以上に窒素過多で育ったため、コメの細胞が弱っている。肥満児に骨折が多いのと同じで、窒素過多は外からの刺激に対する対応能力を下げる(※人体における広義の免疫力のようなものか…)。
・名人農家のコメは、お粥にしても形が崩れない。それは健康的に育ったので細胞壁がしっかりしているから。同じく名人農家の野菜が日持ちがよいのも、やはり細胞壁がしっかりしているから。同じ理由で、名人のタマネギは皮をむいても涙が出ない。タマネギの細胞の中に涙腺を刺激する物質があるが、細胞壁がしっかりしていれば、それも細胞の中に閉じ込められるから。
・名人農家のピーマンには、野菜の「えぐみ」(渋っぽい匂いと味)がない。野菜嫌いの人は、この「えぐみ」を嫌っている場合が多い。この「えぐみ」の正体は硝酸態。→ 技能のない農家はどうしても窒素過多になるが、過剰な窒素が硝酸態をとりこむ。名人農家は必要なときに必要なだけ窒素を供給するから「えぐみ」が抑えられる。←→ 最近、品種改良で野菜を甘くして食べやすくしようとしているが、それでは野菜本来の味や匂いが消えるし、ますます農業者の耕作が安易になりそうで、邪道に思える。(※著者は安易な品種改良にも批判的…)
・昨今、農産物の売れ行きは、中身ではなく話題性という風潮があるが(ex. 渋谷の若い娘に農作業の真似事をさせた「シブヤ米」など)、その結果、演出や宣伝ばかりが重視され、技能が軽視されるという傾向がある。←→ 名人農家は、農地で風や草や昆虫などが発するメッセージを聞くことに傾注する。その感覚は、商工業に携わる者とは異質だし、ましてや消費者に演出や宣伝をするという感覚にはなじまない。→ 本当に消費者が農業者に技能の修得を望むならば、舌で農産物を評価し、演出や宣伝だけのハリボテのような農産物に「駄目」を出さなくてはならない。しかし、残念ながら、今それだけの舌を持っている消費者がどれだけいるだろうか?(※かくして著者の、〝日本農業への絶望〟は深まる…)

3.ある野菜農家の嘆き

・「担い手育成事業」と銘打った農水省と県による公共事業…農業の機械化に適合した農地・水路・道路を造成するというのが表向きの趣旨。…農業者の負担金は事業費の5%で、残りは財政支出。←→ しかし、この事業は農業潰しのための土木事業。…道路が広がり、土地の形が整えば、農業機械は動かしやすくなるが、それ以上に、住宅への転用が進んでしまう。行政側も説明会で、「この事業を入れても、8年経てば、農外転用できる」という趣旨の発言。
・農業への意欲が薄い兼業(片手間)農家は、宅地にすれば農地の100倍近い坪単価がつくこともあるので、「おいしい話」だ。土木事業を請け負った土建会社もトクをする。…また日本は土地利用計画が甘いから、めいめいの勝手気ままで転用されてしまう。→ バブル時代の無計画な開発事業は、20年を経た今も、全国各地で塩漬けの低利用の土地を生み出し、地域経済全体の足をひっぱっている。…このように、この「担い手育成事業」は非農業部門の活性化にもならない。…トクをした地権者や土建会社にとっても、それは目先の利益にすぎない。→ 不労所得の存在は、えてして勤労意欲を失わせ、人生をゆがめる。公共事業頼みの土建会社は、早晩行き詰まる。(詳細はP35~41)
・このように公共事業の最大の被害者は、将来世代。→ 「担い手育成事業」の後、やがて蚕食的に無秩序な農地の転用が始まるだろう。それは国土を荒らす。農業に専念できる環境ではなくなり、耕作技能も失われてしまう。…このままでは、荒れた国土と、耕作技能の喪失という負の財産を、我々は将来世代に一方的に押しつけることになる。(※う~ん、これも原発の廃炉や放射性廃棄物の処分と同じような構図か…)

4.農地版「消えた年金」事件

・マスコミや「識者」のいろいろな議論や提案を、すべて無意味にするほど、日本の農地行政は破綻している。…そもそも、どこにどういう農地があって、所有者・耕作者が誰なのかという正確な情報がない。つまり、農地行政の基本になる「農地基本台帳」(いわば社会保険庁の年金記録、市役所の住民票に相当)の記録が、不正確そのもの。(詳細はP43~46)
・この背景には、日本社会における民主主義への誤解が潜んでいる。→ 民主主義には2つの基本要素…①私権(私の権利)の主張で、市民が自己の利益を主張すること、②市民参加で、市民が行政の一端を担う責務を負うというもの。
・私権の主張については、戦後60年を経た今、日本は欧米に完全に比肩する(※う~ん、たとえば労働問題などそこまで行っているか…?)。しかし、市民の行政参加については、日本はまったく遅れている。そもそも、私権の主張と民主主義を混同している場合も少なくない。…市民の行政参加が求められるのは、個々人の身近な問題で、価値観が衝突しがちな問題。その典型が土地利用。
・欧米では、土地利用計画の合意を形成するために住民自身が時間と労力を投入するのは当然のこととして受け入れられている。→ 住民自身が議論を重ねて策定した土地利用計画には、遵守の意識も高まる。土地利用計画に違反しているかどうかも住民同士がシビアに観察・判定し、違反に対しては課徴金や退去要請などを遠慮なくつきつける。←→ これとは対照的に、日本の場合は、土地利用計画の策定も運用も行政任せで、個々人は、お互いに話し合わない。…行政の決定は、いわば「他人が決めたこと」であって、住民自身に当事者意識がない。→ 行政の決定に対して不満があれば行政を攻撃するが、住民自身が土地利用計画の策定や運用には決して関わろうとしない。遵法意識も薄弱になる。→ 誰か一人が違法・脱法行為をすれば、それをとがめるのではなく、「彼がやっていいなら自分もやろう」という、悪の連鎖が起こる。
・我々が、市民の行政参加を欠落させてしまったのは、そもそも日本社会が民主主義をきちんと理解していないことを示している。←→ 欧米では、名誉革命以来の何百年という歴史の中で民主主義を育ててきた。このため、私権の主張と市民の行政参加のうち、どちらか一方のみが突出するということは起きにくかったと思われる。←→ これに対し、日本は、本格的に民主主義を導入してから、たかだか60年程度の歴史しかない。しかも、民主主義を自ら開発したのではなく、基本的には欧米の模倣だ。→ 私権の主張という模倣しやすい部分のみを模倣し、市民の行政参加という模倣しにくい部分をさぼってしまったとみることができる。…また、日本社会は構成員の同質性が高いため、意見をたたかわすという習慣が不足している事情も、市民の行政参加をなじみにくくしたかもしれない。
・農地版「消えた年金問題」における情報管理の杜撰さは、「本家」の社会保険庁の事例にも優るとも劣らない。だが、社会保険庁の場合(職員の怠慢が問題の元凶)とは違って、地権者エゴという問題の元凶が市民の側にある。…市民は、行政の怠慢を批判するのは好きだが、自身が市民としての責任分担を負うのは嫌う。このため、市民は、農地版「消えた年金問題」の存在すら認めたがらない。…かくして、どんどん解決から遠ざかっていく。(※今、「東北被災地の復興計画」で、日本は、壮大な〝民主主義の実験〟を行っている、ということか…)

