2018年6月7日木曜日

震災レポート・戦後日本編(番外編 ⑤)―[ニッポン革命論 ③]


  震災レポート・戦後日本編(番外編 ⑤)―[ニッポン革命論 ③]

                                         

『挑発的ニッポン革命論』―煽動の時代を生き抜け― モーリー・ロバートソン
                           集英社 2017.10.31 ――(3)


【3章】リアリズムなき日本――負け続けるリベラル

〔序〕

・日本はどう変わるべきか? →(著者の経験では)…問題点を指摘して「こう変わるべきだ」と話すと…右派からも左派からも、巧妙に形を整えた〝現状礼賛〟で切り返される。
…例えば、右派なら「移民なんて必要ない、このままでも日本はうまくいく」(※三橋貴明などか?)…左派なら「憲法改正も集団的自衛権も必要ない、これまでずっと日本は平和にやってきた」(※いわゆる〝護憲派〟か)。
→ 現実をフラットに見る(※リアリズム)ことなく、問題提起を根底から覆し、永遠に結論を出さない。…こんな詭弁で切り返えされてしまっては、もう議論は前に進まない。
 (※う~ん、初っぱなからかなり〝挑発的〟な出だし…)

・そんなとき、英語の「トーケン(token)」(形ばかりの)という言葉を思い出す。(※tokenism…表面的な建前主義)
…例えば、ある企業が「男女平等」をアピールするために、女性社員を部長に昇格させたとする(それ自体はいいことだが)。→ その女性部長が、会社の上層部に取り入りたいあまり(or 生き残りに必死になるあまり)…「私は厳しい時代に頑張った。あなたたちも自分の力で頑張れ」と…後輩の女性社員が〝あまり権利を主張しないよう〟働きかけていたとしたら? → こうなると、実態は…「現状を維持したい体制側と、そこに既得権を見いだしたマイノリティ」による共同統治…であり、当初の「男女平等」という目的はどこかへ消えてしまう(※表面的な建前になってしまう)…これが一種のトーケン。

・実は、これは大英帝国の植民地統治モデルと同じ構造。…例えばインドでは、大英帝国はマイノリティのシーク教徒を重用したが…これは(「マイノリティを心から応援したい」わけではなく)、マイノリティに追い抜かされたマジョリティのヒンズー教徒たちの怒りを、(本当の支配者である大英帝国ではなく)シーク教徒へと向かわせる効果を狙ったもの。→ 一方、シーク教徒の方にしてみれば…大英帝国がいなければ、自分たちは〝ただのマイノリティ〟に戻ってしまうわけだから、憎まれ役になることもいとわず協力するわけだ。
 〔※確か佐藤優(?)だったか…(インドに限らず)植民地支配の常道は、(その地域の〝多数派〟に権力を与えると、反乱を起こされる危険性があるから)〝少数派〟を権力者に据えること…という論をどこかで述べていた、と記憶するが…〕

・なぜこんな話をするかというと、日本の与党と野党の関係が、まるでトーケンのように見えるから。…皮肉なことに、両者は日本社会について「現状維持がいい」という本音の部分が共通している。(※これは、自民党と社会党による55年体制のことか?)
→ 共産党にしても…表向きは常に権力に反対し、キラキラした目で弱者を助けに行く(あるいはそのポーズを取る)ことで、票を集めているが…そこに一定の意味はあるにせよ、〝弱者が生まれる構造〟を本気で変えようとはしていない。(※共産党には辛口…)
→ むしろ、結果的に〝ガス抜き効果〟が生まれて、〝権力の安泰に寄与〟しているとさえ思える。
(※う~ん、かなりシビアで挑発的な見方…しかし〝リアル〟でもあるか…?)

・こういう話をしても、よく「海外よりマシだ」と現状を肯定する人がいる。…確かに〝一党独裁〟の中国や、〝愛国心〟という言葉に人々が思考停止しがちな韓国と比べれば、日本は健全な状況かもしれない。→ しかし、はっきり言ってしまえば、日本にはガチンコの政治議論がない。…なぜかというと、野党や左派メディアの多くが、本音では「現状維持でもいい」と思っていて、本気で論戦を仕掛けようとしないからだ。
 (※記者クラブ制度に守られた、高給の大手メディアの〝社員記者〟たちは、特にそうか…)
→ その構造がある限り、自民党に対抗し得るような進歩的なリベラル勢力は出てこない。

・戦後日本の論壇を長く主導してきたリベラル左翼の知識層たちの間には…アジア人なのに敗戦後はアメリカの軍門に下り(※対米従属)、その代償として自分たちだけが豊かになっていった(※〝朝鮮戦争特需〟などか?)日本という国のあり方への…後ろめたさ(つまり、「東洋人の魂を売った」という極めて自虐的なパラダイム)があった。
 〔※う~ん、この著者はサラッと断定的に書き流しているが…それこそ〝本1冊分〟の分析・検証を必要とするようなテーマなのではないか?…(〝対米従属〟はリベラル左翼だけの問題ではないだろうし、逆に、リアルな政治の裏舞台で屈辱的な「対米従属の密約」をしてきたのは保守派の政治家だったことが明らかになっている…参考:「戦後再発見」双書 創元社 など)…モーリー君はこうした荒っぽい論調を、本書の中でけっこうやっているよう…〕

→ そのため彼らの言論は、ひたすら亡国と懺悔の繰り返しで(※いわゆる〝自虐史観〟?)…そのループに安住するうちに、「戦前に立ち返るようなことがなければ、あとは深く考えなくてもいい」…という知的怠慢が生じた。
 〔※う~ん、論が荒っぽい分だけ説得力に欠けるから、議論のしようがない?……「議論が深まらない」というのは、モーリー君の方にもその責があるのでは…? 若き日のモーリー君がそうであったように…?〕

・こうした知的怠慢の〝もみ返し〟は、世紀をまたぐ2000年頃から起き始めたような気がする。…経済的にも人口構成的にも、日本の社会が大きく変容していく中で、→ 今度はとても無邪気な…「日本人が一番優れている」とか「日本を理解できない欧米人の言うことなど聞く必要はない」というような〝右寄りの孤立主義〟が勃興し始めた。

・また、左の論客からも「日本人は(欧米化する)明治以前から立派だった」「江戸時代に戻ろう」などといった、歴史修正的に〝過去を理想化〟する人も出てきた。
 〔※この「左の論客」が誰のことか分からないが…アナロジカルに言っているだけで、別に「歴史修正的に過去を理想化」しているわけではないのではないか…つまり〝挑発的〟に矮小化…?
…また、モーリー君はある意味、人間の進化を〝直線的〟に見るきらいがあるようだが、それを〝螺旋的〟に捉える(十牛図=無限の螺旋)という考え方もある。つまり、〝次元を上げる形〟(往相と還相?)で元に戻ってくる……参考:『「普通がいい」という病』泉谷閑示(講談社現代新書)より。〕

・しかし、これだけ世界が変わっていく中で、世界のあらゆる国・人・組織と相互依存しているはずの日本だけが「変わらなくていい」などという、都合のいい話はない。
→ 変化の必要性から目をそらし、〝ゆるい議論〟に終始してきたことで、日本はポピュリズムや突発的な危機に対して非常にもろい国になってしまった…(2011年の福島原発事故の〝言論界の大混乱〟はその典型だろう)。

・象徴的に言えば、これからはリベラル側こそが、ガチンコの議論を通じて、「9条の向こう側」を見に行かなくてはならない。…もちろんここで言う「9条」は、(憲法問題だけではなく)日本社会の至る所にある「触れてはいけないとされてきたもの(タブー)」のこと。
→「9条」に縛られるのではなく、その向こう側には何があるんだろうと考え…新しい、よりよいものを求めていく。それを率先してやることこそが、本来のリベラルの役割なのだから。
〔※う~ん、ここも荒っぽいが、一理はあるか。…ただ、「リベラル保守」とは違うようだが…〕

