2017年4月6日木曜日

(震災レポート39) 震災レポート・5年後編(5)―[福島原発論 ②]

 (震災レポート39)  震災レポート・5年後編(5)―[福島原発論 ②]

 
                                        

『福島第一原発 メルトダウンまでの50年』

烏賀陽弘道 明石書店2016.3.11

  ―事故調査委員会も報道も素通りした未解明問題―            ――[中編]





【3章】原発黎明期の秘密と無法


○事故の危険性を深刻に受け止めた損害保険会社

・福島第一原発事故のあと、日本政府や電力業界は「格納容器が破壊されて放射性物質が周辺を汚染するような事故は起きないと考えていた」という弁明を繰り返した。←→ しかし、1960年頃までに、日米両国で甚大事故が起きた場合の損害についてのシミュレーションを政府機関が試算していた。…しかし日本では、その内容のあまりの深刻さに公表を見送られてしまった(※ここでも都合の悪いことは隠蔽…)。←→ アメリカの試算は英語の論文として公表されている。(※う~ん、彼我のこの姿勢の差…。→ 「対米従属」がお得意といっても、こういう良いことは真似しないのか…?)

・こうしたシミュレーションの結果を真剣にとらえたのは、原発の事故損害保険を引き受けるかどうかを検討していた保険業界である。…保険会社は、原発事故が起きる確率や被害金額を計算した。→ 保険業界の結論は「事故の際の損害が大きすぎて採算が取れない」だった。…損害保険は「原発に賛成・反対」という立場からは無縁で、冷徹に経済的な観点から原発を査定するので、注目に値する貴重な歴史的証拠である。

・(「日本火災海上保険」の社長・会長だった品川正治の証言…斉藤貴男との対談本『遺言―財界の良心から反骨のジャーナリストへ』より)……当時、茨城県東海村で日本最初の商用原子炉(東海発電所)が稼働を始めた。日本原電(電力会社9社などが出資して設立)が保険契約者で、その保険を引き受けたのが「日本火災」だった。→ 賠償保険の算定は、あまりにも巨大なリスクになりそうなので、品川氏のいた企画部に担当が回ってきた。

・1953年、東西陣営の代理戦争だった朝鮮戦争が終わった直後、アメリカのアイゼンハワー大統領が「アトムズ・フォー・ピース」(原子力の平和利用)という外交政策を打ち出し、それまで軍事機密だった原子力発電政策を180度転換し、同盟国に積極的に技術移転する方針を宣言した。→ 留学生を無償で受け入れ原発技術を教育、燃料の濃縮ウランを貸与、実験炉を提供…「おんぶに抱っこ」方式だった。…つまり、アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)は、最新のエネルギー技術と引き換えに、世界の国々を西側陣営に引き入れようとする「技術輸出外交」だった。→ それに積極的に応じた国の一つが日本だった。

・日本では「原子力の平和利用」の宣伝が大々的に展開された。…1954年、読売新聞は「ついに太陽をとらえた」というキャンペーン記事を連載…同社が主催する「原子力平和利用博覧会」が全国10ヵ所で巡回開催された(※新聞の政治利用?)。…読売新聞の社長だった正力松太郎は、1956年に初代の原子力委員長と科学技術庁長官に続けて就任。政界・官界、マスコミ界を横断して原発の運転開始を推進していた。(※う~ん、アメリカ由来の原発推進の国策に、読売新聞社が当初から積極的にコミットしていった、という構図か…)

・品川氏は、推進派の「絶対安全」という触れ込みに疑問を持った。…「『原子力の平和利用』という言葉に私は惑わされなかった。原子爆弾と原子力発電は紙一重に思われた…『核』の問題として一括りにできるのではないか、放射能の人畜に与える影響は一緒ではないか。ウラン、プルトニウム、セシウムなど、調べれば調べるほど人類の敵に思えた。…絶対に事故は起こらない、絶対安全という言葉を、中曽根康弘担当大臣の主宰する会合でも、正力松太郎読売新聞社主の主催する会合でも聞かされた。日本火災の人たちでさえ、それに共鳴する人が多かった。…にもかかわらず保険を付けるとすれば、それは世間の人を欺くためとしか考えられない」「これは民間の損保会社が引き受けることができないほどの巨大リスクだ。国家が国策としてあくまで実行するというなら、それは国家が責任を持つべきだ。しかし無限大のリスクを果たして国家が担えるのか…」→(※この品川氏の疑問・懸念が、それから約半世紀後に現実のものとなってしまった…)

・品川氏は、原子力を専攻している学者、官僚の知人に話を聞いて回ったが、「細心の注意を払った設計をしており、地震や風水害、あるいはテロや従業員の自殺行為についても万全の防御をしている」という説明ばかりだった(※う~ん、学者も官僚も「立場」でものを言い…)。→ 偶然、知人の中に三高時代の同級生で、通産省で原子力を担当していた伊原義徳氏がいた。…1954年にアメリカに留学して原子力発電の技術を日本に持ち帰り、その後科学技術庁事務次官になった「日本の原発の父」ともいえる人物。

・偶然、著者は『ヒロシマからフクシマへ』を書くにあたって、この伊原氏を何度も取材し、日本の原発黎明期を知る貴重な証言を聴かせてもらっていた。→ そこで今回改めて、日本の原発黎明期に、保険業界と原子力行政それぞれの中枢にいた二人が、友人同士として、原発のリスクについてどんな話をしたのかを知りたいと思い、伊原氏の自宅を訪ねた。

・「何でも腹蔵なく話し合える仲だったので『絶対安全なんてものは世の中にはない』そんなことを話したと思う。あらゆる技術は危険が伴う…その危険を顕在化させないことが、それに伴う技術者の責務だ。それが技術者の共通の認識だと思う」「彼(品川氏)は保険業界で活躍する優秀な人間だった。その損害保険というのは、事故が起きるというのが前提の制度だ」
……原発事故のリスクをできるだけ隠蔽しようとしてきた近年の電力業界の態度や言動に慣れていると、「事故は必ず起きる」という(伊原氏の)発言は鮮烈である。…日本に原発を導入した当事者である伊原氏は、実はこうした現実的な感覚の持ち主である。それを品川氏に伝えたという。(※日本の原発黎明期には、通産省にもまだこういう人物がいた…)


