2015年7月9日木曜日

(震災レポート32) 震災レポート・拡張編(12)―[経済各論 ①]


(震災レポート32)


震災レポート・拡張編(12)―[経済各論 ①]

                                                                                        中島暁夫




 諸々の事情で先延ばしにしてきた手術を、この度やっと済ませたということもあって、だいぶ間が空いてしまった。…「脱成長論」の一応の締めくくりとして、当初は、いま話題になっているトマ・ピケティの『21世紀の資本』について触れておこうかと思っていたのだが、なにやら(様々な立場からの)入門書の類がたくさん出てきているようなので(それぞれに勉強になったが)、とりあえずピケティさんはそちらの方におまかせすることにして、〔というのも、ここにきて日本の戦後社会が大きく動きそうな気配がしてきているので…70年というのは、時代の(忘却による)世代交代の時期という説あり〕…そうした局面に、この経済論も対応させる意味で、今回から若手の二人の論客(小幡績と中野剛志)を取り上げてみることにした。まずは一人目から始めてみる。



                  

『円高・デフレが日本を救う』小幡 績
      (ディスカヴァー携書) 2015.1.30

――[前編]




〔著者(おばた・せき)は1967年生まれ。1992年東大経済学部卒、大蔵省入省、1999年退職。2001年ハーバード大経済学博士。一橋大講師を経て、2003年より慶応大ビジネススクール准教授。…著書に『リフレはヤバい』『成長戦略のまやかし』『やわらかな雇用成長戦略』など。〕




【はじめに】


○成功したアベノミクス

・アベノミクスは間違っている。経済政策としてあり得ない。…円安とインフレを起こしたい。その目的を達成し、消費者の生活を苦しくした。…異常な金融緩和は、ショック療法で株価をどん底から引き上げたが、金融市場はバブルとなった。それが目的だから成功だ。
・痛みを伴わない政策で短期にバブルを起こし、コストとリスクは先送りする(※短期の人気取り政策…)。これがアベノミクスの本質だ。…この本質を100%実現したから、アベノミクスは成功したのだ。→ そして日本経済は、そのすべてのコストをこれから払うことになった。
・従って、アベノミクスの効果が、今後、地方や中小企業など、これまで恩恵を受けていないところに回るということはあり得ない。→ これからは、政策の影響は(先送りされたコストとリスクで)悪いものだけが増えていく。今、アベノミクスで良くなっていないところは、一生良くならない。そして、今後、さらに悪くなっていく(※ツケが回っていく)。
・しかし、日本経済は絶望的ではない。…政策は悪いが、日本経済は悪くない。→ 従って、日本経済自体は悲観する必要はない。間違った政策を取り除けば、日本経済は自ずと力強さを少しずつ回復していくのだ。…本書では、アベノミクスという政策の誤り(※前編)と、アベノミクスに代わる「他の選択肢」(※後編)を明示したい。


【1章】経済政策と政策論争の危機


○日本経済はヤバくない。だが、経済政策がヤバい。政策論争はもっとヤバい

・2014年10月31日、日本銀行は量的・質的緩和の拡大(追加緩和)を行った。つまりリフレ政策(意図的にインフレを起こす政策)のダメ押しを行なった。…経済政策によってインフレを起こすことは百害あって一利なしということが、政策担当者市場においては浸透していないようだ。
・しかし、人々や企業はそれに気づいてきた。…メディアは、円安でコストが上がって困る、物価が上がって節約しないといけない、と企業や消費者多数派は悲鳴を上げている、と伝え始めた。…エコノミストなどの有識者は、株高、円安の下での日本経済の好景気(※ミニバブル)を歓迎しながらも、大幅円安でも輸出数量が伸びないことに首をかしげる。
・日本経済の構造は変化しており、1980年代とは違う。→ 工場の多くは海外に移転してしまったので、円安になっても輸出数量は伸びないのは明らかだった。←→ 一方、輸入面では円安のデメリットは大きい。…日本企業が日本市場で売る製品も海外生産だから、円安により原価が上がっている。→ 利益は減少あるいは赤字転落となった。…輸出企業のイメージがある家電産業も、国内部門は苦しくなっている。
・輸出サイドでさえ、(為替差益による)利益は増えても、輸出も生産も雇用も(量は)増えていないから、(輸出産業を念頭に置く)多くの円安礼賛論者も、限定的な円安賛成に論調を変えてきた。→ 結局、トータルでは円安はプラスなのかどうか、という議論になってきた。


○円安:メリットVSデメリット


・円安のメリットを受けるのは、輸出や海外子会社で利益を得ている企業。…(ドル建ての輸出価格を変えていない企業がほとんどなので)輸出数量を増やさず、従って雇用も設備投資も増やさないが、企業収益は(為替差益により)増加する。
・一方、輸入業者はもちろん、国内販売が中心の製造業やサービス業にも、円安による輸入の原材料費やエネルギー費の高騰で、デメリットが生じる。
・さらに、このコスト髙はすべての消費者に及ぶ。…輸入品の価格上昇(とりわけガソリンや食料などの必需品の価格上昇)による生活コスト上昇は消費者を直撃する(詳細はP19~20)。
・日本は今や、輸出よりも輸入が多い経済だから、(円安がデメリットとなる輸入のほうが多い以上)トータルでは円安は日本経済にとってマイナス、というのが中立的な事実認識だ。


○すべては消費税増税のせいなのか


・(インフレを起こせば、日本経済の問題はすべて解決する、という立場の)リフレ派の人々は、アベノミクスの金融緩和は素晴らしいが、消費税増税は最悪だった、それですべてが台無しになった(マイナス成長もそのせいだ)、と主張する。…すべてを消費税率引き上げのせいにするアベノミクス支持者も、目先の数字でアベノミクス失敗を叫ぶ批判者も、自己主張の正当化のために、無理矢理な議論をしている。(詳細はP20~23)
・これらの議論は、日本経済の真の現状を冷静に分析せずに、ただ経済政策に関するこれまでの主張のポジションを守ろうとする議論にすぎない。…ポジショントークは、プロレスのようなテレビの討論番組と同じで、議論を不毛にするだけだ。
・一般国民は、アベノミクスが無意味で有害であることに気づいている。…多くの国民が、政策の欠陥を理解しており(※う~ん、この認識はちょっと楽観的…?)、他方、権力者とそのアドバイザーたちがその誤りに気づかず、誤った政策に固執している。…こんな悲劇的な国はめったにない。我々はなんと哀れな国の哀れな時代に生きていることか。(※そして今、時代はいよいよ、明るいバラエティ番組の氾濫とともに、危険水域に入ってきた…?)
・日本経済は危機ではないが、現在の経済政策は危機をもたらす可能性がある。そして、その危機を止められないどころか、それに気づかないほど、ブレーンをはじめ現在の政策を支持している論者のレベルは、危機的に低下している。…日本経済の危機ではなく、経済政策と政策論議の危機なのだ。(※そして「一般国民」の危機でもある…?)


【2章】日本経済はヤバくない


○日本経済は成長しない経済になった


・経済の実力ともいえる潜在成長率(長期の供給力からみたGDPの増加率)は、1990年以降ずっと低下してきた(P33にグラフ)。…つまり、日本経済は「成長しない経済」(※定常経済?)になった、ということ。(※「潜在成長率」という言葉は初めて聞いた…)
・人口が減り、高齢化により、労働力(※生産年齢人口)はもっと減っている。…労働人口は今では全体の人口の半分に過ぎない。技術革新も1980年代までのようなスピードでは進んでいない。→ 日本社会と日本経済の成熟に伴い、日本のGDP拡大能力は低下してきた。→ 従って、経済成長率は高くなりようがないのだ(※この現状分析は、藻谷氏の『デフレの正体』に近い? …「震災レポート(21)」参照)
→ それにもかかわらず、経済成長率を無理やり高くしようとしたことが、かえって、日本経済の成長率をさらに低下させたのだ。…(安倍政権の言うような)好循環どころか、長期の悪循環がすでに始まっていたのだ。


○無理なGDP拡大政策の大きく深い逆効果


・第二次安倍政権成立から、経済政策は大規模拡張政策となった。→ 金融政策、財政政策を限界まで(限界以上に)動員して、とにかく短期的に景気を刺激した。
・財政政策の急拡大(第二の矢)を見ると…大幅な公共事業の計上 → 公共事業は需要そのものだから、すぐにGDP(国内総生産)は増加する。つまり、財政出動によって、GDP増加率がかさ上げされた。→ しかし、財源も足りないが、人手不足で、工事を受けてくれるゼネコンがいない。→ GDP増加率への寄与度は低下。
・それよりも本質的な問題は、この無理なかさ上げは、日本経済にダメージを与えていること。つまり、無理なGDP増大を図った結果、その副作用が大きく出てきている。→ 無理な拡張は効率性が悪く、トータルで大きなロスとなる…10引き上げるために20使うようなものであり、当初のプラス10のあと、長期にわたって20のマイナスが経済にもたらされる。…つまり短期的に景気は良くなるが、長期の成長力はかえって落ちてしまう。(後の章で議論)
・しかし、アベノミクスの金融政策(第一の矢)による経済に対する長期的な副作用は、さらに深刻で根深い。…黒田日銀総裁の「異次元の金融緩和」(金融市場に対する刺激策)→ 株価の急騰(ミニバブル)→ 短期には資産効果(株式売買の儲けや保有株の時価アップ)により、消費が刺激され、富裕層、資産保有層の高額消費が膨らんだ。←→ しかし、この短期的な棚ぼたの一方で、コストとリスクは先送りされ、金融市場および日本経済は、長期的には大きなリスクを抱えることになった。
・コストはすでに顕在化している。→ 円安による輸入コスト上昇により、「コストプッシュインフレ」と呼ばれる悪いインフレが起きている。…生活コストと製造原価の上昇により、消費者と中小製造業・サービス業は、生活費上昇および経費拡大で苦しんでいる。
・短期にも長期にも円安は、経済にマイナスだ。…円安は、自国通貨の値下がりだから、日本経済は円安により富を失う(我々の土地、株式、預金などすべての資産が、ドルベースで見れば価値が失われている)。→ 実際、限られた我々の資産と所得で、原油や天然ガスなどの資源や食料など、ドルで価格が決まっているものを必需品として買うのだから、日本にある資産、おカネがどんどん失われることになる。…経済学では、これを「交易条件の悪化による経済厚生の低下」と呼ぶ。…それがまさに今、実現しているのだ。
・リスクとして最も大きなものは、為替市場、国債市場の波乱の可能性が急激に高まったこと。→ つまり、異次元の金融緩和によって、為替や国債の価格変動が急激に高まり、将来これがどうなるか全く予測がつかなくなってしまった。…このこと自体が混乱をもたらす。
・サプライズを今起こす、ということは、将来もサプライズが起こり得るのであり、金融市場に振り回されることが予想される。…しかも、それは日本銀行があえて自ら行う金融政策によるものだ。→ 日本の金融機関、企業、個人は、今後とも金融政策に振り回され、突然の変化に怯えていかなければならないのだ。…この「変動が予測できない状態」こそが、大きな問題なのだ。(これも後ほど詳述)


○良い景気を悪いと叫べば、危機の神も訪れる


・これほどまでに大きな長期的コストとリスクを意図的に抱えてまで、短期的な景気刺激を行わなければならないほど、日本経済は非常に悪い状態なのか。←→ そうではない。日本経済は、まったく悲観することはなく、順調なのである。
・失業率は現在3.5%で、この水準は構造失業率(完全雇用が実現しても経済構造として残る失業率)と呼ばれる水準とほぼ一致。…つまり現在の日本経済は、ほぼ完全雇用を達成しており、短期的な失業対策は不必要な状態(P40に日米の比較グラフ)。…賃金が上がっていないとか、非正規雇用がまだ多いというのは別の問題であって、景気の問題ではない(個別企業の雇用戦略の問題)。→ 雇用について必要なことは、(景気対策としての雇用対策、その場しのぎの対策ではなく)経済構造の変化を踏まえた長期的な人的資本の蓄積であり(※この著者の経済論の肝か…)、そこにこそ政策の出番がある。(これも後の章で詳述)
・日銀などの推計では、日本経済の潜在成長率(経済の実力を表したもの)は、ゼロ%あるいはゼロ%台前半。…つまり、GDP増加率がゼロ付近(※定常状態)なのは普通の状態であり、日本経済の実力は、現時点で十分発揮されている。←→ むしろ、このところ、実力以上のGDP拡大を実現してしまったために、景気が過熱してしまい、その結果、経済に悪影響(副作用)が出てきているのだ。(※う~ん、マスメディアの報道内容とは、ほとんど真逆…)
・このような経済状況にもかかわらず、政府は、景気が一気に悪化したとして消費税率引き上げの延期をした(※過剰反応して消費税引き上げを延期する必要もなかった、というのがこの著者の見解…)。政府だけでなく日銀までもが、異次元の金融緩和ですでに限界を超えている金融政策を、追加緩和でさらに拡大させた。…異次元の異次元だから、これには、金融緩和賛成派のエコノミストたちですら、やり過ぎではないかという疑問を呈するようになった。→ 危機ではない日本経済に対し、危機であると勘違いして、危機的な対応をとったために、日本経済は危機に陥る危機となったのだ。


【3章】アベノミクスの成功という日本の失敗


・アベノミクスとは、痛みの伴わない短期の刺激策を集中して行い、コストとリスクは先送りする、という政策。→ 金融政策によりミニバブルが起こり、大幅な円安が進行している。…意図通りのことが起きた。だから、アベノミクスは成功したのだ。←→ 唯一の問題は、アベノミクスの成功により、日本経済が悪くなったことだ。


○日本経済は順調にゼロ成長


・〔日本の経済状況のまとめ〕…景気は良い。失業率は最低水準であり、日本経済の実力である潜在成長率を超えるGDP(国内総生産)増加率を実現している。…GDP増加率の絶対水準自体は低いが、それが実力だから景気が悪いのではない。(P45に実質GDPの変化のグラフ)
・一方、景気は良いといっても持続性はない。…なぜなら、潜在成長率以上のGDP拡大を目指し、大幅な金融政策(第一の矢)と財政政策(第二の矢)を行なった結果、GDP増加率が大幅にかさ上げされているから。→ 公共事業などの財政支出を除けば、GDP増加率は大幅に低下する。…過熱した経済が、そこから落ちてくるのは当然だ。(※アベノミクスの後遺症)
・同時にインフレが起こり始めている。…一部は、財政金融政策でつくり出したことによる、日本経済の実力以上の需要超過によるものだが、主因は大幅な円安である。→ 円安によるインフレは、経済のコスト増をもたらし、その結果、生活水準、所得水準は、実質ベースで見ると低下している。
・このような現状からいくと、今後の経済は、短期的にはGDP増加率はゼロ付近、あるいは緩やかなマイナス傾向となると見込まれる。…財政支出(公共事業)や消費税増税先送りにより、一時的にプラス幅が大きくなる可能性もあるが、その一時的な効果が消えれば、停滞傾向に戻ると見込まれる。→ 実力である潜在成長率が低いままだから、そこへ収束することになるだろう。
・しかし、これは定常状態だから、悪いことはなく、今後も失業率は低いままであろう。…景気が悪くなるのではないが、一方、現状よりも良くなることはない。→ 今後、徐々にGDP増加率は低下していくことになろう。(※成熟経済…)


○健全性を悪化させるアベノミクス


・このような経済状況においては、アベノミクスで日本経済が良くなることはない。→ 今後、大都市部の好景気が、地方や中小企業に回るということはあり得ない。…今、アベノミクスの恩恵(株高と円安)を直接受けているところ以外は、マイナスの影響が徐々に大きくなるだけだ。
・前述したように、アベノミクスは金融政策による株高、円安と、財政政策による短期的なGDP増加率のかさ上げだから、それが経済の長期的発展に資することはない。←→ 政策により、実体経済は何も変化していないし、これからもしない。…何もしていないのだから、何も起こらないのは当たり前で、そして確実に悪くなっている。
・地方が悪くなっている理由は、直接的には円安によるコスト高だ。→ 輸入原材料や電気・燃料費などの高騰により、中小企業は苦しんでいる。…消費者も同様で、所得環境は全く変わらないから、コスト増加の分だけ貧しくなる。円安、インフレにより苦しんでいる。…短期的にも、すでに直接の悪影響が広がっている。