5.担い手不足のウソ

・〔3年前に農業Ⅰターンで新規就農した20歳代の若い夫婦(農学系の大学卒)の事例〕…町役場の斡旋で、耕作放棄同然の畑地を借りた。所有者は80歳近い高齢者で、長年、農薬を使い過ぎた影響で、Bさん夫妻が農地を借りたときは、地力(土地の生産力)はすっかり失せていた。→ それでも3年かけて農作物が育ちそうなところまで農地を回復させて、漸くこれからだという時に、Bさん夫妻は貸借契約の打ち切りを通告される。もっとも管理に手間のかからない栗園にする予定だという。…どうやら、所有者の子息(将来の相続人)が、Bさん夫妻に農地の地力回復だけをさせて、Bさん夫妻が農地利用の権利を主張し始めないうちに、追い出したかったようだ。(※う~ん、ひどい話だ。ほとんどサギ行為ではないか…)
・マスコミでは、「農業の担い手不足」が報じられる。農業就業者の約2/3が65歳以上の高齢者であり、農地の約10%が耕作放棄されているという現状が、農家の「窮乏」として報じられる。そして「若者や企業などの新規就農を促進しよう」という政策提言に、したり顔の「識者」が解説を付する。…しかし、地権者(農地所有者)は担い手不足で困っているばかりではない。担い手が現れるのを警戒している場合も多い。…極端な場合は、「担い手育成を名目として補助金は欲しいし、マスコミ集めのための数年間限りの農業参入は歓迎するが、決して担い手にはムラに定着してもらいたくない」という場合がある。
・耕作放棄面積の拡大速度では、条件の悪い山がちな場所より、平場の優良農地の方が速い。そういう農地の所有者の中には、節税や宅地などへの農外転用の目的で農地を持っている場合がある。…国土が狭隘な日本では、農村部でも、つねに農地に潜在的な転用需要がある。とくに、優良農地ほど転用への潜在需要は強い。→ 優良農地の条件は、平地で、農地の形状が整っていて、水はけや日照がよく、道路へのアクセスがよいこと(農業機械の搬入や農産物の集出荷など)。→ これらの条件は、まさに、商業施設、公共施設、住宅を建てるときの好条件と重なる。
・優良農地は固定資産税・相続税が減免される見返りとして、転用が規制されていることに表向きはなっている。しかし、転用規制は抜け穴が多い(※日本は〝抜け穴〟だらけ…)。→ とくにここ数年は、法律の条文上は転用規制強化を装う一方(※〝霞が関文法〟!)、運用面で転用を容易化する傾向が進んでいる(※利権を守るための官僚の得意技!)。…適当な転用事業に行き当たるまでは、農業を装って節税し、機を見て売りぬきたい、というのが大多数の地権者のホンネ。
・従って、農地の転用機会を狙っている地権者にとっては、農業に熱心な若者が集落内にいては困る。農業に熱心な人ほど、「土作り」のために同じ農地を継続的に利用することを望むから。…つまり、転用機会に遭遇したら、すみやかに転用するというのが、地権者の最大関心事になる。→ そこで、とことん省力的な農業(稲作や栗、花畑など)を自ら行うか、いつでも返却に応じてくれる人に限って貸し出す。農地を返してもらえるかどうか心配するくらいなら、耕作放棄を選ぶ。
・つまり、高齢化も耕作放棄も困窮を意味するのではなく、地権者の贅沢な算段を意味している場合も多い。もちろん、地権者は、そのホンネを、マスコミや「識者」の前で語ることは稀だ。…人間というのは、おいしい金儲けのネタを隠すために、でっちあげのストーリーを展開することがよくある。それは農家でも非農家でも同じだ。(※う~ん、リアル…!)
・しかし、農家の場合はでっちあげのストーリーが堂々と通用するという特徴がある。…農家にはノスタルジックなイメージがあって、「農家は純朴で善良」と決めつけがち。→ 農家が、「担い手不足で困っている」という定番の答えをすると、マスコミや「識者」によって同情的に取り上げてもらえる。うまくすると補助金も引き出せる。
・表向きは、どの市町村でも若者の新規就農者を歓迎する。確かに最初の数年間は褒めそやされる。…しかし、決して、新規就農者には「おいしい金儲けのネタ」には触れさせない。

6.「企業が農業を救う」という幻想

・「これは作物の虐待だ」…異業種の農業参入で注目を集めているC社とD社の農場を一見して感じた。とにかく、生育不良そのもの。にんじんなり枇杷なりが生えてはいるが、素人目で見ても弱々しくみすぼらしい。だいたい、その地域の気象や地質と作物の相性を全然考えていないのではないか。
・「民間企業のノウハウを使えば、よりよい農業がビジネスとして成立する。それは食料自給率低下に悩む日本国の国益にもなる」と語る経営者。…こうした企業は、耕作放棄地の復元や若者の新規就農の支援を実現する、社会的正義の担い手であるかのように報道されている。…だが、そういう記事を書いている記者たちは、農地の現状把握についてはろくに取材していないのではないか。
・企業が農業参入するというだけで、マスコミが大々的に取り上げてくれる。しかし、その多くは赤字続きだ。…都心の植物工場で人目をひいている事例があるが、これも膨大な資金投入で支えられているのであって、ビジネスモデルとしては異様だ。
・なぜか農業に関しては、参入や連携をするだけで宣伝効果を持ってしまう。→ 宣伝効果を最大限に発揮するためには、新規参入企業の農産物の品質は粗悪でも構わない。先述のとおり、いまの消費者は農産物の品質自体ではなく、「能書き」などの周辺材料を重視する傾向が強いから。→ 宣伝や演出の戦略にあわせた農業生産をさせるためには、経営者の意のままに生産現場を動かしたい。→ つまり、農業生産の現場では、なまじ耕作技能はないほうがよい(耕作技能がある農業者ならば、農地の状態を最優先にして作物や農法を選択しようとするから、経営者の意に沿うとは限らない)。実際、C社やD社の元労働者の話を聞くと、まともな耕作技能の訓練を受けていないよう。→ 現場の農業者を未熟なままにしておきたいのだ。
・要するに、そういう企業は農業ではなく広告をしたいのだ。アルバイトや派遣社員の感覚で人を雇って農作業に従事させ、「見世物」の農業をしている。→ しかし、そんなことを何年やっても、農業者の技能は上がらない。そんなやり方では、農業の担い手育成にはむしろ逆行するのではないか。
・「新たな動き」の虚構は、C社やD社に限ったことではない。近年の日本社会では農業を美化して、「新たな動き」の可能性を議論するのが大流行だ。「農商工連携」「六次産業化」「地産地消」「ハイテク農業」「半農半X」「食育」「定年帰農」…様々なスローガンが作られ、それらを提唱することがインテリの証明という雰囲気がある。しかし、威勢のよいスローガンが乱発されるときは用心したほうがよい。それは、戦前・戦中の経験から明らかではないか。(※う~ん、まとめて一刀両断か…それぞれ内容が違うので、ちょっと無理やりな気もするが…)

7.「減反悪玉論」の誤解

・減反政策の撤廃を求める声が巷間ではにぎやかだが、この議論は重大な事実を見落としている。それは、今の日本には文字通りの減反政策は存在しないということ(詳細はP59~60)。
つまり、2004年の食糧法改定によって、文字通りの減反政策は終了した。
・今のペースでコメの消費が減少すれば、2020年には水田の6割は不要になるという推計もある(※『炭水化物が人類を滅ぼす』なぞという本もベストセラーに…)。…2004年以降は政府が積極的な関与から手を引いてしまっているのに、6割もの生産調整をするのは不可能。→ つまり、現行の生産調整政策は、「識者」が批判しようとしまいと、早晩、全面崩壊が見込まれる。…問題は、その後だ。供給超過になって米価が大幅に下がるのは明白だ。かなりの混乱が予想される。→ だから理念論として減反反対を言ってもあまり意味がない。むしろ、生産調整破綻後をどうするかを議論する方が大切だ。(※TPPどころではない…?)
・なお、生産調整については、理念と実態の乖離が二つの面で起きている。①生産調整を書面上だけ申し出て生産調整補助金を受給し、実際には生産調整をしていないケースが散在している。…JAの弱体化によって、そういう不正をチェックできなくなっている。②すでに水田には戻らない状態まで畑地化していながら、補助金を受給しているケースがある。→ どういう政策が望ましいかを理念として議論するよりも前に、運用面での具体的問題こそ議論が求められる。(※う~ん、先のズサンな「農地基本台帳」の問題といい、日本の農業は基本的な土台の部分からグラグラの状態か…?)