○実際の賠償金は保険金支払い上限の48倍に

・原発事故の損害賠償に関する保険・契約には、民間保険会社と電力会社が結ぶ「原子力責任保険」と、電力会社が国と契約する「原子力補償契約」があり、どちらも強制加入。…なぜ民間と国と二重になっているかというと、「地震・噴火・津波」などの天災で発生した原発事故の損害は、民間保険会社は支払いを免責されているから(「戦争・社会的動乱・異常に巨大な天災地変」の場合は、電力会社も免責される)。

・2011年の東日本大震災の場合…福島第一原発事故は、「天災」によるものとして、民間保険会社は「免責」→ 政府との補償契約が作動した。…実は民間保険も政府保険も「支払い上限金額」が決められていた。…1961年の契約当初は上限金額はたったの50億円。71年に60億円、79年に100億円、そして3・11当時は1200億円に引き上げられていた。→ では、福島第一原発事故で実際に東京電力が支払った賠償金は、2016年1月15日現在、総額5兆8243億円…「上限」として想定された1200億円の50倍で、そして今なお増え続けている。

・差し引き5兆7043億円は、国が払った。上限を超える損害が生じたときには、その電力事業者に対して国が「援助」することになっているから…つまり財源は国民が収めた税金なのだ(根拠法はP142)。…民間保険にしろ政府保険にしろ、実際の事故の損害に比べて、その想定がいかに少額だったかがわかる。

〔伊原氏への質問に戻る〕

・(政府保険と民間保険が二重にあるのは?)…「それは国際的な制度として、原子力発電は保険制度を確立するのが当然だという国際的な動きがあったからだろう」「(原発事故)保険制度は、(リスクが非常に大きいので)国際的に何重にも担保する(世界の金融市場で何重にも分散させる)ということで成り立つ制度だ」…つまり、原発が導入されると同時に、日本は国際金融の枠組みに入っていく、そんな過程だった。

・(先ほど「危険を顕在化させないために努力する」と言われたが、それは「事故を起こさない」ということか?)…「いや、事故が起きたときに、周囲に住んでおられる方に大きな影響を及ぼさない、ということだ。事故というのは必ず起きるものなのだ。起きても、それが敷地の外に大きく影響しないというのが技術者の責務なのだ。」…(※3・11事故では、この「技術者の責務」が果たされることはなかった…)

・(保険はその構図にどう組み入れられたのか?)…「事故は必ず起きる。起きれば経済的な損害が発生する。だからそれを賠償する。その制度を確立して初めて、危険な技術というのは実施できる。(原発は)『危険であるけど役に立つ技術』なのだから、それを世の中に役立てるために損害保険制度が確立している。そういう考え方だ。」…(※だが3・11事故では、その保険制度の想定をはるかに超える〝巨大事故〟を起こしてしまった…)


○「事故が起これば国家財政が破綻」大蔵省の懸念

・民間保険の上限額である50億円(当初)という金額は、同時期のアメリカの原子力保険制度が上限216億円(6000万ドル)だったのに比較してもはるかに小さい。これはなぜか。→ 原発事故が起きたときの損害は巨大なので、保険会社の資本金の5%を限度にしておかないと、保険会社まで倒産してしまう、ということだ。(※保険会社の都合か…詳細はP144~145)

・さらに「上限額を超える損害は政府が援助する」という仕組みにも、これには大蔵省が抵抗した。…50億円までを企業が責任保険で払うのはいいが、それ以上の災害が出たとき、国家が補償する場合、その上限を決めておかないと、財政が破綻してしまうという懸念があったからだ。→ つまり、原発が事故を起こすと、保険会社どころか国家が破綻するくらいの巨額の損害が出る…と当時からわかっていたのだ。(※そして5年後の今、国はそのツケを「税金」や「電気料金」という形で国民につけ回ししようとしている…)

・実は、日本での原発事故保険の整備は、原発導入を先行して決めた後にドタバタと後付けで決まった(詳細はP145~147)。…ここでわかるのは、日本では「原子力発電を導入する」という決定が前のめりで先行し、「では、事故が起きたときの補償はどうするのか」という法律や保険制度の整備が後回しになっていた、ということだ。(※なぜそんなに「原発の導入」を急いだのか…?)

・そして1957年は、アメリカ・イギリスという当時の原子力発電の「先進国」が、「原発は絶対安全」から(イギリスのウィンズケール原子炉で、火災事故からレベル5の放射性ヨウ素の放出事故が起きたりして)「事故は起こりうる。起きれば被害は莫大」という方向に認識を転換した年だった。→ 莫大な損害をどうやって補償するのか、という法律や契約を変更し始めた。←→ だが、原発を導入する緒に着いたばかりの日本は、まだ「絶対安全」という単純素朴な幻想に酔っていた。(※これも日本社会のよくあるパターンか…。〝日本語の壁〟…?)


○あまりに巨大な原発事故の被害予測

・ウィンズケール原子炉事故と並んで英米の「安全神話」に冷や水を浴びせたのは、アメリカの原子力エネルギー委員会(AEC)が1957年に公表した原発の事故シミュレーション(WASH-740)。…「もっとも過酷な原発事故」を前提に、その被害を予測(詳細はP148~149)。→ その被害予測は巨大だった。…死亡:3400人、けが:4万3000人、物的損害70億ドル(2012年にインフレ換算すると570億ドル)→ 1964-65年の改訂版では…死亡:4万5000人、けが:10万人、物的損害:170億ドル(2012年のインフレ換算では1250億ドル)。→ こうした数字(※ホントに巨大な被害予測!)は、日本政府にも届いていた。

〔伊原氏への質疑応答〕

・(WASH-740という文書をご存知ですか?)…「名前は記憶しています。…そういう損害は発生しうると思っていた。だからこそ、国際的な保険の枠組みを確立しなくては、原子力発電は実施できないと思っていた」「当時はロンドンが損害保険の世界の中心地だった。…アメリカ市場とロンドン市場がうまくすり合わせて制度をつくっていた。」

・(原発事故の巨大な規模からしても、「これはやめておいたほうがいいのではないか」という結論にはならなかったのか?)…「日本政府としても世界の大勢に遅れをとってはいけない、という発想だったと思う。」