(1)日本型「戦後リベラル」の勘違い

○現代の軍は戦争を止めるためにある

 ・2015年9月、集団的自衛権の行使容認を柱とする「安全保障関連法案」が成立した。
→ これに反対する人々やメディアは、「軍靴の音が聞こえる!」「徴兵制がやって来る!」などと、冷静に見ればさじを投げたとしか思えないような主張を展開したが…論理の飛躍があまりにひどすぎて〔※リアルではない〝情緒的な反対論のレベル〟と言いたい?〕、反論する気も失せるほどだった。
〔※ここでも、かなり〝挑発的〟な表現…〕

・あえてこういう言い方をするが…「ここから戦争になるまでどれだけ大変か知っていますか?」…今の時代、国家同士の本格的な戦争が起きることを防ぐ国際的なメカニズムは相当に複雑かつ強固…〔※その具体的なメカニズムの記述はなし…〕。
→ その「遠近感」を無視して、第二次世界大戦型のフレームワークを持ち出すこと自体が、決定的に間違っているのだ。
 〔※う~ん…「気がついたら、もう戦争になっていた」…というような、戦争体験者の話もよく聞くと思うが…つまり、戦争というものは、(想定外に、いつの間にか)起きる時は起きてしまうのではないか…。→ 従って、(「国際的なメカニズム」とは別に)国民的なレベルでも、「なんとしても戦争だけは避ける」という意識づけは、常に必要なのではないか。…このことは、単に「第二次世界大戦型のフレームワーク」だけに留まらない、〝戦争の真実〟でもあるのではないか…(明治維新以降、やって良かった戦争など一つもなかった)。
→ それに、日本という国は…あれだけの未曽有の「国民的犠牲」…(戦没者数は、日本だけでも軍人・軍属が230万人、民間人が80万人、合計310万人…『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』吉田裕(中公新書)2017.12.25 より)…を出した「アジア・太平洋戦争」について…まともな〝総括〟がほとんどなされていないのだから…。
→ そして、そのツケが…福島原発事故にも、また(現在進行中の)あまりに安直かつ姑息な「公文書改ざん」(〝不都合な真実〟の隠蔽)にも、現れている…〕

 「権力者は、国民の論理的思考能力を低下させ、国家への反対を抑えるために、『ニュースピーク』という言語体系を導入する。これは語彙を制限・消去し、単語の意味を書き換え、文法を極度にシンプルにした言語で、普及の暁には反体制的な思考そのものが不可能になるという。言葉をコントロールすることによって、政府にとって不都合な現実を、存在しないものにしてしまうのだ。(中略)
→ 私たちは言葉を奪われてはならない。この世界を『ニュースピーク』が支配するディストピアにしてはならない。公文書改ざん問題をめぐる論争は、言葉をめぐる為政者との闘いにほかならない。」
…(中島岳志「公文書改ざん問題」…東京新聞・論壇時評 2018.3.29(夕)より)

 〔テキストに戻る〕
・確かに東西冷戦時代は、(米軍の補給地点である)日本にとって、9条はいわば〝平和のブラフ(※はったり)〟として機能していた。〔※〝平和のブラフ〟ってどういう意味?〕
→ しかし、現在の不安定な東アジアでは、9条は大した抑止力にならない〔※この著者は、「沖縄の米軍基地」の方が抑止力になると言っているよう…(P113)〕。…中国は、(冷戦終結以降の状況変化に対応し)囲碁のように地政学を考え、合理的に勢力拡大を狙っている…(※ロシアもか?)。…日本に9条があろうがなかろうが、法改正しようがしまいが、右傾化しようがしまいが、そんな〝こっちの都合〟とは関係なく。
 〔※う~ん、これがこの著者の〝リアル・ポリティクス〟だろうが……日本が、「人類の未来的な理念・ヴィジョン」として、(先の世界大戦の痛切な反省・教訓を踏まえた)「人類の平和を希求する憲法」を前面に掲げていく――(その精神・理念を生かした「発展的改憲」なら是とするが…安倍政権下での「改憲」は、それと異なるから否…)――ということは、〝抑止力〟とは別次元の問題であり(この著者は、それをごっちゃにしている?)…それが「リアリズムなき日本」ということで、まさに〝リアリズム〟(クソリアリズム?)の名によって一蹴されるのは、とうてい納得できない…〕

・このように小規模ないざこざ(ex. 尖閣諸島など…詳細はP113)が起きたときに、事態を収拾するのが、21世紀型の軍。
→ いろいろなケースを想定し、きちんとしたルールに縛られた軍は、カオスを抑える役割を担う。…平和憲法の下で今までやってきたのに、なぜ戦前に戻るんだ――本気でそう思っている人たちは、そこが見えていないのだと思う。
 〔※う~ん、これだけの説明では、「21世紀型の軍」のイメージはつかめないし…従って、あまり説得力なし……それこそ、〝軍隊のリアル〟を無視した〝軍事的理想論〟なのではないか…?〕

・ただし、この無理解の原因は日本政府にもある。→ 安保法制を成立させた安倍首相は、当初から現在進行形で起きている「中国の脅威」をはっきりと国民に説明すべきだった。…「平和のための安保法制」だと言うからには、そこから逃げるべきではなかった。不都合な真実にフタをした状態では、まともな議論は生まれようがない。
 〔※これこそないものねだりで…姑息な(隠蔽・すり替えが得意技の)安倍晋三に、そんな器量も真摯さも、あるとは思えないが…〕

○SEALDsの失敗

・長年、平穏に暮らしてきた日本人の〝政治スイッチ〟がオンになったのは、2011年の福島原発事故だったと見ているが…現在では、その勢いはすっかりしぼんでいる。

・反原発と反安保法制という二つの運動には、致命的な欠陥があった。…それは、「自分たちは善、権力は悪」という短絡したフレームにはまっていること。
 〔※う~ん、モーリー君、それこそ短絡した、レベルの低い批判なのでは…。→ そんなステレオタイプの言説を弄していたのでは、モーリー君が望むところの〝建設的な議論〟にならないのでは…?〕

→ 例えば、反安保法制運動では、学生たちが中心となって立ち上げた「SEALDs」という政治アクションがあったが、(かなり多くのメディアが好意的に取り上げたが)彼らの運動には決定的に知性が欠けていた。…反原発運動が「原発の上に成り立ってきた日本の繁栄」という苦々しい現実から目を背けたのと同じように、彼らは目の前にある「軍事リスク」に言及しなかった。
 〔※う~ん、これは、ほとんど詭弁と言っていい言説ではないか?…「日本の繁栄」は、別に原発だけに依ったものではないだろうし…それに、日本の「脱原発論」のレベルは、この著者が(意図的に?)見積もっているほど低いものではないだろう……参照:『日本の大転換』中沢新一(集英社新書)2011.8.22 →「震災レポート」⑨⑩。
また、SEALDsについて…ちょっと厳し過ぎるのではないか。(モーリー君の自叙伝『ハーバードマン』を読む限り)…学生時代のモーリー君に、それほど「知性」があったとも思えないのだが…。
→ これから各々「知性」を身に付けていくであろうSEALDsの若者たちを、もう少し暖かく見守ってやってもいいのでは…(ex. 高橋源一郎のように)。〕

・安保法制に関する議論の最も重要なポイントは、(これまで日米同盟の下で見て見ぬふりをしてきた)東アジア周辺の軍事リスクを直視した上で、どんなオプションを選択するのか、という点。(※まあ、これが〝リアル・ポリティクス〟の観点だろう…)
→ SEALDsに限らず、多くの運動がそれを無視して、理想主義を叫ぶことに終始していたが、(あれでは同志たちの結束を高めることにはなっても)それを超えた大きな広がりにはならない。
 〔※ここも、〝理想主義〟叩きの紋切り型の批判か。…ただ、リベラル派側も、〝硬直した理想主義〟に陥ってしまうと、「それを超えた大きな広がり」にはならない…という指摘は、受け止めておいていいのかもしれない…〕