○成長機会を奪うアベノミクス


・アベノミクスの長期的な悪影響はもっと深刻。…ex. 公共事業を地方にばらまくことによって雇用を生み出しても、それは一度限りのもの(施設などのハコモノは、維持費もかかるのでマイナス効果も…)。(※このことは、原発立地自治体も同様の構造か…)
・さらに重要なのは、公共事業による一時的な雇用は、無駄である以上に大きなダメージを地方経済に負わせることだ。…公共事業関連の業界は、この仕事を覚えても、長期的に役に立つ(これで一生食べていける)とは思えないので、若者や中高年でもこの業界に行くのを躊躇する。→ 人手不足から無理やり賃金を高くして、他の仕事をしている人をはがして集めてくることになる。→ 数年後、仕事がなくなれば(この間、働き手としての成長機会が失われていたので)次の仕事につながらなくなってしまう。(詳細はP50~52)
・多少賃金は低くても、勉強になる仕事に就いていれば、次につながるし、より良い働き手に成長するだろう。→ それは、彼の将来の給料を上げることにもなるし、雇う側にとっても、より付加価値の高い働き手を手に入れられることになる。…これが本当の労使の好循環だが、この機会を、政策により奪うことになる。(※長期的に見て、人が育たない、ということか…)
・さらに、貴重な働き手を、未来のない、付加価値を生み出さない、景気対策だけの、最も無駄なセクターで吸収してしまい、他のセクターを労働力不足にし、付加価値を生むセクターの規模縮小をもたらす。→ この結果、経済全体の付加価値創造力、経済成長率は低下する。(※う~ん、かなり強烈な〝公共事業批判論〟だが、これは「真の成長戦略は人を育てること」という、この著者の経済論からきているよう…)
・このように、公共事業に限らず、〝一時しのぎの景気対策の仕事〟をつくることは、長期の成長機会を失わせることになる。…個人の働き手としての成長機会を奪い、労使の好循環の成長機会を奪い、経済全体の成長力も失わせる。→ 三重の成長機会の喪失により、日本経済全体の長期成長力を低下させてきた。…これが、失われた15年を生み出したのだ。「あの苦しかったデフレの時代」とやらをつくり出したのである。
・アベノミクスの「日本を取り戻す」という政策は、まさにこれだ。1960年代の日本経済(高度経済成長)に戻ることを望むような政策は、日本経済の成長機会を喪失させる。…円安で工場を日本に回帰させるのは、世界的な潮流から日本企業を逸脱させる政策だ。←→ 開発から生産まで市場に近いところで行い、現地の生のニーズを素早く取り込み、現地の人材と共にアイデアから出し合って、開発から販売まで一体化するというグローバル戦力が主流な現在、日本企業だけが1960年代に戻ってしまっては、政策に惑わされた企業は、混迷する可能性がある。…日本経済は政策によって、「新・失われた10年」を迎えるリスクを抱えてしまったのだ。
・アベノミクスは、金融政策で一時的な株高をもたらしたが、一方で、実体経済に対しては何ももたらさなかったのみならず、円安によりコスト高を招き、交易条件を大幅に悪化させ、日本経済全体を窮乏化させている。→ 将来の経済に対しても、短期の景気刺激を優先することにより、長期の成長機会を奪い、ただでさえ低い日本の長期成長力の将来性を低下させている。→ さらに、これらの問題を上回るリスク、危機が現在生じている。…それが、アベノミクス最大のリスク、異次元の金融緩和による金融市場のリスクである。


【4章】黒田バズーカの破壊的誤り

      〔この章は、枚数の関係で要点のみとする。〕


・大規模な超金融緩和は必要ない。なぜなら、失業率は3% 台半ばで完全雇用に近い水準であり、景気は良く、また銀行危機や金融市場の危機も起きていないから。…極端な金融緩和は、コストとリスクを伴う。だから、必要がないのにやるのであれば、それは害である。


○黒田総裁の5つの誤り


(1) 円安が日本経済にとって望ましいと考えていること

・円安はプラスと考えているから、通貨価値をわざわざ下落させるような極端な金融緩和を意図的に行っているが、(前にも触れたように)その時代は1980年代前半で終わった。

(2) インフレ率を上げて実質金利を下げようという考え方

・金融政策における景気刺激策とは、金利を引き下げて投資や消費を促すことだが、日本では、企業や個人への貸出金利は十分低く、また企業は税制優遇もあって、設備投資をすでに十分行っており、個人の住宅も持ち家率が高く、収入が十分ある家計ではすでに住宅を購入していた。…つまり実体経済側の金利低下による投資余地は小さかった。(詳細はP57~61)

(3) デフレスパイラルが存在すると信じていること

・デフレスパイラル論……(デフレで)物価が下がることが予想される → 消費者は値下がりを期待して、今は買い控える → 企業は売れなくて困り、値下げする → 消費者はさらなる値下げを期待して、さらに待つ → デフレスパイラルに陥る。……現実的に考えればすぐに分かるが、こんなことは実際にはない。消費者は必要なもの、欲しい物が値下がりするからといってそんなに待ち続けることはない。
・先進国で恐怖のスパイラルが起きたのは、大恐慌とリーマンショックだったが、マイルドデフレスパイラルというものは存在しない。…毎年0.5%程度物価が下落を続けるような静かなデフレでは、それはスパイラルではない。…継続的な経済停滞(※定常経済?)が物価上昇を抑えたのであり、マイルドデフレによりスパイラル的に消費が減少していったわけではない。
・(将来の物価の下落(予想)が現在の消費を手控えさせたのではなく)将来の所得不安、年金制度不安、日本の政治への不安、高齢化社会、人口減少…というような悲観論の蔓延が、消費を委縮させ、投資を手控えさせたのだ。(※確かにこちらの方が、実感に合っている印象…)
・デフレスパイラルが起こるのは金融市場だ。…そこでは、価格が買い手の行動だけで決まる。皆が買うかどうか、それだけで決まる。だから、人々の期待は実現する。←→ 下がると思えば誰も買わないから、実際に下がる。さらに下落期待が強まる。ますます誰も買わない。さらに下がる。さらに待つ。…まさにデフレスパイラル、いや暴落スパイラルだ。
・今回、株式市場は悲観論脱却により急騰した。…消費者物価とは無関係に、株式市場、金融市場が盛り上がったのであり、他の投資家が買うだろうという予想が広まったことによるものだった。金融市場の論理で盛り上がったのだ。…円安が急激に進行したのも同様だった。→ 大規模金融緩和で動かしたものは、(デフレマインドではなく)金融市場における投資家行動だけだったのだ。
・物価の0.5%の下落を、2%のプラスにしたところで、消費が増えるはずはない。←→ むしろ、物価上昇により買えるものが減るから節約に走り、消費は減ることになる。…将来の所得上昇が期待できなくては、消費は増えない。→ インフレが所得上昇につながるとは誰も思わない。……デフレスパイラルも存在しないし、インフレ加速による消費増加も存在しないので、インフレをあえて起こそうという考えは、完全に誤りなのだ。(詳細はP61~68)

(4) 物価を目標とし、インフレ率を上げようとしていること

・輸入品をより高く買わされることになる円安が、経済にマイナスであるのと同じように、物価が高くなれば、消費者が同じ所得で手に入れられるものは減るから、必ず生活水準は低下する。…インフレは、経済には明らかにマイナスだ。←→ それならば、なぜ物価を必死になって上げようとしているのか。それも、2%というターゲットに固執して…。
・先進国では、1970年代のオイルショックがあったが、新興国では、かつても今もインフレが経済成長を阻害するから、インフレを抑えることが最優先の経済政策。…なぜ、インフレが問題なのか? それは、インフレの下では将来への投資が起きないから。
・インフレになると、将来の価格がどのくらいになるか、わからない。予測が立てにくい。→ 将来の変動の不安により阻害されるのは、設備投資だけではない。将来が不安であれば、人々は消費も控えるし、いろんな契約、人生の決断も差し控えるだろう。…つまり、投資とは将来へのコミットメント、約束である。→ 将来の物価水準や売上収入が不透明なら、現在支出して将来の収入を期待する投資はできないということ。
・ここ15年の日本は、インフレ率のコンセンサスの水準がほぼ1%で確立していた。…日本のインフレ率は、人々の意思決定に影響を与えないという意味で、最も理想的な物価水準だったのだ。←→ それを黒田総裁は、政策によってあえて壊そうとしている。これ以上、誤った政策はない。
・物価における最大の問題点である将来の不確実性が、非常に小さく、最も望ましい状態なのに、それをあえてぶち壊そうとしている。…ところが、現在の安定性は強固だから、壊すのは容易ではない。→ そこで、人々をあっと言わせるような異常な金融緩和をサプライズで打ち出すという奇策で、人々の予想も市場も動かそうとしているのだ。
・安定しているものを動かすのだから、極めて不安定な状態に陥る。→ 市場は混乱し、人々の期待、投資家の思惑は錯綜する。→ 混乱した金融市場は、投機家にとっては絶好の稼ぎ場、長期投資家にとっては最悪の状況となる。…これは一番避けなければならないことだ。それをあえて行っているのだ。→ 実際、2013年4月の異次元緩和で市場は大混乱し、国債価格(つまり長期金利)は乱高下した。…国債を保有している銀行などの金融機関は右往左往した。最悪だ。→ 人々の予想は揺らぎ、この先どうなるのか、予想は大混乱、コンセンサスははるか彼方となった。最悪の事態をあえて起こしたのである。これは明らかに間違いだ。
・おそらく黒田総裁は、日本も欧米と同じようにインフレ率が2%で安定することが必要だと考えているのだ。…継続的な1%のインフレ率の差は、円高傾向を生み出す(詳細はP77)。この円高トレンドができるのが、日本経済にとって最も害悪なことだと、黒田氏は信じている可能性がある。しかし、そうだろうか?
・インフレ率の差を調整するためのものが為替レートであり、だからこそ、変動相場制をとっているのではないか。しかも、年率1%程度の差であれば、問題はそれほど大きくないのではないか。…物価水準は経済の構造を反映しているのだから、それが安定しているのは理想的だ。←→ これをあえて壊してまで、為替を固定(※操作?)しようとする意味はどこにあるのか。…手段にこだわり、実質を見失っている誤りである。(この項の詳細はP68~78)

(5) インフレ率の予想値である「期待インフレ率」をコントロールできると誤解していること

・期待インフレ率はコントロールできない。世界の中央銀行で、期待インフレ率を上げようとしている中央銀行はない。不可能であり、無駄であり、メリットがなく、一方、多大なデメリットとリスクがあるから、そんなバカげたことは誰もしようとしないのだ。…この異次元の金融緩和は、中央銀行としては21世紀最大の失策の一つとも言える。
・世界のすべての中央銀行は、金利による金融政策を行っている。量的緩和となっても、結局は長期金利を下げることによって、住宅投資あるいは資産効果によって消費を刺激している。誰も、インフレ率を直接コントロールしようとはしていない。…インフレターゲットを行なっているアメリカでも、インフレ率はガイダンスに過ぎず、2%を超えると危険水域で、警告を発するだけだ。
・期待インフレ率という目標を達成する手段を、中央銀行は持っていない。手段のない目標は達成できるはずがない。→ だから、たまたま運よく期待インフレ率が2%に来て、そこにたまたま留まってくれることを祈るしかない。…これは祈祷である。祈祷だから、異次元であることは間違いない。(※黒田日銀の金融政策は祈祷レベル? 江戸時代か…?)
・インフレ率は経済全体で広く形成されるものだ。…金利や量的緩和という間接的な手段しかない。だから、インフレターゲットはそもそも(目標ではなく)手段なのだ(米国中央銀行はこのことを分かっており、量的緩和の出口に向かい始めた)。→ ましてや、その予想値である「期待」インフレ率など誰もコントロールしようとしない。…もちろん参考にはする。しかし、あくまで観察対象であり、コントロール対象ではない。
・「期待」は危うい。何によって決まるか、わからない。雰囲気もあるし、今回のように原油もあり得る。そんなものをターゲットにするのはおかしい。これが白川前総裁の考え方だ。ターゲットとしたとしても、観察対象であり、目標でも、コントロール対象でもないのだ。←→ このように誤った目標を掲げ、達成できない目標に手段なしで向かっている現在の日銀の金融政策は、必ず破綻するのである。(※う~ん、言い切っている…この項の詳細はP79~98)


【5章】アベノミクスの根本思想の誤り


○最悪の四段重ねの景気対策


・例えば公共事業などは、不必要どころか害悪である。
①負債が残る。借金を返さなければならない。→ 不必要なモノが残り、借金が残る。
②無駄なだけでなく維持管理費がかかるので、無駄以上にロスが発生する。明らかにマイナスのモノが借金とともに残される。(※新国立競技場もか…)
③公共事業という仕事が今年限りの単発の仕事で、持続性のある、未来のある仕事ではないこと。…雇用としては最悪の仕事だ。→ 若年層はこの仕事に就こうとしない。この仕事をしても、未来が見えないどころか、将来の失業が確実であれば、誰も寄りつかないのは当然だ。
④万が一、仕事に就いてしまったら、最も悪い結末となる。ほかの仕事をする機会を失う。
・これは公共事業に限らない。政府の補正予算などによる景気対策により、一時的な仕事を地方に配るのは、最悪で、地方経済を殺すことになる。…つまり、短期的な仕事を生み出す景気刺激策は最悪なのだ。


○消費刺激は日本経済にマイナス


・地方に配る地域振興券・商品券(要するに個人への現金バラマキ)…これも100%間違っている。(公共施設などと違って、維持管理費はかからないが)メリットはまったくない。政府の借金あるいは将来の増税を財源に現金をばらまいているだけだから、せいぜいプラマイゼロ(低所得者に現金を渡すなら、分配政策・社会政策としては意味があるが、景気に対する効果はなく、経済にはまったくプラス面がない)。
・景気刺激策と言えば消費喚起…「貯蓄は罪、とにかく(無駄遣いしても)消費こそが経済のすべて」というような風潮があるが、それは誤りだ。→ なぜなら、消費を刺激することは、現在の日本経済にはマイナスだから(これはどんな経済学の教科書にも書いてあること)。…すなわち、貯蓄のしすぎは過剰貯蓄であり、長期の安定的な消費水準は下がる。←→ 一方、過剰に消費してしまうと、貯蓄不足が投資不足をもたらし、資本蓄積が不十分で、長期の経済成長率が低下し、縮小均衡に陥ることになる(これはマクロ経済における最適成長の経路として、必ず出てくる話。…アジアの高成長は高い貯蓄率によるものだというのが定説で、1960年代までは日本がその代表、1990年代以降は、他の東アジアの国々がそのお手本とされてきた)。
・つまり、物事には妥当な水準があるということで、消費も最適な水準にあることがベストであり、消費しすぎも、貯蓄しすぎも、どちらも良くない。それだけのことだが…肝心なのは、今の日本は消費不足ではなく、貯蓄不足だ、ということ。→ 2013年度の家計の貯蓄率は、1955年以降、初めてマイナスに。…つまり日本経済は、全体で貯蓄を取り崩す経済になった。(※う~ん、これは実感的に納得…)
・日本は(消費不足ではなく)貯蓄不足なのだから、さらに消費を増やせば、貯蓄不足はますます深刻になり、投資不足、資本蓄積不足となり、経済成長率はさらに低下することになる。⇒ 実は、近年の成長率の低下の一因は、消費のしすぎにあるのだ。
・消費は今期の需要になるが、それで終わりであって、次につながらない。将来の経済成長につながらない。→ 将来の経済成長は、投資による資本蓄積によるのだ。…投資とは、経済学的には貯蓄の裏返しであり、貯蓄とは、所得のうち消費されなかった分だ。だから、貯蓄を増やし、投資を増やし、資本蓄積を進めるためには、消費は減らさなければならない。←→ 消費を増やすことは、経済成長率を低下させるのだ。(※う~ん、そうだったのか…?)