・(それは「経済面」か、それともアメリカを中心にする自由主義陣営に仲間入りするという「政治面」か?)…「政治的な背景のほうが大きかったかもしれない。戦争に負けてアメリカの占領下にあって、アメリカ文化を取り入れることで戦後復興を果たすわけだから、アメリカの考えを受け入れるということが根っこにあったと思う。」(※う~ん、原発も「対米従属」か、しかも前のめりに急いで…そして冷戦終結後も「対米従属」は変わらない…)


○天文学的な被害額を民間保険ではカバーできない

・(実はWASH-740が作成された背景にも、原発損害保険がある)…原子爆弾の開発では先陣を切ったアメリカだったが、第二次世界大戦後、原子力発電では劣勢にあった。…アイゼンハワー大統領が「アトムズ・フォー・ピース」を1953年に打ち出したのも、こうした劣勢を挽回するためだった。→ 原発の技術を無償で外国に移転し、アメリカ主導の国際原子力発電市場をつくる。一方、それらの国が核燃料を悪用して核兵器を開発しないよう、国際的な管理下に置く(そのために作られた監視機関が国際原子力機関<IAEA>)。→ それらの国をアメリカ主導の資本主義陣営「西側」に引き入れて、ソ連主導の「東側」に対抗する。

・それと同時にアメリカ政府は、国内の電力産業に原子力発電に参入するよう促した。←→ だが、彼らは消極的だった。原発事故が起こりうることは徐々に知られていた。その損害はまったく予想できないほど巨大になる可能性があることもわかっていた。→ 電力産業は、損害保険なしではとても手が出せない。保険業界も消極的だった。

・米連邦議会の合同原子力委員会が、その障害を取り除こうと動き始めた。…問題は、原発の危険性を十分つぐなえる保険を見つけ出すことで、その第一歩が、どういう性質の危険が予測されるかを、突き止めることだった。→ そして、それに対するAEC(原子力エネルギー委員会)の回答が、先述のWASH-740だった。→ だが、この結果を見た保険業界は、合同委員会の公聴会で、原発事故損害保険を拒否した。

・(公聴会での保険会社のある幹部役員の証言)…「現実にこんな大きな額にのぼる危険が存在するとすれば、そのような危険のあるものを認めるかどうかは、当然、公共政策の問題だ。…こんな天文学的な数値にあてはまるような保険の原則は存在していない。たとえ保険があったとしても、人や物に与える損害の量が、原子力の開発によって得られる利益に匹敵するのだろうか、という重大な疑問が残る」…(詳細はP153)

・保険がかけられないのなら、原子炉はまだ商業用には適さない、というのが妥当な判断である。←→ ところが、合同原子力委員会は変わった判断を下した。→ 原子力発電を「民間」に開くため、民間保険会社が保険を用意できないなら、政府が保険金を出そうという制度を作ったのだ。つまり、損害が出たら納税者がお金を払い、利益は民間企業が受け取るという制度である。…これは、電力会社という民間企業に、政府が巨額の補助金を出すのに等しい。(※う~ん、これが今、日本で現実化している…!)

・こうして1957年に可決された「プライス・アンダーソン法」が、こうした損害保険の法的根拠をつくった。→ 日本の「原子力損害賠償法」(1961年)は、この法律を下敷きにしている、というよりそっくりそのままコピーしたような法律である。(※ここでも「対米従属」…)


○日本でも40年前に行われていた事故の被害試算

・日本でもWASH-740に相当する原発の事故シミュレーションは行われていた。「原子力損害賠償法」の制定にあたって、原発事故が起きた場合にどれくらいの被害が起きうるのか、試算する必要が出てきたからだ。

・科学技術庁の委託を受けて、日本原子力産業会議がWASH-740を手本にして1960年に報告書をまとめた(詳細はP155~158)。…だが、全文は公表されずマル秘扱いになった。→ 1961年、科学技術庁は衆議院の特別委員会に冒頭18頁の要約のみを提出し、全文が公開されたのは、なんと39年後の1999年である。(※ここでも日本の官庁の隠蔽体質…)

・(この被害試算によると)…損害額が最も大きい場合は3兆7300億円(当時の国家予算の2倍以上で、2011年でインフレ換算すると19兆7780億円)…ちなみに2016年1月までに東電が支払った賠償金は、総額約5兆8243億円、原発敷地外の除染に使われる国家予算は5兆円(見通し)。→ 東電が払う賠償金は時間と共に増え続ける。…1960年に予想された最悪のシナリオである約20兆円に達する日はそう遠くない。(※最近の報道では21.5兆円…民間シンクタンクでは損害総額50~70兆円という試算もあるらしい…)


○チェルノブイリ原発事故後もシビア・アクシデントを想定せ

・ここまでの検証から、保険業界だけでなく、日本の政府当局者は、遅くとも1960年には、原子力発電所の「事故は起こりうる」「起きた場合は国家予算の2倍以上の莫大な損害が出る」ということを知っていたことになる。←→ しかし、そのシミュレーション「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」の大半は公表されないまま、ひろく専門家の精査を受けることもなく、封印されてしまった。(※この秘密主義、どうにかならないのか?)

・内容を暴露したのは1979年4月9日付の共産党機関紙「赤旗」である。→ ところが、このシミュレーションの存在が暴露されたあとでも、1989年3月の参議院科学特別委員会では、政府(科学技術庁原子力局長)がシミュレーションの存在そのものを否定。→ そして1992年、原子力安全委員会は、チェルノブイリ原発事故後の世論の沸騰を受けて、のちに福島第一原発事故の原因につながる、以下の「決定」を下す。

・「我が国の原子炉施設の安全性は、設計、建設、運転の各段階において…多重防護の思想に基づき厳格な安全確保対策を行うことによって十分確保され…シビア・アクシデントは工学的には現実に起こるとは考えられない…」…(※う~ん、「隠蔽」をさらに「ウソ」で塗り固め、根拠のない「安全神話」を蔓延させた、原子力安全委員会の決定的な過失…!)