・今、多くの日本人が漠然とした不安を抱えているとすれば、(おそらく「原発」や「安保法制」が理由ではなく)…発展途上国やアメリカの格差社会に比べると、何から何まで至れり尽くせりだった日本社会が(※〝一億総中流社会〟とか?)、いよいよ行き詰まってきた(※〝新自由主義〟のグローバリズムによる〝格差拡大〟の浸透とか?)…そのえも言われぬ不安感を、「反原発」や「戦争反対」に転嫁させた人が多かったのではないか。
 〔※う~ん、それこそ問題のすり替え? →「格差」も「原発」も「戦争」も…そして「政治・官僚・財界・学界・メディアなどの〝劣化〟」に対しても…それらすべてに異を唱え始めているのでは…〕

・アメリカのリベラルは、どうしようもない過去の失敗を学んで大きく飛躍し、初の黒人大統領を誕生させた。〔※モーリー君は、オバマはけっこう評価しているよう…〕
→ 一方、日本の左翼運動は、今も連戦連敗。…過去に学ぶことなく、多様な意見を受け入れることもせず、いたずらに群集を煽るような運動に未来はない。
 〔※これって、安倍政権のことなのでは…? → また、言いっぱなしにせず、「アメリカのリベラル」の活動の成功例についても、具体的にご教示いただきたいが…〕

○深刻なリーダーアレルギー

 ・反安保法制運動の際にもう一つ気になったのは、安倍政権を批判していた人たちの〝リーダーアレルギー〟。…やれ極右だ、独裁者だと叩かれた安倍首相は、(強力な権限を持つアメリカの大統領と比べれば)周りの顔色をうかがいながら事を進める日本的なリーダーにすぎない。
 〔※その程度の人物が、姑息な形で「安保法制」(実質的な解釈改憲)などを成立させたり、また「改憲」などという、身の丈に合わない事柄に手を付けようとしていることに、あきれたり怒ったりしているわけで…別に〝リーダーアレルギー〟とかいう問題ではないのでは?〕

・そもそもアメリカの知識人の間には、選挙戦を勝ち抜いた大統領に対する畏敬の念がある。…「史上最もバカな大統領」とメディアに評されていたブッシュ・ジュニアに対してさえ、最低限の敬意は共有されていた(あのトランプに対してもそうだ)。
 〔※う~ん、さすがにトランプに対しては、もはやアメリカでも「最低限の敬意」も怪しくなっているのでは? …それに、(長期間の大統領選挙によって選ばれる米大統領と違って)、直接選挙のない議院内閣制の日本の首相は、やはり「選挙で選ばれたリーダー」という意識は希薄なのではないか…〕

・一方、日本ではなぜか、リーダーや有能な専門家より「一般人」が強い。確かに市民の視点も時には大事だが、いくらなんでも比重がおかしい。
 〔※それは福島原発事故に際して…あまりに政治・行政・財界のリーダーたちや(有能だと思っていた)専門家たちの〝劣化〟が、見事に明るみに出されしまった…ということが大きいのではないか…〕

 〔※この項…ちょっとピントのずれた記述が多いので、以下省略するが(P118~119)…例えば、最後は次のような言葉で結ばれている…
 「もちろん建設的な批判はあってしかるべきですが、選挙で選ばれたリーダーを無責任に潰す社会であってはいけません。」
→ う~ん…戦後最悪・最低と思われるリーダーを〝潰したい〟と思うのに、何のためらいがあろうか…〕

(2)カルチャーと政治

○豊かな社会のシャンパン・ソーシャリスト

 ・1960年代のチェコスロバキア…共産体制からの解放運動「プラハの春」が盛り上がりを見せたものの → 旧ソ連の軍事介入によって鎮圧され、言論は統制……以前にも増して自由を奪われることになった。→ そんな折、30代前半の劇作家だったハヴェル(後の大統領)は、自身の戯曲がニューヨークで上演されることになり渡米。…母国で禁止されていたロックのレコードを買い漁り、帰国。→ こうして〝密輸〟されたレコードがコピーされ、首都プラハのミュージシャンたちに浸透していき…多くのアーティストが逮捕されても、(自由を希求する人々のパワーによって)演奏活動は地下で繰り広げられたという。

・そして1977年、同国で人権擁護を掲げる反体制派運動「憲章77」が誕生…そのリーダーを務めたのがハヴェルだった。→ 彼が持ち込んだ自由を希求するロックが、若者の行動を促し、12年後に民主化を実現したのだ(1989年の「ビロード革命」)。→ こういうものと比較すると、現代日本のアーティストや文学者の「反体制発言」に軽さを感じてしまう。

・欧米には、自由で豊かな社会で好き勝手に暮らしながら、その社会の権力者や体制側をくさすセレブリティ(シャンパン・ソーシャリスト)がたくさんいるが…日本にもそういう著名人は少なくない(※誰のこと?)。…本当に人々の自由が侵害されている海外の国々に目を向けることもなく(※一方的に決めつけている?)…「体制を叩く」ことだけが目的化した人たち。…「社会的弱者を救済しよう」と口では言いつつ、自らの行動や存在そのものが弱者を押さえ込んでいることには無頓着な人たち。…また著名人に限らず、ソーシャルメディアには好き勝手な正義を振りかざす〝ファッション反体制〟があふれている…(以下略、P121)。
 〔※う~ん、かなり〝挑発的〟に言い放っているが…これもちょっと一方的で、(ファクト不足、論証なしの)アンフェアな印象が否めない。ほとんど〝詭弁〟の領域…? → そして、「体制を叩く」者たちを叩き、その結果として安倍政権を擁護してしまっている…?〕

○宮崎駿を問い詰める覚悟はあるか

 ・2015年5月、映画監督の宮崎駿氏が、沖縄の米軍辺野古新基地建設に反対する「辺野古基金」の共同代表に就任した。…彼はかつて、オスプレイ配備や新基地への反対運動に、こんなメッセージを寄せている…「沖縄の非武装地域化こそ、東アジアの平和のために必要です」…素晴らしい、理想的だ…。→ しかし、沖縄が銃を捨てれば、(中国が)「我々も銃を捨てよう」と言ってくれるのか?…(詳細はP122)
 〔※う~ん、ここも(〝売り言葉に買い言葉〟的な)表層的な〝リアリズム〟…? → ここは、専門家の(沖縄の血を引く)佐藤優氏あたりに、ズバッと批判してもらいたいものだが…(すでに発言している可能性大だが、著作が多すぎて今は検証する余裕がない)…〕

・米軍基地問題のみならず、原発でも、安保法制でも、多くの文化人や著名人がリベラルな主張を声高に叫んだが、問題はそのスタンス……本当に決着をつける気があるのか。単なるポエムではなく、〝厳しい議論に耐え得るだけの材料〟を持っているのか。
〔※リベラル派だけに厳しい印象…〕

・なぜか日本では、大手メディアが彼らの主張の整合性について検証しようとしない。→ あの宮崎が、世界の坂本龍一が、ノーベル文学賞の大江健三郎がこう言っている。…発言者の知名度と、発言内容の実行可能性が反比例しているのだ。
 〔※ようやく具体的な名前が出てきた。…この著者が言う「日本のリベラルな文化人」とは、この辺りを指すわけか…〕

・欧米でも著名人が政治的な発言をすることは多々あるが、それが本気であるなら言いっ放しは決して許されない。→ ハリウッド俳優でも、ミュージシャンでも、大手メディアや専門家からすぐに容赦ないツッコミが入る。→ それに対して、本人がすぐに反論し、周辺を巻き込んで論戦に持ち込めなければ、もうまともには取り合ってもらえない。…それくらいの覚悟と理論武装が必要なのだ…(P123に、ボブ・ゲルドフというミュージシャンの事例あり)。
 〔※う~ん、確かに、そうしたシビアな「議論」の文化・伝統が、日本にはまだ根付いていないだろう。→ だが、それが根付くためには、もう日本の学校教育の段階から、根本的に見直さなければいけないのではないか…(ex. 暗記ものではなく、「考える力」を身に付ける教育…)。→(日米の「学校教育」を体験した)モーリー君の、貴重な経験を是非生かして、「日本の教育」について〝挑発的〟な提言をして、実行可能な議論を巻き起こしてもらいたい…〕