○真の問題は投資・供給力不足


・消費至上主義という誤りに関連した、もう一つの根本的な誤りが好循環至上主義だ。――経済は循環だから、無駄遣いでもいいから消費をして、おカネが経済に流れれば、それが誰かの所得になり、その人がまた消費をすれば、また誰かの所得になり…と循環していく。 → この好循環を生み出すことが、経済にとって最も重要であり、経済政策の肝だ。→ いったん経済がうまく循環し始めれば、永遠に拡大する。これが持続的な経済成長だ――そう思っている人々がいる(※というより、世の常識?)。…これも、根本的な誤謬だ。
・彼らは、消費せずに貯蓄してしまうと、そこで流れが止まって、経済が止まってしまう、拡大を止めてしまう、不況になってしまう、と思っている。…それは違う。経済はそんな自転車操業のようなものではない。←→ 貯蓄されたおカネは眠りはしない。→ 消費が誰かの所得になるように、貯蓄は誰かの投資になるのだ。
・日本経済は完全雇用をほぼ達成し、需要不足ではない(※つまり定常経済?)。それでも成長率がゼロであるのは、潜在成長率がゼロ程度だから。…潜在成長率とは、供給力の増加率。→ すなわち、供給力不足が、日本経済の真の問題なのだ。
・では、この供給力不足はどこから来たのか? それは投資を怠ったことによる。…かつて、バブル期に過剰投資をしてしまったため ←→ 1990年代以降、人も設備もひたすらリストラを進めてきた。→ この結果、現在の日本経済は、人的資本も実物資本も、どちらも不足してしまっている(※量的というより質的な問題…?)。…これが日本経済の真の問題だ。→ 従って、消費を政策で刺激することは、意味がないどころか、成長を阻害するのだ。
・前述の消費の循環のようなことは、絶対的に需要の総量が不足しているとき(ex. 大恐慌やリーマンショックのような、失業率25%、需要が経済全体で半分に減るような状況)の場合には必要だ。→ 需要を増やして、凍りついた経済を循環させることを政策で行うことに意味はある。←→ しかし、平時、普通の景気循環の中での景気悪化に対しては、危機における財政出動と同じようなイメージで政策を大盤振る舞い(※アベノミクス)すれば、経済には大きなマイナスとなる。
・とにかく消費をさせて、カネをぐるぐる回して景気づける、というのが景気対策、経済対策であり、政策として常に必要だ…と思い込んでいる人々が多いが、これは、まさに100年に一度の危機的な需要不足のときだけの問題であり、しかも、経済が凍りついているような場合に限られる。←→ 単に景気循環で好況から不況期に落ち込んだ時期には、少し需要を均すために、金融緩和を少しするのが通常であり、妥当だ。
・しかし、今の日本経済はどちらでもない。危機でもなく、不況でもない。…現在は平常時であり、また普通の景気循環としても、ほぼ完全雇用であり、景気は良い状態。…現状で、需要が足りない、景気が悪いと感じるようであれば、(それは景気循環ではなく)経済そのものの力が落ちていることから来ている。⇒ 供給力不足が原因であり、柔軟で、現在に適した人的資本や設備が足りず、世の中のニーズに合ったモノやサービスが生み出せなくなっていること(※商品はあふれているのに、欲しいものがない…)が、成長の低下の原因だ。←→ このとき、消費を刺激すれば、貯蓄が減り、投資が減り、成長力はますます低下する。→ 成長率低下スパイラルに陥ってしまう。
・供給力不足とは、牛丼チェーンのバイトが足りない、というような量的な問題だけではない。むしろ、量より質が重要。きちんと店を回せる店長が不足しているのだ。…誰でも良ければ、カネを払えば人は雇える。同じ業態であれば同じように人手不足になっているわけではない。→ 働き手に評判の悪い企業は、金を払っても人が集まらず、きちんとしている企業は、業態が同じでも、人手不足で店を閉めることはない。それは、店を回せる人材をきちんと手間暇(と愛情も)かけて育てているからだ。…人が定着するかどうかが問題なのであり、これも量よりも質が重要であることの一例だ。(※う~ん、原則的には異論なし…)
⇒ このように、日本経済に必要なのは、(需要でもなく、単なる物量の供給力でもなく)供給の質、すなわち人的投資と実物投資だ。…丁寧に人を育て、質の高い設備投資をすることが必要なのだ。(あとの章で詳述)


○高度成長回帰という時代錯誤


・とにかく設備投資を刺激して(ex. 設備投資減税)、投資させればいい、というのは高度成長期の景気対策だ。…それは本質的には需要の量を増やす対策なので、質の高い供給力が何よりも必要な日本経済の現状(※成熟社会)には合わない。→ 経済構造も1960年代とは大きく異なっているから効果がなく、むしろ害悪となる可能性がある。
・まだ高度成長期の幻影があるのか、「成長軌道に戻す」という言葉をアベノミクス推進者は使うが、そもそも21世紀の日本経済においては、もはや成長軌道は存在しない。→ 1960年代の日本や2003年までの中国などにしか存在しない高度成長期のメカニズムを、現在の日本で目指しているところが、根本的に間違っているのだ。
・1960年代と違うのは、確実に需要が量的に拡大しないことと、21世紀の世界は変化が激しく、今年売れるものが来年売れるとは限らず、同時に、今期は有用な設備が来期も有用で効率的とは限らないこと。→ 従って、1960年代に比べて、今日の設備投資が明日の経済に適合的でない可能性が高い。…量的な不確実性も質的な不確実性も高く、二重の意味で無駄な設備(過剰設備)になってしまう可能性が高い。…現在の経済は複雑で多様性に富み、変化も激しい。市場も世界に広がり、それは世界の各地域のローカル特性を持った市場だ。←→ 力任せに効率よく安いモノを作れば売れるわけではない。
・このような時に、今日の需要のために(短期の景気対策)、何でもいいからとにかく設備投資をしておけ、という考え方で設備を増やすと、明日以降の過剰設備、不況の原因となるのだ(※もはや中国も過剰設備と言われている…)。→ その設備にこだわる企業は、売れないものをつくり続けて赤字を拡大するし、その設備に習熟した労働者は使えない労働者になってしまう。(※ex. シャープ…?)
・右上がりの単純に規模が拡大する経済において成立した設備投資モデルは、現在の経済(※成熟経済)には合わない。→ これゆえ、設備投資信奉者、そして成長軌道回帰願望者は、いまだに1960年代の世界を夢見て、誤った景気刺激政策を行い、日本経済の成長を阻害することになってしまうのだ。


○「貯蓄から投資へ」キャンペーンのインチキ


・「貯蓄が投資に回らないのが問題だ、貯蓄から投資へ」というかけ声、あるいは呪文もよく聞くが、これも経済学の教科書を読めばわかる誤りだ。…所得のうち消費しない分が貯蓄であり、その貯蓄は、経済全体では必ず投資として使われる。貯蓄=投資なのだ。←→ 貯蓄から投資へ、というかけ声は、銀行預金から株式投資へ、ということにすぎず、株価つり上げキャンペーンにすぎない。…証券会社が確信犯的に、このかけ声を信奉するのはわかるが、日本人は貯蓄ばかりで投資しないから経済が成長しない、という発言をするエコノミストがいれば、経済がわかっていないか、インチキかのどちらかだ。⇒ 本当の問題は、貯蓄としての銀行預金が有効に活用されているかどうかだ。(※う~ん、納得感あり…詳細はP116~117)
・銀行はリスクをとらず、国債ばかり買って無駄に使っている。だから銀行預金よりも株式投資を個人がして、資金を有効活用せよ、という議論もあるが、これも適切ではない。…政府が国債などを大量発行して借金を1000兆円もしているから、銀行預金が国債に回らざるを得ないのだ。←→ 銀行や生命保険会社が国債投資を止めたら、それこそ日本の金融市場は崩壊し、経済は危機に陥る(※いわゆるデフォルト…?)
・政府が借り入れた1000兆円を、意味のある将来への投資に回し、経済の供給力としてくれれば、経済も成長したはずなのだ。←→ だが、この1000兆円を、政府は、将来へ向けての供給力となる投資に使わず、ほとんどが無駄な政府支出として浪費(※公共事業や補助金?)してしまったり、あるいは年金支出など意味あるものだったとしても、要は、消費してしまっているのだ。→ この結果、資本が日本経済に残っていないので、成長できないのだ。←→ この1000兆円が国内の有効な実物投資となっていれば、あるいは人への投資として人的資本が蓄積されていれば、日本経済の成長力は驚くほど高かっただろう。
・国債については、銀行が国債を買うのは国内に投資需要がないからだ、という議論もあるが、そうだとしても、日本国債のように将来の供給力を生まない投資をするよりは、収益の上がる海外に投資した方がましだった。…海外投資では国内雇用に結びつかないと言うが(海外赴任や国内の本社の雇用が増えるという場合もあるが)、それでも、投資がうまくいけば、将来の所得になるのであり、元本とリターンが返ってくるから、本当に将来、需要不足になったときの消費の源泉となる所得となる。→ リターンが得られる限り、それは金融投資であっても価値があり、将来の経済を支える意味のある投資だ。
・この観点から言うと、1000兆円は国民の借金ではなく資産であり、日本国内での借金だから、政府負債1000兆円は何の問題もない、という議論(※これを言うエコノミストや識者はけっこういる…)は、明らかに誤りである。→ 問題は、貸したカネが意味のある投資となり、その収益によって貸したカネが返ってくるかどうかだ。
・おカネを借りて、それをまともな資産として蓄積せず、また収益を生む投資もしない。→ 何も生み出さず、ただ使ってしまったとすれば、借り手には借金しか残らない。返そうと思っても返すモノがない。…政府の場合も、いざ1000兆円返せ、と我々が言ってみても、政府は税金で新たに国民から奪わないことには払えない。(※結局、借金のツケは未来世代に…?)
・1000兆円を何らかの資産として残していないのであれば、1000兆円は資産の裏付けのない借金でしかなく、国民にとっては不良資産であり、現時点ですでに政府は債務超過、実質破綻しているのだ。…これは大きな問題である。→ 本来であれば、1000兆円を増税なしに返せなくてはいけないはずだ。あるいは、1000兆円分の有効な実物資産が残っており、それが経済成長を生み出していなくてはいけないはずだ。(※う~ん、原則論としては納得…)
・1000兆円を返す必要がない、という議論もあるが、返す返さないの問題ではない。…その1000兆円を有効に使ったか、経済にプラスをもたらす投資を行なったか、ということが重要なのだ。…政府の消費、投資、カネの使い方の非効率性は誰もが認めるところだから、政府に1000兆円貸すよりは、付加価値を生み出し、元本を利子とともに返してくれる民間経済主体が有効活用するべきだった。→ 1000兆円の消費により、日本の経済成長は失われたのである。(※日本国の〝1000兆円の借金〟の問題は、今後とも避けて通れない重要な難題と思われるので、少し丁寧に見てみた。…詳細はP116~121)


○経済の本質を誤解しているアベノミクス

〔本章のまとめ〕


(1) 日本経済は需要不足ではなく、供給力不足である。

(2) 供給力不足といっても、単純に移民や女性投入(〝輝ける女性〟と言ったところで、彼らの狙いは労働力の頭数を増やすことに変わりはない)などで労働力を増やすことや単に設備投資をすることによっては解決できず、質の高い労働力とニーズに合った実物資本、そして将来にわたってニーズをつかみ続けるような柔軟な研究開発能力が必要だ。

(3) 消費を無理に増やすことは、百害あって一利なし…需要が足りているなかでは、単なる無駄なインフレが起きるだけであり、景気の過熱はロスとなる。→ さらに、消費を増やすということは貯蓄を減らすことであり、貯蓄が元になる投資が減ること、つまり日本経済の将来への生産力、供給力が落ちることである。そして、これこそ、日本経済が陥っている成長力不足(※量的ではなく質的な…)をさらに深刻化させた原因である。

・従って、とにかく消費を刺激して、カネをぐるぐる回し、カネ回りを良くして経済を活気づける、という考え方は間違っている。…トリクルダウン(お金持ちが無駄にカネを使えば、庶民も潤う)という議論も誤りである。→ それは、投資の機会がなくなり、供給力と成長力が失われることである。←→ 国内で投資ができないとしても、海外に投資するなどして、現在よりも経済全体の消費が減り(※高齢化と人口減…)需要不足になると思われる将来に、必要な資産、食い潰すだけの資産をとっておいたほうが、日本経済には有益なこととなる。
・このように、アベノミクスは、根本的な経済の捉え方、経済政策についての考え方が、誤っているので、今年の景気を刺激することはできても、持続的な成長をもたらすことは決してできない。→ それどころか、成長機会を殺しているのであり、中長期的には経済の活力が失われていくことになる。⇒ 供給力の質を高める人的資本、実物資本への丁寧な投資こそが、日本経済には必要なのだ。


【6章】日本経済の真の問題


・〔この章のポイント〕…この20年間の低迷は、日本経済の低迷ではなく、経済政策の低迷だった。→ 失われていた「政策ヴィジョンの構造改革」、これが今、必要なこと。…すなわち、マクロ経済政策偏重からの脱却、景気対策からの脱却、国全体での成長戦略からの脱却である。←→ デフレ脱却は重要ではない。
・今の日本経済の問題…景気が悪いのではない。景気循環は順調で、過熱しているくらいだ。→ だから景気刺激策はまったく必要ない。それどころか、マイナスの影響がある。日本経済に必要な(※質的な)成長力を奪うから。…景気が悪いのではなく、潜在成長力という日本経済の実力が落ちているのだ。→ これを回復するためには、短期的な景気刺激策(※アベノミクス)をとることは無駄であるだけでなく、害なのだ。


○短期的景気刺激策の三つの罪


(1) 必要な財源を無駄なものに使い、成長力を上げるための財源がなくなる。

(2) 景気刺激策をとること自体が成長を阻害することになる。…景気対策は、(既存の企業の)ある種の既得権を守ること。→ 既存の経済構造を固定することになり、新しい企業の誕生を妨げ、若い労働力が将来への成長機会となる、先のある仕事(※未来性)に就けなくなる。…つまり、新しい経済構造の誕生、経済自体が持つ柔軟な環境変化対応能力を阻害することになる。

(3) 本質的な問題から人々の目をそらせることになる。…(短期的に)景気が少し良くなり、見せかけの安息を得て、そこで経済の変化への対応を止めてしまう。→ 環境変化への対応を止め、同じやり方にとどまり安心し、思考停止になる(※まさに日本の今の状況…?)。→ 即効力のある麻薬を求め、政策サイドもこれに応えようとし、ひたすら(短期の)景気対策が繰り返される(※間違った対症療法)。→ そして、効率の悪い場所にとどまったまま、全力で努力しながら、過労死を迎えることになる。…それではだめなのだ。←→ 頑張るなら、未来のある努力のほうが誰にとっても望ましい。(※確かに…)