・福島第一原発事故後、この記述への評価はどうなったのか。
(原子力安全委員会・班目春樹委員長の証言)…「原子力安全委員会の安全審査指針に瑕疵があった…津波に対して十分な記載がなく、全電源喪失については、解説で『長時間そういうものは考えなくてもよい』とまで書いている。原子力安全委員会を代表しておわびする」「国際的に安全基準を高める動きがある中、日本では、『なぜそれをしなくていいか』という言い訳づくりばかりしていて、まじめに対応していなかった…安全指針一つ取っても、変えるのにあまりに時間がかかり過ぎている。そもそもシビア・アクシデント(過酷事故)を(前提に)考えていなかったのは大変な間違いだった。」(※う~ん、あまりにお粗末すぎる…)


○立地基準を定める前に建設地を決めた福島原発

・こうした1950~60年代の原発黎明期の政策史を洗い出していくと、驚くような事実がいくつも掘り起こされてくる。…原発事故が起きた場合のシミュレーションを秘密裏に葬ってしまった政府の秘密主義。…あまりに「大雑把」としか言いようのない「無法」もある。→ 私が「福島第一原発事故の原因は、50年以上前にすでに始まっていた」と考えるのはこういう点を指す。…例えば、福島第一原発は、国が立地基準を定める前に、東京電力が場所を決めてしまった原発の一つだ。

・スリーマイル島原発事故(1979年)やチェルノブイリ原発事故(1986年)など海外で原発の深刻な事故が起きても、「日本の原発の安全基準は世界でもっとも厳しい」「日本の基準ではあり得ない・考えられない」といった文言で政府は宣伝し、世論の動揺を抑えてきた。

・そうした「国が原発の安全を国民に保障する」ことを明文化し、義務づけた法律が「原子力基本法」(1955年)であり「原子炉等規制法」(1957年)だった。…これは政府と国民の「契約書」「約束」のようなものだ。→ その一つとして「どんな場所なら原発を作ってよいか」を定めた規則がある。原子力委員会が策定した、原発立地の「憲法」のようなものだ。…効力を持ったのは1964年5月。(詳細はP164~166)

・重要なことは、「原発が事故を起こしても、周辺に住んでいる住民に放射線障害を与えないように、離れた場所に原発を作りなさい」と決められていることだ。誠にもっともな決まりである。…この「原子炉立地審査指針」を原子力委員会が定めたのが、1964年5月。 ←→ ところが、(『東京電力30年史』によれば)福島第一原発の候補地として、現在地が選ばれたのは1960年なのだ。(詳細はP167~169)

・つまり、国が立地のルールを決める4年も前に、東電は福島第一原発の建設地を決め、福島県知事もそれを受け入れた、という話である。…東京電力は、国の規制ができる前に、単独で原発の場所を決めたということになる。つまり立地に何の規制も指導もなかった、ということだ。→ そこでもう一度、改めて前出の伊原さんに聞くことにした。


○「当時はそんなものだった」

・(当時「原子炉立地審査指針」を策定した目的は何だったのか?)…「事故が起きたら(原発の)敷地を超えないように、どういう危ないことが起きるか一生懸命考えた。マスコミがいう安全神話などというのはうそですから(笑)。当時の原子力関係者は『原発は危ないものだ、いつ暴走するかわからん』『そうなったらどうするか』という思いで一生懸命考えたのです」…(※なにしろ読売新聞のトップが「原発推進」の旗振り役だったのだから…)

・(「原子炉立地審査指針」の策定より福島第一原発の立地決定のほうが先だった、と知って驚いたのだが)…「まあ、当時はそんなものでしたからねえ」→ それ以上の事情を尋ねたが、「よく覚えていない」との返答だった。(※良心的とはいっても、ここらが元官僚の限界か…)
→ そこでもう一人、福島第一原発の立地を担当した元東京電力副社長の豊田正俊氏(90)を訪ねた。

・(福島第一原発の立地が始まるのは、まだ「立地指針」ができていない頃だが)…「だけど『重大事故』というのは、前から我々(東電)としてはちゃんと採用していた。…その当時はもう、原子炉が三基ぐらいすでにあった。…(原子力)安全委員会なんか当時はないから…イギリスとかアメリカから(東電が)仕込んできたことを、原子力委員に『向こうではこうだよ』と教えてやってる感じだった。…当時はしょうがないよ、技術レベルが違うんだから。…だけど、最近は原子力安全・保安院なんかが、そういう電力会社の言うことを信用して、とりこになってたというところが問題なんだ…」

・(つまり原子力委員会や国よりも電力会社のほうが、技術や知識で上回っていた、ということか)…「電力(会社)のほうが勉強しているよ。ともかく、官僚は何年かいたら(異動で)替わっちゃう。電力会社は、原子力は一生なんだから。…私なんか40年やってきたんだから…」(※ここでも役所の「たらい回し人事」が問題…詳細はP170~171)

・伊原、豊田両氏の証言をまとめると、「当時は原発に関する知識や技術は、政府や原子力委員会の学者より電力会社のほうが先に行っていた」ので、福島第一原発の立地が政府のルールより先でも「当時はそんなものだった」ということだ。(※学者もレベルが低かった…)

・立地のルールを国が決めるより先に、電力事業者が先に立地を決めてしまった原子力発電所が、日本にはいくつかある。…東海発電所(茨城県)日本初の商業用原発。1966年運転開始。…敦賀発電所(福井県)70年運転開始。…美浜原発(福井県)70年運転開始。…そして福島第一原発。71年運転開始。

・「立地指針」の文面について…原子炉や原発と居住地区との距離については具体的な数字があるわけではなく、「ある程度の距離」としか述べていない。→ その代わりに「全身線量の積算値」が示されている。(詳細はP172~173)


○班目委員長も認めた仮想事故想定のでたらめ

・(事故当時、原子力安全委員会委員長だった班目東大教授の、国会事故調査委員会での証言より)…「立地指針に書いてあること…仮想事故だとか言いながらも、実は非常に甘々の評価をして、余り出ないような強引な計算をやっている…」→ (実際には「仮想事故」の1万倍もの放射線量が放出されてしまったという事実に対する、責任を問われて)…「とんでもない計算違いというか、むしろ逆に、敷地周辺には被害を及ぼさないという結果になるように考えられたのが仮想事故だった…」(※う~ん、東大教授の驚くべき証言…詳細はP173~176)

・つまり「立地指針」の数値基準は、「周辺住民への被害にならない軽い数字を先に決めて、そういう事故までしか想定しなくてよいことにした」というのが、(その立地指針の監督役である原子力安全委員会の長の)班目氏の証言なのだ。逆立ちした話である。