・しかし日本の場合、〝世界の宮崎〟というブランドが、自身の夢をふんわりと語り、そこに大々的なツッコミが入ることもなく、もともとそういう思想を持つ人々だけが、ただただ感動し続ける…そんな構図がある。→ これでは大きな議論は巻き起こらず、現実を動かすことなどできない。
 〔※ここも、やや紋切型ではあるが、問題提起にはなっている?…また、今ちょうど「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」という米映画が公開中だが(ラジオでも、フリージャーナリストの青木理氏らが熱く推奨していた)…こうした(ファクトに基づく)権力を告発するような映画も、日本ではなかなか作られないが(アメリカのエンタメ業界の底力?)…これも、「議論」の伝統・文化の有無の違いか。→ ちなみに前述のラジオで……アメリカは、こうした政権にとって〝不都合な公文書〟も、「後世の歴史的評価」のためにきちんと保存してあるが……これが日本であったら、廃棄あるいは改ざんされていただろう…というコメントがあった。→ つまり、今の日本の場合、もともと政府・権力側に「まともな議論」をする気がない(〝不都合な真実〟は隠ぺい)、ということが根本的な問題なのではないか…そして、モーリー君は、なぜかそのことには言及せず、〝リベラル派批判〟に精を出している…〕

・(厳しい言い方になるが)本当の問題は、(夢を語る人々自身よりも)彼らをガチンコで問い詰められない〝リベラル陣営の若い世代〟にあるとも言える。
 〔※う~ん、こうした文脈から、先の「SEALDsの運動には決定的に知性が欠けていた」という発言が出てきたのか…?〕

→ もし、〝現実路線のリベラル〟が、上の世代の〝ドリーマー〟たちをリタイアさせられれば、〝保守派との議論〟はもっと活発化されていくはず。……ポエムに酔いたいのか、それとも本当に現実を変えたいのか…この問いに、どう答えますか?
 〔※う~ん、この著者は、「リベラル=夢を語る人々、ポエムに酔う人たち」という図式がお好きのよう…〕

○今さらロックで反体制?

・安保法制の国会論議が続いていた2015年夏のフジロック・フェスは、思わぬことで話題となった。…SEALDsの中心メンバーだった奥田愛基らがステージでトークショーを行うことに対し、一部から「ロックに政治を持ち込むな」という批判が出たのだ。

・(著者は)若かりし頃、ウィリアム・バロウズ(小説家)に入れ上げていて、ハーバード大の卒業制作も、バロウズの手法を用いてつくった映像作品だった。…バロウズは生涯を通じて〝反体制〟であり続けた。…しかし、(今ならはっきりと分かるが)彼は体制や商業主義を真っ向から否定しながら、気づいたときには「反体制・反商業主義というビジネス」のど真ん中にいたのだ…(詳細はP125)。→ その構造が見えた瞬間、(著者の)バロウズ熱は急激に冷めて…「ロックで社会を変えていこう」というメッセージにも、まるでピンとこなくなってしまった。
 〔※著者の若き日の、ささやかな〝転向体験〟ということか。…ただ、この辺りに、この著者の〝思想の原型〟があるような気もするが…〕

・フジロックに話を戻せば、そもそも音楽フェスが政治性を帯びるのは珍しいことではない…(ex. 1969年のウッドストック・フェスでのベトナム戦争反対という政治的主張など)。
→ しかし、いまだかつて成熟した民主主義国家において、「音楽の力」が政治を動かしたことはない。…すさまじいエネルギーに満ち溢れていたウッドストックでさえ、現実の政治に対しては、ほとんどなんの影響も及ぼすことができなかった。→ 当時のニクソン政権が倒れた理由は、(音楽の力ではなく)ウォーターゲート事件で自爆しただけだ。
〔※う~ん、これも表層的な〝リアリズム〟の視点からの見解ではないのか。→ つまり、音楽などのカルチャーが、(政治変革の〝直接的〟な力ではなくとも)〝間接的〟な背景(下地)にはなっているのではないか …(著者自身が語っていた、チェコスロバキアの「ビロード革命」のときのように)。…そして、「成熟した民主主義国家」においても、カルチャーの力が(程度の違いはあっても)「政治の力」の背景(下地)になり得るのではないか…(どうもモーリー君、その熱すぎる性格ゆえか、オールorナッシングで考えすぎる?)…〕

・しかも過去20年間、ロックというジャンルは音楽面で革命を起こすことができず、もはや「古典」になりつつある。→(フェスで政治的な主張は、もちろんいくらでも自由にやればいいが)…この件に関する本質的な問いかけは、「今さらロックで反体制ってどうなの?」ということではないだろうか。
 〔※う~ん、「ロック」でなくとも、「他のカルチャー」がまた出てくる…というのが、この問題の本質的な構造なのではないか…〕

○ル・コルビュジエはファシストだった

 ・フランスの建築家ル・コルビュジエが手掛けた7ヶ国・17作品(東京・上野の国立西洋美術館を含む)が、2016年に世界文化遺産に登録された。→ 一方、それに際して欧米の一部メディアが注目したのは、「ル・コルビュジエはファシストだった」という〝不都合な真実〟。…そもそもコルビュジエの美しい世界観を実現するためには、個人の価値観などは、ジャマでしかなかった(詳細はP127~128)。→ 事実、彼は約20年間にわたってファシズムにどっぷり浸かり、権力者に住宅建設や都市開発の助言をするなどしながら活動していたという。

・偉大なアーティストや表現者、もっと言えば多くの〝感性の人〟というのは、元来そういうものなのではないか?…例えばオーストリアの指揮者カラヤン、ロシアの作曲家ストラビンスキーや画家カンディンスキーなど、その類の偉人が実はファシストだった、という話は枚挙にいとまがない。…(どこか危ういところがある)感性の人が…狂気、非日常を紡ぎ出す…ことにこそ、人は感動する。→ その狂気を、「常識」というフィルターを通して眺めても、あまり意味はない。

・問題は、そういう人の信者やキュレーターが、「偉大な芸術家は人間的にも思想的にも素晴らしいものだ」という錯覚にとらわれていることだろう。→ 作品は素晴らしい、でも彼はファシストだ……この〝カオスともいえる複雑さ〟を、そのまま受け入れればいいだけなのだが。
…日本にも「ミュージシャンや演劇人は当然、反体制であるべきだ」という感覚の人が少なくないようだが、〝感性の人〟にいったい何を期待しているんだろうか?
 〔※う~ん、これも〝リアリズム〟か…〝感性〟と〝倫理〟との分離? → そういえば佐藤優氏も、(財務次官のセクハラ事件に関して、自身の官僚時代の見聞から)〝官僚的能力〟と〝倫理観〟とはまったく別ものだ、という教訓を述べていた…東京新聞(2018.4.27)「本音のコラム」より〕

(3)東アジアの地政学

○最後のモンスター・中国とどう向き合うか

 ・2008年、四川大地震に関して、ハリウッド女優のシャロン・ストーンが「チベット弾圧に対するカルマだ」と発言したとして、大炎上(→ 中国国内の広告を外された)。…2016年、日本のある女優が「過去にSNS上で中国を侮辱していた」として、中国の動画サイト上で謝罪コメントをアップした。…台湾出身のアイドルが、韓国のテレビ番組で台湾国旗を振ったとして、謝罪動画を公開…(詳細はP129~130)。
…近年、こういった話は珍しくないが、(ネット上で)炎上に至る構造は同じで…ある言動が魔女狩りのように部分的に切り取られ、言いがかりのような怒りを浴びせられ、過剰な対応を余儀なくされる…。→ なぜ、こんなバカげた問題が続出するかといえば……中国という〝巨大市場〟を世界の誰もが無視できなくなったから。…(モンスター化した客に媚びてでも)市場を失いたくないからだ。

・ただ、これを「中国の民度が低いから」などと、上から目線で片づけるのも理屈に合わない。→ ここまで中国をモンスター化させたのは…何十年間も中国の〝安い労働力〟をコンビニエンスに利用してきた西側資本主義陣営…だからだ。

・戦後の資本主義陣営は…自国の経済や外交状況を前に進めるために、絶えず〝都合のいい独裁者〟を外縁に求め続けてきた。→ チリのピノチェト、インドネシアのスハルト、チュニジアのベン・アリ…彼らは皆、〝大国の下請け〟をすることで〝強固な権力〟を維持してきた。