8.「日本ブランド信仰」の虚構

・マスコミでは「日本の農産物は安全安心で高品質」とか「日本の農産物が中国はじめ世界各地で大人気」というたぐいの報道が氾濫している(福島原発事故による放射能漏れが起こるまではとくに顕著だった)。…だが、そういう報道にどれだけの根拠があるのか? 舌が愚鈍化した日本人に農産物の安全性だの品質だのがわかるのか?
・中国はじめアジアの近隣諸国の追い上げにあって、日本の商工業(家電など)はすっかり沈滞している。価格だけでなく品質面でも、着実にアジア諸国は向上しており、日本ブランドは揺らいでいる。…こういう中にあって、何かで国産品の優越を誇りたいという心境の捌け口が、国産農産物礼賛につながった可能性がある。(※う~ん、一定の説得力あり…)
・高品質やエコ志向の農産物の生産・販売に、高所得国は有利だ。…低所得では消費者の関心は農産物の量的確保に向かいがちで、品質や環境保全を言っている余裕はない。→ 高所得の人口がまとまって存在している日本だからこそ、高級農産物への需要がある。また、高級農産物の流通のためには、コールドチェーン(低温流通体系)など高度な流通インフラが必要で、これもまた、高所得国でなければ実現は難しい。
・しかし、中国はじめ経済成長目覚ましいアジアの隣国は、急速に所得水準を高めている。→ アジアで膨張するニュー・リッチが、当面、手っ取り早く質志向の農産物を手に入れようとすれば、日本産が魅力的に映るかもしれないが、そういう日本産への人気は一時的なものと見るべき。…農産物においても、家電の場合と同様に、品質面でも追いつき追い抜かれるのは時間の問題と考えるべき。また、遠からず流通インフラも整うだろう。
・すでに、原発事故以降、シンガポールなどの従来の日本産農産物輸入国に中国などが攻勢をかけている。…日本国内でも中国産農産物が国産と偽装されて流通するという事件が発生しているが、実際、それらの中国産農産物は品質面では国産と区別がつかない。
・安全基準についても、国産品に懸念がある…日本の保健所は、発がん性や食味に問題があっても、防腐効果の強い処理(ex. 加工食品へのソルビン酸カリウムの添加)を指導する傾向がある。→ 日本人が見た目を気にすることに加え、日本人の行政依存が高いので(※ここでも「お任せ民主主義」…)、O157などによる食中毒といった「目に付く脅威」を減らしたい、という意識が保健所にあるからだろう。…また狂牛病対策でも日本の対応には疑念がある。〔詳細はP65。…また狂牛病については『もう牛を食べても安心か』福岡伸一(文春新書)もある…〕
・野菜の農薬や牛肉の成長ホルモンの残留基準でも、日本は先進国の中では決して厳しいとはいえない(※本書では、農薬に関しては久松氏よりシビアなよう)。とくに成長ホルモン注射は人体への悪影響が懸念されているが、確実に牛を太りやすくさせるので、農家にとっては「禁断の手段」だ。日本では成長ホルモン注射への注意が薄いのではないかと危惧している。最近、国内の去勢のホルスタイン飼育で成長ホルモン注射が増えていると言われる。→ 少なくとも、イメージ論で国産品を礼賛するのは危険だ。
・〔京都大の白岩立彦氏(作物学)の日米比較研究より〕…品種や気象の違いなどを勘案しても、日本の大豆の土地生産性は低い。米国など他の先進国の大規模農業でも、日本では滅多にお目にかかれないほどきめ細かな栽培管理をしている場合が少なくない。→ 日本の農家の耕作技能は、一般に日本人がイメージするほど高いとは限らない。(※う~ん、国産大豆が良いとは限らないのか…)



【2章】農業論議における三つの罠

1.識者の罠

・一般に「学がある」と自任している「識者」がひっかかる罠。(著者自身の経験)…「農業ブーム」のせいか、2008~2010年あたりにテレビやラジオに出演する機会が少数ながらあった。その際に感じたのは「マスコミに出続けたい病」の怖さ。→ 一度、マスコミと縁ができると、政界や財界や官界のトップが持っているような情報を持ってきてくれる。そうなるとますます「識者」らしくテレビやラジオで振舞えるようになる。マスコミの方としても、自分たちの意図したような意見を「識者」に言わせることができるから安心だ。(※う~ん、これが「御用学者」への道か…)
・この作戦は、商工業の問題を論じるときには効果的。…商工業では、一般の労働者は特定の作業を分担(分業)しているだけだから、全体像がつかめない。→ 政界・財界・官界のトップが持っているような情報は、問題や解決策を論じるときに有用。
・ところが農業問題の場合は事情が異なる。…農業の場合、農地が生産活動のすべて。従って、政界や財界や官界のトップが持っているような情報をいくらかき集めても、どういう問題が生じているかは検討がつかない。→ 農業団体の役職員でも、団体活動などで農地から遠ざかると、あっという間に農地の様子に疎くなる。しかも、農業の財務会計は商工業ほどには規格化・透明化されていないため、外部からの経済実態の把握は難しい。
・農学を専攻している農業試験場や大学の研究者でも、耕作の実態について語ることはできない。…製造業が工場という人為的制御が効きやすい環境にあるのとは対照的に、農業は自然という人為的制御が効きにくい環境での生産活動であるため、科学者の知識では対処できない部分が多い。→ 要するに、農業問題の場合は、実際に耕作している者にしか何が問題なのかがわからない。←→ しかし「識者」は、本格的な農業生産には携わらない。
・野良に働く者の心情として、(野良を知らないくせに農業について語る)「識者」に対して猜疑心や警戒心をいだく可能性。→ 農政についてあれこれと発言する「識者」は多いが、彼らのほとんどは耕作については「素人」だ。…おそらく農業ぐらい「素人」が「識者」になってしまっている領域は珍しいのではないか。
・「識者」は野良がわからなくても、「識者」らしく振舞おうとする。「マスコミに出続けたい病」にかかっていれば、なおさらだ。→ そこで、「識者」がひねり出すのが、先述したようにスローガンに頼るという方法。…耳あたりのよいスローガンだから、聴衆・読者も心地よく聞き入ってくれる。→ かくして「識者」は耕作を語ることなく「識者」であり続けることができる。(※少なくとも農業に関しては〝耳あたりのよいスローガン〟には気をつけろ…?)

2.ノスタルジーの罠

・農業問題を語るときに陥りがちなもう一つの罠が「ノスタルジーの罠」。…都市住民は自然から離れ、農業からも離れている。そういう距離があるからこそ、農業や農家を美化する。…「食べ物を作ってくれる聖なる職業」とか「自然に囲まれた人間らしい生活」…そして情緒的に「日本農業を守れ」と主張する場合も少なくない。
・しかし、農家が貧しいとか純朴だと信じる理由はない。零細農家というといかにも貧しそうな印象を持たれがちだが、その多くは年金やサラリーマン兼業で安定的な収入を得て、都市の同世代よりも総じて恵まれている。…ex. 世帯員一人当たり所得で農家は勤労者世帯よりも15%程度高い状態が1980年代以降、続いている。…都市居住者の多くが借家暮らしをしたり、住宅ローンを負っていたりするのに比べ、農家は農地や自宅などの資産を持っている点でも恵まれている(それらの相続税負担も高くない)。…先述のように、農地がらみの錬金術だの、補助金の不正受給だの、邪な金儲けのネタは農業に多くころがっている。そもそも、農家といえば地権者であり、土地の希少な日本では地権者は往々にして強欲だ。
・「美しい農家像」に固執するのは危険だ。かつて戦時体制期の日本では、日本人や日本文化をやたらと美化した。→ その結果、美しくない日本人は「非国民」のレッテルを貼られ、美しくない芸術は「退廃」のレッテルを貼られ、殲滅の対象となってしまった。…「ノスタルジーの罠」に嵌ってしまえば、本人は農業の味方をしているつもりかもしれないが、むしろ農業を殲滅する側に近いと考えるべき。(※う~ん、厳しくてクール…! しかし、ここまで書いてしまって、ゴウド先生、今後、農業視察などに支障は出ないのか…?)