・要は、福島第一原発事故で、実際に放出されたような放射線量を前提に、住民にとって安全なくらい居住地区を原発から離そうとすると、日本には「住むところがなくなってしまう」というのだ。逆に言えば、現実に放出された放射性物質の量から住民が安全なくらい原発を離すと、日本は狭すぎて、原発を作る場所はない、ということだ。→ もっと身も蓋もなく言ってしまえば、この立地基準に沿って作られた日本の原発はすべて、福島第一原発と同じ規模の事故を起こせば、周辺住民の被曝は免れない、ということになる。→ そしてそんな場所に福島第一原発を作ることを、国は規制しなかった。東電が自由に決めてしまった。


○海抜35mの丘陵地をなぜわざわざ低くしたのか

・福島第一原発を作った頃の津波対策について、まず単純な事実から……福島第一原発の立地場所は、建設以前は海抜35mの切り立った崖だった。→ それをわざわざ切り崩して、海抜10mにまで低くして原発を作った。一番低い場所は海抜4mだった。

・3・11のときに襲った津波の高さは15.4mだった。…元どおり、高さ35mのままなら、非常用ディーゼル発電機や配電盤が水没することもなかった。福島第一原発事故は起きなかったことになる。→ なぜそんなことをしたのか、調べてみた。…こんな単純な話を、事故調査委員会も報道も、誰も取り上げないからだ。

・(『東京電力30年史』より)…35mの崖を掘り下げて、建設用地にした。…目的① 船で運んできた重量物の荷揚げができる港湾を作る。…目的② 冷却水を海から吸い上げる。

・港湾を作って荷揚げする必要があった「重量物」とは圧力容器(440トン)である。…福島第一原発のようなBWR軽水炉では、原子炉で熱された水蒸気をタービンに送り込んで発電機を回す。→ 「復水器」で蒸気を冷却してまた水に戻し、原子炉の冷却材に送り込む。…そうやって水がぐるぐるループを回っている。

・この蒸気を冷却する方式には「水冷式」と「空冷式」の2種類あり、海水を使う福島第一原発は水冷式(「空冷式」は、水蒸気を「冷却塔」に循環させて空気に触れさせ、冷却する)。…湿度の高い日本では、空冷式は効率が悪く、巨大な冷却塔が必要になり採算が悪い。→「水冷式」を採用。

・水冷式の原発でも、欧米では河川から冷却水を吸い上げている例が多い(チェルノブイリ原発やスリーマイル島原発も)。→ 流量の大きい河川を持つ国は、内陸部にも原発を作ることができるが、日本の河川には原発が必要とする冷却水を取水できるほどの流量がない。海に頼るしかない。→ 日本の原発がすべて、(「空冷式」や「河川型」でなく)津波の恐れのある海岸にばかり原発が作られた理由である。

・海水の取水には「海底トンネル」と「港湾」の二つの選択肢があったが、巨大な鉄の原子炉(圧力容器)を横浜の工場から運搬するのに、当時の道路事情では無理だった。海上から船で運ぶしかない。また、それぞれ試算したところ「港湾方式」が一番安上がりだった。

・豊田・元東電副社長にも直接尋ねてみた。
(どうして35mの土地をわざわざ掘り下げる必要があったのか?)…「当時は、圧力容器を35m引き上げることのできるようなクレーンがなかった」「当時は(津波対策として)あれで大丈夫だと土木屋さんが言ったんだ。それを信用したんだ」(※責任転嫁?)……公平を期するために付け加えれば、海抜35mの地盤を10mまで掘り下げた理由は他にもある。地震対策だ。…柔らかい地層を10mにまで掘り下げたところに、硬い岩盤があった。

・通常の高層ビルやマンションなら、軟らかい地盤でも、コンクリートの杭を地下の硬い地層まで打ち込んで支える。←→ だが、福島第一原発では地震対策として、原子炉やタービンは、岩盤が露出するレベルまで土地を掘り下げ、建屋の底部と岩盤を一体化させる工法が採用された。…このほうが、地震が来ても原子炉やタービンを襲う揺れが少なく、かつ地盤沈下が防げると考えられた。(※要するに原発立地には不適な土地…詳細はP181~182)


○津波の予測はわずか3mだった

・福島第一原発の建設当時の津波予測…(東電の元原子力開発本部副本部長の小林健三郎氏の論文によると)…「津波の高さは3mちょっとを想定しておけばいい」と言っている(詳細はP183~184)。…あまりに粗雑な想定だった。→ 国が何ら基準を決めないうちに、東電が「独自の基準」で決めてしまったのが、福島第一原発の場所と高さだ。…その結果は、ご覧のとおりの「大甘」である。(※これも重大な〝過失〟の一つ…)

・以後、東電や福島第一原発がいかに地震による津波を軽視してきたかは、多数の論文や報道記事、書籍で指摘されている。
(一例として、フリーの科学記者・添田孝史の『原発と大津波 警告を葬った人々』岩波新書より)…1986年、仙台市内で津波が運んだ堆積層の地層が発見され、宮城県以南でも津波地震が過去にあったことがわかってきた。…(1993年の北海道南西沖地震、1995年の阪神淡路大震災などの経験を踏まえて)1997年に旧建設省など7省庁が津波の想定方法を180度転換。→ 以後は、「起きた証拠ははっきり残っていないが、科学的に発生してもおかしくない最大規模の地震津波」を想定しなくてはならなくなった。原発の安全審査にも応用された。…2000年、電事連の報告書で、福島第一原発が国内の原発でもっとも津波に対する安全余裕がないことが判明(※電事連という身内からこんな報告書が出ていたのか…)。→ 東電は津波想定を約5mに引き上げた(※それでもまだたったの5m!)。…2002年、内閣府の中央防災会議の地震本部が、宮城、福島、茨城沖での日本海溝沿いを震源とする津波地震を予測(「長期評価」)。→ 東電は津波想定を5.7mに引き上げた(※たったの0.7mアップ!)。…2004年、中央防災会議事務局(国土庁)が、「長期評価」の予測した「日本海溝沿いの津波地震」を防災の検討対象にしないと決める(「過去に起きた記録がない、あるいは記録が不十分な地震は、正確な被害想定を作ることが難しい」という理由)。→ 委員の学者の猛反対を押し切り、「宮城から茨城沖まで津波地震が起きることを想定しない」ことに決定。…原発の津波地震対策にとっては大幅な後退(※う~ん、責任者や経緯の解明は?…状況的には政治家・官僚・業界主導か…?)。…2006年、原子力安全・保安院が、原発の耐震指針を28年ぶりに改定。→ 過去にさかのぼって原発の耐振性をチェックする「安全性再検討」(バックチェック)を電力会社に指示。→ 福島第一原発も、設置許可以来40年で初めて津波への安全性が公開の場で検討されるはずだった。←→ しかし電力業界は抵抗。→ 3・11の時点まで5年間、保安院はバックチェックの最終報告書が提出されていないのに、それを放置した(※もし、このバックチェックが震災前にしっかりと実施されていたなら…? これも重大な過失の一つだろう…)。…2008年、地震本部の「長期評価」を元に、東電が福島第一原発に最大15.7mの津波が来ることをシミュレーション(※う~ん、3年前に予測している! これは東電内の良心的な部分か…?)。
→ 後に3・11時に同原発所長になる吉田昌郎氏は原子力設備管理部長、首相官邸に詰めた武黒一郎フェローは原子力・立地本部長、武藤栄副社長は同本部副本部長として報告を受けたが、とり入れないことを決定。(※う~ん、この人たちは、3年後に、身をもってそのツケを払うことになるわけだが、その責任はまだ取っていない…。吉田氏は、事故処理の心労のせいか亡くなってしまったが…)