・日本という国も、多くの独裁国の〝人権蹂躙〟を横目で見ながら、潤沢なODA(政府開発援助)を投下してきた歴史がある。→「内政干渉はしない」と言えば聞こえはいいが、要は〝見て見ぬふり〟で独裁政権側につき、経済活動をしてきた、ということ。…残念ながら、これが「憲法9条の国」のもう一つの顔だ。
 〔※う~ん、概ね説得力のある論述だと思われたが…ただ、最後の部分には違和感を感じた。……なぜ最後に、わざわざ「憲法9条の国」をもってくるのか? …〝経済優先主義〟はリアリズム優先で(〝自国だけが良ければいい〟というナショナリズムに結びつくことも多く)、どちらかと言えば今は〝改憲派〟が多い印象だが? …従って、それを「憲法9条」に結びつけて論じるのは、(この著者が多用する言葉をあえて使えば)詭弁なのではないか…?〕

→ そして、このように〝多くの不正義〟に目をつぶって、〝自国の繁栄〟を追い求め続けた資本主義陣営が生んだ、最大にして最後のモンスターが…「社会主義市場経済」という〝歪んだ制度〟を維持する今の中国…なのだ。(※「国家独占資本主義」と呼ぶべきだろう…)

・資本主義を全面的に批判するつもりはない。…ラディカルな方法で資本主義の歯車を止めても(※ハードランディング)、この世界は破滅を迎えるだけだ。→ 今後は、このモンスターとどう対峙していくか…どのように〝線引き〟をすれば破綻せずに、少しずつ改善を期待できるのか……〝ジリジリとした長い戦い〟を覚悟してやっていくしかない。…因果応報のカルマをただ嘆いても仕方ないのだから。
 〔※これが〝リアリズム派〟の現実路線というわけか……しかし、この著者の論からは「未来についてのヴィジョン」が見えてこないのが、最大の不満か…〕

○みんな北朝鮮を甘く見ていた

・物事には多くの側面があるが、人間はつい「見たいもの」だけを見て、「見たくないもの」からは目をそらしてしまう。…その典型が、国際社会の声を無視して、核・ミサイル開発を進める北朝鮮問題だろう。

・例えばアメリカは1994年、民主党ビル・クリントン政権が…北朝鮮の核開発を察知し、空爆による先制攻撃を計画したが…これを実行寸前で止めた、とされているのが、〝平和活動家〟のカーター元大統領。…カーターが自ら訪朝して、金日成と会談(取引)…核開発凍結の見返りとして原発(という名の軽水炉)の建設を援助。→ その結果、北朝鮮の軽水炉の技術が、今の核保有へと〝着地〟してしまったのだ。
 (※う~ん、リアリズム的には、あの時に〝核施設〟を空爆しておくべきだった、ということか…?)

・北朝鮮はもともと、第二次世界大戦後に旧ソ連が「衛星」としてつくった擬似国家で、まともな産業もなく、〝援助を前提〟として成り立つ存在だった。→ こうした「核さえなければ無視される」という国に対して、「対話を通じて普遍的な価値を共有できる」という理想(悪くいえば妄想)を抱いたことが、現在の悲劇と脅威を生んだ、といえる。
 (※う~ん、そうすると、「北朝鮮問題」の交渉相手とは、現在の実質的な〝援助国〟である、中国とロシア…ということか?)

・しかし、日本は今もなお、こうした反省を生かすことなく、リアリズムから逃げ続けている。→ 近い将来、3代目・金正恩政権が崩壊し、北朝鮮国民の多くが難民化する……これは十分にあり得る想定だが、それを真剣に考えることから逃避している…(P133に…数十万あるいは100万人の難民が、日本海沿岸から上陸してくる…という具体的なシミュレーション…)。

・もはや「見たいもの」だけを悠長に見ている暇はない。差し迫った危機に対し、今すぐにでも議論すべきことは山ほどあるのだ。
〔※う~ん、挑発されてしまう……先日、板門店での劇的な「南北首脳会談」が放映されていたが…(世界的には概ね好評価だったようだが)結局は、単なる〝空疎なセレモニー〟であり、本番は(米・中・露が絡む)これからか…?〕

○北朝鮮で危険な〝火遊び〟をする欧米ツアー

・北朝鮮で観光旅行中に逮捕・拘束されていた米国人大学生が…昏睡状態で解放され、帰国してすぐに死亡した事件(〝拷問死〟の可能性も考えられる)。…彼が参加した北朝鮮ツアーの主催者は、2008年にイギリス人が中国・西安で立ち上げた旅行社。→ 過去の北朝鮮ツアーでは、スタッフも参加者も現地で相当ハメを外しており…酒を飲みまくって乱痴気騒ぎをするのは当たり前だったよう…(詳細はP135)。

・このツアー主催者は、危険な〝火遊び〟を奨励するような形で客を集めていたようで…ちなみに、同社で北朝鮮ツアーを主に仕切っていた人物は、現在ではフィリピンに拠点を移し、東南アジア各地で〝買春ツアー〟を堂々と主催しているよう…。

・旅先の人や文化を見下し、好き放題に振る舞う……こうした傾向は、欧米の白人ツアー客にしばしば見られるものだ(今に限ったことではなく、昔から)。
 〔※う~ん、こうした「上から目線」の傾向は、「在日米軍」にも見られることなのではないか? …それに対しては、この著者はなぜかほとんど言及していない…〕

→ そうした横暴を、かつて多くの国の人々は、商売のために我慢してきたわけだが……それが今、各地で台頭する〝愛国ポピュリズム〟や〝外国人排斥〟という形で〝逆流〟してきているのかもしれない…(北朝鮮側の人権無視が許されるものではないことは、大前提だが…)。

○アメリカの最終手段は「日本の核武装」?

・トランプは当初、北朝鮮に対して「武力行使を含むあらゆる選択肢」の行使を示唆したものの、その強硬姿勢も気づけばトーンダウン。→ 現在の極東アジアの〝ゲーム〟は、北朝鮮主導で進んでおり、金正恩政権は完全なる核保有国となるべくラストスパートをかけている…(核武装さえできれば、アメリカだろうが中国だろうが、あらゆる圧力に屈する必要がなくなるから)。
 〔※う~ん、(〝援助が前提の疑似国家〟のはずが)「核の力」のリアルさ?…確かに、初めて訪中した金正恩に対する中国側の歓待(?)は、ちょっと異様だった…〕

・そんな中、アメリカの著名コラムニスト(チャールズ・クラウトハマー)が、ワシントン・ポスト紙(2017.7.6)に、「北朝鮮、ルビコン川を渡る」という題名のコラムを寄稿した。
 「もしここで戦略的なバランスを劇的に変更したければ、韓国から1991年に撤退した(米軍の)戦略核兵器を再び持ち込むこともできる。…また、もう一つのオプションとして、日本に独自の核抑止をつくらせることも可能だ」
…これを読んだら、おそらく多くの日本人は拒絶反応を起こすだろう。…しかも、ここで論じられているのはいわゆる「核保有」ではない。→ 日本の独力による核武装という〝禁断のシナリオ〟が、すでにアメリカでは、現実的なオプションの一つとして、論じられ始めているのだ。

・なぜ、こんな話題が俎上に載るようになったのかといえば…アメリカが北朝鮮に対して打てる手が、ほぼなくなってきたからだ。→ 北朝鮮に、(核弾頭の搭載能力、弾頭の大気圏再突入技術など)まだ残された技術的課題はあるにせよ…アメリカは早晩、自国民が北朝鮮の核ミサイルの〝人質〟となってしまう状況に追い込まれた、ということだ。

・これで、米軍を頂点にした日米韓の軍事同盟は、大きな岐路に立たされた。→ アメリカは当然、同盟国を守るよりも〝自国民の被害回避〟を最優先に考える方向へシフトするはず…(詳細はP138)。
→ こうなると、同盟国の間には〝疑心暗鬼〟が生まれる。…日本や韓国からすれば、〝本当にアメリカは守ってくれるのか?〟…逆にアメリカからすれば、〝日本や韓国を守ることで、自国が攻撃されるのではないか?〟…これが、軍事同盟に亀裂が生まれるデカップリング(Decoupling=離間)という概念。

