2014年9月14日日曜日

『日本農業への正しい絶望法』




震災レポート 25



     震災レポート・拡張編(5)―[農業論 ②]


                                中島暁夫






韓国で深刻な海難事故が起きた。中古フェリーの無理な(?)増築、安全性をまったく無視したような過積載と杜撰な積荷管理、未熟な(?)操船、そして極めつけは船長たちの(多数の高校生を含む)乗船客の避難誘導の放棄…。韓国メディアは自国を三流国家と嘆き、その対比に日本の過去の海難事故に対する適切な対処を挙げたという。しかし、すでに福島原発事故における我が国の対処の有様を経験してしまった今、この隣国の海難事故を、とても他人事とは思えないはずだ。…そうした自戒の念を持って、この国の農業問題にも入っていきたいと思う。

 
                                         
『日本農業への正しい絶望法』 神門善久
(新潮新書)2012.9.20  ――[前編]  (2012.10.20 4刷)



〔著者(ごうど)は1962年島根県生まれ。京都大学博士(農学)。明治学院大経済学部教授。著書に『日本の食と農』『さよならニッポン農業』など。〕


【まえがき】

・冷酷な事実を伝えよう。いまの日本農業は、形ばかりのハリボテ化に向かって一目散だ。よい農産物を作るという魂を失い、宣伝と演出で誤魔化すハリボテ農業になりつつある。それは既存農家か新規参入かを問わない。大規模農業か小規模農業かを問わない。有機栽培か慣行栽培(農薬や化学肥料を使った農業)かを問わない。農業者の老若男女を問わない。全面的なハリボテ化だ。
・もともと日本には優れた耕作技能があった。おいしくて安全な作物を自然環境と調和しながら作る技能があった。ところがその技能がどんどん死滅しているのだ。…耕作技能を磨いてよい農産物を作ったとしても、消費者の舌が愚鈍化したため、良し悪しがきちんと評価されない。…土地利用規制の骨抜きが進み、農業者は地力投資に専念できない。…これに追いうちをかけたのが、福島原発事故による放射能漏れだ。どんなに耕作技能を磨いても、放射能汚染には対抗できない。技能の高い農業者ほど失望が大きい。
・その一方、当面の選挙に勝ちたい一心で、民主党と自民党が競って農業補助金のバラマキを構想する。さらには、ここ数年の「農業ブーム」のおかげで、有機栽培などのもっともらしい「能書き」を準備したり、農業者の顔写真を貼ったりすれば、粗悪な農産物でも高い値段がつくというおかしな風潮がある。このような状況では、農業者の関心が補助金の引っ張り出しや、人目をひく粉飾に向かうのもやむを得ない。だが、そんなことをしていては、当面の金稼ぎにはなるかもしれないが、長期的には農業の実力を失うだけだ。
・本来ならば、こういう日本農業の危機を伝えるのが、マスコミや学界の仕事だ。ところが、マスコミと学界は、その真逆で、消費者の舌の鈍化や農業の技能低下から目を逸らした空論を煽っている。
・「改革派」であれ「保護派」であれ、両者は農産物貿易自由化の是非などでしばしば対立するかのように見えるが、それは見せかけにすぎない。両者とも日本農業のハリボテ化という厳しい現実から逃避し、空論を交わすことで馴れ合いの猿芝居を演じているのだ。
・この猿芝居を止めに入ろうとすれば、両陣営から憎悪の目が向けられ、四面楚歌も覚悟しなければならない。私は、四面楚歌を受け容れるつもりだ。…本書は日本農業の本当の問題はどこにあるのかを明らかにしたうえで、どのような方策が残されているのかを検討する。現状も未来も決して甘いものではない。しかし、ここから始めなければ何も好転しない。…もう遅すぎるかもしれない。本書の挑戦は、単なる犬死で終わるかもしれない。それでもなお真実を伝えるのが研究者としての私の責務だ。(※この意気やよしか…)

【1章】日本農業の虚構

1.二人の名人の死 (二人の名人のエピソードについては、P15~18)

・耕作技能の低下こそが日本農業の最大の危機。→ 中身のないハリボテ農業 → 技能がなければ、農薬依存か「名ばかり有機栽培」に陥る。→ どちらのケースでも、農作物は健康に育たず、栄養価も下がる。
・〔具体例〕堆肥づくりの劣化…各地の農業名人は、「土作り」の重要性を指摘。つまり、作物の生育に適した土壌条件を整えること。→ 堆肥づくりは「土作り」の肝。…畜糞を完熟させておらず、堆肥としての有用性が失われている。
・そもそも現在の農業者の多くは、堆肥と肥料の違いといった基本的な区別ができていない。堆肥…家畜の糞尿を炭素源と混ぜ合わせ、天然の微生物の発酵作用によって窒素を一時的に固定させて安定化させたもの。(肥料の場合は、窒素などの作物の生育に必要な成分の供給を目的としているが)堆肥の場合は、窒素分が固定されていて窒素分の供給を目的としていない。…両者は明確に区別されるべきもの。→ この区別もつかないような農業者では、まともな「土作り」なぞできない。(※う~ん、難しい…。肥料ではなく堆肥を推奨している…?)
・天候不順による影響も、病害虫の大量発生も、技能低下が一因。
・技能習得に専念しにくい状態
①「能書き」やら生産者の顔写真やらの演出・宣伝が偏重されるようになり、消費者が舌で農産物のよしあしを判定する習慣を失った結果、よい農産物を作るよりも、演出や宣伝に力を入れたほうがトクという状態にある。〔「川下(消費者)問題」〕
②農地利用が無秩序化し、いくら本人が耕作に励んでも、周辺で不適切な農地利用をされて台無しになる危惧がある。〔「川上(農地)問題」〕
③2011年3月以降は、原発事故による放射能汚染問題も。→(4章と7章で詳述)