【4章】住民軽視はそのまま変わらない


○虚構に依拠した防災対策の最大の被害者は地元住民

・福島第一原発事故を経験したこの国では、「事故を契機に住民の避難対策は改められたのか」…また再び同規模の原発事故が起きたとき、今度は、住民は被曝することなく避難できるのか。…地震の巣のような日本なのに、巨大地震が来れば津波の襲来が避けられない海岸線に、54もの原子炉が並ぶ。

・同事故発生直後の住民避難は、壊滅的な失敗だった。…避難のための集合や輸送手段はおろか、法律上、避難指示の責任者である国は、避難先の準備や周知すらできなかった。…「原発はどの程度危険な状態なのか」という情報が、東電や国から知らされることはなかった(東電がメルトダウンを認めたのは事故から2ヵ月後だった)。→ 徐々に広がった避難区域の外側では、住民は水素爆発する原発の映像をテレビで見て危機感や恐怖を覚え、ばらばらに自家用に乗り、行き先も決められないまま故郷を脱出せざるを得なかった。→ 約23万人(環境省調べ)が被曝し、2015年11月現在でも約10万1500人(福島県調べ)が県内・外へ避難して家に戻れないままである。

・こうした惨状はすべて、国・電力会社の原発の安全基準や防災が、虚構の上に組み立てられていたからである。…「格納容器が突破され、外に放射性物質が漏れるような事故は起きない」「原発の敷地外に放射性物質が漏れ出すような事故は起きない」「よって住民の原発防災は基本的に必要ない」→ こうした虚構に依拠した防災政策の最大の被害者は、原発周辺に住む地元住民だ。…実例を挙げるとそれだけで紙数が尽きてしまうので、「あまりにひどい例」に絞らざるを得ない。

・一つは、5000人の村人と避難者1000人あまりが、何の警告もないまま3月15日の放射性プルーム(放射能雲)の渦中に放置された飯舘村をはじめ、北西方向に流れたプルームの真下にいた人々である。…そしてもう一つが、福島第一原発の南にある富岡町だ(全町が半径20キロ内)。→ 発生翌日の3月12日に全町避難を強いられ、「数時間で戻れる」と信じて財布と携帯電話だけ持って車に乗り、そのまま5年間家に帰れなくなった人も多い。

・忘れてはならないのは、同町沿岸部は3月11日に高さ21.1mの津波に襲われ、壊滅状態になったことだ。→ JR富岡駅の駅舎は流され、駅前商店街も破壊された。そのまま後片付けもできないまま、町民は翌日に避難を強いられた。→ だから、同駅周辺は2015年初頭でも、津波が破壊したままの風景がそのままになっていた。…2012年1月11日、郡山市に移転していた富岡町役場に、遠藤勝也町長を訪ね、話を聞いた(遠藤町長は、2014年7月20日、74歳で上顎歯肉がんで亡くなった)。…〔※吉田所長と同様、震災死だろう…〕


○国を信じて遅れた富岡町民の避難

・3月12日の午後、遠藤町長が最後に役場を脱出したとき、1回目の水素爆発の直前、間一髪だった。→ パトカーに先導され、午後4時半、川内村役場(原発から南西22キロ、県の指示した避難先)に到着した。…人口3000人弱の村に、富岡町はじめ外からの避難者6000人が着の身着のままで殺到した。

・この日の午後6時25分、避難する区域は半径10キロから20キロに拡大された。…川内村はギリギリ外である。ほっとした。→ しかし、14日午前11時、2回目の水素爆発が起きた。テレビ映像が流れると、村にいた町民の半分が逃げ出した。町長も焦った。ここも危ないんじゃないか。どうすればいいんだ…。

・携帯電話は通じない。国や県からはまったく連絡がない。周囲の状況がまったくわからない。→ ただ1台だけ生きていた衛星電話で、東京の原子力安全・保安院に電話をした。→ 日付が変わった15日未明の午前2時に、平岡英治・同次長から電話がかかってきた。…その言葉を、遠藤町長ははっきり覚えている。

・「国の想定では、原発事故は(半径)20キロを超えることはないんです。どうぞ国を信じて下さい」…「本当にそれでいいんですね」と遠藤町長は何度も念を押した。電話の相手は「20キロ圏内の屋内退避が最大ですから」と繰り返した。→ 町長はいったん「再避難せず」を決めた。

・15日の夜が明けると、一緒に川内村役場にいた福島県警の警察官40人に県警本部から撤収命令が出た。→ 町長は動揺した。…国の言ったことは何だったのか。一体どうすればいいのか。警察が撤収したと聞けば町民はパニックを起こす。→ 立ち去ろうとする署長に懇願して、12人が残ることになった。(※う~ん、この逸話は、かつての戦時中の満洲で、関東軍が日本人開拓民たちを置き去りにして撤収してしまった…という話を彷彿させる…!)