・敵側の新たな核兵器の登場が、同盟のデカップリングを誘発し、各国が独自の核保有を模索する…という動きは、過去にも例がある。→ 1950年代から60年代にかけて、(アメリカの核の傘の下にいた)英仏が、ソ連への抑止力を高めようと、相次いで核保有国となった…(詳細はP138~139)。

・「集団的自衛権の行使は合憲か違憲か」といった内向きの議論ばかりの日本には、刺激的すぎる話かもしれないが……少なくとも外から見れば、今の日本は…当時の英仏と似たような状況に置かれている。→ だからこそ、このようなシナリオが、米メディアのど真ん中で提示されたわけだ。
 〔※う~ん、ちょっと強引すぎる論理展開?…50年以上前の英仏と、今の日本では、あまりにも(内在的にも外在的にも)状況が違いすぎるのでは…? → また、『人類の未来的な理念」という視点からも…さらなる〝核の拡散〟につながるようなシナリオは、最悪のオプションだろう…〕

・先ほど引用したコラムは、さらにこう続く。
 「日本の核武装(に関する議論や政治動向)こそ、何よりも中国政府の注意を引くだろう。中国はかつてないジレンマに直面することになる。中国にとって北朝鮮(の金政権)を存続させることは、核武装した日本(を誕生させてしまうこと)ほどに大事なのか、というジレンマに」
→ 北朝鮮・中国主導で進むゲームを一変させるためには…もう〝日本の核武装〟くらいしか手が残されていない…それが、このコラムの主張の本筋だ。

・北朝鮮や中国は…アメリカの動向に関してはあらゆるシナリオを想定し、対応計画を立てていると思われるが…おそらく、〝日本の核武装〟については「ありえない」という認識だろう(皮肉にもほとんどの日本国民と同じように)。→ それだけに、核武装に関する現実的な議論が日本国内で持ち上がれば、それだけで大きな脅威となり、戦略の再考を迫られるはずだ。
 〔※この著者の、国際政治を(あたかもポーカー・ゲームのような)〝ゲーム感覚〟で捉えようとする姿勢に、少なからぬ違和感を感じる。…だが、こうした混沌の時代に「未来論」を考えていこうとするなら、このような〝リアリズム〟も、(批判的にせよ)視野の中に入れておく必要があるのだろう…〕

・「日本は今すぐ核武装すべきだ」と言いたいわけではないが…しかし、アメリカでこんな議論が提起されている、というのに…当の日本では、相変わらず政治家も大手メディアも議論を避けるばかり…という現状は、さすがに奇妙だと感じる。
 〔※う~ん、近々、例によってこうした議論を〝アメリカから輸入〟して、拡散していく連中が出てくるのではないか…(これも〝ワシントン拡声器〟?)。〕

・もう一つ忘れてはならないのは、トランプ政権の極めて特徴的な外交姿勢。…これまでの米政権は、(少なくとも表向きは)自由や民主主義といった理念・大義を掲げてきた。→ ところがトランプ大統領にとっては、あらゆる外交交渉はまるでビジネスのような〝取引〟なのだ。…これはある意味、ロシアや中国の外交に通じる考え方だが…〔※もはや「社会主義」という大義を実質的には放棄したロシアや中国には、もうリアルな〝取引〟しかないのか…〕…アメリカまでもが露骨に自国の利害を優先する(※America First!)取引外交に突入し…〝多極化〟した現代の国際社会において、日本国憲法がうたう「恒久平和」は存在し得ない。→ 平和とは、その都度、取引や駆け引きの結果としてつかみ取るものになってしまったのだ。
 〔※う~ん、夢も希望もない〝リアル・ポリティクス〟の極みか…〕

・では、そんな状況下で、(直接的な防衛力の強化以外に)日本にできることは…積極的に北朝鮮や中国のレジーム・チェンジ、つまり民主化を促すことではないか…(北朝鮮と中国が現体制のままでいる限り、対話は本質的に意味を持たないから)。
→ 相手の内部崩壊につながるようなアクションをひたすら起こすのだ…(詳細はP141…まるでCIAがやるようなことがいくつか例示されている)。

・こういうとき、低レベルな反中や嫌韓、嫌北をうたう右派は、率直に言ってジャマでしかない(※確かに…)。…かといって、戦後左翼のように〝中国や北朝鮮の現状をただ追認する〟という姿勢も、明らかに的外れだ。
 〔※そんなオメデタイ左翼はもういないのでは?…モーリー君、議論のレベルが低くなるよ…〕

→ 本当のリベラリズムとは、(詭弁を重ねて憲法9条を死守することではなく)…あらゆる国の〝人権問題や民主化〟に積極的に関与していくことのはずだ。
〔※ここでも、唐突かつ無関係に「憲法9条」を持ち出している…〕

・戦争が起きないことを平和と呼ぶのは今も昔も同じだが…それを望むなら、アメリカの傘の下で折り鶴を折り、「憲法9条を守れ」と唱えていればいい時代ではない〔※またまた紋切り型の〝挑発的〟な決めゼリフ…〕。…リスクは向こうからやって来る。

→ だからこそ、その可能性を減らすことで〝平和を勝ち取る〟という思考回路が必要だ。……この現実を見据え、日本人が自国防衛に関するあらゆるシナリオをタブーなしで議論し始めたとき、膠着した極東アジアのゲームは初めて動き出すかもしれない。
 〔※う~ん、だが「核武装」などより「日本国憲法」の方が、あらゆる国の〝人権問題や民主化〟に積極的に関与していくに際して、有効・有力な〝日本国の利点〟として使えるのではないか、モーリー君…?〕

(4)戦争と国際社会のリアル

○テロは「絶対に起きる」

・2014年に、中東・シリアで起きた日本人の人質事件(翌年1月に二人とも殺害された)。…この事件に関して、日本社会全体が「あまりに騒ぎすぎ」と感じた。→ テロの目的は、敵と見なす人々に〝恐怖感を与え、混乱させる〟こと。…そして、そのことによって自分たちの存在を世界中に知らしめ、スポンサーにアピールしたり、新たな仲間をリクルートすること。→ つまり〝リアクション〟が大きいほど、テロリストの目的は高いレベルで達成されるわけだ。

・少なくとも対外的には、日本政府は比較的冷静に対処したよう(※何もしなかっただけなのでは?)……問題は、デリケートな時期に事件を政権叩きに利用した野党議員と、パニックのように騒ぎ続けたメディアにある。
 〔※野党議員やメディアを弁護するつもりはさらさらないが…どうもモーリー君、(日本のこととなると)政権側に甘くなる印象…(人質の二人が殺害されてしまったことの責任には全く触れていないし…〝自己責任〟派?)…仕事の基盤を日本に置いているようなので、政権にソンタク?…〕

・日本語なんて日本人にしかわからない、というのはあまりにも時代錯誤…あらゆる発信が翻訳され、海外で見られる可能性を考えなければいけない時代だ…ということを、どれだけの人が理解していただろうか(※確かに〝自動翻訳機〟などもかなり進化しているらしいが…)。
→ こんなに〝おいしい〟日本というターゲット…国際世論の注目を集めるための道具として、再び日本人が狙われるという可能性は、常に想定しておく必要がある。

・2001年の9・11同時多発テロの後、アメリカ社会が本当の意味で冷静さを取り戻すまでには、長い時間を要した。→「戦争や暴力はあってはならない」という〝美しい大原則〟にしがみつく日本で(※また嫌みな〝挑発的〟言辞…)、もし大規模なテロが起きたら……間違いなく社会は激しく動揺し、人々は一気に極端から極端へと振れ、その後遺症は何年も続くことになる…(詳細はP144)。