2.有機栽培のまやかし

・有機栽培を謳っている農産物の大半は、自然環境に悪くて食味も悪い。これが全国各地の農業視察をしてきた著者の実感(※う~ん、しょっぱなから強烈な一発!)。…堆肥や有機肥料の原料は家畜の糞尿。→ 技能のある農業者が、適切に処理された家畜の糞尿を使えば、確かに環境にも良いし品質の高い農産物を作ることができる。←→ だが残念ながら、技能不足の農業者が多いし、処理が不適切な家畜の糞尿が大量に出回っている。
・処理が不適切な家畜の糞尿が農地に不用意に投入されると、土壌が窒素過多となる。…窒素自体は植物にとって栄養だが、多すぎては害毒になる。→ 窒素過多の土壌で育った農産物は品質が悪い。→ しかも、植物に吸収されなかった畜糞の成分が、河川や地下水へと染み出し、水質汚染を起こす。…農業起源の窒素過多が、都市住民の飲料水にも悪影響を与えているのではないかと危惧されるケースもある。(※著者は、具体的に地名を挙げるのは差し控える、と言っているが、具体的なデータがある、ということか…?)
・畜産の大型化によって大量の糞尿がでるようになった。→ 糞尿処理のために、増殖力が強いが有用性に乏しい微生物(EM菌など)を注入したり、強引に熱処理したりして、とりあえず堆肥らしくみえるものを作るということが横行している。…これらは、いわば「堆肥もどき」にすぎず、作物の品質向上にも環境保全にも資さない。(※主目的は、〝産業廃棄物〟と化した家畜の糞尿を、効率的に処分・再利用しようということか?……これと同様のことが、戦後の「化学肥料」でも行われていたということを、次回以降に取り上げる予定…)
・悪臭公害の原因となる家畜の糞尿は、市町村にとっても処理に窮する産業廃棄物。→ 行政は公営の「堆肥センター」を作って、「堆肥もどき」を生産し、その使用を熱心に推進する。→ 農業者も消費者も乗せられて、「堆肥もどき」を多投して作られた農産物が、「有機栽培」という能書きを付け、あたかも環境によくて高品質の農産物であるかのように喧伝されているケースが散見される。…「有機農業のまち」という看板で宣伝していても、「堆肥もどき」を農地にばら撒いているだけという場合もある。(※う~ん、驚くべき〝不都合な真実〟…?)
・逆に、農薬や化学肥料を絶対的な悪と決めつける理由もない。…そもそも農薬といっても木酢(もくさく)のように江戸時代から使われていて、環境への負荷も小さいものもある。尿素系の肥料は化学肥料に分類されているが、内容物は有機物。→ このように、農薬かどうかや化学肥料かどうかは、境界線を明確に引けるようなものではなく、絶対的な基準とは考え難い。(※境界線は絶対的なものではない、というのは、何事にも言えることだろうし、その点では首肯できる。ただ、木酢とか尿素系の肥料とかは、例外的なのでは…?)
・要するに、環境に適合的においしい農産物を作れるかは、有機栽培かどうかの問題ではない。農業者に技能があるかないかの問題。→ 技能がないままに有機栽培をすれば、不出来な農産物しかできないし環境も破壊する。技能のない者は、農薬や化学肥料を普通どおりに使った「慣行栽培」のほうがまだましな場合が多い。……残念ながら、農業者の年齢や規模の大小を問わず、全国的に日本農業の技能低下が深刻だ。技能のない農業者の作った「名ばかり有機農産物」が増える一方だ。(※う~ん、このあたりが本書の肝か…そして前回の久松氏の見解にも近い印象…。ただ、そんなに「名ばかり有機栽培」が全国的に多いのか…?)
・本来ならば、「まともな有機農産物」と「名ばかり有機農産物」を峻別するのは消費者の仕事。きちんとした味覚を持っている消費者なら、両者の味の違いは明々白々。←→ ところが、今の消費者は、舌ではなく「能書き」で農産物を評価する傾向が強い。…「地産地消」「食育」「こだわり」などのスローガンや生産者の顔写真やらを付けて売られ、それを消費者がありがたがって買っていく(※当方も舌には全然自信がない…)。(詳細はP25~26)
・農業者が「直売所」を不良品の処分場所に使っている場合もある。…最近はスーパーや外食産業などが、農薬の過剰散布を防ぐためのチェックをしているが、直売所ならそういうチェックを免れられるから。直売所を「ごみ箱」と呼んでいる農業者もいる(※ホントかよ…)。もちろん厳しく品質管理をしている直売所もあるのだが、直売所が乱立する中で、杜撰なところも散見される。(※直売所は新鮮で、スーパーや外食店が〝農薬まみれ〟と思っていた…)
・また都市近郊の場合、その農地が都会の汚れた空気や水に晒されている場合もある。そういう環境で育った野菜は品質も悪くなりがち。(※都市近郊では「地産地消」はNG…?)
・流通経費や省エネの点でも、地産地消がよいかは疑問。…ex. スーパーの大根が100円の場合、農家に渡るのはせいぜい30円程度で、差額の70円は流通マージン。だが、このうち輸送経費はせいぜい5円程度。→ つまり、流通マージンの大半は小売マージン(スーパーでの小売値と仕入れ値の差額)であり、消費者への利便性への対価。…営業時間中目ぼしい野菜をきらさずに置くためには、スーパーは無駄を覚悟で多めに仕入れ、小家族に合わせて、ちいさくカットするなど手間もかかる → 小売値を仕入れ値よりも大幅に高くせざるを得ない。…また省エネのためなら、輸送経費なぞというチマチマした部分ではなく、家庭や小売段階での冷蔵を減らす努力のほうが効果的。…そもそも野菜をナマで食べるのは、もっぱら戦後の習慣(※そうなのか…)→ 野菜を煮しめやおひたしにすれば、常温保存ができるし、たくさん食べられるから栄養摂取もよくなる。また、よい農産物は日持ちもする。…要するに、消費者によい農産物の選別能力があり、家庭で適切な処理をすれば、地産地消などよりもはるかに効果的に、保蔵のための無駄な費用や化石エネルギーを節約できる。(※う~ん、久松氏は「野菜の鮮度」の観点から、遠方からの長距離輸送には否定的だったが…。また「里山資本主義」では、地産地消は地元でお金を回す、という観点から支持されていた。…様々な観点の中での優先順位の問題、ということ…?)
・コメについて、「まともな有機栽培」「名ばかり有機栽培」「慣行栽培」の三つを比較するための簡単な腐敗実験(詳細はP29~30)。…腐るということは、大気中の腐敗菌が入り込んで増殖すること。→ 「まともな有機栽培」の場合は、この腐敗の速度が遅い。腐敗菌が入ってきても、コメの中にある微生物と共存するため、腐敗菌だけが増殖するという事態にならないから。…「慣行栽培」は、農薬などで他の微生物が殺されているので腐敗菌が増殖しやすく、腐敗が早い。…だが「名ばかり有機農産物」の場合は、「慣行栽培」よりもさらに早く腐敗する。農薬を使っていないから、コメの中には微生物はいる。しかし、それ以上に窒素過多で育ったため、コメの細胞が弱っている。肥満児に骨折が多いのと同じで、窒素過多は外からの刺激に対する対応能力を下げる(※人体における広義の免疫力のようなものか…)。
・名人農家のコメは、お粥にしても形が崩れない。それは健康的に育ったので細胞壁がしっかりしているから。同じく名人農家の野菜が日持ちがよいのも、やはり細胞壁がしっかりしているから。同じ理由で、名人のタマネギは皮をむいても涙が出ない。タマネギの細胞の中に涙腺を刺激する物質があるが、細胞壁がしっかりしていれば、それも細胞の中に閉じ込められるから。
・名人農家のピーマンには、野菜の「えぐみ」(渋っぽい匂いと味)がない。野菜嫌いの人は、この「えぐみ」を嫌っている場合が多い。この「えぐみ」の正体は硝酸態。→ 技能のない農家はどうしても窒素過多になるが、過剰な窒素が硝酸態をとりこむ。名人農家は必要なときに必要なだけ窒素を供給するから「えぐみ」が抑えられる。←→ 最近、品種改良で野菜を甘くして食べやすくしようとしているが、それでは野菜本来の味や匂いが消えるし、ますます農業者の耕作が安易になりそうで、邪道に思える。(※著者は安易な品種改良にも批判的…)
・昨今、農産物の売れ行きは、中身ではなく話題性という風潮があるが(ex. 渋谷の若い娘に農作業の真似事をさせた「シブヤ米」など)、その結果、演出や宣伝ばかりが重視され、技能が軽視されるという傾向がある。←→ 名人農家は、農地で風や草や昆虫などが発するメッセージを聞くことに傾注する。その感覚は、商工業に携わる者とは異質だし、ましてや消費者に演出や宣伝をするという感覚にはなじまない。→ 本当に消費者が農業者に技能の修得を望むならば、舌で農産物を評価し、演出や宣伝だけのハリボテのような農産物に「駄目」を出さなくてはならない。しかし、残念ながら、今それだけの舌を持っている消費者がどれだけいるだろうか?(※かくして著者の、〝日本農業への絶望〟は深まる…)

3.ある野菜農家の嘆き

・「担い手育成事業」と銘打った農水省と県による公共事業…農業の機械化に適合した農地・水路・道路を造成するというのが表向きの趣旨。…農業者の負担金は事業費の5%で、残りは財政支出。←→ しかし、この事業は農業潰しのための土木事業。…道路が広がり、土地の形が整えば、農業機械は動かしやすくなるが、それ以上に、住宅への転用が進んでしまう。行政側も説明会で、「この事業を入れても、8年経てば、農外転用できる」という趣旨の発言。
・農業への意欲が薄い兼業(片手間)農家は、宅地にすれば農地の100倍近い坪単価がつくこともあるので、「おいしい話」だ。土木事業を請け負った土建会社もトクをする。…また日本は土地利用計画が甘いから、めいめいの勝手気ままで転用されてしまう。→ バブル時代の無計画な開発事業は、20年を経た今も、全国各地で塩漬けの低利用の土地を生み出し、地域経済全体の足をひっぱっている。…このように、この「担い手育成事業」は非農業部門の活性化にもならない。…トクをした地権者や土建会社にとっても、それは目先の利益にすぎない。→ 不労所得の存在は、えてして勤労意欲を失わせ、人生をゆがめる。公共事業頼みの土建会社は、早晩行き詰まる。(詳細はP35~41)
・このように公共事業の最大の被害者は、将来世代。→ 「担い手育成事業」の後、やがて蚕食的に無秩序な農地の転用が始まるだろう。それは国土を荒らす。農業に専念できる環境ではなくなり、耕作技能も失われてしまう。…このままでは、荒れた国土と、耕作技能の喪失という負の財産を、我々は将来世代に一方的に押しつけることになる。(※う~ん、これも原発の廃炉や放射性廃棄物の処分と同じような構図か…)

4.農地版「消えた年金」事件

・マスコミや「識者」のいろいろな議論や提案を、すべて無意味にするほど、日本の農地行政は破綻している。…そもそも、どこにどういう農地があって、所有者・耕作者が誰なのかという正確な情報がない。つまり、農地行政の基本になる「農地基本台帳」(いわば社会保険庁の年金記録、市役所の住民票に相当)の記録が、不正確そのもの。(詳細はP43~46)
・この背景には、日本社会における民主主義への誤解が潜んでいる。→ 民主主義には2つの基本要素…①私権(私の権利)の主張で、市民が自己の利益を主張すること、②市民参加で、市民が行政の一端を担う責務を負うというもの。
・私権の主張については、戦後60年を経た今、日本は欧米に完全に比肩する(※う~ん、たとえば労働問題などそこまで行っているか…?)。しかし、市民の行政参加については、日本はまったく遅れている。そもそも、私権の主張と民主主義を混同している場合も少なくない。…市民の行政参加が求められるのは、個々人の身近な問題で、価値観が衝突しがちな問題。その典型が土地利用。
・欧米では、土地利用計画の合意を形成するために住民自身が時間と労力を投入するのは当然のこととして受け入れられている。→ 住民自身が議論を重ねて策定した土地利用計画には、遵守の意識も高まる。土地利用計画に違反しているかどうかも住民同士がシビアに観察・判定し、違反に対しては課徴金や退去要請などを遠慮なくつきつける。←→ これとは対照的に、日本の場合は、土地利用計画の策定も運用も行政任せで、個々人は、お互いに話し合わない。…行政の決定は、いわば「他人が決めたこと」であって、住民自身に当事者意識がない。→ 行政の決定に対して不満があれば行政を攻撃するが、住民自身が土地利用計画の策定や運用には決して関わろうとしない。遵法意識も薄弱になる。→ 誰か一人が違法・脱法行為をすれば、それをとがめるのではなく、「彼がやっていいなら自分もやろう」という、悪の連鎖が起こる。
・我々が、市民の行政参加を欠落させてしまったのは、そもそも日本社会が民主主義をきちんと理解していないことを示している。←→ 欧米では、名誉革命以来の何百年という歴史の中で民主主義を育ててきた。このため、私権の主張と市民の行政参加のうち、どちらか一方のみが突出するということは起きにくかったと思われる。←→ これに対し、日本は、本格的に民主主義を導入してから、たかだか60年程度の歴史しかない。しかも、民主主義を自ら開発したのではなく、基本的には欧米の模倣だ。→ 私権の主張という模倣しやすい部分のみを模倣し、市民の行政参加という模倣しにくい部分をさぼってしまったとみることができる。…また、日本社会は構成員の同質性が高いため、意見をたたかわすという習慣が不足している事情も、市民の行政参加をなじみにくくしたかもしれない。
・農地版「消えた年金問題」における情報管理の杜撰さは、「本家」の社会保険庁の事例にも優るとも劣らない。だが、社会保険庁の場合(職員の怠慢が問題の元凶)とは違って、地権者エゴという問題の元凶が市民の側にある。…市民は、行政の怠慢を批判するのは好きだが、自身が市民としての責任分担を負うのは嫌う。このため、市民は、農地版「消えた年金問題」の存在すら認めたがらない。…かくして、どんどん解決から遠ざかっていく。(※今、「東北被災地の復興計画」で、日本は、壮大な〝民主主義の実験〟を行っている、ということか…)