○GDP増加は成長ではない


・では、何をするか? → 成長力を上げること、長期的な日本経済の実力をつけることだ。…しかし、それは量的な拡大ではない。→ まず、GDP増加率を成長の指標として使うことを止めることが必要だ。
・GDP(国内総生産)の増大は成長ではなく、単なる膨張だ。人口が増えれば自然に増える。…だから、成長戦略に人口政策が入っているが、それは誤り。→ 人口増加は、(経済のためではなく)社会としての必要性の有無で考えるべき。…ex. 低賃金労働力の不足による経済規模の縮小を防止するために、移民を促進するというのは、経済規模だけを考える誤った政策だ。⇒ 社会として、移民に関する望ましい形を先に考えるべき。→ 多様な国籍の人々が集まることが良い社会であることと、経済規模を維持するために、低賃金労働力のプールとして移民を促すこととは、まったく別の問題だ。(※これは深く納得…)
・このような混乱した議論を避けるためにも、少なくとも経済成長は、(経済全体のGDP規模で考えるのではなく)1人当たり国民所得で考えるべき(※GDPで中国に抜かれた、というようなことは、人口規模の違いから言っても、あまり意味はない、ということか…)。→ そうすれば、経済の効率性・高度化を図ること(量よりも質)が必要となり、真の意味で経済の成長を目指すことになる。→ しかし本当は、これも依然として国民所得という「量」で考えていて、質を考えていない。つまり、本当の意味での経済の成熟度を測っているわけではない。真の豊かな生活を表しているわけではない。
・1人当たりの県民所得は、東京がダントツに高い。→ その東京を全国で見習えば、日本の国民所得は上がる。しかし、それは国民を幸福にはしない。…生活コストや社会コストが東京並に上がれば、とんでもなく住みにくい国になってしまう。←→ あらゆる活動が、金銭的尺度・価値で測られる大都市に比べ、普通の街、市町村では、金銭に表れない豊かさがある。…東京などの大都市での生活は、この豊かさを犠牲にして、その分しかたなく、高い給与を得てごまかしているのだ。〔※う~ん、「里山資本主義」(「レポート」22,23)とも通底するようだが、ちょっと都市と地方の対比を、単純化している嫌いもありか…?〕


○米国ビジネススクールのランキングが示すもの


・前項のようなことを言うと資本主義否定論者かと言われそうだが、そんな批判を受けるのは日本だけだ。…米国では就職のとき、カネをとるか、パートナーと一緒に暮らせる街を選ぶか、これがキーになる。採用側も、二人でのセット採用に対する交渉を当然のように行う。
・米国のビジネススクールのランキングには、年収とともに生活費調整があって、ニューヨークの学校は卒業後の年収も断然高いのだが、生活コストも断然高く、実質で見るとあまりランキングは高くならない。…これらは、最も所得が高い人、仕事に恵まれた人の話であるが、最も仕事に恵まれた人こそがニューヨークを選ばない、というところがポイントなのだ。
・東京で働くことも、ニューヨークと同じであり、つまり東京で働くのは、遅れていてダサいのであり、東京以外で働けないから仕方なく働くのだ。→ 実は日本でも、米国と同じ状況にすでになっている。20代の子供のいる夫婦で、東京を避けて、環境の豊かな地方に移住することを望む人が増えている。…これは、住環境、子育て、教育環境を考えれば、当然の結果とも言える。生活環境の豊かさは計り知れない。コンビニがなくて困る、のではなく、コンビニで食事をすまさずにすむ、のである。食生活は質的に次元が違う。コストも圧倒的に低い。住環境も、違い過ぎて比べようがないが、東京で木を見つけて喜ぶのとは異次元である。自然を探すのではなく、自然の中に住んでいるのだから、公園も庭もいらない。自然がすべてを提供してくれる。〔※う~ん、地方で暮らしたことがないので何とも言えないが、そして地方の実態がこのようであれば、それは本当に望ましいことだと思うが、実際はもっと複雑な話ではないのか…? ちなみに当方のツレアイは、田舎が嫌だから東京に出てきた、と言っているが(ウン十年前の話だけれど)…現在は、地方の環境が格段に良くなっているのか…? それとも、東京の劣化が、地方以上に劇的に進行しているのか? …『東京劣化』(PHP新書)2015.3.30〕


○指標を目標とする本末転倒


・東京と地方の比較で浮かび上がってきたのは、豊かな経済・社会生活の度合いを測るためには、1人当たりGDPや国民所得では足りない、という事実。→ GDP依存症から脱却する必要がある。(※これは納得…)
・成長ではなく成熟を目指すとすると、(成長の代わりに)経済と社会の成熟度を表す指標は何になるのか? …その指標がないのが最大の問題であり、そのためにGDP膨張派に「だから国家の目標、政策目標はGDPしかない」と、単なる指標を目標とする議論に負けてきた。…ex. 米国マクドナルドのボーナスの設計の事例…売上げや利益に連動したボーナスを与えると、店長は後輩の指導や店の清掃やブランドイメージの管理を怠り、数値目標の達成だけに邁進し、短期的には売上利益が伸びるが、長期的にはマクドナルドのブランド価値などが落ちて、会社全体にとってマイナスとなる。(※いまマクドナルドはピンチのよう…)
…ex. 教育でも、点数至上主義、大学進学至上主義が存在すると、それ以外の質的に重要な教育が疎かになってしまう、学校が塾と同じになってしまう。…このような例は無数にある。(※う~ん、どこかの地方の高校が、有名大学に合格した生徒に報奨金のようなものを出した、というニュースがあったな…)
・GDP成長率の問題も同じことだ。…GDP至上主義で、経済が長期的に悪い構造にはまっても(ex. 財政が悪化しても金融リスクが高まっても)、目に見える短期の明確な指標であるGDP増加率を引き上げるために、財政出動、減税、金融緩和が優先され、目に見えないリスクは先送りされる。…これもまったく同じだ。(※その場しのぎと先送り…日本社会の悪弊か…)
⇒ 指標が手に入るGDPを、手頃な目標として設定してはいけない。→ 成熟経済の場合には、質の豊かさ、成熟した豊かさは主観であり、個々の価値観によるもの。…そもそも客観的な指標をつくることはそぐわない。さらに言えば、客観的指標を設定し、それを国家的な目標とするという発想自体が、成熟経済にはふさわしくない。(※今の世の中〝数値目標〟の氾濫…社会の意識が、まだまだ「成熟」の域に達していないということ…?)
・一方、マクロ経済政策は、(GDP成長率という数値目標ではなく)何を指針にすればよいか? → 社会としては、まず失業率の低下への対策が最優先されるだろう。…仕事がある。これが何よりも重要である。失業はなんとしても避けるべきものだ。…もちろん、見かけの失業率は低いが、多くの人に労働条件や賃金水準についての不満が広がっているなら、実質的な雇用問題は、見かけの失業率を超えて、根深く大きな問題となっている、と捉える。潜在的な失業とも考えられる。→ だから、失業の減少、幅広く捉えれば、雇用が最大の目標となる。…ただ、現実的には、(GDPの数値が指標として存在する以上)成熟経済社会においても、GDPの数値も参考にしながら、経済の規模とその他の成熟的な豊かさ(質的な豊かさ)のバランスを計っていくことになろう。


○結論:政策ヴィジョンの構造改革


・では、「質的な豊かさ」「成熟社会」はどのように追求するのか。→ すべては各個人と各地域である。…個人の成熟と地域社会の成熟が基盤となって、日本経済全体の健全な成熟が実現するのだ。…経済は、個人の総和であり、日本は、各地域の総和である(※う~ん、ほんの70年前には、この個人と国家が逆立していた…個人や地域は、国家の犠牲となった…)。→ 従って、これらの個々の力を高めることを支える役割を政府は果たすことに集中する。⇒ これが、唯一の長期的経済成長戦略であり、我々の言葉で言えば、成熟経済のヴィジョンである。(※いま、現政権は、また逆のことをしようとしている…?)
・成熟社会においては、個人の価値観、各地域のあり方は、多様になる。…だから、マクロ経済政策を日本全体に押し付けることは意味がない。→ マクロ経済政策は環境整備(安定した経済環境を維持すること)に尽きる。…安定した物価、為替、金利…それで十分だ。
・成熟経済においては、トップダウンの手法も通用しなくなる(国レベルでヴィジョンを決め、日本全体がそれに向かって突き進む、というスタイルは高度成長期までだ)。→ それぞれの地域は、それぞれの道を歩むから、国全体での方針、計画はいらない。邪魔である。(※う~ん、日本社会は、まだこのレベルには達していないのでは…? 地方も、ゆるキャラやB級グルメなど、まだまだ〝横並び〟が多いよう…。→ それでも、何か兆しは、見えてきているか…)
・このことは、高度成長が終わり、二度のオイルショックを乗り切った1980年代前半には、すでに明らかになっていた。→ その後、バブルとなり、問題は見えなくなり(※人間、踊り出すと、見えなくなる…)、また、1985年以降は円高対応だけに関心が集中し、→ この結果、日本の社会経済構造の変化、およびそれに対応した経済政策の考え方への移行が忘れられてきたのだ。……1992年以降の経済の低迷、失われた20年と言われる日本経済において、最も致命的に失われていたものは政策ヴィジョンの構造改革だったのだ。
・1997年以降の金融危機対応、2001年以降の日銀の金融政策においては、まさに危機対応であり、政策は大きな意味を持った。←→ しかし、それ以外については、経済政策は死んでいた。→ 何のヴィジョンも思想もないまま、焼け石に水のような景気対策だけを繰り返し、借金を急増させていった。…日本の資産である貴重な金融資産は、成長を生み出さない政府の財政支出に注ぎ込まれた。→ これが、新しい経済構造への革新を阻害した。…その中でデフレマインドと呼ばれるものが生まれた。(※日本病…?)
・デフレマインドとは、(将来の物価下落に対する不安ではなく)将来の所得、雇用環境への不安であった。→ この結果、消費は抑制され、将来の社会保障への不安から、高齢者は必要以上の貯蓄に走った。…将来所得、将来雇用の不安は、政府や政策への不安、不信により、増殖していった。←→ 一方、政策サイドは、この不安から生じる経済の停滞に対し、景気対策という、一見その場しのぎ、実はその場しのぎにもなっていない、無関係なもので応じた。→ これが、ますます政府不信、経済政策不信を増長させた。将来への悲観マインドは高まった。……これが失われた20年の構造である。(※う~ん、なんか実感に近いか…)
・日本経済は、バブル崩壊による金融危機というどん底からの回復プロセスにあり、同時に、高度成長期の経済モデルからの脱却を模索するプロセスにあった。→ これが結果として、20年間の経済の停滞の主な要因となった。…しかし、この回復のプロセスに20年もかかったのは、経済政策の構造変化が行われなかったから。→ 金融危機からの回復には成功したが、副作用として、金融危機脱却後、円安、株高が何よりも必要であると信じ、その実現を政府の政策に依存するという、堕落した体質となってしまった。(※う~ん、説得力あり…)
・経済政策の思想としても、「日本経済は需要不足であり、景気を刺激し、消費を促すことが何よりも必要である」という1960年代の思想から一歩も変化できなかった。→ 古い景気対策を継承し、さらに拡大して、繰り返し行うこととなった。…堕落しただけでなく、堕落する方向も180度誤っていたのだ。
・この結果、日本経済の潜在成長力は大幅に低下した。そして、実際のGDP成長率も低下した。←→ 政府はこれに対し、経済政策の思想も構造も変えずに、さらなる景気対策で応じた。→ 結果的に、景気対策の規模は大きくなり、借金の額の増加速度は加速し(※もはや1000兆円超…!)、金融政策に至っては、極めてリスクが高く、根本的に誤った考え方の異次元緩和が行われることになってしまった。→ さらに、これが継続的に行われたため、副作用ばかりが大きくなり、景気刺激策を打っても効果がなくなってきた。→ だから、さらに大規模の景気対策を行うようになって、さらに歪みは拡大した。…まさに経済政策と成長率の悪循環、成長率低下スパイラルに陥ってきたのだ。(※う~ん、日本は大丈夫なのか…?)
                                 (6/18 つづく)        

〔今回の[前編]では、アベノミクスという政策(円安・株高とインフレ誘導)の誤りについて見てきました。→ 次回の[後編]では、アベノミクスに代わる「他の選択肢」について探っていく予定です。…続きものなので、あまり間が空かないよう努力します。〕
                                       (2015年6月18日)

                     

2015年5月6日水曜日

今日も駄目の人

今日も駄目の人


 私は、百姓の真似事をやる他に、英語塾もやっている。主にインターネット上で、スカイプというソフトを使っているので、生徒の住所はあちこちだ。かつては北海道から九州まで、今は山形県から福岡県までか。よくわかっていない。一度も顔を合わせたことのない人たちにレッスンしているので、なかなか住所も覚えられない。レッスンを始めるときに、一応住所を教えてもらってあるが、手紙でも出すようなことがなければ住所を調べることもない。
 スカイプを使うのにカメラを使うと、音声が途切れたりすることがあるだろうと思いレッスンでは音声だけでつなぐ。この場合、都合がいいのは、私の顔や着ているものが相手にわからないことだ。
 畑で百姓をやっていて、軽トラックに戻って時間を確認したら、レッスン開始まであと10分しかないというようなことが何度かあった。百姓仕事の道具もやりかけの仕事もほったらかして帰宅する。シャツにモミガラがくっついているし、手の指の爪の先には黒い土が入っているし、顔は日に焼けてまっくろけのケだし、ぼさぼさアタマだし、要するに英語のレッスンのコーチにはとうてい見えない。カメラを使わないでいてよかったと思う時は、そんな事情の時でもある。
 ところが、通塾の生徒の前で姿を見られないままレッスンすることはできない。仕方がないので、畑から舞い戻ったばかりの格好でレッスンすることがある。泥のついたシャツ、泥のついた手、砂埃でジャリジャリする顔や首。

 入塾したばかりの生徒が、私の格好を見て馬鹿にしたような顔をすることがある。

 そういう生徒は、なるべく早く退塾してもらうようにしている。がんがん怒鳴りつけたりもする。英語なんかやる以前の問題が親にあるのだと思う。泥がついていたり、砂ぼこりが髪の毛の間から落ちて、机の上がジャリジャリしたり、英語で言うところの red neck であったりする者を、小馬鹿にするような目つきで見る者の家の中でも、親たちにそういう感覚があるのだと思う。言ってみれば、第一次産業の格好を馬鹿にする感覚と言えばいいのか。第一次産業の人口がどれだけ減っても、泥や砂を馬鹿にするような者は、俺がお前の英語を馬鹿にしてやんだよ。そんな根性のやつが英語なんかできるようになったってろくでもねえし、くだらねえ。

 その昔、家を自作したので、コンクリートをよく練った。コンクリートも服に付着するとなかなか取れない。
 東京で娘が学生をやっていた頃のある日、現場でコンクリートを練ったまま、着替えもせずに新幹線に乗った。新宿の紀伊国屋の前で待ち合わせていたので、紀伊国屋の前で娘が現れるのを待った。なかなか来ない。かなり待ってから、娘が人混みの中に立ち止まってこちらを見ているのをみつけた。こちらから娘に近づいて、なんで立ち止まっているんだと訊いたら、「わかんないの?」と言った。「お父さんの周りだけ、人が何十センチも離れて立ってるんだよ。汚い服に触るといやだから」と娘が言った。そういえばそうだったかもしれないが、別に気にもとめなかった。
 住んでいる千曲市というのは田舎で、田舎にいれば人が10センチとか20センチのところまで近づいて来るなんてことはまずない。長野駅に行けばあるだろうか。長野駅でも30センチやそこらは人と人が離れている。50センチや60センチ離れていることだっていくらでもあるので、紀伊国屋の前でも60センチや70センチ人が離れていても普通だと思っていた。

 新宿を歩きながら、レストランの脇を歩きながら、「ここで飯食うか」と聞いたら、「駄目だって」と言われた。曇りのないガラスから店内を見ると混んでいたので、あまり味で外れないんじゃないのかと思ったのに。

 私は今日も「駄目だって」のままだ。
 今日は里芋の種芋を土の中に埋めた。

2015年4月14日火曜日

震災レポート31「脱成長論③」

(震災レポート31) 

震災レポート・拡張編(11)―[脱成長論 ③]