・では日本人は、どんな心構えを持っておくべきだろうか。…まずは、「世界の情勢上、一定の頻度でテロが起きてしまうのは仕方ない」という冷徹な現実を受け止めること。
…原発事故後の放射能パニックと同じで、「0ベクレル」を追い求めてもまったく意味がない。→ 治安対策も、外交政策も、現実の諸々の条件と折り合いをつけながら、いかにテロ発生の可能性をミニマムにしていくかを考えるしかないのだ。

〔※う~ん、ここでこの著者の〝リアリズム〟に対する〝違和感〟をいくつか挙げてみる。…この著者のこれまでの発言の中で、(先の世界大戦での日本の〝敗北〟も含めた)「日本の歴史や社会情勢」に対する洞察に、深みがあまりないこと。従って、批判的言辞がどうしても紋切型になってしまう…(モーリー君、日米の受験勉強はかなり一所懸命やったようだが…)。…それは、福島原発事故に関しても同様で、ここでも〝放射能パニック〟を、「0ベクレル」を求めても無意味…といった形(詭弁?)に矮小化してしまっている(自然界にも放射能はあるのに、誰も「0ベクレル」なんて求めてないだろう)。→ こうした批判的言辞の〝ステレオタイプ化〟が、この著者の〝リアリズム〟の質を、かなり損ねてしまっているのではないか。→ また、福島原発事故から7年が経過して、漸く次のような著作も出てきた…『広島の被爆と福島の被曝』―両者は本質的に同じものか似て非なるものか―齋藤紀 かもがわ出版2018.3.5(著者は、福島県立医大卒で、広島大学原爆放射能医学研究所などで広島で約30年間過ごした後、福島に戻ってすぐに東日本大震災・福島原発事故に遭遇…以後7年間、原発事故の対応に忙殺されてきた。)…モーリー君も父上の広島での仕事と関連することゆえ、紋切り型の問答に止まることなく、さらに勉強していただきたい…〕

○その見方は釣り合っているか?

・英語に“False Equivalence”という言い回しがあるが、「中立な両論併記」を装うような、一種の詭弁のこと。…日本では、特に安全保障や軍事の分野で、この〝詭弁〟を平気で口にするような政治家や専門家が少なくない(※誰のこと?)。
…例えば2017年4月、シリアのアサド政権が化学兵器を使用したという理由で、アメリカのトランプ政権がシリアの空軍基地をミサイル攻撃したケース。(※最近、2回目のミサイル攻撃があった…)

→ 欧米メディアでは…シリアやロシアの当局・政府系メディアの発表がいかに〝政治的〟か…という警告がなされているというのに…日本の著名な論客や一部の専門家は(※誰?)、アサドやロシアの言い分をほぼ丸ごとトレースしていた。…「アメリカにだってクラスター爆弾などの使用疑惑がある。アサド政権ばかりを一方的に攻めるのは欺瞞だ」「そもそも今日の中東の混乱は、欧米による植民地支配から始まったものだ」
…このような〝どっちもどっち論〟も散見されたが、これは一見フェアなようでいて、実際は最も悪辣な人間を擁護しているのと同じだ。(詳細はP145~146)
 〔※う~ん、当方もどちらかと言えば〝どっちもどっち論〟だが(もちろん「アサドやロシアの言い分を丸ごとトレース」などしないが)……ここでも違和感を感じるのは…〝悪いヤツをやっつける〟的な、アメリカ的〝勧善懲悪〟に与しているような嫌いが感じられることか。…この著者、別のところでは、客観的な歴史的経緯を冷静に語っていることもあるのに(1,2章など)…このように〝どっちの味方だ〟、といった短兵急に攻め立てる論調もまま見られる…これも、2冊の「自叙伝」にそのルーツのヒントがあるような気がしている…〕

・北朝鮮情勢に関しても、状況はあまり変わらない。…「北朝鮮もよくないが、戦争はやってはいけない」「外交努力で解決を模索すべきだ」…まさに、ジョン・レノンとオノ・ヨーコがベッドで抱き合うラブ&ピースな世界観。美しい。(※う~ん、モーリー君は〝武闘派〟か…?)
 〔※このような言い方も、モーリー君の、〝理想主義〟批判の〝挑発的〟な常套句、紋切り型表現なわけだが…その気質のルーツは、やはり「自叙伝」に示されていると思う…〕

・耐え難い緊張とリアリズムに直面したとき、〝空想や理想に浸りたくなる〟という心理は誰にでもある。…この状況下でも、大手メディアの報道が〝有事モード〟に変換されず、シリアスな議論を深掘りできないのは嘆かわしいことだ。

・もしかすると、今後は北朝鮮情勢に関して…「日本がミサイルの標的になるのは米軍基地があるからだ」…などと言いだす人も出てくるかもしれない。
 〔※これもステレオタイプ的表現で…モーリー君の〝リアリズム論〟も、それほど「深掘り」できているとは思えないのだが…〕

○世界を知るには「戦場セルフィー」

・最近では紛争地からも多くのセルフィー(自撮り)動画がYouTubeなどの共有サイトにアップされている。(詳細はP147~149)
→ 特に〝垂れ流し系〟の動画は…1時間以上も田舎道を装甲車とともに歩くシーンが延々と続いたかと思えば、突然カメラを装着した本人が撃たれ、バタッと映像が横倒しになる…つまり、見ているこちらが思いがけず「死の瞬間」に立ち会ってしまうこともある。
…戦場セルフィーが映し出す、辻褄の合わないカオスを前に、僕は敬虔な気持ちになる。そして、遠く平和な国で「戦争はいけない」と正論を叫ぶだけの人の無責任さを実感する。…あってはならない、ではなく、実際にあるのだ。正論が言えるのは、たまたま平和な場所にいるからだ。…いつ終わるとも知れない戦いの真っ只中にいる人たちに、そんな言葉はなんの意味も持たない。
 〔※これらも、一見もっともそうに聞こえるが(問題のすり替え?)…硬直化した〝リアリズム〟(の過度な強調)は、場合によっては、「理想」を追究していくことに対して、ある種の〝抑圧〟になってしまうこともあり得る(ex.「理想主義」を小馬鹿にする「現実主義」)…この著者の〝挑発〟には、そんな印象も持ってしまう…〕

・自らの知性と精神の強靭さに自信があり、お仕着せの理想論や精神論ではなく、「今、世界で何が起きているのか」を本当に知りたいのなら、覚悟を決めて戦場セルフィーを延々と見続けてみてはどうだろうか。
 〔※〝クソリアリズム〟などという言葉もあったかと思うが、この著者は…そうした〝ナマ動画〟を延々と見続けることで、本当に「世界の真実」が分かると思っているのだろうか?…当方などはそこに、もはや人間の想像力や探究心に信を置けなくなった、この著者の〝ニヒリズム〟すら感じてしまうのだが…。→ 当方としては、「戦場セルフィー」よりも、スティーブン・スピルバーグの映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』をお勧めしたい。…(冒頭は、ベトナム戦争の戦場シーンから始まる)…こちらの方が、「過去に、世界で何があったのか」→「今、同様のことが起こりつつあるのではないか」…ということを知ることができる、と思われた。〕

○社会主義国ベトナムの「親米化」

・〝ベトちゃんドクちゃん〟で知られるベトナム人のグエン・ドクさんが、2017年4月に広島国際大学の客員教授に就任した。…36歳になったドクさんが、なぜ広島で「平和や命の大切さなどを講義する」ことにしたのか…その本心は知る由もないが、彼の母国の国内事情、政治的背景は、ことのほか複雑だ。

・(米軍の枯れ葉剤の影響とされている)結合双生児として生まれたドクさんは…社会主義国ベトナムの〝反米プロパガンダの象徴的存在〟…という側面もあった(もっとも、ベトナム国内において反米機運が主流派を占めていた時代までだが…)。

・この20年で、ベトナム社会は大きく変容した。…そのきっかけは、1995年の米越国交正常化により、両国が急接近したこと。→ 出生率のすさまじい上昇で、〝戦後生まれ〟がすでに多数派となった現在のベトナムでは、若者は反米どころかアメリカへの憧れを隠そうともしない(※かつての日本を彷彿とさせる?)。…首都ホーチミンのマクドナルドやスターバックスには行列ができ、ベトナム戦争で使用された枯れ葉剤のメーカーである米モンサント社でさえ、ベトナムの農業ビジネスに深く食い込んでいる。(※あのモンサント社がベトナムにまで…!)