・遠藤町長は決心した。…もう、国も県もあてにならない。避難先を自分で探すしかない。→ 姉妹都市提携している埼玉県杉戸町は快諾してくれたが、行こうという町民がいない。→  結局、個人的なツテで、展示場「ビッグパレットふくしま」(郡山市)に決まった。…この15日とは、前述の原発北西方向、南相馬市から飯舘村、さらに福島市から千葉県北部まで流れる高濃度の放射性プルームの放出が起きた日である。

・「線量が急上昇しているらしい」「また放出があったようだ」…そんな話が住民の間を駆け巡っていた。→ 15日夜、真っ暗になってから、パトカーの先導で川内村を脱出した。ビッグパレットに到着したのは午前0時近かった。


○今でも悪夢にしか思えない

・結局、国からは誰も来なかった。県や東電から線量の高さや方向についての情報もなかった。避難の方向を決める「SPEEDI」のデータなど見たこともないという。…富岡町と東京電力を直につなぐような窓口が、そもそもない。連絡役がいない。…町は10キロ圏内でEPZ(後述)の範囲内なのだが、直接原発が建っている「立地自治体」(大熊町と双葉町)ではないからだ。(※う~ん、日本の「原子力防災」は、今回の事故対応の結果を見ると、「立地自治体」以外はなきに等しかった…?)

・「うんと、今でも怒っています」…遠藤町長は言った。→ その怒りの矛先は、「8-10キロ」というEPZ(Emergency Planning Zone)を決めた原子力安全委員会に向けられる。…「今だって、原子力安全委員会のメンバーがまったく変わっていない。班目委員長なんて、会ったこともない。お詫びも聞こえない。まったく罪悪感も責任感もない。これだけの事故を起こした最高責任者じゃないのか。安全をチェックして安全を高めるのが仕事じゃないのか」「原発の安全は国が担保していた。それを信じる以外の選択肢は我々にはなかった。その意味では私たちも『安全神話』を信じていたのかもしれない。それは完全に裏切られてしまった」「私たちの体験を、日本全体の原子力防災の共通認識にしてほしい。巨大地震はいつどこで起きるかわからない。『福島は対岸の火事じゃない。運転再開は安易にしちゃだめだ』…全国市町村長会でもそう話している」

・1時間ほど堰を切ったように話し続けた遠藤町長は、最後にふと言葉を切ると、こう言った。「本当に、今でも、悪夢のようだとしか思えないのです」


○避難範囲が拡大されても、被曝は防げず

・こうした避難の失敗を教訓に、2012年10月、国は「原子力災害対策指針」(住民を避難させるマニュアル)の内容を変更した。…原発事故の時、周辺住民に避難命令を出す権限は「国」にある。…原発事故はその被害範囲が自治体の境界を超えるほど広いことを想定して「国」に決定権が委ねられている。その根拠になっている法律が「原子力災害対策特別措置法」(原災法)だ。→ この法律に基づくさらに細かい指示書が「原子力災害対策指針」。

・周辺住民にとって一番影響の大きい事故後の修正は、「事故のときに屋内退避や避難の備えをする範囲」が拡大されたことだ。…事故前のその範囲は半径「8-10キロ」(EPZ)で、福島第一原発の周辺では実際に避難訓練が行われていたのは、半径3キロ以内。それも3キロ以内にある最寄りの公的施設に自宅から行くだけで、3キロ圏の外に避難するのではなかった。(※う~ん、これでは本番でまともな避難ができるわけがない…)

・事故後は、それを「30キロ」に拡大して「UPZ」(Urgent Protective Planning Zone)という名前に変えた。…この「30キロ」という数字は、国際原子力機関(IAEA)の基準に合わせたもの。屋内退避の後、実測値に基づいて避難することになっている(1週間の積算被曝量100ミリシーベルト)。→ 対象となる自治体数は、旧指針の15道府県45市町村から21道府県135市町村に増えた。(※福島原発事故の前は、避難指針が国際標準ではなかった、ということか…)
→ さらに、半径5キロ以内は「原発で異常が起きたら、放射性物質が出ていなくても即退避」ということになった。

・福島第一原発事故が起きてみると、旧「8-10キロ」という避難範囲は小さすぎてまったく役に立たなかった。→ 事故後約1ヵ月で「警戒区域=立ち入り禁止」の範囲は半径20キロにまで拡大された。…今もこの「半径20キロの円」は基本的に「立入禁止ゾーン」の骨格を作っている。

・より正確に言えば、この「半径20キロ」という規制区域も、現実にはまったく対応できなかった。→ 南東からの風に吹かれた放射性物質の雲(プルーム)は、原発から北西約30-50キロの飯舘村を全村避難が必要なほど汚染したからである。←→ ところが、プルームが同村に流れた2011年3月15日の時点では、政府は20キロ以遠にある同村に放射能汚染が及ぶことを警告しなかった。→ そのために村にいた住民約5000人と、避難してきた人たち1200~1300人は何の警告も与えられず、そのまま被曝した。(※詳細は「震災レポート⑮」…『原発に「ふるさと」を奪われて』―福島県飯舘村・酪農家の叫び― 長谷川健一 宝島社2012)

・ここでもうすでに新しい「指針」の欠陥が見えてくる。
(1)原発から半径30キロという区切りは小さすぎる。…もし仮に福島第一原発事故がもう一度起きたとすると、「新指針」の下でも、飯舘村は大半が避難対象に入らない。
(2)避難範囲を円で区切るのは無意味。…放射性物質は風に吹かれて雲のように方向を持って流れる。→ 「どの方向に逃げるのか」を、その日の風向きによって決めないと意味がない。


○非現実的すぎる放射能拡散予測

・こうした「新しい指針」とともに、国(原子力規制委員会)は2012年に、全国16原発で「福島第一原発事故級の事故が起き、放射性物質が原発外に流れ出た」という前提に基づいた放射能拡散予測シミュレーションを公表した。…それまで50年以上、国は「原発事故で敷地外に放射性物質が流れ出ることはない」という前提に固執していたので、それを思えば一大方向転換である。(※あれだけの大事故を起こしたのだから、当然のことだが…)

・しかし、その政府のシミュレーションで「新避難対象区域=30キロ圏」が小さすぎることが、すでに露見している。…ex. 福井県の大飯原発など4原発で、30キロを超える地点が、積算被曝線量が避難基準値の1週間100ミリSvに達する試算が出ている(京都府南丹市、新潟県魚沼市など)。…また、隣接する高浜原発が事故を起こした場合の拡散予測では、大飯原発が避難基準値に達する地域に入る。→ つまり、大飯原発にいる要員も避難の必要が出てくる(→高浜原発と大飯原発が共倒れ…)。→〔※〝原発銀座〟の危険性…今回の事故でも、福島第二原発も(女川原発も?)この危険性をギリギリで免れた…〕