3.経済学の罠

・経済学の教科書は、政府の介入などを排除し、企業の自由な競争に委ねれば、生産効率は最高になると説く。…「経済学の罠」は、この経済学の教科書で学んだことを、そのまま農業に当てはめようという発想。
・この「経済学の罠」に嵌っている人たちは、「官僚や業界団体さえやっつければ、日本農業は劇的に強化され、国際競争力も強化され、農業は成長産業化し、輸出産業にもなる」という論理展開を好む(※アベノミクスもこれか…?)。…小気味のよいこういう主張は「攻めの農業」としばしば表現される。→ そして、農業保護を説く人たちを、改革を拒む守旧派と見立てる。→ かくして「攻めの農業」の論者の自由貿易論と、ノスタルジックな農業保護派による保護貿易論が対峙するというお決まりのパターンが産まれる。…しかし両者は、農業を野良から遊離した理念で語っている点では同類だ。

4.罠から逃れるために

・上述の三つの罠から逃れるための最善の方策は、農業とは何かの根本に立ち返ること(※これは何事においても言えることだろう…)。→ 農業とは、食用の動植物を生育すること。このシンプルな事実に忠実に議論すれば、罠に陥ることなく、稔りのある議論ができる。
・動植物の生理にはいまだに人智を超えた部分が膨大にある(※福岡ハカセも何度も言及…)。ましてや、農地という制御困難な自然環境で動植物を飼育・栽培するのは容易ではない。地形や気候によっても農業のあり方は大きく異なる。…工場という人為的な環境で規格化された商品を生産する工業と比較すれば、農業は自然の摂理に大きく影響される点に特徴がある。
・よい農産物とは、健康的に育った食用の動植物。→ 健康的に育てば、栄養価も高いし、食味もよい。…健康的ということは農地の自然環境と融和していることを意味するから、環境保護にもなる。(※食味と環境保護は両立する…)
・しかし、(にわか勉強の)素人の農法では、動植物は健康的には育たない。食用の動植物を健康的に育てるのは、本読みでできるような生易しいものではない。→ 健康的に農産物を育てるためには、十分な訓練で技能を培い、不断に農地を観察しなければならない。


【3章】技能こそが生き残る道

1.技能と技術の違い

・「技術」と「技能」の違いを一口で言えば、「マニュアル化できるか」。…近代の工場労働(大量生産)では、労働者はマニュアルに沿って作業をすれば、製品を作ることができる。…労働者は、独自の判断や行動は不要。→ 新たな技術が生まれれば、それはマニュアルの変更として表現される。←→ 大量生産の工場と対極をなすのが町工場。…どういう製品をどういう製造過程で作るかについて、おおまかな方針はあるが、常に臨機応変に判断し行動しなくてはならない。…この対応能力が技能。→ 技能はたぶんに職人技であり、科学知識とともに、試行錯誤の経験によって個人的に獲得しなければならない。
・この「大量生産工場のマニュアル化された技術」と「町工場のマニュアル化できない技能」という対比は、「スーパーのパート労働者が作るパック寿司」と「専門店で板前が握る寿司」という対比になぞらえることができる。…このたとえ話は、どちらが正しいとか価値があるということではなく(両方が並存して、消費者の必要に合わせて提供される状態が望ましい)、技術と技能のどちらが重視されるべきかも、目的に応じて変わる。
・18世紀の英国の産業革命は、生産過程を細かい工程に分解し(分業)、それぞれの機器を導入することで、技能のない労働者でも生産ができるようにした(きわめて効率的なシステム)。→ ところが、このような生産工程の分断は、労働者の技能を低下させる。
・従来、ひとりの職人が全工程をこなすことにより、自分の理解力や創意を発揮できた。←→ ところが工程の分解は、従来は職人が担っていた作業を、技能を要しない単純労働に置き換える。…つまり、分業が高度に展開した結果、機械化による技能の解体が行われた。
・19世紀の米国で徹底した分業化・機械化が行われ、「アメリカ型製造システム」へと昇華。それは互換部品の導入で特徴づけられる。→ (その負の側面)…必要なノウハウを技術者に集中させ、工場労働者にはとくに技能を要求せず、労働をも互換部品と同じように扱うようになった(※チャップリンの「モダンタイムス」)。…いわゆる労働の「商品化」。(詳細はP81)
・製造業の場合は、労働を「商品化」し、技能が低下しても機械で補うことができる。また、新たな技術開発のための専門部署が設置され(生産現場と研究開発の分離)、持続的な生産性上昇が可能となる。
・もちろん製造業においても、マニュアル化が困難で、職人的な技能を求められる場合もある。ex. 高級楽器や高級時計の職人や工作用機械の金型作り(東大阪市や大田区の町工場地帯)など。……しかし今日の日本では、徒弟的な修業が嫌われる傾向があり、技能の継承が進まず、いまや日本の町工場地帯の存続が危ぶまれている。…長年、日本の製造業の競争力を支えていたのは町工場の技能。→ 町工場とともに技能が日本から消え去れば、日本の製造業そのものが危機に瀕する。(※日本の農業も、ということか…?)

2.農業と製造業の違い

・自然という、人間の予想を超えてうつろいやすい環境のもとで、的確な措置によって健康的に動植物を生育させる能力こそが農業における技能。
・(名人農家の言)…「経験プラス知識が大切」→ もしも試行錯誤や科学知識がないならば、農業者が何年農地で働いても、耕作技能は形成されない。……農業は自然という人間のコントロールが働きにくい環境で行われる生産活動。→ 単なる生産活動の全体のみならず、自然の摂理に対する理解力が必要となる。…このため、農業の技能養成のために必要な試行錯誤や科学的知識は、製造業よりも幅広い。
・また、農業と製造業とでは、エネルギー源やその使い方が大きく異なる。…農業生産を支えるのは、天の恵みの太陽光エネルギー。→ 光合成によって炭水化物が形成されることで作物が育つ。…農業生産といっても、生産しているのは人間ではなく植物であって、人間は植物の手伝いをしているにすぎない。(※「植物工場」の場合は、太陽光の代わりに「照明」…)
・太陽光エネルギーは無料で降り注ぐが、どの程度のエネルギーになるかは気象次第だし、刻々と変わる。このため、太陽光エネルギーの状態に人間が労働を合わせなければならない。また、どの農地にもほぼ均等に太陽光は降り注ぐので、大量生産(営農規模の拡大)の経済性ははっきりしない。←→ これに対し、製造業で主に使われる化石エネルギーは、人間がエネルギーの発生量を制御する。その際、大がかりな構造物を作るほど、エネルギーが効率的に取り出せる傾向。…これが製造業における大量生産の利益。
・機械の導入の意味も、農業と製造業では大いに異なる。…機械を効率的に動かすためには、環境が固定していることが望まれる。ところが、農業は農地という人為的に環境制御ができない自然環境のもとでの生産活動。→ このため技能の低下を機械によって補うのには限度がある。
・このように、製造業の場合と異なり、農業の場合は、分業化・機械化が進んでも、収益が上昇するとは限らない。→ 分業化・機械化が進んだ欧米でも、政府の補助金なしには成立しないのが現状。…にもかかわらず、日本でも、欧米でも、農業の分業化・機械化は不可逆的に進行してきた。(※「植物工場」の問題点も、この採算性と、「動植物の生理の人智を超えた部分」か…?)
・かつては、農家は自給自足的で自己完結的だった。…農家自身で消費するために穀物も野菜も家畜も育て、肥料や飼料などの投入資材(中間財)も自給していた。→ しかし、経済発展とともに、農業者は作目をしぼって販売目的で生産するようになる。…自給中間財も購入に切り替える。また、農業労働も可能な限り機械に置き換えられる。
・農業で分業化・機械化が進む理由は、労働の「商品化」という製造業で起きた現象が、社会全体に伝播し、農業にも変容を余儀なくさせるため、と解釈すべき。→ 労働の「商品化」は、それまでの社会の価値観を一変させる。…20世紀は製造業(とくに重工業)が飛躍的に成長した時代であり、製造業に適合した人的資源を養成するべく、法制度や学校教育など、社会システム全体が労働の「商品化」に向かって変化する。
・製造業の発達のために社会全体の労働の価値観を変える装置は様々あるが,その典型が学校。…学校は、近代社会が生み出したかなり特異な空間・時間の管理の仕組みとして認識するべき。――「近代社会で必要な知識教授と集団的規律訓練の場として、学校は制度化された。学校は子どもを社会生活からある程度引き離し、強制的に囲い込んだ空間だ。学校の肥大化は、やがて社会が学校で修得したことによって成り立つ(学校が社会を規定する)転倒した様相さえ呈することもある。これを『学校化社会』といってもよい。この20世紀は確かに『学校教育の時代(世紀)』だったのである」(辻本雅史)―― 近現代の学校は、労働の「商品化」を教え込むための社会的装置とみなすことができる。→ 農家の子弟も近代学校に通うことで、労働の「商品化」の感覚を身につける。また、テレビなどの電気製品の普及も、人々に無機的な時間の感覚を覚えさせ、時給など近代的な労働の概念を導入し、労働の「商品化」を推進する。(※このような近代の教育制度を相対化するような視点を、改めて再確認しておくことは、この閉塞的な状況下にあって、大事なことと思われる…)
・つまり、製造業の成長が労働の「商品化」という労働市場の変化をもたらし、その労働市場の変化が農業に波及し、農業生産性を高めるか否かとは無関係に、いわば「玉突き」的に農業においても生産プロセスの分業化と機械化が進む。
・農業における生産プロセスの分業化・機械化は、農業者の技能低下をもたらす。それと同時に、農業機械メーカーや種苗会社といった、農業者以外の業者(の研究開発部門)に生産技術の多くを委ねることになる。農業は大規模化したところで商工業に比べれば高がしれており、自前で専門の研究開発部門を持つことはないから。(※農業者の労働者化…?)
・ただし、農産物の品質を高めるためには、農業者以外の業者が開発した技術を、農地の条件に合わせて調整しなければならない。…農業機械メーカーや種苗会社は、標準化した環境を想定して技術を提供するが、農地条件は千差万別であり、当該農地に応じてどういう調整をするかは農業者自身で判断しなければならないから(※ここが工場労働者とは異なるところか…)。→ 農業の技能が維持されていれば、独自の調整を農業者以外の業者が開発した技術に上乗せできる。…しかし、技能がなければ、製造業の現業部門と同様に、農業機械メーカーや種苗会社のマニュアルに盲従することになり、農産物の品質悪化や気象変動への脆弱化を引き起こす。(※今の日本農業の現状は、圧倒的に後者の方、ということか…)