・極め付きは2016年5月、アメリカによる武器禁輸措置が全面解除されたこと。→ それまでロシア頼みだった軍事分野でも、ベトナムはアメリカと協力関係を築くことになったわけだ。

・その背景には、膨張を続ける中国の脅威がある。…1979年の中越戦争以降も、南シナ海の領有権をめぐる軍事衝突…近年は海底油田の開発問題などで、緊張は高まる一方。→ 国民の対中感情も相当悪化しており、若者を中心とした反中デモが頻繁に起きている。

・かつての敵国アメリカと組んででも、「今そこにある危機=中国」に対抗したい。…自国の地政学的立場を考えれば、超現実路線(米越連携による対中戦略)をとるしかない。
 〔※こうした〝地政学的立場〟も、日本と似ている、というわけか…〕

・反米から親米・反中へ……こうした母国の変化は、ドクさんの〝立ち位置〟にも少なからず影響を与えたはずだ。…(戦争の凄惨さを知らぬまま)急速な経済発展に沸く戦後世代は、すでに国民の過半数を占め、反米的な主張にはなじまない。…そして政府も、かつてのように反米プロパガンダを展開することはない…。

・2016年秋、広島を初訪問したドクさんは、こう発言している。
 「原爆と枯れ葉剤の被害はどちらも戦争によるもので、同じ痛みを共有しています。世界では今も戦争が繰り広げられていますが、争いをやめ、化学兵器や核兵器は廃絶しなければなりません」
…この言葉通り、彼は純粋に広島で戦争の悲惨さを語りたいのだと思う。→ ただ、こうした母国の〝変化〟も、彼の人生の選択に何かしらの影響を与えたのではないか…そう思えてならない。
 〔※最近、「来日ベトナム人の犯罪の急増(中国人を追い抜いた)」という報道が流れたが(〝技能実習生〟として入国したベトナム人の若者が、福島で〝除染作業〟をさせられていた、というニュースもあった)……今後、(親日国と言われている)ベトナム(の捻れ現象)は(インドも?)…アジアの中で(日本にとって)注視していくべき国の一つかもしれない…〕

○六本木の「現代のハプスブルグ家」

・先日、六本木の某有名外資系企業のオフィスで、「未来の日本の縮図」を見た思いがした……その企業の中心スタッフは、人種も国籍も多様で、ハーフやクオーターらしき人も少なくない。…バイリンガル、トライリンガルが当たり前で、全員が流暢な英語でディスカッションをしている。 (※う~ん、ハーフのこの著者の、理想の光景か…?)

・一方、まったく毛色の違うグループもいる。…受付で来客のセキュリティをハンドリングする超美人の女性チームや、技術室で複雑な器具を管理するスタッフ、そして黙々と動く出入り業者――そうした人々は若い日本人で、それぞれの現場を動かす実働部隊…。
→ 決定権を握るグローバルエリートと、その指令を受けて職人的に任務を遂行する日本語話者。…そこには明確なピラミッドが存在していた。
 (※う~ん、グローバル企業による日本の〝植民地化〟…?)

・イギリスの作家オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界(Brave New World)』(1932年) というSF小説がある。…人類は管理された工場で〝生産〟され、生まれつき階級に分けられ(※カースト制?)、役割が決まっている。→ 醜い姿の最下層は、上流階級のためにひたすら労働するが、知能が低めに設定されており、不満も持たずに単純な報酬で満足する――そんな近未来を描いたディストピア小説。

・六本木で見た…多国籍エリート層と、それを支える優秀な日本人労働者層…という構図。→ 日本でも本格的な「階層社会」の到来が近いことを予感させられた。

 〔※『新・日本の階級社会』講談社現代新書2018.1.20…(帯文…もはや「格差」ではなく「階級」…900万人を超える新しい下層階級が誕生。日本社会未曽有の危機。…豊かな人はより豊かに、貧しい人はより貧しく――「日本型階級社会」の実態!!!…▲ひとり親世帯の半数(50.8%)が貧困層の社会。▲男性の3割が経済的理由から結婚できない社会。▲中間層は「上昇」できず、子どもは下の階級に転落する社会。▲1980年前後から始まった「格差拡大」は40年近くも放置され、「一億総中流」はもはや遠い昔。)…(発売即5万部突破!)らしい…〕

・英語を学び、外資を呼び込むことでしか発展できなかったシンガポールのような国とは違い…日本には、1億人規模の国内市場がある。…(それはある意味で幸福かつ幸運なことだったのだろうが)この平穏な〝ガラパゴス社会〟は、〝グローバル化〟という世界的潮流と〝少子高齢化・人口減〟という国内事情により、そろそろ崩壊に向かい始める。
→ 今後は、〝グローバルエリート〟が社会のトップで活躍するのみならず、様々な職種の現場に、各国から労働者が流れ込んでくることだろう。

・日本人の多くは「変わらない」ことを望み、面倒には向き合わず、課題を先送りにしてきた(※まあ、確かに…)。…「狭い範囲の中でも幸せがある」と、自分たちを慰める人も少なくない(※う~ん、「里山資本主義」なども、ここに括られてしまう?)。…英語が必要な仕事なんてごくわずかだ――そう言って、努力のいらない世界に逃げ込もうとするのだ。
 (※う~ん、かなり〝挑発的〟…)

・数年前、ある著名な左派知識人(※誰?)の〝Back to Edo era !(江戸時代に戻ろう!)〟というツイートが話題になった。→ 心配しなくても、そう望む人は江戸時代の庶民生活に戻れる。…(徳川家ではなく)グローバルエリートという〝現代のハプスブルグ家〟が支配する階級社会の下層で生きることが前提になるが…。

・未来を悲観しろと言いたいわけではまったくなく、むしろ日本に生まれた時点で、途上国出身者よりもいろいろな面でアドバンテージを持っていることは間違いない。努力が実を結びやすい環境にある――それさえ理解できれば、やるべきことは自ずとはっきりするはずだ。
 (※う~ん、それほど簡単に〝やるべきこと〟がはっきりするとは思えないが…)

(3章…了 2018.4.30)                                 


〔追記……この3章までで、全体の6割ほど終えたことになりますが…(特にこの3章で)体力&知力(この程度です)を使い切った感があり…残り(4~6章)は、また別の機会にしたいと存じます。…(いちおう「中断」という扱いです)…〕
○ちなみに、残りの「4~6章」は……

(4章)日本人が知らない「日本の差別」――在日・移民・フェミニズム
…この章は、今ホットな話題になっている…「女性差別」や「移民」「在日ヘイト」などの問題について、〝国際標準〟と対比させながら、かなり説得力ある論を展開しており…この章まで頑張って(老身にムチ打って)レポートするか…と思いかけたのですが…。

 (5章)日本のメディアに明日はあるか――マスコミの罪とネットの罪
…この章は、(ツッコミどころ満載?で)読むだけでも疲れてしまう…
→ この時点で(これは3章以上にてこずりそうで)、〝レポート続行〟を(主に健康不安で)断念しました。

 (6章)タブーへの挑戦――パイオニアたちの闘い
…この章では、「大麻解禁」は世界的潮流だということ…(これは日本では、まだそれほど緊急性のない問題だろう、という印象を持ちましたが…モーリー君はかなり力を入れていた…)。
…あとは、ナオミ・クラインやムスリム・フェミニストの活躍やオバマについて…(モーリー君はオバマを高評価)。

→ つまり、「4~6章」は、(テーマが比較的はっきりしているので)…今後タイミングを考慮して、テーマ別に(番外編として)取り上げてもいいのではないか…と判断しました。
(主観的には…3章までで、モーリー君の挑発的な〝毒気〟を、ある程度は〝解毒〟できたかな…という印象を持ちました。)

→ 従って…今後2ヶ月(?)ほどは、本の整理(廃棄)などをやりながら(本棚があふれて本が置けない! 家庭の事情で本棚は増やせない!)、次回以降の「未来論」のネタ本に目を通していく予定です。