                                    中島暁夫



 前回の『資本主義の終焉と歴史の危機』では、…「ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ」という定常状態は、(資本の自己増殖システムである)資本主義の終焉の兆候であると同時に、新しい時代・新しいシステムのための予兆なのではないか…経済危機のみならず、国民国家の危機、民主主義の危機、地球持続可能性の危機という形で、「歴史の危機」が顕在化してくる前に、日本は、新しいシステム、定常化社会への準備を始めなければならない…ということが論じられてきた。
 ただ、この「定常化社会」の具体的なイメージについては、(著者の水野氏も認めているように)まだ明確な形が描かれてはいなかった。そこで今回は、別の視点(環境経済学)からこの「定常状態」(定常経済)について、補足的な資料を見ていきたい。



                                         
『「定常経済」は可能だ!』 ハーマン・デイリー
                 〔聞き手〕枝廣淳子
                                   (岩波ブックレット)2014.11.5


〔著者は1938年テキサス生まれ。大学教授、世界銀行上級エコノミストなどを歴任。経済学に環境、地域社会、生活の質、倫理性といった要素を組み込んで〝定常状態の経済学〟を再定義し、環境経済学の礎を築いた。もう一つのノーベル賞といわれる「ライト・ライブリフッド賞」、地球環境問題の「ブルー・プラネット賞」を受賞。邦訳書に『持続可能な発展の経済学』など。〕
(インタヴューは、2014年4月12日)



【はじめに】



〔聞き手〕

・温暖化の進行や生物多様性の危機、世界に広がる水や食料の不足、繰り返し起こる経済のバブル(次のリーマン・ショックがいつ起きてもおかしくない状況)、貧困や格差の拡大、モノは余っていても心は満たされない人が増えているなどの状況に加えて、世界に先駆けて人口減少・超高齢社会に突入した日本は、本当にみんなを幸せにしてくれる持続可能な「経済のあるべき姿」に向けて再考を迫られています。

・あちこちでいろいろな分野の人が考え直しをしようとしている今、デイリーさんが40年以上前から提唱されてきた「定常経済」という考え方は、大きなヒントときっかけを与えてくれます。…なぜ現在の成長経済ではダメなのか、「定常経済」とは何か、どのように移行していけばよいのかなど、いろいろ教えて下さい。

〔デイリー〕

・日本の「失われた20年」という言葉を聞くたびに、「成長志向型の経済がうまくいかなかったというその経験を活かしてもらえればよいなあ」と思う。→「どうやって成長の限界に適応したらよいか」を考える、つまり「限界を破れないこと」は(「成長経済の失敗」ではなく)「定常経済の成功」なのだと考えられないか、と思う。

・日本は島国だから、「限界」はよりわかりやすいだろう。…人口増加は世界的な問題だが、日本はすでに人口増加の制限に成功している 〔※というより、「このままでは896の市町村が消滅してしまう!」という騒動になっている…『地方消滅』中公新書〕。…日本人は伝統的に、(「もっと、もっと」と量的に拡大をするよりも)良い製品を開発すること、つまり質的な発展を大事にする人々。そして、他の西洋諸国の多くに比べて、所得の平等な分配を大事にしようと社会全体が考えている国だ(※最近は、欧米諸国と同様に、格差拡大が進行中…)。

・あらゆる国が、限界に直面しており、こういった方向に向かっていかなくてはならないが、「成長の限界にうまく適応する」ことについて、日本は、世界の先頭に立っているように思える(※前回の水野氏の論とも通底しているようだが、外交辞令も入っている…?)。
・限界に直面したときの痛みの多くは、「成長しかない」と努力し、限界と闘うことから生じるのではないかと思っている(※誤った治療の副作用…?)。→「上手に調整して限界に合わせよう」「経済成長のデメリットがメリットより大きくなってしまうタイミングを知ろう」とすれば、痛みは少なくて済むだろう。(※ソフト・ランディング…)

〔聞き手〕

・次の10年が、「失われた30年」ではなく、「持続可能な経済にシフトする10年」になるように、そのための大きなヒントと枠組みを提供してくれる「定常経済」について、お話をうかがえることを心から楽しみにしています。



【1章】 なぜ「定常経済」が必要なのか



1.「経済成長」に頼って問題解決ができない時代


〔聞き手〕

・世の中では、貧困や失業、環境問題などを解決するには経済成長するしかない、という考え方が一般的ですが、デイリーさんは、本当に問題解決しようとするなら、経済の規模が一定の「定常経済」しかない、という考えですね?

〔デイリー〕

・確かに「経済成長」は、現在のありとあらゆる問題に対する万能薬のように考えられている。…「貧困が問題なら、経済成長させ、モノやサービスの生産を増やし、消費を増やせばよい。→ 富める人が富めば、それがしたたり落ちるように(トリクルダウン)、貧しい人にも自然に富が浸透するはずだ(※要するに〝おこぼれ〟?)。…(金持ちから貧しい人への)富の再分配はしないほうがいい。そんなことをしたら、経済成長が鈍化してしまうから。…失業が問題なら、金利を下げて投資を刺激し、モノやサービスへの需要を増やせばよい。→ 経済が成長し、雇用も増えるはず。…人口過剰が問題なら、経済を成長させればよい。20世紀の先進国がそうだったように、経済が成長して豊かになれば、出生率は低下するはずだから。…環境問題? クズネッツ曲線(経済発展の初期段階で所得格差は拡大し、その後、縮小に転じる)になぞらえて、経済発展の初期段階で公害などの汚染は増えるが、その後、減少に転じるという環境クズネッツ曲線を信じればよい」という具合に…。〔※実際には、資本主義では(格差の縮小は例外的で)格差は拡大し続ける……トマ・ピケティ『21世紀の資本』〕

〔聞き手〕

・でも、先進国では、経済成長で豊かになったからこそ、産む子どもの数は減って人口の激増は止まったし、伝染病も大きく減り、栄養不足で亡くなったりする子も減りました。

〔デイリー〕

・そういう点では、発展途上国などでは、今でも経済成長が必要なことは明らか。…私は「定常経済」を主唱しているが、途上国も現在のまま、定常経済に移行すべきだと考えているわけではない。→ しかし、地球全体、世界全体で見たとき、「経済成長がすべての問題を解決する」のではない時代に入っていることは、理解しなくてはならない。

〔聞き手〕

・かつては、経済成長に頼った問題解決が可能だったかもしれないけれど、今はそうではない時代だというのは、何が変わったのか?

〔デイリー〕

・私たちの世界が、「空(す)いている世界」から「いっぱいの世界」にシフトした、ということ。…かつては、人間の数も、人工物も、地球の大きさに比べると、相対的には小さいものだった。言ってみれば「空いている世界」だった。←→ しかし、私が生まれた1938年から今までの間に、世界の人口は3倍になっている。人工物の増え方は3倍どころではない。…「空いている世界」では経済成長に頼ることは可能だったかもしれないが、「いっぱいの世界」では無理なのだ」。(※前回の水野氏の論では、「フロンティア(周辺)の消滅」…)


2.本当に温暖化問題を解決するには


・温暖化の問題も、その議論の大半は、温暖化と「経済成長」とのつながりを考えていない。…CO2だけではなく、私たちが生物圏に排出しているあらゆる廃棄物を増やし続けている原因は何か? → 私はそれを、「熱力学の法則に従っている有限の地球の上で、無限の幾何級数的成長(線形ではなく加速度的な成長)を追求しようと、我々が全力で合理的ではない努力をしていること」だと考えている。

・成長への狂信的な崇拝を脇に置くことができれば、「これまで通りのGDP(国内総生産)成長率を維持するためには、エネルギー効率や炭素効率をどのくらい引き上げなくてはならないか?」という、成長に縛られた間違った問いではなく、「どうしたら、生物圏の限界を順守する定常経済を設計し、回していくことができるか?」という、理にかなった問いを発することができるだろう。(詳細はP6~8)


3.「空いている世界」から「いっぱいの世界」へ


・地球は太陽系に属しており、太陽からのエネルギーを受け取っている(そのエネルギーの量を人間はコントロールできない)。そして、地球は熱を宇宙に放出している。…つまり、地球は宇宙の中にあるが、宇宙と物質などのやりとりはしていない。⇒ そういう意味で、地球は基本的にそれ自体で完結している「閉じたシステム」(第1のポイント)。

・では、この地球という基本的に閉じたシステムの中で、どのようにモノは生み出されるのか?…無からモノを生み出すことはできない(これは物理の法則)。→ 私たちが必要とするものをつくり出すためには、エントロピー(乱雑さの尺度)の低い物質・エネルギーが必要(→その結果、高エントロピーを排出)。→ しかし、自分たちで低エントロピーの物質やエネルギーをつくり出すことはできないから、「あるものを使う」しかない。〔※ここでいきなり「熱力学の法則」とか「エントロピー」という言葉が出てきたが、より詳しく知りたい方は『エントロピーをめぐる冒険』講談社ブルーバックス2014.12.20 などを参照されたい。〕

・私たちが使うことのできる低エントロピーの源は二つある。

①太陽からのインフロー(一定期間に流れる量)。

→ 植物は、太陽からのエネルギーを光合成によって栄養に換えて取り込み、動物は植物を食べることでそのエネルギーを取り込む。

②地球にあるストック(貯蔵されているもの…地下資源など)

 両方とも無限にあるわけではないが、希少性のパターンが違う。…①の太陽エネルギーは(一日の日射量を考えればわかるように)フローには限界がある。しかし、(太陽という星が燃え尽きるまでの)ストックは膨大。…他方、②の地球の地下資源は、ストックには限界があるが、一時的にはフローは豊富(明日のための化石燃料を今日使ってしまうこともできる)。…いずれにせよ、入口で低エントロピーのものを取り出し、最後には、出口で高エントロピーの廃棄物を出すことになる。…この入口から出口までのフロー(物質やエネルギーなどの流れ)を「スループット」と呼ぶ。

・人間も人工物も、常に環境から低エントロピーの物質・エネルギーを取り入れ、高エントロピーの物質・エネルギーを環境へ戻す(排出)ことによって、ある種の定常状態を保っている。…つまり、人間も人工物も、短期的な維持(メンテナンス)のためにも、長期的には(死んだり摩耗したりして使えなくなる分を)出生や新しい製品に置き換えるためにも、物質的なスループットが必要だということ。→ そして、そのスループットの入口でも出口でも、地球(自然、生態系、環境)に依存している。

・(先ほども言ったように)私が生まれてこの方、地球の人口は3倍になり、人工物の増加もそれをはるかに上回っている。→ それらをつくり出し、維持し、置き換えていくために地球の生態系から取り出す物質やエネルギーも増えているということ。

〔聞き手〕

・エントロピーというのは難しい概念でとっつきにくいと思っていましたが、私たちが生きていることも、入口の低エントロピーのものから出口の高エントロピーのものまでのスループットに支えられており、そのための物質やエネルギーは、太陽エネルギー以外は地球の生態系から取り出すことになるということですね。(※う~ん、それでも「エントロピー」というのは難しい…)

〔デイリー〕

…次に押さえておくべきことは、「地球は成長しない」(物理的な次元では成長していない)ということ。…もちろん質的には変化しているし、地球上の物質全体は循環している。…でも、量が増えているわけではない。→ 生まれるものがあり、死にゆくものがある。生産が行われ、摩耗していく。新しいものが進化し、古いものは絶滅していく。絶えず、変化している。…しかし、地球は成長していない。(※第2のポイント)

〔聞き手〕

・基本的に閉じたシステムである地球は成長しない(有限である)ということですね。そして、私たちの暮らしも経済も、その有限の地球に支えられるしかない、ということですね。

〔デイリー〕

・経済は地球の範囲内で営むしかないから、地球のサブシステムなのだ。→ 経済がどんどん成長して、地球全体を覆うほどになったら、経済はそれ以上は成長できない。→ 太陽からの一定のフローに頼って、ほぼ定常状態で存続することになるだろう。…「空いている世界」では経済成長を続けることが可能だったが、現在のような「いっぱいの世界」では無理だということ。→ 制約要因も変わってくる。…「空いている世界」での制約要因は人工資本だが、「いっぱいの世界」での制約要因は、残っている自然資本となる(ex. 漁業では、漁獲量を制約する要因は、かつては漁船という人工資本だったが、今では、海の中の魚の数とその再生能力)。

・このように「空いている世界」から「いっぱいの世界」にシフトすると、制約要因も変わってくるのだが、経済の考え方は変わっていない。…かつてと同じく「制約があるなら、人工資本に投資して、その制約を外せばよい」と考える。


4.「不経済成長」から「定常経済」へ


・(「いっぱいの世界」にシフトしているのに、経済の考え方が変わらないので)「不経済成長」になってきてしまった。…「経済的な成長」とは、そのために必要な費用よりも、得られる便益のほうが大きい(実質的にプラスになる成長)という意味。←→ しかし実際には、「経済」の成長と「経済的な」成長はイコールではないのに、この二つをごっちゃにして、「経済成長は良いものだ」と考えている人が多い(※経済成長至上主義…)。

・かつてと違って、今では(環境問題を含む)経済の成長のための費用のほうが、生み出される便益よりも大きくなっており、「不経済な成長」になっている(P13にグラフと説明)。→ GDPが一単位成長するごとに、財やサービスを新たに一単位生産するのに必要な費用(限界費用)は増加し、逆に得られる便益(限界便益)は減少していく傾向がある。…費用が増加するのは、最も利用しやすい(コストが最も安い)資源から用いるため(→ 次に用いる資源はコストがより高くなる)。…逆に便益が減少していくのは、最も切迫した(便益が最も大きい)ニーズから満たしていくから(→ 次に満たすニーズは便益がより減少していく)。〔※確かに昨今の商品の中には、「こんなもの必要なのか?」と思われるようなものも見受けられる…〕

・費用が便益を上回るのを避けるためには、限界費用と限界便益が等しくなる時点(P13にグラフ)で、GDPの成長を止めるべき。…「豊かな方が貧しいより良い」というのは自明の理だが、「経済成長すれば常に私たちは豊かになる」と思い込むのは、初歩的な間違い。

〔聞き手〕

・でも、なぜ多くの一般の人や、経済学者ですら「ここを超えたら経済成長は不経済成長になる」ということがわからないのでしょう?

〔デイリー〕

・生産の便益だけを測って、環境的・社会的なコスト(犠牲や代償、費用など)を測っていないから。→ 経済成長が生み出す〝富の副産物〟の問題に、知らん顔をしている。…ex. 先ほどの温暖化の問題、核廃棄物や原子力発電のリスク、生物多様性の危機、鉱山や油田などの枯渇、森林消失、表土の浸食、干上がる井戸や帯水層、海面の上昇、メキシコ湾のデッド・ゾーン(酸欠で生物のいない海域)、海に渦巻くプラスチックゴミ、オゾン・ホール、危険できつい労働、(実際には不可能な領域まで象徴的な金融セクターの成長を押し上げようとすることがもたらす)返済不可能な負債(※サブプライムローン?)など…、経済成長の環境的なコストや社会的なコストはいくらでも挙げることができる。

〔聞き手〕

・でも、全体として経済成長の便益と比べたときに、現在すでに「不経済成長」の領域に入っているということは、どうやってわかるのですか?