5.担い手不足のウソ

・〔3年前に農業Ⅰターンで新規就農した20歳代の若い夫婦(農学系の大学卒)の事例〕…町役場の斡旋で、耕作放棄同然の畑地を借りた。所有者は80歳近い高齢者で、長年、農薬を使い過ぎた影響で、Bさん夫妻が農地を借りたときは、地力(土地の生産力)はすっかり失せていた。→ それでも3年かけて農作物が育ちそうなところまで農地を回復させて、漸くこれからだという時に、Bさん夫妻は貸借契約の打ち切りを通告される。もっとも管理に手間のかからない栗園にする予定だという。…どうやら、所有者の子息(将来の相続人)が、Bさん夫妻に農地の地力回復だけをさせて、Bさん夫妻が農地利用の権利を主張し始めないうちに、追い出したかったようだ。(※う~ん、ひどい話だ。ほとんどサギ行為ではないか…)
・マスコミでは、「農業の担い手不足」が報じられる。農業就業者の約2/3が65歳以上の高齢者であり、農地の約10%が耕作放棄されているという現状が、農家の「窮乏」として報じられる。そして「若者や企業などの新規就農を促進しよう」という政策提言に、したり顔の「識者」が解説を付する。…しかし、地権者(農地所有者)は担い手不足で困っているばかりではない。担い手が現れるのを警戒している場合も多い。…極端な場合は、「担い手育成を名目として補助金は欲しいし、マスコミ集めのための数年間限りの農業参入は歓迎するが、決して担い手にはムラに定着してもらいたくない」という場合がある。
・耕作放棄面積の拡大速度では、条件の悪い山がちな場所より、平場の優良農地の方が速い。そういう農地の所有者の中には、節税や宅地などへの農外転用の目的で農地を持っている場合がある。…国土が狭隘な日本では、農村部でも、つねに農地に潜在的な転用需要がある。とくに、優良農地ほど転用への潜在需要は強い。→ 優良農地の条件は、平地で、農地の形状が整っていて、水はけや日照がよく、道路へのアクセスがよいこと(農業機械の搬入や農産物の集出荷など)。→ これらの条件は、まさに、商業施設、公共施設、住宅を建てるときの好条件と重なる。
・優良農地は固定資産税・相続税が減免される見返りとして、転用が規制されていることに表向きはなっている。しかし、転用規制は抜け穴が多い(※日本は〝抜け穴〟だらけ…)。→ とくにここ数年は、法律の条文上は転用規制強化を装う一方(※〝霞が関文法〟!)、運用面で転用を容易化する傾向が進んでいる(※利権を守るための官僚の得意技!)。…適当な転用事業に行き当たるまでは、農業を装って節税し、機を見て売りぬきたい、というのが大多数の地権者のホンネ。
・従って、農地の転用機会を狙っている地権者にとっては、農業に熱心な若者が集落内にいては困る。農業に熱心な人ほど、「土作り」のために同じ農地を継続的に利用することを望むから。…つまり、転用機会に遭遇したら、すみやかに転用するというのが、地権者の最大関心事になる。→ そこで、とことん省力的な農業(稲作や栗、花畑など)を自ら行うか、いつでも返却に応じてくれる人に限って貸し出す。農地を返してもらえるかどうか心配するくらいなら、耕作放棄を選ぶ。
・つまり、高齢化も耕作放棄も困窮を意味するのではなく、地権者の贅沢な算段を意味している場合も多い。もちろん、地権者は、そのホンネを、マスコミや「識者」の前で語ることは稀だ。…人間というのは、おいしい金儲けのネタを隠すために、でっちあげのストーリーを展開することがよくある。それは農家でも非農家でも同じだ。(※う~ん、リアル…!)
・しかし、農家の場合はでっちあげのストーリーが堂々と通用するという特徴がある。…農家にはノスタルジックなイメージがあって、「農家は純朴で善良」と決めつけがち。→ 農家が、「担い手不足で困っている」という定番の答えをすると、マスコミや「識者」によって同情的に取り上げてもらえる。うまくすると補助金も引き出せる。
・表向きは、どの市町村でも若者の新規就農者を歓迎する。確かに最初の数年間は褒めそやされる。…しかし、決して、新規就農者には「おいしい金儲けのネタ」には触れさせない。

6.「企業が農業を救う」という幻想

・「これは作物の虐待だ」…異業種の農業参入で注目を集めているC社とD社の農場を一見して感じた。とにかく、生育不良そのもの。にんじんなり枇杷なりが生えてはいるが、素人目で見ても弱々しくみすぼらしい。だいたい、その地域の気象や地質と作物の相性を全然考えていないのではないか。
・「民間企業のノウハウを使えば、よりよい農業がビジネスとして成立する。それは食料自給率低下に悩む日本国の国益にもなる」と語る経営者。…こうした企業は、耕作放棄地の復元や若者の新規就農の支援を実現する、社会的正義の担い手であるかのように報道されている。…だが、そういう記事を書いている記者たちは、農地の現状把握についてはろくに取材していないのではないか。
・企業が農業参入するというだけで、マスコミが大々的に取り上げてくれる。しかし、その多くは赤字続きだ。…都心の植物工場で人目をひいている事例があるが、これも膨大な資金投入で支えられているのであって、ビジネスモデルとしては異様だ。
・なぜか農業に関しては、参入や連携をするだけで宣伝効果を持ってしまう。→ 宣伝効果を最大限に発揮するためには、新規参入企業の農産物の品質は粗悪でも構わない。先述のとおり、いまの消費者は農産物の品質自体ではなく、「能書き」などの周辺材料を重視する傾向が強いから。→ 宣伝や演出の戦略にあわせた農業生産をさせるためには、経営者の意のままに生産現場を動かしたい。→ つまり、農業生産の現場では、なまじ耕作技能はないほうがよい(耕作技能がある農業者ならば、農地の状態を最優先にして作物や農法を選択しようとするから、経営者の意に沿うとは限らない)。実際、C社やD社の元労働者の話を聞くと、まともな耕作技能の訓練を受けていないよう。→ 現場の農業者を未熟なままにしておきたいのだ。
・要するに、そういう企業は農業ではなく広告をしたいのだ。アルバイトや派遣社員の感覚で人を雇って農作業に従事させ、「見世物」の農業をしている。→ しかし、そんなことを何年やっても、農業者の技能は上がらない。そんなやり方では、農業の担い手育成にはむしろ逆行するのではないか。
・「新たな動き」の虚構は、C社やD社に限ったことではない。近年の日本社会では農業を美化して、「新たな動き」の可能性を議論するのが大流行だ。「農商工連携」「六次産業化」「地産地消」「ハイテク農業」「半農半X」「食育」「定年帰農」…様々なスローガンが作られ、それらを提唱することがインテリの証明という雰囲気がある。しかし、威勢のよいスローガンが乱発されるときは用心したほうがよい。それは、戦前・戦中の経験から明らかではないか。(※う~ん、まとめて一刀両断か…それぞれ内容が違うので、ちょっと無理やりな気もするが…)

7.「減反悪玉論」の誤解

・減反政策の撤廃を求める声が巷間ではにぎやかだが、この議論は重大な事実を見落としている。それは、今の日本には文字通りの減反政策は存在しないということ(詳細はP59~60)。
つまり、2004年の食糧法改定によって、文字通りの減反政策は終了した。
・今のペースでコメの消費が減少すれば、2020年には水田の6割は不要になるという推計もある(※『炭水化物が人類を滅ぼす』なぞという本もベストセラーに…)。…2004年以降は政府が積極的な関与から手を引いてしまっているのに、6割もの生産調整をするのは不可能。→ つまり、現行の生産調整政策は、「識者」が批判しようとしまいと、早晩、全面崩壊が見込まれる。…問題は、その後だ。供給超過になって米価が大幅に下がるのは明白だ。かなりの混乱が予想される。→ だから理念論として減反反対を言ってもあまり意味がない。むしろ、生産調整破綻後をどうするかを議論する方が大切だ。(※TPPどころではない…?)
・なお、生産調整については、理念と実態の乖離が二つの面で起きている。①生産調整を書面上だけ申し出て生産調整補助金を受給し、実際には生産調整をしていないケースが散在している。…JAの弱体化によって、そういう不正をチェックできなくなっている。②すでに水田には戻らない状態まで畑地化していながら、補助金を受給しているケースがある。→ どういう政策が望ましいかを理念として議論するよりも前に、運用面での具体的問題こそ議論が求められる。(※う~ん、先のズサンな「農地基本台帳」の問題といい、日本の農業は基本的な土台の部分からグラグラの状態か…?)