3.日本農業の特徴

・自然条件…ユーラシア大陸の東側のモンスーン地帯に位置し、多雨と山がちな地形が日本の特徴。…ex. 日本の年間降水量は1728ミリに対し、欧州きっての農業国・フランスは750ミリにすぎない。また、日本の国土は平地が33%だが、欧米の主要国は70%以上。
・植物は、地中から根を通じて養分を吸収し、老廃物を地中に吐き出す。→ このため、同じ土地に同じ農作物ばかりを育てると、土壌の成分がバランスを失い、植物の病気や害虫が発生しやすくなる。…これは連作障害と呼ばれ、欧米農業の最大の頭痛のタネ。→ 欧米では、長い農業の歴史の中で、休耕、輪作、農薬の投入など、連作障害を抑えるための努力が行われてきた。(※なるほど、当方にとっては新鮮な知識…)
・これに対し、日本の稲作では水田という特殊な生産装置のおかげで、農薬に頼らなくても連作障害を抑えることができる。…日本では限られた平地に水田を作り、ゆるやかな傾斜を使って、上の田圃から下の田圃へと、順々に水を送る。この流水が、上流部から養分を運び込むとともに、老廃物を洗い流す。→ 従って、毎年、水稲を育てても、土壌の成分が崩れずにすむ。(※う~ん、新鮮だ…)
・この水田という生産装置は、集落全体での協調が不可欠。…山がちな地形のために降水は放っておけばすぐに海洋に流出してしまい、水資源として利用できない。→ 灌漑設備などを構築し、集落全体で水の利用のルールを作る必要性。つまり、水は集落の共有財産。
・単純な個人主義が通用しない点では、土地利用も同じ。→ 一部の農地で駆虫や除草を怠って病害虫を発生させれば、容易に周辺の農地にも伝播する。→ いくら個々に有能な農業者がいても、集落内に不適切な土地や水の利用をする者がいれば、その能力は発揮されない。…つまり、日本農業では、技能の養成のためにも、集落の秩序が必要。
・さらに、堆肥を使った「土作り」の発達も日本の特徴。…「土作り」とは、土壌の生物的特性・物理的特性・化学的特性を農産物の生育に適合した状態にすること(※まさにリンゴの木村さんが悪戦苦闘したこと…)。→ 「土作り」の肝は堆肥(畜糞をおがくずなどの炭素源と混ぜ合わせて発酵させたもの)。…いろいろな種類があり、堆肥作り自体が熟練を要する。さらに、どういうタイミングでどれくらいの堆肥を鋤きこむかも熟練を要する。→ 「土作り」がきちんとできれば、水稲はもちろん、畑作物でも連作障害は大いに緩和される。
・堆肥作りには、四つの分野に「精通」する必要。…①農作物の生理、②糞を出す家畜の生理、③山の植生…炭素源としておがくずなど木の性質、④土…堆肥を施す土壌の物理的・化学的・生物的特性。→ ここでいう「精通」とは、教科書的な知識だけでは足りない。…工場や実験室とは異なり、自然環境は多様でしかも不断に変化する。→ 日常的に動植物に触れ、土や山の気配を体得しなければならない。…農業者には自然に対するカンが必要。
・伝統的な農業では、家畜を飼養し、稲作も畑作も手がけ、山仕事にも従事していたので、とくに農業者が意識しなくても自動的にカンを養うのに好適だった。…また、味噌などの発酵食品を自家生産していたので、発酵に関する経験知があった。→ 堆肥づくりでは、発酵の進み具合を臭いや手の感触で確認するが、これは味噌づくりとも共通する技能。…発酵食品は多湿なアジア・モンスーン地帯で食料を保存するための知恵として生まれたものだが、それが「土作り」にも活きる。
・しかも、日本の場合は山がちな地形に大量の降水があるため、水系が短いことが、カンを養うのには好適になる。ex. ベトナムや中国の水系はあまりにも長く広大(揚子江やメコン川)。→ 下流の人間には水位がなぜ変化するのかが実感しにくい。←→ 日本ならば、ひとつの集落にいながら、体系的な自然の動きを整合的に体感できる。(※里山的自然…)
・また、日本ではわずかな緯度の差でも日本海側と太平洋側とでは気象条件が大きく異なる。これは地球全体の中でもかなり独特。…この気象条件のばらつきこそが、日本農業の固有の強みにもなりうる。→ 技能を高めるためには、個人単独の努力だけではなく、微妙に異なる内容を持った技能を持つ農業者同士の交流が効果的(詳細はP92~93)。…農業の技能は、単に平均的に生産性を高めるだけではなく、収量変動を小さくする。技能のある農家は、農地の変化を鋭敏に発見して早めに対処できる。そもそも「土作り」ができていれば、気温や降雨で予想外のことがあったときにも、作物の抵抗力が強い。

4.欧米農業との対比

・欧米と日本では、農業と自然環境の関係にも差異がある。…欧米で農業を熱心にすると、連作障害のおそれなど、自然環境への負荷を高める。→ 従って欧米では、自然環境を守るためには、面積当たりの家畜の飼養頭数を減らしたり、休耕したり、施肥を抑制したりして、人間が働くことを減らす必要。→ 働くことを減らせば、その分収入が減るので、欧米では環境保護的な農業に対して補償金が支払われない限り、採算があわない。…欧米でも有機(オーガニック)農法で栽培したと認証された農産物にプレミアムがついて売られる傾向があるが、これは食味に対してというよりも、環境保護的ということに対する消費者の賛同という意味合いが強い。(※久松氏は、環境保護のための有機農業には、否定的だったようだが…)
・これに対して日本では、耕作を放棄したり、間伐をやめたりといった働きかけの減少をすれば、かえって自然環境を破壊する。…肥料や農薬の過投入も自然環境を破壊するが、逆に放置も環境には悪い。→ 日本では雑草が繁茂しやすく、常に人間が水路などを除草しておかないと、少しばかりの大雨で破壊的な氾濫が起きかねない。…人間が山に入って腐葉土を採取したり、燃料や建材や自家製農具の材料用に立ち木を適度に伐採してこそ、鹿やいのししなどの野生動物は生活のためのスペースや、餌となるような小木の芽吹きが毎年得られる。
・近年、農家が、山仕事をせず、間伐をしなくなった結果、山林が根の張りが悪い樹木で過密状態になり、野生動物が住処を失ったり、降雨時に地滑りが起きやすくなったりという自然環境の損壊がおきている(※う~ん、里山の放棄か…)。…欧米の農業は必然的に自然破壊的なのに対し(※う~ん、本書の記述だけでは、説得力がいまひとつだが…)、伝統的な日本の農業では、農家の人為的働きかけがあってはじめて自然環境が維持されてきたのは特徴的。(※こちらの方は、ほぼ納得…)
・このように、日本の場合は、自然環境によい農業をするということと、健康的に作物を育てるために熱心に働く(※栄養豊富で食味も良くなる)ことが、同時に成立する。→ 従って、もしも消費者に農産物の食味を正しく判定する能力があれば(現状ではこれが悲観的だが)、とくに環境保護的といった認証制度を導入しなくとも、高値で農産物が売れて、採算性も合うはず。〔※これとはまた逆に、先日テレビで、省力化のための「乾田直播」の試みが、好意的に報道されていたが、大型機械と除草剤を使った(技能不要の)工業みたいな農業だった…〕