〔デイリー〕

・先進国はすでに「不経済成長」の領域に入っているという証拠はたくさんある。統計的な実証的証拠として、二つ挙げる。

(1) GDPの中身を「費用」と「便益」に分けて、GDPから「費用」の部分を差し引いて、経済成長の実質的な「便益」を概算するやり方。

→ この考え方に基づき、「環境汚染の経済的な損失」を考慮に入れた持続可能経済福祉指標(ISEW)や「人の幸福に影響を与える項目」を加えた真の進歩指標(GPI)が開発された。→ どちらの計算結果を見ても、「ある時点から、GDPが増えても、ISEWやGPIは増えなくなる」ことがわかる。米国や他の先進国では、1980年ぐらいまではGDPとGPIが正の相関を持っていたが、その後は、GDPは上昇を続けているのにGPIは横ばいとなっている。→ 環境破壊などの費用が増しても、福利や幸福といった便益は増していない、ということ。

(2) もう一つの証拠は、自己評価による幸福度の測定。

…様々な幸福度の研究によると、幸福度の自己評価は、1人当たりのGDPが年2万ドルぐらいになるまでは、1人当たりGDPとともに上昇し、そこで上昇が止まる。→ この結果の解釈として、幸福度にとって、実質所得の絶対額は充足ラインまでは重要だが、それを超えると、自分自身のアイデンティティを構成する人間関係の質の影響が大きくなる、と言われている。…特に、所得が高い国々では、幸福の圧倒的な決定要因となるのは、友人関係、結婚、家族、社会的な安定性、信頼、公正さなどであって、1人当たりのGDPではない。→ もし私たちが、労働の移動性や副業、四半期ごとの財務リターンなどのために、友人関係や家族との時間、信頼などを犠牲にするとしたら、GDPは増やしながらも幸せは減らすことになってしまうだろう。(※う~ん、1人当たりのGDPが年2万ドルぐらいで、経済成長は止めるべき、ということか…?)

・これらの二つの証拠からわかるのは、充足レベルを超えたあとは、GDPの成長は、自己評価による幸福度も、経済的に試算された福祉・幸福も増やさない、ということ。←→ しかし、枯渇、汚染、渋滞、ストレスなどのコスト(費用)は増大し続けている。

・(先ほど話したように)貧困の中にある途上国にはまだ経済成長が必要だろう。そういう国では、経済成長の限界便益は、その限界費用よりもまだ大きい。←→ しかし先進国は、経済成長が生み出すプラスよりもマイナスが多くなっているわけだから、その時点で経済成長はやめて、別のやり方で様々な問題に対応していく必要がある。

・そして、私たちは「いっぱいの世界」を共有しているわけだから、経済成長の必要な途上国が適正なレベルまで経済成長できるよう、先進国は定常経済へと移行して、資源やエネルギーを途上国に回すべきだろう。…豊かな国は、貧しい国が成長できるよう、自然資本を開放しなくてはならない。→ それによって、資源使用量は万国共通の水準へと収斂していくことになる。…そのときの資源使用量のレベルとは、良い暮らし(贅沢な暮らしではない)にとって十分であり、長期的な未来にわたって持続可能なレベルとなる。(※う~ん、これが実現できていれば、〝テロ〟などはほとんど起きないのではないか…? つまり、本当のテロ対策…)

・「豊かな国の経済成長が鈍化すれば、貧しい国の輸出市場が縮むため、貧しい国にダメージを与えてしまう」と心配する人もいる。→ しかし途上国は、自国内の市場を開発し、輸出主導型モデルから内需主導型モデルへとシフトすればよい。先進国も、高い失業率を前に、いつまでも生産と雇用の海外移転を続けることはできない。(※振り返って〝現実の世界〟を見るに、〝人類の英知〟はまだまだこの程度、ということか…)



【2章】「定常経済」とは何か

〔※この章は、枚数の関係でなるべく要点だけにとどめる。詳細は本書を参照ください。〕



1.「定常経済」の着想と戦い


〔聞き手〕

・そもそも「定常経済」という考え方はどこから出てきたのですか? デイリーさんは最初から「定常経済」を考えていたのですか?

〔デイリー〕

・私も最初は、成長経済を信奉する経済学者の一人だった。今も多くの人がそうであるように、「経済成長こそが、様々な問題に対する主な解決策だ」と信じていた。→ その私の考えを変えた要因はいくつかある。

①古典派経済学を勉強したこと。

…ジョン・スチュアート・ミルをはじめ古典派経済学者たちは「将来は定常経済に向かっていくし、それが望ましい」と考えていた。←→ 今のアメリカでは、経済学を学んでも、こういった古典派経済学はカリキュラムに入っていない。だから「定常経済」という考え方に出会わない(※〝マネー資本主義〟の経済工学しかやらない…?)。そういった教育があったから、定常経済という考え方があることを知ることができた。

②様々な環境面での代償について知ったこと。

…1960年代、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』などを読み、大きな影響を受けた。(※『沈黙の春』新潮文庫2014.6.5 76刷)

③「熱力学の第二法則(エントロピーの法則)が、経済の中で何が可能かを決定する。経済の中で増加するエントロピーは、経済が達成・維持できる規模を制約することになる」という考え方に出会い、大きな影響を受けたこと。

④1967年からの2年間、ブラジルで経済学を教えたこと。

…そこで、干ばつや水不足、すさまじい人口爆発を目の当たりにしたことも、私に大きな影響を与えた。

・こういった様々なことから、私は定常経済に関心を持つようになった。…地球は有限であり、われわれ人間はそのサブシステムなのだから、いつかは成長をやめるべきだと考えるようになった。→ 進歩とは、量的な増加ではなく、質的な向上である、つまり成長(growth)から発展(development)へと、考えが変わっていった。1965年から67年頃のことだった。

〔聞き手〕

・「定常経済」という考え方への反応はどうでしたか?

〔デイリー〕

・当時、私はルイジアナ州立大学で経済学を教えていたが、同僚たちは「変なことを言い出した」と思ったよう。…「世界のあらゆる問題に対する解決策は経済成長だ」とみんなが信じていたから。→ この大学には21年間勤めたが、最後の方には、学部の方向性が新古典派経済学へと向かっていったから、私にとってはとてもやりにくい状況になった。

・その後、たまたま縁があって世界銀行に採用され、6年間(1988~94)世銀で働き、主に持続可能な開発の政策づくりに関わった。(経済成長こそが解決策だと考える世銀の中で、定常経済を主張するというのは)戦いだった。…しかし、助力もあった。定常経済に対して世銀の中にも共感してくれる人たち(これまでの考え方に疑問を持つようになっていた人たち)がいたから。→(学問の世界の経済学者に比べて)世銀に勤めている経済学者の方が、実際の世界に出て行って何かをやろうとし失敗する、という経験をしているから、それだけ謙虚なのだ。

・その後、メリーランド大学で15年間、教鞭を執ったが、経済学部ではなく、公共政策学部だった。経済学者たちは、私と関わりを持とうとはしなかった。…今でも私は経済学の主流からは外れたところにいる。「成長が大事だ」と考えている人たちが主流だから。


2.「定常経済」とは何か


・定常経済とは、基本的に「一定の人口と一定の人工物のストックを持つ」経済。…これが定義の前半。…人間も人工物も、エントロピーの法則に従っている。→ 人間は年老いて死んでいくし、机や椅子も壊れて取り換えなくてはならなくなる。→ エントロピーの法則に従う人口や人工物を一定に保つためには、メンテナンスをしたり、最終的には置き換えたりするための資源が必要になる。→ この資源を地球から取り出し、汚染物として地球に排出するところまでのスループット(※入口から出口までの物質やエネルギーの流れ)が必要になる。

・スループットは、人口と人工物を維持するための不可避的なコストだから、それぞれのストックの水準を維持できる範囲で、最小化すべきもの。⇒ そこで、定常経済の定義は、「一定の人口と一定の人工物のストックを、可能な限り低いレベルでのスループットで維持するもの」となる。

・「可能な限り低いレベル」とは…

①地球が支えられる扶養力の範囲内である、ということ。

…地球の生態系は、人間の経済にとって、入口での低エントロピーの物質・エネルギー(資源)の供給源であり、出口での高エントロピーの物質・エネルギー(排出物)の吸収源。→ この供給源および吸収源にかかる圧力が、地球の支えられる範囲を超えていては、いくらそれ以上は成長しないといっても、持続可能ではない。

②人口と人工物を維持するスループットの水準は、「長期間にわたって人々が良い暮らしを送るのに十分である」必要がある。→ そうしたとき、進歩とは(物理的な量的拡大ではなく)質の向上を通して得られることになる。…デザインや技術、倫理的な優先順位の向上などが発展の要素となってくる。

〔聞き手〕

・「現在の人間活動を支えるのに地球はいくつ必要か」を計算するエコロジカル・フットプリントの最新の値は、1.5です。つまり今の私たちの活動を支えるのに、地球は1.5個必要なのです。→ 地球は1個ですから、1以下に下げなくてはならないのですよね?(※この1.5という数値の根拠は、本書では語られていない…)

〔デイリー〕

・ええ、今のまま定常状態にシフトしても、持続可能ではない。→ 特に先進国は、まずは脱成長して規模を縮小し、持続可能な水準になってから、定常化を図る必要がある。(※う~ん、1.5 → 1 に下げるというと、現在の2/3に規模を縮小…これは相当厳しい条件…)

・また、「地球の扶養力」といったときに、二つの種類の資源を区別する必要がある。…「再生可能な資源」と、人間の時間軸では再生できない「再生不可能な資源」。→ 再生不可能な資源については、今すべて使ってしまうのか、それとも未来世代と分かち合いながら使っていくのか、という倫理的な問いに直面することになる。

・「持続可能性」については、次の三つの条件がある。

(1)「再生可能な資源」の持続可能な利用速度は、その資源の再生速度を超えてはならない。…ex. 魚を獲る速度は、残りの魚が繁殖して数が増える速度を超えてはならない。

(2)「再生不可能な資源」の持続可能な利用速度は、再生可能な資源を持続可能なペースで利用することで代用できる速度を超えてはならない。…ex. 石油を持続可能なペースで利用するためには、石油使用による利益の一部を風力発電、太陽光発電などに投資し続け、埋蔵量を使い果たした後も同等量の再生可能エネルギーを利用できるようにすることが必要。(※う~ん、これは〝資本の論理〟では無理で、なんらかの法的な規制・枠組みが必要になるだろう…)

(3)「汚染物質」の持続可能な排出速度は、環境がそうした汚染物質を循環・吸収・無害化できる速度を上回ってはならない。…ex. 持続可能な形で下水を、川や湖、地下の帯水層に流すには、バクテリアなどの有機物が、水生生態系に過大な負荷をかけたり、不安定にしたりすることなく、下水の栄養分を吸収できる速度を超えてはいけない。(※う~ん、この条件では、放射性廃棄物の処理方法はまだ確立されていないから、現時点では原発はアウト…)

〔聞き手〕

・この三条件を見ると、基本的に閉じたシステムであり、成長しない有限な地球の上で、経済を営むとはどういうことなのかがわかってきますね。

〔デイリー〕

・(先ほど述べたように)物理的な富が増えていくとき、あるところからは、富が増えても幸せはそれ以上増えなくなる。→ より幸せにならないとしたら、何のための成長なのか? …再生不可能な資源を未来世代と共有するとき、そのバランスも考えなくてはならない。→ (今があってこその未来だから、まず今必要なものを考えるべきだとは思うが)未来世代にとっての「必要なもの」は、現世代の「ぜいたくなもの」よりも上位に来るべき。(※年金問題も…?)

〔聞き手〕

・定常経済とGDPの関係について…定常経済とは、GDPが成長しない経済と理解すればよいのでしょうか?

〔デイリー〕

・定常経済の観点からすると、GDPの多寡や成長は関係ない。…GDPは、人々の幸せを測るためのものとしてはお粗末な尺度。→(私は政策として「GDPを一定にすべき、ゼロ成長にすべき」と言っているわけではなく)一定にすべきは、物質とエネルギーのスループット(※これが環境経済学の立場か)。…GDPの中には、ストックを保つためのものもあるから、「GDP自体を一定に保つべき」という言い方ではないほうがいいだろう。

・また、量的な拡大ではなく、質的な発展の可能性はある(ex. あなたが持っているiPadだって、ニーズを満たしたり、幸せをつくり出したりする)。→ それがスループットの増大を伴っていない(これほど良くない他のものから資源を再配分することでつくり出される)としたら、これは質的な向上となる。…そのときに、より高い価値を生み出したためにGDPが増えることもあるだろう(※同量以下の資源で、より高い付加価値を生み出した)。⇒ GDPに関しては、プラス面とコスト面に分けて計算すべき。…現状では効用もコストもすべて足し合わせているが、分けて計上し、限界費用と限界効用を比べるべき。(※う~ん、現状ではGDPの計算方法は大雑把すぎるし、お粗末な尺度…)


3.なぜ経済学は「成長」にしがみつくのか


・世間の多くも経済学者も、大事な区別(「相対的希少性」と「絶対的希少性」との区別)ができていない。…「相対的希少性」とは、「ある資源」が、「他の資源」と比較したとき(または同じ資源の低品質なものと比べたとき)、希少である、ということ。…「絶対的希少性」は、「人口と人口一人当りの消費水準」に比べて、すべての資源が「全般的に」希少である、ということ。(※「相対的」とは、代わりになるものがある、ということ…?)

・まず、相対的希少性に対する解決策は「代替」(ex. 石油が希少になれば、天然ガスで代替すればよい)。…この「代替」というのは常に、ある形態の低エントロピーの物質・エネルギーを別のものに替えるということ。→ 形態を替えることはできるが、もともとの低エントロピーのもの自体(※資源全般?)の代替はない、ということが大事なこと。…そして、低エントロピーのものは、地球の資源(ストック)にしても太陽エネルギー(フロー)にしても、希少だ。

・人間の経済も、生物圏の人間以外の部分も、同じ低エントロピーの限られた量に頼っている。…人間界のエントロピーは、人間以外の世界から低エントロピーのものを持ち込み(採取)、高エントロピーのものを戻す(排出)ことを絶えず行うことで、低く保たれている。→ もし、あまりにも多くの低エントロピーのものが人間界の経済成長に持っていかれてしまうと、生物圏の生命を支えている複雑なシステムは崩壊し始めてしまう。

・人口と一人当りの消費の成長は、(相対的希少性ではなく)絶対的希少性を増大させることになり、(代替の効かない)低エントロピーのものへの圧力を増すことになる。←→ ところが、伝統的な経済理論では、あらゆる希少性は相対的なものだと考えられてきた。「自然には、特定の希少性はあるが、避けようのない全体的な希少性はない」というのだ。→ 従って、その考え方では、希少性への答えは、常に「代替」。…相対的な価格が変われば、代替が誘発されるから、望ましい政策は、汚染税などによる「外部性の内部化」だということになる。…「環境汚染の問題は、資源の配分がちょっと間違っているのを、汚染税によって正せばよいだけだ」と言っている経済学者もいるほど。

・しかし、絶対的希少性の増大に対してはどうか? → 価格を操作しても、代替を誘発するだけだから、絶対的希少性の増大には効果的に対処できない。…資源全般に対する代替があるのか? すべての資源の相対的な価格を上げることは可能なのか? → そんなことをしたら、代替ではなく、インフレが起きるだけだ。

・「あらゆる希少性は相対的なものだから、代替によって解決できる」と考えるのが〝成長狂〟で、逆に「希少性には絶対的なものがあって、代替によっても解決できない限界がある」と考えるのが〝定常状態〟。→ 〝成長狂〟からは、「技術はこれまでのように〝幾何級数的に成長〟し続けるだろうから、経済成長も無限に続けられる」という主張がなされるだろう。

・一つ確かなことは、「どのような技術だとしても、熱力学の法則が当てはまる。従って、いくら優れた新技術でも、絶対的希少性をなくすことはできない」ということ。←→ しかし、経済成長というイデオロギーは、入門レベルの経済学の常識的な論理を超越している。…そのイデオロギーにおいては、経済成長は国家の力と栄誉の基盤なのだ(※「ニッポンを取り戻す!」…)。→ 経済成長が続けば、誰も犠牲にすることなく、すべての人が繁栄できるかもしれない。経済成長があれば、再分配をしなくてもすむ、と考える。…ややこしい問題に立ち向かうよりも、経済成長が続くと信じる方がラクなのだろう。