8.「日本ブランド信仰」の虚構

・マスコミでは「日本の農産物は安全安心で高品質」とか「日本の農産物が中国はじめ世界各地で大人気」というたぐいの報道が氾濫している(福島原発事故による放射能漏れが起こるまではとくに顕著だった)。…だが、そういう報道にどれだけの根拠があるのか? 舌が愚鈍化した日本人に農産物の安全性だの品質だのがわかるのか?
・中国はじめアジアの近隣諸国の追い上げにあって、日本の商工業(家電など)はすっかり沈滞している。価格だけでなく品質面でも、着実にアジア諸国は向上しており、日本ブランドは揺らいでいる。…こういう中にあって、何かで国産品の優越を誇りたいという心境の捌け口が、国産農産物礼賛につながった可能性がある。(※う~ん、一定の説得力あり…)
・高品質やエコ志向の農産物の生産・販売に、高所得国は有利だ。…低所得では消費者の関心は農産物の量的確保に向かいがちで、品質や環境保全を言っている余裕はない。→ 高所得の人口がまとまって存在している日本だからこそ、高級農産物への需要がある。また、高級農産物の流通のためには、コールドチェーン(低温流通体系)など高度な流通インフラが必要で、これもまた、高所得国でなければ実現は難しい。
・しかし、中国はじめ経済成長目覚ましいアジアの隣国は、急速に所得水準を高めている。→ アジアで膨張するニュー・リッチが、当面、手っ取り早く質志向の農産物を手に入れようとすれば、日本産が魅力的に映るかもしれないが、そういう日本産への人気は一時的なものと見るべき。…農産物においても、家電の場合と同様に、品質面でも追いつき追い抜かれるのは時間の問題と考えるべき。また、遠からず流通インフラも整うだろう。
・すでに、原発事故以降、シンガポールなどの従来の日本産農産物輸入国に中国などが攻勢をかけている。…日本国内でも中国産農産物が国産と偽装されて流通するという事件が発生しているが、実際、それらの中国産農産物は品質面では国産と区別がつかない。
・安全基準についても、国産品に懸念がある…日本の保健所は、発がん性や食味に問題があっても、防腐効果の強い処理(ex. 加工食品へのソルビン酸カリウムの添加)を指導する傾向がある。→ 日本人が見た目を気にすることに加え、日本人の行政依存が高いので(※ここでも「お任せ民主主義」…)、O157などによる食中毒といった「目に付く脅威」を減らしたい、という意識が保健所にあるからだろう。…また狂牛病対策でも日本の対応には疑念がある。〔詳細はP65。…また狂牛病については『もう牛を食べても安心か』福岡伸一(文春新書)もある…〕
・野菜の農薬や牛肉の成長ホルモンの残留基準でも、日本は先進国の中では決して厳しいとはいえない(※本書では、農薬に関しては久松氏よりシビアなよう)。とくに成長ホルモン注射は人体への悪影響が懸念されているが、確実に牛を太りやすくさせるので、農家にとっては「禁断の手段」だ。日本では成長ホルモン注射への注意が薄いのではないかと危惧している。最近、国内の去勢のホルスタイン飼育で成長ホルモン注射が増えていると言われる。→ 少なくとも、イメージ論で国産品を礼賛するのは危険だ。
・〔京都大の白岩立彦氏(作物学)の日米比較研究より〕…品種や気象の違いなどを勘案しても、日本の大豆の土地生産性は低い。米国など他の先進国の大規模農業でも、日本では滅多にお目にかかれないほどきめ細かな栽培管理をしている場合が少なくない。→ 日本の農家の耕作技能は、一般に日本人がイメージするほど高いとは限らない。(※う~ん、国産大豆が良いとは限らないのか…)



【2章】農業論議における三つの罠

1.識者の罠

・一般に「学がある」と自任している「識者」がひっかかる罠。(著者自身の経験)…「農業ブーム」のせいか、2008~2010年あたりにテレビやラジオに出演する機会が少数ながらあった。その際に感じたのは「マスコミに出続けたい病」の怖さ。→ 一度、マスコミと縁ができると、政界や財界や官界のトップが持っているような情報を持ってきてくれる。そうなるとますます「識者」らしくテレビやラジオで振舞えるようになる。マスコミの方としても、自分たちの意図したような意見を「識者」に言わせることができるから安心だ。(※う~ん、これが「御用学者」への道か…)
・この作戦は、商工業の問題を論じるときには効果的。…商工業では、一般の労働者は特定の作業を分担(分業)しているだけだから、全体像がつかめない。→ 政界・財界・官界のトップが持っているような情報は、問題や解決策を論じるときに有用。
・ところが農業問題の場合は事情が異なる。…農業の場合、農地が生産活動のすべて。従って、政界や財界や官界のトップが持っているような情報をいくらかき集めても、どういう問題が生じているかは検討がつかない。→ 農業団体の役職員でも、団体活動などで農地から遠ざかると、あっという間に農地の様子に疎くなる。しかも、農業の財務会計は商工業ほどには規格化・透明化されていないため、外部からの経済実態の把握は難しい。
・農学を専攻している農業試験場や大学の研究者でも、耕作の実態について語ることはできない。…製造業が工場という人為的制御が効きやすい環境にあるのとは対照的に、農業は自然という人為的制御が効きにくい環境での生産活動であるため、科学者の知識では対処できない部分が多い。→ 要するに、農業問題の場合は、実際に耕作している者にしか何が問題なのかがわからない。←→ しかし「識者」は、本格的な農業生産には携わらない。
・野良に働く者の心情として、(野良を知らないくせに農業について語る)「識者」に対して猜疑心や警戒心をいだく可能性。→ 農政についてあれこれと発言する「識者」は多いが、彼らのほとんどは耕作については「素人」だ。…おそらく農業ぐらい「素人」が「識者」になってしまっている領域は珍しいのではないか。
・「識者」は野良がわからなくても、「識者」らしく振舞おうとする。「マスコミに出続けたい病」にかかっていれば、なおさらだ。→ そこで、「識者」がひねり出すのが、先述したようにスローガンに頼るという方法。…耳あたりのよいスローガンだから、聴衆・読者も心地よく聞き入ってくれる。→ かくして「識者」は耕作を語ることなく「識者」であり続けることができる。(※少なくとも農業に関しては〝耳あたりのよいスローガン〟には気をつけろ…?)

2.ノスタルジーの罠

・農業問題を語るときに陥りがちなもう一つの罠が「ノスタルジーの罠」。…都市住民は自然から離れ、農業からも離れている。そういう距離があるからこそ、農業や農家を美化する。…「食べ物を作ってくれる聖なる職業」とか「自然に囲まれた人間らしい生活」…そして情緒的に「日本農業を守れ」と主張する場合も少なくない。
・しかし、農家が貧しいとか純朴だと信じる理由はない。零細農家というといかにも貧しそうな印象を持たれがちだが、その多くは年金やサラリーマン兼業で安定的な収入を得て、都市の同世代よりも総じて恵まれている。…ex. 世帯員一人当たり所得で農家は勤労者世帯よりも15%程度高い状態が1980年代以降、続いている。…都市居住者の多くが借家暮らしをしたり、住宅ローンを負っていたりするのに比べ、農家は農地や自宅などの資産を持っている点でも恵まれている(それらの相続税負担も高くない)。…先述のように、農地がらみの錬金術だの、補助金の不正受給だの、邪な金儲けのネタは農業に多くころがっている。そもそも、農家といえば地権者であり、土地の希少な日本では地権者は往々にして強欲だ。
・「美しい農家像」に固執するのは危険だ。かつて戦時体制期の日本では、日本人や日本文化をやたらと美化した。→ その結果、美しくない日本人は「非国民」のレッテルを貼られ、美しくない芸術は「退廃」のレッテルを貼られ、殲滅の対象となってしまった。…「ノスタルジーの罠」に嵌ってしまえば、本人は農業の味方をしているつもりかもしれないが、むしろ農業を殲滅する側に近いと考えるべき。(※う~ん、厳しくてクール…! しかし、ここまで書いてしまって、ゴウド先生、今後、農業視察などに支障は出ないのか…?)

3.経済学の罠

・経済学の教科書は、政府の介入などを排除し、企業の自由な競争に委ねれば、生産効率は最高になると説く。…「経済学の罠」は、この経済学の教科書で学んだことを、そのまま農業に当てはめようという発想。
・この「経済学の罠」に嵌っている人たちは、「官僚や業界団体さえやっつければ、日本農業は劇的に強化され、国際競争力も強化され、農業は成長産業化し、輸出産業にもなる」という論理展開を好む(※アベノミクスもこれか…?)。…小気味のよいこういう主張は「攻めの農業」としばしば表現される。→ そして、農業保護を説く人たちを、改革を拒む守旧派と見立てる。→ かくして「攻めの農業」の論者の自由貿易論と、ノスタルジックな農業保護派による保護貿易論が対峙するというお決まりのパターンが産まれる。…しかし両者は、農業を野良から遊離した理念で語っている点では同類だ。

4.罠から逃れるために

・上述の三つの罠から逃れるための最善の方策は、農業とは何かの根本に立ち返ること(※これは何事においても言えることだろう…)。→ 農業とは、食用の動植物を生育すること。このシンプルな事実に忠実に議論すれば、罠に陥ることなく、稔りのある議論ができる。
・動植物の生理にはいまだに人智を超えた部分が膨大にある(※福岡ハカセも何度も言及…)。ましてや、農地という制御困難な自然環境で動植物を飼育・栽培するのは容易ではない。地形や気候によっても農業のあり方は大きく異なる。…工場という人為的な環境で規格化された商品を生産する工業と比較すれば、農業は自然の摂理に大きく影響される点に特徴がある。
・よい農産物とは、健康的に育った食用の動植物。→ 健康的に育てば、栄養価も高いし、食味もよい。…健康的ということは農地の自然環境と融和していることを意味するから、環境保護にもなる。(※食味と環境保護は両立する…)
・しかし、(にわか勉強の)素人の農法では、動植物は健康的には育たない。食用の動植物を健康的に育てるのは、本読みでできるような生易しいものではない。→ 健康的に農産物を育てるためには、十分な訓練で技能を培い、不断に農地を観察しなければならない。