5.技能集約型農業とマニュアル依存型農業

・農業のあり方について、マニュアル依存型農業と技能集約型農業に分類してみると、両者の違いは技能を重視するかどうか、あるいは作業内容が定型化されるかどうか。→ 技能集約型農業では、農地の状態次第で、臨機応変に非定型で作業内容を変える。←→ マニュアル依存型農業では、農作業の徹底的な定型化を図る。…これにはいろいろなバリエーションがありえる。ex. 畜糞由来の有機物をとにかくまけばよいという類の「名ばかり有機栽培」もマニュアル依存型農業。…週末だけ農業のサラリーマン兼業農家の多くで、お決まりの高価な農業機械を買い揃え、JAの作業歴に忠実な農業がみられるが、これもマニュアル依存型(化石エネルギー多投入型小規模)農業。…昨今、企業の農業参入でよく見られるのは、資金力にものをいわせて、農業機械などを買い揃え、植物工場や農業ハウスを建設したり、大面積の耕作をしたりするのも、マニュアル依存型(化石エネルギー多投入型大規模)農業。
・これに対して、技能集約型農業は総じて小規模で化石エネルギーへの依存も低い。→ その分、知識や経験など、人間の能力を必要とする。…自然環境をつぶさに観察し、「土作り」など熟練の技を投入して、健康的に動植物を育てることに徹し、特級品の農作物を作って高く売るという方向(※ほぼ久松農園の路線か…)。→ 肥料や資材の購入を極力減らして(※農協は困る)、自家製にするが、これは経費節減だけではなく、自家製のものをあれこれ工夫する過程で、作物の性質に関する知識をさらに深める機会にもなる(※農業がさらに楽しくなる…)。
・ただし、技能集約型農業は、自給自足的な古いタイプの(牧歌的な)伝統的農業とは明確に異なる。…古いタイプの伝統的な農業では、それぞれの地域の先達のやり方をなぞることが中心で、新たな知識や方法の上乗せはあまり要らない。
・しかし、市場経済が発達した今日、農産物に対する消費者の嗜好は移ろいやすいし、バイオテクノロジーの発達で次々と新品種が開発される。→ このような状況で、技能集約型農業の場合も、新たな作物や栽培方法につねに取り組まなくてはならない。…ex. 原産地の気候を調べて新品種の癖をつかむとか、新たな資材の工学的特徴を調べて使い方を工夫するとか(P98~99に、技能集約型農業のモデルとしてMさんの事例)。
・我々は、福島原発事故の背景には、首都圏に経済活動が集中し、そこで巨大なエネルギー消費が行われるという国土利用の歪みがあったことを忘れてはならない。→ 機械や装置に頼ったマニュアル依存型の大規模農業を推奨するのではなく、技能集約型農業を推進することこそ、原発事故に対する反省だ。(※「里山資本主義」にも通じるか…)
・だが、ここで注意されたいのは、マニュアル依存型農業と技能集約型農業は、必ずしもつねに競合関係にあるのではなく、補完関係になる場合もある、ということ。…それは「スーパーのパック寿司」と「板前の寿司」とが補完関係にあるのと同様。(詳細はP100~101)
・ただ、今やマニュアル依存型農業の増殖が激しく、技能集約型農業は消失の危機にある。→ いかにして、技能集約型農業を残すかが、政策の最重要課題と考えるべき。
・厳密にいえば、マニュアル依存型農業と技能集約型農業に加えて、趣味型農業もありうるが、それが一部の報道(NHK「クローズアップ現代」)に見られるような将来の日本農業を支える、というのは考え難い。(詳細はP101~102。…P101に「農業の3類型」の図表あり)

6.技能こそが生き残る道

・日本農業の本来の強みは、技能の練磨。従って、技能集約型農業こそが、日本農業の生き残る道。…それは、農業経営の収益性はもちろん、社会的利益という点でも様々に好ましい特徴を持つ。
①環境に融和的に健康的に育てるので、健康増進や環境保護という点で好ましい。
②土地面積当たりの労働需要が高まり、農村部の雇用拡大にもつながる。→ この雇用拡大効果は、脱工業化時代の日本にとって、農業のみならず社会全体の活力を高める可能性がある。…かつての高度経済成長期の工業化の局面では、人口が都市に集中し、大量消費・大量生産を進めることで経済成長を遂げた。→ しかし、脱工業化時代の今日にあっては、首都圏一極集中を改め、地方文化を育てて日本社会を多様化する方が有利。…ソフトの開発能力が国力の浮沈の鍵を握る。→ それには画一的発想の打破という創造的破壊が不可欠であり、そのためには、常に様々な価値観や文化を社会に共存させておく必要がある。…農作業のあり方は地域の気象や地形を色濃く反映するため、農業者は地域への意識が強くなりがちで、地域文化の担い手としても好適。→ 従って、農業のみならず、国内の文化の多様化を通じて、脱工業化時代の日本経済全般の活性化に役立つ。(※これらは「里山資本主義」にも通じる、というよりほとんど同じ…)
③地球温暖化による異常気象の頻発が予想される中、気象変動に強い技能集約型農業の有用性はますます高まる。→ 農業のバリエーションが拡がり、気象による豊凶変動の緩衝になる。←→ マニュアル依存型農業ではバリエーションも少なく、気象による豊凶変動が極端に振れやすく、社会全体に悪影響を与えかねない。
④日本の耕作技能は、国際的な有用性が高い。…ex.アジアを中心に新興国で肉の需要が拡大 → 日本の堆肥づくりの技能が必要とされている。…密度の高い多頭飼育が増えるので、畜糞をきちんと処理しなければ水質汚濁などの自然環境の破壊が危惧されるから。…また、途上国では人口増加が続いており、可耕地が限られている中、反収を上げることが必要。→ 畜糞を堆肥化して自然環境と融和的に反収を引き上げるという日本農業の耕作技能が有効。…その上、世界的な異常気象の中で、気象変動への耐性という点でも、技能集約型農業は魅力的。しかも、機械への依存度が低いので、手持ち資金が少ない途上国の農業者に好適。…化石エネルギーの節約という国際社会全体の課題にも合致する。(※う~ん、いいことづくしか…)
・日本農業は、生産の増大を目指すのではなく、耕作技能の養成を目指すべき。技能集約型農業が育ってこそ、日本農業の強化にもなるし、日本経済全体、さらには国際経済全体にとっても好ましい。→ せっかく日本は技能修練に適した自然条件・社会条件が整っているのだから、日本を耕作技能の発信基地化して、将来を担う海外の農業者たちが、耕作技能の習熟のために、次々と日本に訪れるという姿が望ましい。それと同時に、日本で技能を身につけた農業者が、海外に栽培指導に出向くという姿が望ましい。(※リンゴの木村さんは、すでに海外でも栽培指導をしているらしい…)