4.経済学における「定常経済」の系譜


・古典派経済学者たち(アダム・スミス、ジョン・スチュアート・ミル、ケインズなど)は、成長経済から安定した経済への移行を考えていた。…アダム・スミスは、経済成長の限界を認識し、「成長が最大続いたとして200年、その後は人口は安定する」とまで予測していた。…ミルは、19世紀半ばに定常経済の考え方を展開し、「成長期の後、経済は、人口や資本ストックが一定であることを特徴とする〝定常的な状態〟に達するだろう」と考えた。

・米国では1946年に完全雇用法…当時は、完全雇用こそ米国の大きな目標であり、その手段として成長が必要と考えられていた。←→ ところが、今ではこれが逆転してしまい、成長が自己目的化している。…(なぜ、そうなってしまったのか)経済成長は、それを先導している人たちにプラスをもたらすから(大企業などは、経済成長やグローバル化などからメリットを得ている)。豊かな人がさらに豊かになっている。〔※資本主義の本質は、資本の自己増殖…〕

・米国の政治を見れば、すべてが経済成長…今なお、経済成長こそがあらゆる問題の解決策。←→ 他方、「経済成長には代償が伴う」という認識は広がってきている。→ 枯渇、汚染、社会的なストレスといった代償に目を向けよう、そういった代償を測定しようという動きもある。…しかしまだ、そういったコストや代償を、経済成長がもたらすプラス面と分けて比べることはしていない。→ それができれば、「経済成長のコストのほうが、そのプラスよりも大きくなっている」ということが言えるのだが。


5.技術だけでは解決できない


・「技術」は、経済成長至上主義者たちのお城の礎になっている。…「技術が進歩し続ける限り、経済成長は続けられる」と考える人はたくさんいる。←→ しかし(先ほども言ったように)どんな技術をもってしても、絶対的な希少性はなくせない(熱力学の法則からは逃れられないのだから)。→ 技術にかかわらず、あらゆる生産には、エントロピーの低い(質の高い)物質やエネルギーが必要で、結果として、エントロピーの高い(質の低い)ものが排出される。

・持続可能な経済を実現しようとするなら、相対的な改善では不十分。…なぜなら、経済が成長する限り、資源消費や廃棄物の排出の絶対量は増えてしまうから(燃費が改善しても、走行距離が増え続ければ、必要なガソリン(※絶対量)は減らないどころか増えてしまうのと同じ)。⇒ そうではなく、絶対量が減ることが必要なのだ。(※地球は一個しかない…)

・この数十年間、相対的な改善については大きな進歩があったが、経済成長がその効果を帳消しにしてしまっている(ex. 効率改善によって、GDP当たりのCO2排出量は確かに減っているものの、経済成長によって、実際のCO2排出量(絶対量)は増えてしまっている)。→(エントロピーの法則から、「生産プロセスにおいて100%の効率を達成することはできない」ことがわかっている)…つまり、効率改善の限界に達した後も経済を成長させようとするならば、エネルギーを含む自然資本の使用量を増やすしかない、ということ。…そして、自然資本の量には限りがあるのだ。

・また、経済成長のシステムに「技術の活用」が織り込まれていると、危険なサイクルが生まれることになる。…このサイクルの最初の段階は「経済成長」で、人口と消費が増える。→ この増加によって、次の段階に達する。…成長の限界にぶつかって、資源の供給が減り始める(※オイルショック)。→ 第三の段階は、その限界を何とかするために技術的な方法を発展させる(※省エネ技術など)。→ この技術的な方法によって、社会は第四の段階に到達する。…限界を押し戻して、一息つく状態。→ ここで、この猶予をさらなる経済成長のために用いようとすると、サイクルは最初の段階につながることになる。(※まさに、日本の戦後のサイクルか? → 今また、「さらなる経済成長で消費を増やせ!」…)

・このサイクルが危険なのは、時間の経過とともに、限界がどんどん深刻になっていくこと。…最初は局所的な公害といった小さな問題だったのが、気候変動や広範な生態系サービスの喪失といった大問題になっていく。…技術の力で経済成長がもたらす問題の一部を軽減することはできる。しかしそれは、技術によって得られた猶予を「永遠の経済成長」という不可能な目標のために浪費してしまわなければ、ということ。

・(定常経済での技術や進歩の位置づけ)…定常経済では、技術の進歩に対するインセンティブ(経済的誘因)は極めて大きなものになる。なぜなら、よりよいモノやサービスを求めることには変わりないし、物質やエネルギーの投入量が一定になるわけだから、技術の進歩こそが質の向上を生み出す重要な源泉になるから。

・現在の社会のように、経済成長にとりつかれている社会では、技術はつねに経済の規模を大きくするために使われ、その結果、地球から取り出して加工する資源はどんどん増えていく。…その技術の妥当性は問われない。経済を成長させ続けるために必要なのだから。

・定常経済では、(ベンチャー企業や新しい事業が生まれ、他方、廃れていく産業や企業もあるのは変わらないだろうが)そこでの競争力の源泉は、「より少ない自然資本で質の高いモノやサービスを生み出す能力」になる。…そこでこそ、技術力が大きな鍵を握ることになる。


6.「定常経済」と雇用


〔聞き手〕

・定常経済になると、雇用が失われ、失業が増える、と心配する人もいます。

〔デイリー〕

 ・(先ほど述べたように)かつては「完全雇用こそ国の大きな目標であり、その手段として成長が必要だ」と考えられていたのに、今では逆転してしまっている。→ 自由貿易や海外生産、(安価な労働力としての)大量の移民、省人化技術の採用を推し進める成長経済で、完全雇用は実現可能なのか? …成長経済では、成長が自己目的化しており、「経済成長のために雇用を損なうことがあっても、仕方がない」と考える。

〔聞き手〕

・「不完全雇用にしておいたほうが、人々は競争するから、経済成長に役立つ」と言う人もいますね。

〔デイリー〕

・定常経済では、雇用はより安定し、地元企業は地域社会の活性化に大きく貢献することになる。…定常経済の特徴の一つは、人口が安定していること。→ 人口が安定していれば、生産年齢層の人口が増え続け「絶えず雇用を創出し続けなくては」という圧力がかかるということもない。(※日本は逆に、これから生産年齢人口が減り続ける…『デフレの正体』)

・現在の経済のように、オートメーション化が進められ、生産やサービス提供も人件費の安い海外でとなると、総生産のうち資本へ渡る分(企業や企業オーナー、株主が得る利益)が増え、結果として、労働者に回る分が減ってしまう。→ とすると、「雇用を通じて所得を分配する」という原則が維持しにくくなってくる。

・定常経済のもう一つの大きな特徴は、物質やエネルギーが効率的かつ持続可能に利用されること。→ これからは「人手をかけても、資源の消費量を減らすこと」、つまり(労働生産性よりも)資源生産性を重視する時代となる。…また定常経済ではメンテナンスや修理がより重要になるだろう。そういったサービス業は、(新規生産に比べて)労働力への依存度が高い労働集約的な産業であり、海外移転もしづらいから、より多くの雇用を提供できるだろう。


7.「経済成長」と「定常経済」に関する誤解・反論・心配への回答


・「定常経済」と「うまくいっていない成長経済」との混同……成長を前提とした経済が成長できなければ、確かに悲惨だろう(※アベノミクスも…?)。←→ しかし私が言っているのは、成長ではなく、定常を前提とした経済に設計し直すということ。→ 定常を前提として設計された経済なら、成長しなくても悲惨なものにはならない。…定常経済における安定は健全な状況。→ そのおかげで、人々は地球の生命を支えているシステムを損なうことなく、自分たちのニーズを満たすことができる。

・自然の経済と同じく、人間の経済も、栄養理論から考えることが役に立つだろう。…自然界では、「生産者」は植物。→ 植物は、光合成をすることで、自分の食べ物を文字通り〝生産〟する。→ 草食動物が植物を食べ、肉食動物が草食動物を食べる(植物も動物も食べる雑食動物もいる)。→ そして、死体やゴミを食べたり分解したりする「サービス提供者」の役割を果たす生物種(※バクテリアなど)もある。

・人間の経済も、同じ自然の法則に従っている。…「生産者」は、農業と、木材伐採・採掘・漁業などの〝取り出す〟業界(※第一次産業)。…(アダム・スミスが『国富論』に書いたように)農業の余剰のおかげで、分業と経済成長が可能になる。→ 私たちの経済で〝草食動物〟にあたるのは、〝生産者〟の原材料を消費する製造業(※第二次産業)。…〝肉食動物〟は高次の製造業。→ また、シェフや用務員、銀行家、情報産業などの〝サービス提供者〟もいる(※第三次産業)。

・大事な点は、「経済は統合された全体として成長する」ということ。→ 製造やサービスが増えれば、それだけ農業や〝取り出す〟業界の余剰が必要になる。…(先ほど説明したように)効率には限界があるから、経済成長のためには、より多くの自然資本が必要になり、より多くの廃棄物や汚染を生み出すことになる。

・経済成長(正しく測れば〝不経済成長〟)がなければ、真の進歩がようやく可能になる。…もしすでに不経済成長の時代に入っているのだとしたら、貧困への解決策は、将来の成長という空約束(※アベノミクス…?)ではなく、再分配に見出すべきではないか?

・〔「定常経済」は平和にもつながる〕…成長している経済は、他国の生態系や、残っている地球全体のコモンズ(共有財産)にまで、侵出して行かざるを得ないだろう。それこそが「グローバリゼーション」なのだ。…「グローバル化は平和で協力的なプロセスだ」というイメージが描かれるが(※TPPも…?)、経済成長が支配する世界では、今後もずっと平和で協力的であり続けることはないだろう。(※ここも前回の水野氏と近い見解…)

・有限の世界で、どの国も経済成長を最大化しようとしている…その中で、どうやって平和にやっていけるというのだろうか? → 戦争への誘因となることは、計上されていない経済成長の大きなコストの一つ(※ex. 海底資源をめぐる争い…?)。⇒ それを減らそうというのは、「定常経済」を支持する重要な論拠となる。…戦争への誘因は、40年前に比べて大きくなっている。もしかしたら、「定常経済」が平和運動の一環として見られるようになる日が来るかもしれない。



【3章】どうやって「定常経済」へシフトするのか



1.「うまくいかない経済成長」から「定常経済」へ


・ここで考えるべきは、「経済成長とは、定常状態になる前の、ある十分なレベルに達するまでに必要な一時的なプロセスだと考えているのか?」、それとも「成長を続けること自体が望ましいと考えているのか?」ということ。→ 現代の新古典派経済学者の99%は、「永久に成長を」…その理由は、経済成長がなければ、貧困問題の解決策は再分配しかないが、それは忌み嫌われる考え方(※資本側の取り分が減ってしまうから…?)。また、経済成長がなければ、環境の修復への投資を増やすには現在の消費を減らすしかない。これも忌み嫌われる考え方(※消費大国のアメリカはとくにそうか…この項、詳細はP46~48)


2.持続可能な経済への移行には、考え方の移行が必要


〔聞き手〕

・経済は私たちの暮らしの土台であり、その経済は地球の生態系に支えられているわけですから、経済も地球も持続可能でなくてはならない。そのためには、どのように考えていけばよいのでしょうか?

〔デイリー〕

・GDPという概念は、質的な向上(発展)と量的な増大(成長)をごっちゃにしている。→ 経済が持続可能であるためには、どこかの地点で、量的な増大(成長)は止めなくてはならない。しかし、質的な向上(発展)は止める必要はない。…ex. 製品のデザインの質的な改善を制約する理由はない。→ 製品デザインが良くなった結果、使用される原材料の量は増やさずに、GDPを増やす(※付加価値が増える)ことだって可能。⇒ つまり、「持続可能性」という考え方を基盤として、進歩の道筋を(持続可能ではない「量的な成長」から)持続可能であろう「質的な発展」へとシフトしていくことが必要。

・「スループット」(「物質エネルギー・フロー」と呼ぶこともある)…地球の(どのくらいの原材料を供給できるかという)供給力と、(最終的な廃棄物をどのくらい吸収できるかという)吸収力に照らし合わせることで、この「スループット」で持続可能性を定義することができる。

・多くの新古典派経済学者は「人工資本は、自然資本のよい代替物となる」から、自然資本と人工資本の合計を維持すればよい、と主張する。←→ それに対して、(私も含めて)多くの生態経済学者は、「自然資本と人工資本は、代替するというより、補完し合うものであることが多い」と考え、「自然資本はそれ自体として維持すべきだ」と主張する。なぜなら、自然資本こそが(※有限だから)生産や経済の制約要因になるから。

・自然資本の維持につながる最もよいやり方は、「キャップ・アンド・トレード」というシステム…「上限(キャップ)を設けて、上限までの量を何らかのやり方で分けて、あとは個々に売買(トレード)することで、個々のニーズを満たす融通性を持たせつつ、全体としては上限の範囲内に抑える」仕組み(詳細は後述)。→ こういった仕組みは、すでにあちこちで導入され、成果を上げている。…ex. 米国での、環境庁が酸性雨を抑制するために、二酸化硫黄(SO2)の排出権を売買する仕組み。ニュージーランドの、個々人が漁獲割当量を売買することで乱獲を抑える仕組み。また、CO2排出量に対する仕組みは、「排出量取引制度」と呼ばれ、環境を守るために、市場の機能を活用。

・キャップ・アンド・トレードの仕組みは、自由市場と政府の政策が果たす明確な役割の好例といえる。←→ 経済理論は従来、希少な資源を競合する使途に割り当てるという「配分」の問題を扱ってきたが、生態系に比較しての経済の物理的な大きさという「規模」の問題は扱ってこなかった。…適切に機能している市場は「資源の効率的な配分」はできるが、「持続可能な規模を決める」ことはできない。⇒ それができるのは、政府の政策だけ。(※もはや「いっぱいの世界」では、政府の長期的な政策が重要になってくる、ということか…詳細はP48~52)


3.「定常経済」へシフトするために必要な「10の政策」

〔※この最後の項は、具体的な政策提言なので、少していねいに見ていく〕


・現在の持続不可能な成長経済から、定常経済へと移行するための具体的な政策提言を10項目説明する(現在の基準から見ると、少し急進的に見えるかもしれないが、「経済成長を続けることが正当である」という主張に比べれば、非常識でも非現実的なものでもないだろう)。

①基本的な資源に対して、「キャップ・アンド・トレード」の仕組みを設ける

・まず「キャップ(上限)」を決める。…具体的には、資源を地球から取り出すところか、廃棄物を地球に戻すところか、どちらかより制約のあるところで「割当量」を決め、生物物理的な規模を限定する。→ 次に、その割当量を「オークション」によって公正に再配分する。→ 再配分後の割当量を売買取引することで、最も高い料金を払う使途に効率的に割り当てることができる(「キャップ・オークション・トレード」とも呼ばれる)。

・つまり、キャップ(上限)は「持続可能な規模」という目標を、オークションは「公正な配分」を、トレード(売買取引)は「効率的な割り当て」をと、三つの目標を三つの政策手段で満たすというわけ。→ 同じやり方を、漁業や森林といった再生可能な資源からの採取を制限するためにも使うことができる。(詳細はP52~53)

②環境税を改革する

・地球の供給源から何かを取り出したときに、その量に応じて課税する、または、地球の吸収源に何かを吸収してもらうときに、その量に応じて課税するというように、課税の基盤を、(現在の「労働」と「資本」から)自然から取り出す「資源」と自然に戻す「廃棄物」へとシフトする。→(希少だがこれまでは価格のついていなかった)自然の貢献に価格をつけることで、外部コストを内部化するとともに、より公正なやり方で税収を得ることができる。

・生産過程で生み出される付加価値(総生産額-原材料費で計算可能)は奨励したいものだから、それに課税するのはやめる。←→ 自然の枯渇や廃棄物の排出は減らしたいものだから、課税する。…自然の枯渇や汚染など「ほしくないもの」に税金を課して、所得など「ほしいもの」への課税を減らすというのは、合理的。人は、自分自身の努力でつくり出した付加価値に課税されてもっていかれるのは好まないが、希少な資源を使うことへの課税には抵抗はない(誰も価値を付加していないから)。〔※う~ん、初めて聞く考え方…〕