【3章】技能こそが生き残る道

1.技能と技術の違い

・「技術」と「技能」の違いを一口で言えば、「マニュアル化できるか」。…近代の工場労働(大量生産)では、労働者はマニュアルに沿って作業をすれば、製品を作ることができる。…労働者は、独自の判断や行動は不要。→ 新たな技術が生まれれば、それはマニュアルの変更として表現される。←→ 大量生産の工場と対極をなすのが町工場。…どういう製品をどういう製造過程で作るかについて、おおまかな方針はあるが、常に臨機応変に判断し行動しなくてはならない。…この対応能力が技能。→ 技能はたぶんに職人技であり、科学知識とともに、試行錯誤の経験によって個人的に獲得しなければならない。
・この「大量生産工場のマニュアル化された技術」と「町工場のマニュアル化できない技能」という対比は、「スーパーのパート労働者が作るパック寿司」と「専門店で板前が握る寿司」という対比になぞらえることができる。…このたとえ話は、どちらが正しいとか価値があるということではなく(両方が並存して、消費者の必要に合わせて提供される状態が望ましい)、技術と技能のどちらが重視されるべきかも、目的に応じて変わる。
・18世紀の英国の産業革命は、生産過程を細かい工程に分解し(分業)、それぞれの機器を導入することで、技能のない労働者でも生産ができるようにした(きわめて効率的なシステム)。→ ところが、このような生産工程の分断は、労働者の技能を低下させる。
・従来、ひとりの職人が全工程をこなすことにより、自分の理解力や創意を発揮できた。←→ ところが工程の分解は、従来は職人が担っていた作業を、技能を要しない単純労働に置き換える。…つまり、分業が高度に展開した結果、機械化による技能の解体が行われた。
・19世紀の米国で徹底した分業化・機械化が行われ、「アメリカ型製造システム」へと昇華。それは互換部品の導入で特徴づけられる。→ (その負の側面)…必要なノウハウを技術者に集中させ、工場労働者にはとくに技能を要求せず、労働をも互換部品と同じように扱うようになった(※チャップリンの「モダンタイムス」)。…いわゆる労働の「商品化」。(詳細はP81)
・製造業の場合は、労働を「商品化」し、技能が低下しても機械で補うことができる。また、新たな技術開発のための専門部署が設置され(生産現場と研究開発の分離)、持続的な生産性上昇が可能となる。
・もちろん製造業においても、マニュアル化が困難で、職人的な技能を求められる場合もある。ex. 高級楽器や高級時計の職人や工作用機械の金型作り(東大阪市や大田区の町工場地帯)など。……しかし今日の日本では、徒弟的な修業が嫌われる傾向があり、技能の継承が進まず、いまや日本の町工場地帯の存続が危ぶまれている。…長年、日本の製造業の競争力を支えていたのは町工場の技能。→ 町工場とともに技能が日本から消え去れば、日本の製造業そのものが危機に瀕する。(※日本の農業も、ということか…?)

2.農業と製造業の違い

・自然という、人間の予想を超えてうつろいやすい環境のもとで、的確な措置によって健康的に動植物を生育させる能力こそが農業における技能。
・(名人農家の言)…「経験プラス知識が大切」→ もしも試行錯誤や科学知識がないならば、農業者が何年農地で働いても、耕作技能は形成されない。……農業は自然という人間のコントロールが働きにくい環境で行われる生産活動。→ 単なる生産活動の全体のみならず、自然の摂理に対する理解力が必要となる。…このため、農業の技能養成のために必要な試行錯誤や科学的知識は、製造業よりも幅広い。
・また、農業と製造業とでは、エネルギー源やその使い方が大きく異なる。…農業生産を支えるのは、天の恵みの太陽光エネルギー。→ 光合成によって炭水化物が形成されることで作物が育つ。…農業生産といっても、生産しているのは人間ではなく植物であって、人間は植物の手伝いをしているにすぎない。(※「植物工場」の場合は、太陽光の代わりに「照明」…)
・太陽光エネルギーは無料で降り注ぐが、どの程度のエネルギーになるかは気象次第だし、刻々と変わる。このため、太陽光エネルギーの状態に人間が労働を合わせなければならない。また、どの農地にもほぼ均等に太陽光は降り注ぐので、大量生産(営農規模の拡大)の経済性ははっきりしない。←→ これに対し、製造業で主に使われる化石エネルギーは、人間がエネルギーの発生量を制御する。その際、大がかりな構造物を作るほど、エネルギーが効率的に取り出せる傾向。…これが製造業における大量生産の利益。
・機械の導入の意味も、農業と製造業では大いに異なる。…機械を効率的に動かすためには、環境が固定していることが望まれる。ところが、農業は農地という人為的に環境制御ができない自然環境のもとでの生産活動。→ このため技能の低下を機械によって補うのには限度がある。
・このように、製造業の場合と異なり、農業の場合は、分業化・機械化が進んでも、収益が上昇するとは限らない。→ 分業化・機械化が進んだ欧米でも、政府の補助金なしには成立しないのが現状。…にもかかわらず、日本でも、欧米でも、農業の分業化・機械化は不可逆的に進行してきた。(※「植物工場」の問題点も、この採算性と、「動植物の生理の人智を超えた部分」か…?)
・かつては、農家は自給自足的で自己完結的だった。…農家自身で消費するために穀物も野菜も家畜も育て、肥料や飼料などの投入資材(中間財)も自給していた。→ しかし、経済発展とともに、農業者は作目をしぼって販売目的で生産するようになる。…自給中間財も購入に切り替える。また、農業労働も可能な限り機械に置き換えられる。
・農業で分業化・機械化が進む理由は、労働の「商品化」という製造業で起きた現象が、社会全体に伝播し、農業にも変容を余儀なくさせるため、と解釈すべき。→ 労働の「商品化」は、それまでの社会の価値観を一変させる。…20世紀は製造業(とくに重工業)が飛躍的に成長した時代であり、製造業に適合した人的資源を養成するべく、法制度や学校教育など、社会システム全体が労働の「商品化」に向かって変化する。
・製造業の発達のために社会全体の労働の価値観を変える装置は様々あるが,その典型が学校。…学校は、近代社会が生み出したかなり特異な空間・時間の管理の仕組みとして認識するべき。――「近代社会で必要な知識教授と集団的規律訓練の場として、学校は制度化された。学校は子どもを社会生活からある程度引き離し、強制的に囲い込んだ空間だ。学校の肥大化は、やがて社会が学校で修得したことによって成り立つ(学校が社会を規定する)転倒した様相さえ呈することもある。これを『学校化社会』といってもよい。この20世紀は確かに『学校教育の時代(世紀)』だったのである」(辻本雅史)―― 近現代の学校は、労働の「商品化」を教え込むための社会的装置とみなすことができる。→ 農家の子弟も近代学校に通うことで、労働の「商品化」の感覚を身につける。また、テレビなどの電気製品の普及も、人々に無機的な時間の感覚を覚えさせ、時給など近代的な労働の概念を導入し、労働の「商品化」を推進する。(※このような近代の教育制度を相対化するような視点を、改めて再確認しておくことは、この閉塞的な状況下にあって、大事なことと思われる…)
・つまり、製造業の成長が労働の「商品化」という労働市場の変化をもたらし、その労働市場の変化が農業に波及し、農業生産性を高めるか否かとは無関係に、いわば「玉突き」的に農業においても生産プロセスの分業化と機械化が進む。
・農業における生産プロセスの分業化・機械化は、農業者の技能低下をもたらす。それと同時に、農業機械メーカーや種苗会社といった、農業者以外の業者(の研究開発部門)に生産技術の多くを委ねることになる。農業は大規模化したところで商工業に比べれば高がしれており、自前で専門の研究開発部門を持つことはないから。(※農業者の労働者化…?)
・ただし、農産物の品質を高めるためには、農業者以外の業者が開発した技術を、農地の条件に合わせて調整しなければならない。…農業機械メーカーや種苗会社は、標準化した環境を想定して技術を提供するが、農地条件は千差万別であり、当該農地に応じてどういう調整をするかは農業者自身で判断しなければならないから(※ここが工場労働者とは異なるところか…)。→ 農業の技能が維持されていれば、独自の調整を農業者以外の業者が開発した技術に上乗せできる。…しかし、技能がなければ、製造業の現業部門と同様に、農業機械メーカーや種苗会社のマニュアルに盲従することになり、農産物の品質悪化や気象変動への脆弱化を引き起こす。(※今の日本農業の現状は、圧倒的に後者の方、ということか…)