7.貿易自由化と日本農業

・貿易自由化の二つの選択肢…①環太平洋の先進国(米国,カナダ,豪州)との農産物貿易自由化、②モンスーンアジア諸国との農産物貿易自由化。→ ②については、日本農業の省力化が、生き残り戦略の一つになり得るかもしれない。つまり、日本政府(およびマスコミや「識者」)が推進中のマニュアル依存型大規模農業の路線。(詳細はP106)
・ただ、長期的にみて環太平洋の先進国との農産物貿易自由化を拒否し続けるのは政治的にも経済的にも不可能。→ 米国、カナダ、豪州は、まさにマニュアル依存型大規模農業に優位を持つ国々。…日本がまともにマニュアル依存型大規模農業で競争しても勝ち目はない。なにせ、これらの国々は地形が単純で大型機械が動かしやすいし、移民などの安い労働力も手に入れやすいから。
・マスコミや「識者」は(※今や政府の御用機関?)、企業の農業参入を日本農業の国際競争力の強化策として礼賛する。…しかし、先述のとおり、企業の農業参入は往々にしてマニュアル依存型大規模農業。→ 早晩、貿易自由化が予想されるとき、米国や豪州が得意とするマニュアル依存型大規模農業の路線に突き進むのは、わざわざ将来のショックを大きくするようなもの。(※う~ん、説得力あり…)
・この点、技能集約型農業は、アジアに対しても、環太平洋先進国に対しても、優位を持つ。既述のように、日本の気候・風土は技能の醸成に適しているから。(P107に「マニュアル依存型農業と技能集約型農業の比較」の図表あり)
・貿易自由化により、日本がマニュアル依存型小規模農業からの脱却を迫られているのは間違いない。しかし、脱却後の針路がマニュアル依存型大規模農業であってはならない。―→ 貿易自由化時代に日本農業が生き残る道は、技能集約型農業しかない。…これからは、技能の修得への動機づけに政策を集中するべきだ。(その具体策は7章で詳述)


【4章】技能はなぜ崩壊したのか

1.日本の工業化と耕作技能

・明治維新以降、国策として工業化を推進 → これが日本社会に労働の「商品化」を進める。→ さらに、学校教育と軍役が、労働の「商品化」を強烈に進めた。…先述のとおり、学校は近代社会が生み出したかなり特異な空間・時間の管理の仕組みだが、それは明治以降の近代的な軍制も同じ。→ さらには、給食や洋服など、規格化された製品を大量消費するという欧米文化の導入にも学校や軍隊は資した。
・明治維新以降の労働の「商品化」は、「玉突き」的に農業生産においても分業化・機械化を進め、技能を低下させる要因になる。…しかし、少なくとも戦前期においては、四つの理由から、技能の低下は、ある程度食い止められていたと思われる。
①用水管理の必要上、伝統的な労働慣行が維持されたこと。…電動ポンプが未発達であった戦前では、用排水管理は人海戦術に頼らざるを得ない。→ これを近代的な雇用契約で行うのは難しく、農業労働の「商品化」を遅らせた可能性。…戦前期の就農人口は1400万人程度で驚異的に安定しているが、これも用排水管理のために一定の人口を確保する必要性があったから、と解釈できる。
②農業機械の発達の遅れ。…水田稲作は地盤が悪い環境で指先の作業が多いため、機械化が技術的に難しい。→ 戦前期は、脱穀機など農外地での装置に限定される傾向。…耕運機の普及でさえ、戦後に持ち越されたし、コンバインなどの稲作の中型機械化一貫体系が確立するのも1970年代。
③科学的知識の普及…農業における技能の修得には、先述のとおり科学的知識が必要であり、戦前の初等・中等教育の普及が科学知識を向上させた。
④戦前期に、二毛作や養蚕など、農家が無理なく農業収入源を多様化させる技術が開発されたこと。→ このため、農家が農外の労働市場に晒される機会が少なくなり、労働市場からの「玉突き」を緩和したと思われる。
・だが戦後になると、これらの四条件は薄らぐ。→ 電動ポンプや農業機械が発達し、また化学繊維の発達は養蚕を衰退させ、戦後初期の旺盛な商工業の労働需要が農村にも押し寄せる。→ かくして戦後、農村社会は労働の「商品化」の波にまともに晒されることになる。→ 必然的に、分業と機械化が進む。
・伝統的な日本の農業では、自家消費用の農産物でも、種苗、肥料、農具などの中間財でも自家生産していた。→ ところが戦後は、農業でも分業化が進み、農家は生産する作目を減らして、現金収入を得るための農産物に特化する。また、中間財も購入に頼るようになる。→ かくして、農業者は技能を磨く機会を失う。

2.政府による技能破壊

・労働の「商品化」が進んだ今日の先進国でも、条件さえ整えば、職人的な技能が保持・継承される。ex. シェフ、板前、高級時計職人、楽器職人など。…そういう職人的な技能継承が行われるためには、技能を磨くことへの動機づけが不可欠。ex. 技能に対する敬意やよい収入機会など。←→ ところが、今日の日本社会では、耕作技能の修得をむしろ妨害する政策が採用されている。
・典型的には、農地利用の無秩序化の助長。→「規制緩和」や「地方分権」の美名にかこつけて、営農の意欲・能力のない者でも農地の利用権や所有権が取得しやすくなり、また転用規制も実質的に尻抜け化されている。…ex. 産廃業者や不動産業者も含めて農外企業が農業生産法人を設立し、農地を取得しやすくしている。…転用目的での農地所得をする手段としてダミー農業生産法人を作る動きもある。
・また、「地方分権」と称して、農地の転用許可の権限を、県知事から農業委員会に委譲する動きがある。…農業委員会は地元の農地所有者の集まりなので(委員長が土建業者や不動産業者という場合すらある)、土地売却益が入って地権者が潤うならば農地転用に対しては寛大になりがち。→ 農業委員会に転用許可の権限を委譲するのは、実質的な農地転用の助長。(詳細はP113~114)
・さらに、2001年に転用申請に対する事務処理の短縮化を農水省が地方自治体に指示。→ 実況見分もしないで書類審査だけで農地の転用許可を出している地方自治体もある。
・2009年の改正農地法で、農水省は、精神論・理念論として理想を掲げ、具体論は無力とわかっている農業委員会に全責任を丸投げした。→ このような理不尽な責任転嫁を受けた農業委員会は、とくに反発の声もあげていない。…違法脱法行為の蔓延という現実の前に、もはや法律の文言への関心も薄れているのではないか。(※う~ん、これが我が国の農業政策の実態か…。詳細はP114~115)
・農業委員会に全責任を丸投げするのは、最近定着しているパターン。…ex. 2008年に3年以内の耕作放棄地解消という目標が閣議決定されたが、具体的な解消策は農業委員会に丸投げされている。→ 案の定、この目標は実現されていないが、マスコミも「識者」も、そのことを追及しない。…農地問題は、政府もマスコミも「識者」も(おそらく一般大衆も)、精神論・理想論だけをしたがっていて、面倒くさい具体論には関わりたくないのだろう。…農水省はなぜ転用に寛大なのか? 一つには、農水省の責任逃避がある。→ 真面目に農地の保護をすれば、転用を期待している地権者や関係者から恨みを買う。…不動産業者であれ産廃業者であれ、農地を欲しがっている人がいて、農地を売りたがっている農家があるなら、禁止するよりも、認めてしまったほうが楽だ。
・農水省は技能に人々の関心を向けさせないよう、あの手この手を打っている。…ex. 新規就農への補助金(年間約150万円を最長7年間支給)。なぜ農業の場合だけ厚遇されるのか? → 「農業とは補助金をもらうこと」という意識を新規就農者に持たせるだけであり、技能を磨こうという意欲は殺がれる。…また農水省は、自給率向上国民運動を強力に推進し、食料自給率という「嵩」に議論を集中するように仕向けている。→ 農業者に技能がないほうが行政としては操りやすいし、「嵩」を増やすための方策は単純(補助金の支給など)なので政策設計も楽だから。
・官民とも、名人の技能を分析してデータベース化しようとする動きがある(ex.「農匠ナビプロジェクト」)。…目下のデータベース化は、いわば寿司職人の技をパック寿司づくりに活かそうというものにすぎず、やがてはジリ貧に陥るだろう。→ 本当に技能の継承・発展を願うのであれば、データベース化の努力ではなく、昔ながらの修業の機会をいかにして確保するかを考えなくてはならない。(※「データ」より「人」を育てる…他のことにも言えること…)