・この環境税の改革は、キャップ・アンド・トレードの仕組みの代わりに用いることもできるし、補完的なものとして両方を用いることもできる。…ex. 米国では多くの州に「セバランス税」があって、地表から石油やガス、鉱物を分離・生産する事業に対して、その量に応じて税金を徴収している。→ こういうことを広げていけば、生産と消費における資源の利用の効率が高まるし、こういった課税なら、モニタリングや徴収も比較的簡単。

・このような形式にすると、「貧しい人たちは(豊かな人たちよりも)所得のうち税として払う割合が高くなるから、消費税のような逆累進課税になってしまう」と心配する人もいるが、それに対しては、税収の累進的支出 …貧しい人たちの支援に厚く支出したり、贅沢品への贅沢税を課したり、高額所得への所得税は残しておく等…様々な方法で手を打つことができる。

③「最低所得」と「最高所得」の間の所得格差の幅を制限する

・成長が〝不経済〟(我々を豊かではなく貧しくする状況)では、成長によって貧困を解決することはできない。→ 経済が総量として成長しない中での解決策は再分配。…(完全な平等は公平ではないだろうが)無制限な不平等も不公平。→ どこまでの不平等が許されるか、公平な範囲を探すことになる。

・米国では、行政や軍、大学での所得格差は15対1~20対1の範囲でおさまっているが、企業では500対1以上の格差(※ex. 年収で200万円←→10億円以上!)がある。多くの先進国の企業では、格差は25対1以下。日本企業は10~15対1ぐらい(※年収200万円←→2000~3000万円ぐらい…う~ん、もっと格差は大きくなっているのでは…)

・米国でもこの差を、100対1に制限してみたらどうかと思っている。…例えば最低の年収が2万ドル、最高が200万ドル(※1ドル=100円とすると200万円←→2億円…これでも格差あり過ぎ?)…これだけの差があれば、仕事のインセンティブ(経済的誘因)には十分ではないか。→ 年収の上限に達したら、仕事が楽しいならそれ以上は無償で働いてもよいし、余った時間を趣味やボランティアに充ててもよいだろう。

・上位の人たちの所得制限によって需要が減る分は、それより下の人たちが満たすことになるだろう。…所得格差が大き過ぎると、民主主義に必須の〝共同体意識〟が維持しづらくなる。→ 大きな所得格差で隔てられた「豊かな人々」と「貧しい人々」は、ほとんど別の生物種であるかのように、共通の経験や関心がなくなってしまう(※ex. 塀に防護された町…)

・こうした格差はこれまで、「格差があることで経済成長を促すことができる。経済成長すれば、いつの日か、全員が豊かになる」と正当化されてきた。…この論拠は、「空いている世界」では表面的にはもっともらしく聞こえたかもしれないが、現在の「いっぱいの世界」ではおとぎ話だ。→ そして、「稼いでいない富」が世代を超えて蓄積されるのを抑えるために、かなりの相続税も必要。(※ピケティも富裕層への「資産課税」を提言…)

④就業日・週・年の長さを縛らずに、パートタイムや個人の仕事の選択肢を増やす

・経済が成長しない場合、全員をフルタイム雇用することは難しくなる。→ 労働日の長さを、働く人が選択できる変数にしていく必要がある。(※いま問題になっている〝資本側の都合や利益のためのまやかし〟ではなく、「合理的なワークシェアリング」は実現すべき…詳細はP56)

・また、「もっと消費しよう。その支払いのためにもっと働こう」とあおる広告で、労働と余暇の選択にバイアスをかけるのを止めなくてはならない。→ 少なくとも広告を「所得控除可能な生産費」として扱うのはもうやめるべき。…(「必要もないものを、持ってもいないお金で、知りもしない人に対する見栄のために買う」のがよいと人々を説得するための)数十億ドルの支出を、控除という税制で補助するのは本当によいことなのか?〔※確かに最近の企業広告は、ただ消費を煽るようなものが多すぎる? → 昨今の(広告主の)企業の劣化と、(広告収入で生き長らえている)民放TV局や新聞・雑誌などの劣化とは、つながっている …?〕

⑤国際貿易を規制し、自由貿易、自由な資本の移動性、グローバル化を制限する

・これまで挙げたキャップ・アンド・トレードや環境税の改革など、環境コストを内部化するための国内施策をとると、製品の価格が上がる。→ すると、そういったコストを内部化していない国との国際貿易では、競争上不利な立場に置かれる。→ そのときすべきことは、(効率の悪い企業を守ることではなく)相殺関税をかけること。…そうして、環境コストを内部化していない(つまり、実際には生じさせている社会的・環境的コストを払わずにすんでいる)海外企業に負けないようにする。

・この「新しい保護主義」は、(より効率の高い海外企業から効率の悪い国内企業を守るために行なわれていた)「古い保護主義」とはまったく異なるもの。……「グローバル経済との統合」と「世界の他の国々よりも、より高い賃金、環境基準、社会のセーフティ・ネットを持つこと」は、両立不可能。→ 貿易と資本の移動性は、 (無規制や〝自由〟なものではなく)バランスのとれた公正なものであるべき。〔※う~ん、きわめて大胆な(そしてまっとうな?)政策提言…TPPなんか、ぶっ飛んでしまう。…だが、国際的な〝孤立化〟の恐れも…?)

・それぞれ独立した国家経済の相互依存は認めるべきだが、ひとつのグローバル経済への統合は拒否すべき。…関税は国家歳入のよい源泉でもある。→ こういった考え方は、WTO(世界貿易機関)、世界銀行、IMF(国際通貨基金)とぶつかるだろうから、次のことが必要になる。

⑥WTO・世銀・IMFを〝降格〟させ、ケインズの当初の計画のような組織にする

・ケインズが考えていたのは、多国間の支払いを決済するための「国際清算同盟」だった。…(赤字だけでなく、黒字にも罰則的な金利を課す。…ex. 米国は世界に対する多額の赤字のために罰金を支払い、中国も黒字に対して罰金を支払うことになる)→ こうすることで、経常収支のバランスをとることができ、多額の対外債務や資本の移動を避けることができる。

・このように赤字にせよ黒字にせよ、その不均衡には、金銭的なペナルティによって調整圧力がかかる。→ そして、必要であれば(ケインズが「バンコール」と呼んだ)決済通貨に対する為替調整によって、経常収支のバランスを取る方向へ圧力がかかる。…バンコールは、世界の準備通貨としての機能を持つことができる。←→ 現在は、米ドルが世界の準備通貨としての特権的な地位にある(それは米国にとってのメリットで、言ってみれば、トラックに積まれた無料のヘロインが、ヘロイン中毒者のメリットになるようなもの)→ 米ドルを含め、どの国の通貨も特権的な立場を享受すべきではない〔※英語が〝世界の共通語〟のごとく特権的な立場にあるのは、そのサブシステムのようなものか…?〕。→ その役割を果たすバンコールは、金本位制における金のようなものだが、地中から掘り出す必要はない。〔※う~ん、経済問題は難しいが、〝未来性〟へ向けてまだまだ工夫の余地はたくさんある、ということか…〕

・IMFは長らく、「比較優位」(※他に比べてまし?)を論拠に、「自由貿易」を説き勧めてきた。→ 近年になって、WTO―世銀―IMF陣は、「グローバリゼーション」の福音を説き始めている。…これは、貿易の自由に加えて、資本が自由に国境を越えて移動するということ。←→ しかし、もともとの比較優位の議論は、「資本は国境を越えては移動しない」ことを前提としている。…この矛盾を突きつけられると、IMFは手を振って、話題を変えてしまう。

・WTO―世銀―IMFは、多国籍企業(※これが現代のボスか…)の利害に奉仕し、海外生産を進める政策を採り、それを「自由貿易」という間違った呼び方で呼ぶなど、自己矛盾している。→ 国際的な資本の移動と自由貿易が合わさることで、企業は、公共の利益のために設けられている国の規制を逃れ、国同士を争わせるように仕向けている(※ex. 法人税の減税競争など…?)。←→ グローバル政府は存在していないため、そういった企業のコントロールは事実上、できていない(※資本側の完勝…)。…実際に存在している中でグローバル政府に最も近いのがWTO―世銀―IMF体制だが、彼らは公共の利益のために多国籍企業を規制することにはまったく関心がない。(※ここも前回の水野氏の論と通底している…)

⑦民間銀行が中央銀行に預け入れる準備預金の準備率を100%に引き上げる

・現在の制度では、民間銀行は、預かったお金のほんの一部だけを、引き出されるお金の準備金として置いておくか、中央銀行に預け入れればよく、残りは貸し出すことができる。…ゼロからお金をつくり出し、それを金利付きで貸し出す権利を民間銀行に与えているとも言える(お金の偽造のようなもの。普通ならお金を偽造すれば刑務所に入れられる)。〔※う~ん、過激な論…。金融の世界も難しい…詳細はP59~60〕

・だから、「民間銀行は預かったお金を全額中央銀行に預け入れるべし」、つまり準備率を100%へ引き上げるべき。→ 準備率が100%になれば、借り手に貸し出されるお金と預金者が預け入れるお金はぴったり合うから、節制と投資のバランスを取り戻すことができる。→ 貸付限度額がその前に行われる貯蓄(消費からの節制)に制限されることになるため、貸付・借入は減少し、より慎重に行われることになるだろう。…怪しげな負債(※サブプライムローンなど?)を投機対象にするような〝資産〟(※金融商品?)を大量に購入する資金を、簡単に融資することもなくなる。⇒ 銀行は、預金者のお金を預金利息よりも高い利率で貸出すことや、当座口座の手数料、金庫手数料などのサービスといった金融の仲介からの利益だけを得ることになる(※〝マネー資本主義〟以前の本来の業務か…)。

⑧希少なモノを希少でないかのように、希少ではないものを希少であるかのように扱うのをやめる

・大気などの自然資本は、誰でもアクセスできるコモンズ(共有物)なので、誰でも無料でいくらでも使えるもののように扱われているが、キャップ・アンド・トレードの仕組みや課税によって、価格をつけるべき。←→ 他方、知識や情報といったものは、誰かが囲い込んだり価格をつけたりすべきではない(※著作権はなし…?)。…資源であれば、共有しようと思えば分割する必要があるが、知識は、共有すれば(分割ではなく)増幅する。→ いったん知識が生まれれば、それを共有する機会コストはゼロだから、配分価格もゼロであるべきだろう。(※う~ん、あるべき理念としては分かるが…現行のシステムを根本から変える考え方…?)

・国際的な開発支援は、(大規模な利子付き融資の形態は減らして)自由に積極的に知識を共有し、それに小規模の補助金をつける形態を増やすべき。→ 知識の共有は、コストがほとんどかからず、返済不可能な負債をつくり出すこともなく、本当に大事で希少な生産要素の生産性を引き上げることができる。(※知識・情報の公開・オープン化…確かに〝未来性〟あり…)

・新しい知識をつくり出すための最も重要な投入物は、現在ある実際の知識だから、それを人工的に希少にし、高価なものにしておくのは道理に反している。⇒ 特許(知的財産権)の独占は、数少ない〝発明〟を対象にし、期間も短めに付与すべき。(※アメリカが猛反発…?)

・新しい知識をつくり出すコストは、公的な資金で行い(※現状では逆の〝民営化〟の流れ…)、知識は自由に共有できるようにしていかなくてはならない。→ 知識とは累積していく社会的な産物であり、私たちは、特許の独占や使用料なしに、熱力学の法則やDNA二重らせん、ポリオ・ワクチンなどの発明を手にしているのだ。〔※これとは逆に、TPPの本当の狙いは、(先進国に有利な)知的財産権(特許や著作権)の保護・強化にある、という話も…〕

⑨人口を安定させ、「出生数+移入者数」=「死亡者数+移出者数」となるようにする

・人口が減少しつつある日本では、別の議論が行なわれていると思うが(※まだ議論は低調…)、世界的には、人口を安定化することが必要(※日本も、どこかで人口減少を止めた後に「安定化」という課題は同じ…)。…環境運動のスタートは、人口問題だった。しかし、このところずっと、この問題を取り上げることが「政治的に正当ではない」という風潮があるため、人口に関する議論や取り組みがしづらくなっている。(※確かに、途上国の出生数を減らすとか、移民の問題とか…政治的に微妙な問題を含む…)

・定常経済のためには、人工物のストックと同様に、人口も一定である必要がある。→ そのためには、自立的な家族計画と、民主的に制定された合理的な移民法の施行を支援すべき。(※う~ん、慎重な物言い…。日本でもこの人口問題に関しては、『デフレの正体』や最近では『地方消滅』などの、衝撃的な問題提起によって、ようやく議論や取り組みの機運が出てきたよう…)

⑩国民勘定を改革して、GDPを「費用勘定」と「便益勘定」に分ける

・(前にも説明したが)現在のGDPは、便益もそのための費用もいっしょくたに合計してしまっている。→ これを分けて計算すべき。…ex. 自然資本の消費や、「遺憾だが必要な」防衛支出は、費用勘定に入る。

・こうして分けておいて、GDPが成長(スループットが拡大)することの「限界費用」と「限界便益」を比較する。→ 両者が等しくなったところで、GDPの成長(スループットの拡大)は止めることになる。…こうして計算すれば、多くの国で、GDPの成長はもはや(便益よりも)費用のほうが大きくなっていることがわかるだろう。

・成長経済の規範から定常経済の規範へと、ビジョンの考え方を抜本的に変えることになるが、ここで提案した政策自体は徐々に適用していくことができる。…準備率を100%に引き上げることも、少しずつ進めることができるし、所得分配の格差の幅も少しずつ制限していけばよいだろう。キャップ・アンド・トレードのキャップ(上限)も、少しずつ調整していくことができる(※ソフト・ランディング)。…これらの政策は、互いに補完したりバランスをとるという意味で、よい組み合わせになっているが、そのほとんどはそれだけでも適用できる。

・ここに挙げた施策の土台にある基本的な認識は、次の三点。

(1) 私有財産は、あまりにも不平等に分配されている場合は、その正当性を失う。
(2) 市場は、価格が機会コストについての真実を伝えない場合、その正当性を失う。
(3) マクロ経済は、地球の生物物理的な限界を超えて規模の成長を求められる場合、不合理なものになる。

・日本は、世界に先駆けて人口減少社会に突入した。→ 人口が減っていけば、その人口が必要とする人工物も減っていくだろう。→ 人口と人工物のストックを維持するためのスループットも減っていくはず。⇒ 日本は「定常経済」にシフトしていける好位置にあるとも言えるだろう。(※これも、前回の水野氏の論と通底する見解…)

・富の再分配によって貧困などの問題に対処していくためには、これまで「全体のパイが大きくなれば、全員の取り分が大きくなるはずだから」と、再分配の課題に取り組まず、経済成長だけを追求しようとしてきた政治のあり方を変える必要がある。…また、私たち一人ひとりも「成長しない地球の上に暮らしていること」を再認識し、未来世代も含めて、持続可能で本当に幸せな暮らしとは? 経済とは? 社会とは? ともう一度じっくり考えることも大事なことだと思う。(※原発も含めた「震災復興」の諸問題も、当然この中に含まれる…)

(2/4 了) 


〔今回はアメリカの環境経済学者による「定常経済」という考え方について、ざっと駆け足で見てきましたが、「経済」という限定された枠組みの中でも、「人類の英知」という視点からも、まだまだ工夫の余地はたくさんあるし、またそれらが、他の領域とも複雑に絡み合っている(地球環境とか、人口問題とか、熱力学の法則とか、〝テロ〟の問題とも…)、というようなことに思いを及ぼしながら、作業を進めていました。そして今、「長い21世紀」の試練はまだまだ長く続きそうだなあ…という感慨を覚えています。〕 
                                                                                                  (2015年2月4日) 
                                                      



(2015年4月14日 Blogger に掲載。根石)