3.日本農業の特徴

・自然条件…ユーラシア大陸の東側のモンスーン地帯に位置し、多雨と山がちな地形が日本の特徴。…ex. 日本の年間降水量は1728ミリに対し、欧州きっての農業国・フランスは750ミリにすぎない。また、日本の国土は平地が33%だが、欧米の主要国は70%以上。
・植物は、地中から根を通じて養分を吸収し、老廃物を地中に吐き出す。→ このため、同じ土地に同じ農作物ばかりを育てると、土壌の成分がバランスを失い、植物の病気や害虫が発生しやすくなる。…これは連作障害と呼ばれ、欧米農業の最大の頭痛のタネ。→ 欧米では、長い農業の歴史の中で、休耕、輪作、農薬の投入など、連作障害を抑えるための努力が行われてきた。(※なるほど、当方にとっては新鮮な知識…)
・これに対し、日本の稲作では水田という特殊な生産装置のおかげで、農薬に頼らなくても連作障害を抑えることができる。…日本では限られた平地に水田を作り、ゆるやかな傾斜を使って、上の田圃から下の田圃へと、順々に水を送る。この流水が、上流部から養分を運び込むとともに、老廃物を洗い流す。→ 従って、毎年、水稲を育てても、土壌の成分が崩れずにすむ。(※う~ん、新鮮だ…)
・この水田という生産装置は、集落全体での協調が不可欠。…山がちな地形のために降水は放っておけばすぐに海洋に流出してしまい、水資源として利用できない。→ 灌漑設備などを構築し、集落全体で水の利用のルールを作る必要性。つまり、水は集落の共有財産。
・単純な個人主義が通用しない点では、土地利用も同じ。→ 一部の農地で駆虫や除草を怠って病害虫を発生させれば、容易に周辺の農地にも伝播する。→ いくら個々に有能な農業者がいても、集落内に不適切な土地や水の利用をする者がいれば、その能力は発揮されない。…つまり、日本農業では、技能の養成のためにも、集落の秩序が必要。
・さらに、堆肥を使った「土作り」の発達も日本の特徴。…「土作り」とは、土壌の生物的特性・物理的特性・化学的特性を農産物の生育に適合した状態にすること(※まさにリンゴの木村さんが悪戦苦闘したこと…)。→ 「土作り」の肝は堆肥(畜糞をおがくずなどの炭素源と混ぜ合わせて発酵させたもの)。…いろいろな種類があり、堆肥作り自体が熟練を要する。さらに、どういうタイミングでどれくらいの堆肥を鋤きこむかも熟練を要する。→ 「土作り」がきちんとできれば、水稲はもちろん、畑作物でも連作障害は大いに緩和される。
・堆肥作りには、四つの分野に「精通」する必要。…①農作物の生理、②糞を出す家畜の生理、③山の植生…炭素源としておがくずなど木の性質、④土…堆肥を施す土壌の物理的・化学的・生物的特性。→ ここでいう「精通」とは、教科書的な知識だけでは足りない。…工場や実験室とは異なり、自然環境は多様でしかも不断に変化する。→ 日常的に動植物に触れ、土や山の気配を体得しなければならない。…農業者には自然に対するカンが必要。
・伝統的な農業では、家畜を飼養し、稲作も畑作も手がけ、山仕事にも従事していたので、とくに農業者が意識しなくても自動的にカンを養うのに好適だった。…また、味噌などの発酵食品を自家生産していたので、発酵に関する経験知があった。→ 堆肥づくりでは、発酵の進み具合を臭いや手の感触で確認するが、これは味噌づくりとも共通する技能。…発酵食品は多湿なアジア・モンスーン地帯で食料を保存するための知恵として生まれたものだが、それが「土作り」にも活きる。
・しかも、日本の場合は山がちな地形に大量の降水があるため、水系が短いことが、カンを養うのには好適になる。ex. ベトナムや中国の水系はあまりにも長く広大(揚子江やメコン川)。→ 下流の人間には水位がなぜ変化するのかが実感しにくい。←→ 日本ならば、ひとつの集落にいながら、体系的な自然の動きを整合的に体感できる。(※里山的自然…)
・また、日本ではわずかな緯度の差でも日本海側と太平洋側とでは気象条件が大きく異なる。これは地球全体の中でもかなり独特。…この気象条件のばらつきこそが、日本農業の固有の強みにもなりうる。→ 技能を高めるためには、個人単独の努力だけではなく、微妙に異なる内容を持った技能を持つ農業者同士の交流が効果的(詳細はP92~93)。…農業の技能は、単に平均的に生産性を高めるだけではなく、収量変動を小さくする。技能のある農家は、農地の変化を鋭敏に発見して早めに対処できる。そもそも「土作り」ができていれば、気温や降雨で予想外のことがあったときにも、作物の抵抗力が強い。

4.欧米農業との対比

・欧米と日本では、農業と自然環境の関係にも差異がある。…欧米で農業を熱心にすると、連作障害のおそれなど、自然環境への負荷を高める。→ 従って欧米では、自然環境を守るためには、面積当たりの家畜の飼養頭数を減らしたり、休耕したり、施肥を抑制したりして、人間が働くことを減らす必要。→ 働くことを減らせば、その分収入が減るので、欧米では環境保護的な農業に対して補償金が支払われない限り、採算があわない。…欧米でも有機(オーガニック)農法で栽培したと認証された農産物にプレミアムがついて売られる傾向があるが、これは食味に対してというよりも、環境保護的ということに対する消費者の賛同という意味合いが強い。(※久松氏は、環境保護のための有機農業には、否定的だったようだが…)
・これに対して日本では、耕作を放棄したり、間伐をやめたりといった働きかけの減少をすれば、かえって自然環境を破壊する。…肥料や農薬の過投入も自然環境を破壊するが、逆に放置も環境には悪い。→ 日本では雑草が繁茂しやすく、常に人間が水路などを除草しておかないと、少しばかりの大雨で破壊的な氾濫が起きかねない。…人間が山に入って腐葉土を採取したり、燃料や建材や自家製農具の材料用に立ち木を適度に伐採してこそ、鹿やいのししなどの野生動物は生活のためのスペースや、餌となるような小木の芽吹きが毎年得られる。
・近年、農家が、山仕事をせず、間伐をしなくなった結果、山林が根の張りが悪い樹木で過密状態になり、野生動物が住処を失ったり、降雨時に地滑りが起きやすくなったりという自然環境の損壊がおきている(※う~ん、里山の放棄か…)。…欧米の農業は必然的に自然破壊的なのに対し(※う~ん、本書の記述だけでは、説得力がいまひとつだが…)、伝統的な日本の農業では、農家の人為的働きかけがあってはじめて自然環境が維持されてきたのは特徴的。(※こちらの方は、ほぼ納得…)
・このように、日本の場合は、自然環境によい農業をするということと、健康的に作物を育てるために熱心に働く(※栄養豊富で食味も良くなる)ことが、同時に成立する。→ 従って、もしも消費者に農産物の食味を正しく判定する能力があれば(現状ではこれが悲観的だが)、とくに環境保護的といった認証制度を導入しなくとも、高値で農産物が売れて、採算性も合うはず。〔※これとはまた逆に、先日テレビで、省力化のための「乾田直播」の試みが、好意的に報道されていたが、大型機械と除草剤を使った(技能不要の)工業みたいな農業だった…〕

5.技能集約型農業とマニュアル依存型農業

・農業のあり方について、マニュアル依存型農業と技能集約型農業に分類してみると、両者の違いは技能を重視するかどうか、あるいは作業内容が定型化されるかどうか。→ 技能集約型農業では、農地の状態次第で、臨機応変に非定型で作業内容を変える。←→ マニュアル依存型農業では、農作業の徹底的な定型化を図る。…これにはいろいろなバリエーションがありえる。ex. 畜糞由来の有機物をとにかくまけばよいという類の「名ばかり有機栽培」もマニュアル依存型農業。…週末だけ農業のサラリーマン兼業農家の多くで、お決まりの高価な農業機械を買い揃え、JAの作業歴に忠実な農業がみられるが、これもマニュアル依存型(化石エネルギー多投入型小規模)農業。…昨今、企業の農業参入でよく見られるのは、資金力にものをいわせて、農業機械などを買い揃え、植物工場や農業ハウスを建設したり、大面積の耕作をしたりするのも、マニュアル依存型(化石エネルギー多投入型大規模)農業。
・これに対して、技能集約型農業は総じて小規模で化石エネルギーへの依存も低い。→ その分、知識や経験など、人間の能力を必要とする。…自然環境をつぶさに観察し、「土作り」など熟練の技を投入して、健康的に動植物を育てることに徹し、特級品の農作物を作って高く売るという方向(※ほぼ久松農園の路線か…)。→ 肥料や資材の購入を極力減らして(※農協は困る)、自家製にするが、これは経費節減だけではなく、自家製のものをあれこれ工夫する過程で、作物の性質に関する知識をさらに深める機会にもなる(※農業がさらに楽しくなる…)。
・ただし、技能集約型農業は、自給自足的な古いタイプの(牧歌的な)伝統的農業とは明確に異なる。…古いタイプの伝統的な農業では、それぞれの地域の先達のやり方をなぞることが中心で、新たな知識や方法の上乗せはあまり要らない。
・しかし、市場経済が発達した今日、農産物に対する消費者の嗜好は移ろいやすいし、バイオテクノロジーの発達で次々と新品種が開発される。→ このような状況で、技能集約型農業の場合も、新たな作物や栽培方法につねに取り組まなくてはならない。…ex. 原産地の気候を調べて新品種の癖をつかむとか、新たな資材の工学的特徴を調べて使い方を工夫するとか(P98~99に、技能集約型農業のモデルとしてMさんの事例)。
・我々は、福島原発事故の背景には、首都圏に経済活動が集中し、そこで巨大なエネルギー消費が行われるという国土利用の歪みがあったことを忘れてはならない。→ 機械や装置に頼ったマニュアル依存型の大規模農業を推奨するのではなく、技能集約型農業を推進することこそ、原発事故に対する反省だ。(※「里山資本主義」にも通じるか…)
・だが、ここで注意されたいのは、マニュアル依存型農業と技能集約型農業は、必ずしもつねに競合関係にあるのではなく、補完関係になる場合もある、ということ。…それは「スーパーのパック寿司」と「板前の寿司」とが補完関係にあるのと同様。(詳細はP100~101)
・ただ、今やマニュアル依存型農業の増殖が激しく、技能集約型農業は消失の危機にある。→ いかにして、技能集約型農業を残すかが、政策の最重要課題と考えるべき。
・厳密にいえば、マニュアル依存型農業と技能集約型農業に加えて、趣味型農業もありうるが、それが一部の報道(NHK「クローズアップ現代」)に見られるような将来の日本農業を支える、というのは考え難い。(詳細はP101~102。…P101に「農業の3類型」の図表あり)