3.農地はなぜ無秩序化したのか

・耕作技能において「土作り」の重要性はすでに指摘したが、この「土作り」を阻害するのが農地利用の無秩序化。…この背景には、以下のような日本社会の構造的矛盾がある。
①効率的な水の利用を行い、病害虫繁殖を防止するためには、農業者同士の緊密な利害調整が必要。…日本の農業では、ひとつの水を集落全体で共有するため、集落のごく一部でもおかしな農地利用をする者がいれば、集落全体の農業に支障がでかねない。→ 近接する農地で害虫が繁殖すれば、周辺の農地に伝播する。「やる気のない者のことは放っておいて、能力と意欲のある者が伸びればよい」という理屈(※市場経済的な競争原理)は、農業ではあり得ない。→「能力や意欲のない者」を放っておくと、近隣の農業者が足を引っ張られる。
②農業生産に好適な優良農地ほど潜在的な転用需要が大きい。…日本は国土が狭隘で平地が限られている。よい農地の条件は、区画が整っていて、道路へのアクセスがよく(資材の搬入や農産物の出荷のため)、日当たりや水はけがよいことだが、これらの条件は、住宅や商業用地の候補地としても好条件。→ 優良農地に対する農外転用への潜在的需要は大きく、転用が認められれば地方部でも水田一枚(通常30アール)で1億円に近い売却収入が得られる(営農目的であれば、せいぜい200万円程度の価値)。
③農地には環境保護という公的な価値があるため、規制なり補助金で保護する必要。→ 農地の保水力は洪水を防ぐし、蛍など様々な希少動植物の棲息の場所を提供している。…ただし、環境保全の効果の大きさは、農地によって異なる。ex. よく管理されたまとまった水田は、環境保護の効果が大きい。逆に、山間の傾斜地で終戦直後に無理して開拓したような農地などは、計画的に植林したりして山に戻すほうが環境保全の効果が大きい場合もある。
④土地は計画的に利用されるべき、という一般論には合意できても、具体的にどういう計画がよいのかは、個人差が大きい。…農業地帯と非農業地帯を区分けした方が、農業にとっても非農業にとっても有益なのは自明。→ しかし、農地をどの程度確保すべきかは主観的な部分があり、個人差が大きい。
……この四つを見渡すと、解けないパズルのよう。…このような複雑な農地問題を解決する方法は難しい。→ 単純な農地所有や利用の自由化では事態が悪化するのは明らか。…めいめいが勝手気ままな土地利用をすれば共倒れになるのは自明。
・そもそも、それぞれの土地がどういう特徴を持っているかは、実際に当該の地域で暮らし、農業をしている人たちでなければ分からないことも多い。…行政や「識者」が机上論的に土地利用計画を書いても、的外れに終わるのがオチ。
・JAが強かった時代には、JAが集落の秩序の番人の役割を果たしてきたので、それなりに農地の利用に秩序はあった(あまりにも無茶な農地利用や農外転用、耕作放棄をしないよう、JAが監視をしてきた)。…ただし、JAが秩序維持の役割を果たすことに法的根拠はなく、単なる慣習。→ 経済団体にすぎないJAに秩序維持の役割を期待するのはそもそも無理があり、いずれは破綻する運命にあった。
・1990年代以降、JAの弱体化とともに、JAの監視は無力化。→ いまや農地利用は歯止めのない無秩序化が進んでいる。…(1章で指摘した)市民参加民主主義の欠如という日本社会の積年の矛盾が、表面化したのだ。(※う~ん、日本の農業問題の複雑さ、難しさは、根が深く、日本社会の積年の矛盾である「市民参加民主主義の欠如」とも通底している、ということか…)

4.放射能汚染問題と耕作技能

・原発事故以降の東北・関東の農業者には大きな危惧を抱いている。彼らは放射能汚染問題(風評を含めて)を気にしており、一度その話になると、止まらなくなる。…彼らの懸念はもっともだ。
・1年以上経っても、放射能汚染で出荷停止になる事例が発生。風評も含めれば相当な長期戦を覚悟しなければならない。…海外への輸出も厳しい。中国のように東北からの農産物を輸入規制している国もあるが、そういう規制がなくても、海外の消費者から敬遠され、被災地の農産物には買い手がつかない場合もある。
・国の基準値以下の低線量の放射能汚染を受けている地域の農業者は悲惨だ。→ 基準値以下なので補償の対象にもならない。しかし、汚染されているのだから消費者は敬遠する。汚染の事実を隠すこともできるかもしれないが、消費者に対して正直でありたいという良心的な農業者ほど苦悩することになる(自殺者が出るという痛ましい事件もあった)。
・放射能汚染自体も深刻な問題だが、汚染されているかもしれないという危惧だけで、農業者は耕作に対する集中力を失う。これは、技能集約型農業の存立を脅かす。→ 放射能汚染(風評被害を含む)の打撃は、「土作り」に何年も費用と労力を費やしてきた農業者ほど大きい。新たに「土作り」をしようにも、堆肥の原料の畜糞やバーク(樹皮)などに放射能があるかもしれないという危惧がある。…やや厳しい言い方をすれば、東北・関東の技能集約型農業は瀕死状態かもしれない。(※著者はここで、農業者の「移転」も提言…)
・本来ならば、優れた技能を持つ農業者は、放射能汚染の心配のない地域への移転も考えるべき。→ しかし、ここでも日本社会に蔓延する「ヨソ者排除」の風潮が移転を遮る。…農村にはヨソ者にはよい農地は貸し出さないという傾向が強い。被災地から移住してきた子供が学校でイジメにあっているという報道を散見するが、ヨソ者に対して陰湿なイジメをするのは大人でも同じであり、大人の場合は巧妙でわかりにくいだけだ。
・非被災地の住民は、「被災者は被災地での復興を願っている」というストーリーを好むが、「被災者が移住先を求めている」というストーリーを嫌う。…前者のストーリーであれば、非被災者は自分の利益を直接侵害される心配はないが、後者のストーリーなら、どの非被災地で被災者を受け容れるかという不愉快でリアルな話になってしまうから。…マスコミや「識者」も、なるべく前者のストーリーで落着させたがる。(※瓦礫の処分さえ受入れ拒否も…?)
・皮肉なことだが、東北や関東で農業生産量を増やすのは簡単だ。→ マニュアル依存のへたくそ農業を誘い入れ、宣伝や補助金で支えればよい。…マニュアル依存型農業では農産物の品質を高めるのは難しいし、自然環境にも有害になる可能性があるが、天候さえ悪くなく、ひたすら化石エネルギーを投入しさえすれば農産物の量を確保することはできる。マニュアルどおりに農作業をするだけだから、放射能汚染の可能性があろうとなかろうと生産には影響が出ない。宣伝や補助金などの支援が受けられるならば、ますます化石エネルギーを投入して、どんどん増産できる。…そういう皮肉なシナリオは十分に起こりうる。
・マスコミや「識者」は、この際、被災地で企業による農業参入を促進せよと主張しているし、政府もその方針だ(先述のとおり、企業は耕作技能が不足がちで、マニュアル依存型農業になりやすい)。…放射能汚染の影響が少ないからと植物工場を建設する動きもあるが、これもまたマニュアル依存型農業だ。→ つまり、このままいけば、技能集約型農業は崩壊するものの、マニュアル依存型農業の増長によって、結果的に津波被災地や放射能汚染地域での農業生産量の増大さえありうる。……しかし、マニュアル依存でコストがかかって品質も大したことのない(それどころか、もしかすると低品質で環境にも有害な)農産物をたくさん作ることに、いったいどんな社会的意味があるのだろうか?(※う~ん、ここまで書いてしまうと、確かに、ゴウド先生、四面楚歌か…?)
・しかも、企業によるマニュアル依存型農業は、化石エネルギー多投入で労働節約的になりやすい。…福島に原発が建設された背景には、東北が過疎化する一方、首都圏に人口が集中し、首都圏の巨大なエネルギー需要を賄う必要に迫られていたという事情があったことを、忘れてはならない。→ 化石エネルギー多投入を反省し、地方で雇用を生まなくてはならないときに、マニュアル依存型農業を増長させるのは、福島原発の事故の教訓を忘れた愚かな方策だ。
・放射能汚染問題はきわめて深刻で、簡単な解決はない。…被災者の苦労を見るにつけ、早急な復興を願って、解決策を急ぐのは心情論としてはわかる。しかし、だからといって、やみくもな農業支援をしたのでは、耕作技能を死滅させ、事態はより悪化する。→ 当面の被災者の苦労には生活支援で対応しながら、農業という産業をどう復興させるかは、拙速を避けて根底からじっくりと考える必要がある。→(本書での提言は7章で詳述)
                             (5/8 つづく)        

〔当方、農業に関してはド素人のため、(新鮮な驚きで)あれもこれもと読書メモが増え、予定よりだいぶ枚数が多くなってしまいました。次回も、『日本農業への正しい絶望法』(後編)の予定です。〕                         (2014年5月8日)