6.技能こそが生き残る道

・日本農業の本来の強みは、技能の練磨。従って、技能集約型農業こそが、日本農業の生き残る道。…それは、農業経営の収益性はもちろん、社会的利益という点でも様々に好ましい特徴を持つ。
①環境に融和的に健康的に育てるので、健康増進や環境保護という点で好ましい。
②土地面積当たりの労働需要が高まり、農村部の雇用拡大にもつながる。→ この雇用拡大効果は、脱工業化時代の日本にとって、農業のみならず社会全体の活力を高める可能性がある。…かつての高度経済成長期の工業化の局面では、人口が都市に集中し、大量消費・大量生産を進めることで経済成長を遂げた。→ しかし、脱工業化時代の今日にあっては、首都圏一極集中を改め、地方文化を育てて日本社会を多様化する方が有利。…ソフトの開発能力が国力の浮沈の鍵を握る。→ それには画一的発想の打破という創造的破壊が不可欠であり、そのためには、常に様々な価値観や文化を社会に共存させておく必要がある。…農作業のあり方は地域の気象や地形を色濃く反映するため、農業者は地域への意識が強くなりがちで、地域文化の担い手としても好適。→ 従って、農業のみならず、国内の文化の多様化を通じて、脱工業化時代の日本経済全般の活性化に役立つ。(※これらは「里山資本主義」にも通じる、というよりほとんど同じ…)
③地球温暖化による異常気象の頻発が予想される中、気象変動に強い技能集約型農業の有用性はますます高まる。→ 農業のバリエーションが拡がり、気象による豊凶変動の緩衝になる。←→ マニュアル依存型農業ではバリエーションも少なく、気象による豊凶変動が極端に振れやすく、社会全体に悪影響を与えかねない。
④日本の耕作技能は、国際的な有用性が高い。…ex.アジアを中心に新興国で肉の需要が拡大 → 日本の堆肥づくりの技能が必要とされている。…密度の高い多頭飼育が増えるので、畜糞をきちんと処理しなければ水質汚濁などの自然環境の破壊が危惧されるから。…また、途上国では人口増加が続いており、可耕地が限られている中、反収を上げることが必要。→ 畜糞を堆肥化して自然環境と融和的に反収を引き上げるという日本農業の耕作技能が有効。…その上、世界的な異常気象の中で、気象変動への耐性という点でも、技能集約型農業は魅力的。しかも、機械への依存度が低いので、手持ち資金が少ない途上国の農業者に好適。…化石エネルギーの節約という国際社会全体の課題にも合致する。(※う~ん、いいことづくしか…)
・日本農業は、生産の増大を目指すのではなく、耕作技能の養成を目指すべき。技能集約型農業が育ってこそ、日本農業の強化にもなるし、日本経済全体、さらには国際経済全体にとっても好ましい。→ せっかく日本は技能修練に適した自然条件・社会条件が整っているのだから、日本を耕作技能の発信基地化して、将来を担う海外の農業者たちが、耕作技能の習熟のために、次々と日本に訪れるという姿が望ましい。それと同時に、日本で技能を身につけた農業者が、海外に栽培指導に出向くという姿が望ましい。(※リンゴの木村さんは、すでに海外でも栽培指導をしているらしい…)

7.貿易自由化と日本農業

・貿易自由化の二つの選択肢…①環太平洋の先進国(米国,カナダ,豪州)との農産物貿易自由化、②モンスーンアジア諸国との農産物貿易自由化。→ ②については、日本農業の省力化が、生き残り戦略の一つになり得るかもしれない。つまり、日本政府(およびマスコミや「識者」)が推進中のマニュアル依存型大規模農業の路線。(詳細はP106)
・ただ、長期的にみて環太平洋の先進国との農産物貿易自由化を拒否し続けるのは政治的にも経済的にも不可能。→ 米国、カナダ、豪州は、まさにマニュアル依存型大規模農業に優位を持つ国々。…日本がまともにマニュアル依存型大規模農業で競争しても勝ち目はない。なにせ、これらの国々は地形が単純で大型機械が動かしやすいし、移民などの安い労働力も手に入れやすいから。
・マスコミや「識者」は(※今や政府の御用機関?)、企業の農業参入を日本農業の国際競争力の強化策として礼賛する。…しかし、先述のとおり、企業の農業参入は往々にしてマニュアル依存型大規模農業。→ 早晩、貿易自由化が予想されるとき、米国や豪州が得意とするマニュアル依存型大規模農業の路線に突き進むのは、わざわざ将来のショックを大きくするようなもの。(※う~ん、説得力あり…)
・この点、技能集約型農業は、アジアに対しても、環太平洋先進国に対しても、優位を持つ。既述のように、日本の気候・風土は技能の醸成に適しているから。(P107に「マニュアル依存型農業と技能集約型農業の比較」の図表あり)
・貿易自由化により、日本がマニュアル依存型小規模農業からの脱却を迫られているのは間違いない。しかし、脱却後の針路がマニュアル依存型大規模農業であってはならない。―→ 貿易自由化時代に日本農業が生き残る道は、技能集約型農業しかない。…これからは、技能の修得への動機づけに政策を集中するべきだ。(その具体策は7章で詳述)


【4章】技能はなぜ崩壊したのか

1.日本の工業化と耕作技能

・明治維新以降、国策として工業化を推進 → これが日本社会に労働の「商品化」を進める。→ さらに、学校教育と軍役が、労働の「商品化」を強烈に進めた。…先述のとおり、学校は近代社会が生み出したかなり特異な空間・時間の管理の仕組みだが、それは明治以降の近代的な軍制も同じ。→ さらには、給食や洋服など、規格化された製品を大量消費するという欧米文化の導入にも学校や軍隊は資した。
・明治維新以降の労働の「商品化」は、「玉突き」的に農業生産においても分業化・機械化を進め、技能を低下させる要因になる。…しかし、少なくとも戦前期においては、四つの理由から、技能の低下は、ある程度食い止められていたと思われる。
①用水管理の必要上、伝統的な労働慣行が維持されたこと。…電動ポンプが未発達であった戦前では、用排水管理は人海戦術に頼らざるを得ない。→ これを近代的な雇用契約で行うのは難しく、農業労働の「商品化」を遅らせた可能性。…戦前期の就農人口は1400万人程度で驚異的に安定しているが、これも用排水管理のために一定の人口を確保する必要性があったから、と解釈できる。
②農業機械の発達の遅れ。…水田稲作は地盤が悪い環境で指先の作業が多いため、機械化が技術的に難しい。→ 戦前期は、脱穀機など農外地での装置に限定される傾向。…耕運機の普及でさえ、戦後に持ち越されたし、コンバインなどの稲作の中型機械化一貫体系が確立するのも1970年代。
③科学的知識の普及…農業における技能の修得には、先述のとおり科学的知識が必要であり、戦前の初等・中等教育の普及が科学知識を向上させた。
④戦前期に、二毛作や養蚕など、農家が無理なく農業収入源を多様化させる技術が開発されたこと。→ このため、農家が農外の労働市場に晒される機会が少なくなり、労働市場からの「玉突き」を緩和したと思われる。
・だが戦後になると、これらの四条件は薄らぐ。→ 電動ポンプや農業機械が発達し、また化学繊維の発達は養蚕を衰退させ、戦後初期の旺盛な商工業の労働需要が農村にも押し寄せる。→ かくして戦後、農村社会は労働の「商品化」の波にまともに晒されることになる。→ 必然的に、分業と機械化が進む。
・伝統的な日本の農業では、自家消費用の農産物でも、種苗、肥料、農具などの中間財でも自家生産していた。→ ところが戦後は、農業でも分業化が進み、農家は生産する作目を減らして、現金収入を得るための農産物に特化する。また、中間財も購入に頼るようになる。→ かくして、農業者は技能を磨く機会を失う。

2.政府による技能破壊

・労働の「商品化」が進んだ今日の先進国でも、条件さえ整えば、職人的な技能が保持・継承される。ex. シェフ、板前、高級時計職人、楽器職人など。…そういう職人的な技能継承が行われるためには、技能を磨くことへの動機づけが不可欠。ex. 技能に対する敬意やよい収入機会など。←→ ところが、今日の日本社会では、耕作技能の修得をむしろ妨害する政策が採用されている。
・典型的には、農地利用の無秩序化の助長。→「規制緩和」や「地方分権」の美名にかこつけて、営農の意欲・能力のない者でも農地の利用権や所有権が取得しやすくなり、また転用規制も実質的に尻抜け化されている。…ex. 産廃業者や不動産業者も含めて農外企業が農業生産法人を設立し、農地を取得しやすくしている。…転用目的での農地所得をする手段としてダミー農業生産法人を作る動きもある。
・また、「地方分権」と称して、農地の転用許可の権限を、県知事から農業委員会に委譲する動きがある。…農業委員会は地元の農地所有者の集まりなので(委員長が土建業者や不動産業者という場合すらある)、土地売却益が入って地権者が潤うならば農地転用に対しては寛大になりがち。→ 農業委員会に転用許可の権限を委譲するのは、実質的な農地転用の助長。(詳細はP113~114)
・さらに、2001年に転用申請に対する事務処理の短縮化を農水省が地方自治体に指示。→ 実況見分もしないで書類審査だけで農地の転用許可を出している地方自治体もある。
・2009年の改正農地法で、農水省は、精神論・理念論として理想を掲げ、具体論は無力とわかっている農業委員会に全責任を丸投げした。→ このような理不尽な責任転嫁を受けた農業委員会は、とくに反発の声もあげていない。…違法脱法行為の蔓延という現実の前に、もはや法律の文言への関心も薄れているのではないか。(※う~ん、これが我が国の農業政策の実態か…。詳細はP114~115)
・農業委員会に全責任を丸投げするのは、最近定着しているパターン。…ex. 2008年に3年以内の耕作放棄地解消という目標が閣議決定されたが、具体的な解消策は農業委員会に丸投げされている。→ 案の定、この目標は実現されていないが、マスコミも「識者」も、そのことを追及しない。…農地問題は、政府もマスコミも「識者」も(おそらく一般大衆も)、精神論・理想論だけをしたがっていて、面倒くさい具体論には関わりたくないのだろう。…農水省はなぜ転用に寛大なのか? 一つには、農水省の責任逃避がある。→ 真面目に農地の保護をすれば、転用を期待している地権者や関係者から恨みを買う。…不動産業者であれ産廃業者であれ、農地を欲しがっている人がいて、農地を売りたがっている農家があるなら、禁止するよりも、認めてしまったほうが楽だ。
・農水省は技能に人々の関心を向けさせないよう、あの手この手を打っている。…ex. 新規就農への補助金(年間約150万円を最長7年間支給)。なぜ農業の場合だけ厚遇されるのか? → 「農業とは補助金をもらうこと」という意識を新規就農者に持たせるだけであり、技能を磨こうという意欲は殺がれる。…また農水省は、自給率向上国民運動を強力に推進し、食料自給率という「嵩」に議論を集中するように仕向けている。→ 農業者に技能がないほうが行政としては操りやすいし、「嵩」を増やすための方策は単純(補助金の支給など)なので政策設計も楽だから。
・官民とも、名人の技能を分析してデータベース化しようとする動きがある(ex.「農匠ナビプロジェクト」)。…目下のデータベース化は、いわば寿司職人の技をパック寿司づくりに活かそうというものにすぎず、やがてはジリ貧に陥るだろう。→ 本当に技能の継承・発展を願うのであれば、データベース化の努力ではなく、昔ながらの修業の機会をいかにして確保するかを考えなくてはならない。(※「データ」より「人」を育てる…他のことにも言えること…)

3.農地はなぜ無秩序化したのか

・耕作技能において「土作り」の重要性はすでに指摘したが、この「土作り」を阻害するのが農地利用の無秩序化。…この背景には、以下のような日本社会の構造的矛盾がある。
①効率的な水の利用を行い、病害虫繁殖を防止するためには、農業者同士の緊密な利害調整が必要。…日本の農業では、ひとつの水を集落全体で共有するため、集落のごく一部でもおかしな農地利用をする者がいれば、集落全体の農業に支障がでかねない。→ 近接する農地で害虫が繁殖すれば、周辺の農地に伝播する。「やる気のない者のことは放っておいて、能力と意欲のある者が伸びればよい」という理屈(※市場経済的な競争原理)は、農業ではあり得ない。→「能力や意欲のない者」を放っておくと、近隣の農業者が足を引っ張られる。
②農業生産に好適な優良農地ほど潜在的な転用需要が大きい。…日本は国土が狭隘で平地が限られている。よい農地の条件は、区画が整っていて、道路へのアクセスがよく(資材の搬入や農産物の出荷のため)、日当たりや水はけがよいことだが、これらの条件は、住宅や商業用地の候補地としても好条件。→ 優良農地に対する農外転用への潜在的需要は大きく、転用が認められれば地方部でも水田一枚(通常30アール)で1億円に近い売却収入が得られる(営農目的であれば、せいぜい200万円程度の価値)。
③農地には環境保護という公的な価値があるため、規制なり補助金で保護する必要。→ 農地の保水力は洪水を防ぐし、蛍など様々な希少動植物の棲息の場所を提供している。…ただし、環境保全の効果の大きさは、農地によって異なる。ex. よく管理されたまとまった水田は、環境保護の効果が大きい。逆に、山間の傾斜地で終戦直後に無理して開拓したような農地などは、計画的に植林したりして山に戻すほうが環境保全の効果が大きい場合もある。
④土地は計画的に利用されるべき、という一般論には合意できても、具体的にどういう計画がよいのかは、個人差が大きい。…農業地帯と非農業地帯を区分けした方が、農業にとっても非農業にとっても有益なのは自明。→ しかし、農地をどの程度確保すべきかは主観的な部分があり、個人差が大きい。
……この四つを見渡すと、解けないパズルのよう。…このような複雑な農地問題を解決する方法は難しい。→ 単純な農地所有や利用の自由化では事態が悪化するのは明らか。…めいめいが勝手気ままな土地利用をすれば共倒れになるのは自明。
・そもそも、それぞれの土地がどういう特徴を持っているかは、実際に当該の地域で暮らし、農業をしている人たちでなければ分からないことも多い。…行政や「識者」が机上論的に土地利用計画を書いても、的外れに終わるのがオチ。
・JAが強かった時代には、JAが集落の秩序の番人の役割を果たしてきたので、それなりに農地の利用に秩序はあった(あまりにも無茶な農地利用や農外転用、耕作放棄をしないよう、JAが監視をしてきた)。…ただし、JAが秩序維持の役割を果たすことに法的根拠はなく、単なる慣習。→ 経済団体にすぎないJAに秩序維持の役割を期待するのはそもそも無理があり、いずれは破綻する運命にあった。
・1990年代以降、JAの弱体化とともに、JAの監視は無力化。→ いまや農地利用は歯止めのない無秩序化が進んでいる。…(1章で指摘した)市民参加民主主義の欠如という日本社会の積年の矛盾が、表面化したのだ。(※う~ん、日本の農業問題の複雑さ、難しさは、根が深く、日本社会の積年の矛盾である「市民参加民主主義の欠如」とも通底している、ということか…)

4.放射能汚染問題と耕作技能

・原発事故以降の東北・関東の農業者には大きな危惧を抱いている。彼らは放射能汚染問題(風評を含めて)を気にしており、一度その話になると、止まらなくなる。…彼らの懸念はもっともだ。
・1年以上経っても、放射能汚染で出荷停止になる事例が発生。風評も含めれば相当な長期戦を覚悟しなければならない。…海外への輸出も厳しい。中国のように東北からの農産物を輸入規制している国もあるが、そういう規制がなくても、海外の消費者から敬遠され、被災地の農産物には買い手がつかない場合もある。
・国の基準値以下の低線量の放射能汚染を受けている地域の農業者は悲惨だ。→ 基準値以下なので補償の対象にもならない。しかし、汚染されているのだから消費者は敬遠する。汚染の事実を隠すこともできるかもしれないが、消費者に対して正直でありたいという良心的な農業者ほど苦悩することになる(自殺者が出るという痛ましい事件もあった)。
・放射能汚染自体も深刻な問題だが、汚染されているかもしれないという危惧だけで、農業者は耕作に対する集中力を失う。これは、技能集約型農業の存立を脅かす。→ 放射能汚染(風評被害を含む)の打撃は、「土作り」に何年も費用と労力を費やしてきた農業者ほど大きい。新たに「土作り」をしようにも、堆肥の原料の畜糞やバーク(樹皮)などに放射能があるかもしれないという危惧がある。…やや厳しい言い方をすれば、東北・関東の技能集約型農業は瀕死状態かもしれない。(※著者はここで、農業者の「移転」も提言…)
・本来ならば、優れた技能を持つ農業者は、放射能汚染の心配のない地域への移転も考えるべき。→ しかし、ここでも日本社会に蔓延する「ヨソ者排除」の風潮が移転を遮る。…農村にはヨソ者にはよい農地は貸し出さないという傾向が強い。被災地から移住してきた子供が学校でイジメにあっているという報道を散見するが、ヨソ者に対して陰湿なイジメをするのは大人でも同じであり、大人の場合は巧妙でわかりにくいだけだ。
・非被災地の住民は、「被災者は被災地での復興を願っている」というストーリーを好むが、「被災者が移住先を求めている」というストーリーを嫌う。…前者のストーリーであれば、非被災者は自分の利益を直接侵害される心配はないが、後者のストーリーなら、どの非被災地で被災者を受け容れるかという不愉快でリアルな話になってしまうから。…マスコミや「識者」も、なるべく前者のストーリーで落着させたがる。(※瓦礫の処分さえ受入れ拒否も…?)
・皮肉なことだが、東北や関東で農業生産量を増やすのは簡単だ。→ マニュアル依存のへたくそ農業を誘い入れ、宣伝や補助金で支えればよい。…マニュアル依存型農業では農産物の品質を高めるのは難しいし、自然環境にも有害になる可能性があるが、天候さえ悪くなく、ひたすら化石エネルギーを投入しさえすれば農産物の量を確保することはできる。マニュアルどおりに農作業をするだけだから、放射能汚染の可能性があろうとなかろうと生産には影響が出ない。宣伝や補助金などの支援が受けられるならば、ますます化石エネルギーを投入して、どんどん増産できる。…そういう皮肉なシナリオは十分に起こりうる。
・マスコミや「識者」は、この際、被災地で企業による農業参入を促進せよと主張しているし、政府もその方針だ(先述のとおり、企業は耕作技能が不足がちで、マニュアル依存型農業になりやすい)。…放射能汚染の影響が少ないからと植物工場を建設する動きもあるが、これもまたマニュアル依存型農業だ。→ つまり、このままいけば、技能集約型農業は崩壊するものの、マニュアル依存型農業の増長によって、結果的に津波被災地や放射能汚染地域での農業生産量の増大さえありうる。……しかし、マニュアル依存でコストがかかって品質も大したことのない(それどころか、もしかすると低品質で環境にも有害な)農産物をたくさん作ることに、いったいどんな社会的意味があるのだろうか?(※う~ん、ここまで書いてしまうと、確かに、ゴウド先生、四面楚歌か…?)
・しかも、企業によるマニュアル依存型農業は、化石エネルギー多投入で労働節約的になりやすい。…福島に原発が建設された背景には、東北が過疎化する一方、首都圏に人口が集中し、首都圏の巨大なエネルギー需要を賄う必要に迫られていたという事情があったことを、忘れてはならない。→ 化石エネルギー多投入を反省し、地方で雇用を生まなくてはならないときに、マニュアル依存型農業を増長させるのは、福島原発の事故の教訓を忘れた愚かな方策だ。
・放射能汚染問題はきわめて深刻で、簡単な解決はない。…被災者の苦労を見るにつけ、早急な復興を願って、解決策を急ぐのは心情論としてはわかる。しかし、だからといって、やみくもな農業支援をしたのでは、耕作技能を死滅させ、事態はより悪化する。→ 当面の被災者の苦労には生活支援で対応しながら、農業という産業をどう復興させるかは、拙速を避けて根底からじっくりと考える必要がある。→(本書での提言は7章で詳述)
                             (5/8 つづく)        

〔当方、農業に関してはド素人のため、(新鮮な驚きで)あれもこれもと読書メモが増え、予定よりだいぶ枚数が多くなってしまいました。次回も、『日本農業への正しい絶望法』(後編)の予定です。〕                         (2014年5月8日)