・さらに、国のこのシミュレーションは「非現実的すぎる」と批判を受けた。…①地形をまったく考慮していないこと。②「放射能放出から一週間、風向きが同じ」…という現実にはあり得ない仮定で作られたこと。(詳細はP197~198)


○新指針でも機能不全を起こしかねないオフサイトセンター

・この「新指針」には大きな欠陥がまだ残っている。→ 「オフサイトセンター」(緊急事態応急対策拠点施設)の移設が進んでいないのだ。

・オフサイトセンターとは、原子力施設において、事故が発生した敷地(オンサイト)から離れた外部(オフサイト)で現地の応急対策をとるための拠点施設。→ 国・都道府県・市町村や、事業者(電力会社など)の防災対策関係者が1ヵ所に集合して、連絡を密にしながら対策をとることになっていた。

・ところが、福島第一原発事故では、まったく機能しなかった。…福島県大熊町の「福島県オフサイトセンター」は原発からわずか5キロの位置にあった。→ オフサイトセンターの場所そのものが、放射線量が上がって避難対象区域になってしまった。…換気施設に放射性物質を取り除くフィルターもなかった。…さらに、周辺の市町村は住民避難に手一杯なうえ、地震や津波で道路網は寸断され、渋滞やガソリン供給が不安定になるなどで、関係者が集まることはできなかった。また電源も、電話などの通信手段も途絶してしまった。(※ここでも、〝安全神話〟による油断、準備不足、認識不足、というしかない…)

・オフサイトセンターは「原子力災害対策特別措置法」が定めている原子力災害のときの司令センターだ。→ オフサイトセンターが機能しないということは、住民避難の「司令部」が失われたことを意味する。→ この失われた「司令部」の機能を引き受けて、東京の首相官邸や原子力安全委員会は大混乱に陥った。→ 結局、福島市にある福島県庁に撤退したが、この「司令部の機能不全」のせいで、すべての住民避難計画が狂った。(※オフサイトセンターの重要性…そして、この国の「総合力」の脆弱性…)

・オフサイトセンターが原発から5キロという至近に設けられていたことは、はっきりとした国のミスだ(詳細はP199)。→ 事故後、国は原災法の施行規則をこう書き換えた(2012年7月)。…「立地地点を(20キロ未満から)5-30キロに変更」「空気浄化フィルター等の放射能遮断機能の確保」「30キロ圏外であり別方向に位置する複数の代替オフサイトセンターを確保」…(※いつも後手後手の〝泥縄〟か…)

・3・11後、オフサイトセンターはどうなったか(P201に一覧表)。→ 12の代替オフサイトセンターが、まだ国が決めた「新指針」の30キロの内側にある。…今回の事故で、50キロ離れた飯舘村までが汚染で避難を余儀なくされたことを考えると、14の代替オフサイトセンターが50キロ圏内に入ってしまう。→ 「第二の福島第一原発事故」が起きたときには、これらのオフサイトセンターは機能しなくなる可能性が高い、極めて脆弱な構造だと言える。


○「被害地元」嘉田前滋賀県知事の危機感

・もう一つ大きな問題がある。…国の新しい指針に従って「5キロと30キロ圏内」を想定した避難訓練について、多くの自治体で行われているのは「半径5(30)キロの円をコンパスで書いて、その内部の住民を動かす」訓練にすぎない。…依然「被害は30キロ内で完結する」という「都合のいいシナリオ」が前提になっている。

・こうした国の3・11後の住民避難政策に疑問を抱いた数少ない自治体首長の一人が、滋賀県知事だった嘉田由紀子氏。…滋賀県には原発がないが、隣の福井県の敦賀湾沿いには、15基の原子炉が集中していて「原発銀座」と呼ばれている。→ 敦賀原発は滋賀県側から13キロしか離れていない。

・福島第一級の原発事故が福井県で起きた、と想定して当てはめると、琵琶湖北部に放射性物質が降り注ぐことになる。…嘉田前知事は「福井県で原発事故があれば、京都・大阪という関西の主要都市の水道が汚染される」という危機感を持った。→ 滋賀県は国を待たずに、独自の原発シミュレーションを実施し、独自の防災計画を作るに至った(2011年秋…詳細はP202~203)。

・滋賀県が独自に放射性物質拡散シミュレーションを作るきっかけになったのは、文科省が同県の求めにもかかわらず「SPEEDIによるシミュレーション結果を渡さない」と表明したこと(※なぜ?…縄張り意識? 隠蔽体質?)。…県の計算式の原型になっているのは「琵琶湖環境科学研究センター」が持っていた光化学スモッグの大気汚染モデル。→ どうしてこの調査をすることを決心したのか、嘉田前知事に直接取材した。


○避難そのものがあまりにも非現実的

・「私は知事として『被害地元』という概念を作り、一生懸命『命と暮らし』を守ろうとしてきたが、『実効性のある避難計画は今のままでは無理だ』という結論に…その一つが交通問題。自動車では20~30時間のすごい渋滞になる。…(琵琶湖ルートの)船の逃げ道も、最大1000人乗れる船が二つしかない。それが一往復するのに2時間かかるのに、高浜原発から30キロ圏内には6万人いる…」「滋賀県は、(単なるコンパスで円を描いての30キロというのはおかしいだろうという判断で)風と地形とを併せた形での『43キロ圏内』という県独自の避難計画を作った。…データに基づいてUPZを作ったのは全国でも滋賀県だけ」「私は科学者なので、単なるコンパスで引いた円では納得できなかった。…リスク管理というのは最悪の事態を想定することです」…(※う~ん、日本にもこんな県があったのか…詳細はP204~205)

・「もう本当に非現実的…(あらゆる条件の市民を)『20時間以内に移動することは不可能』と言わざるを得ない。…他にも、ヨウ素剤の配布は国の新指針では『5キロ圏内では日常的に配布』『30キロ圏内では汚染した直後に配布』となっているが、そんなことは無理(烏賀陽注:ヨウ素剤は被曝後24時間以内に服用しないと効果が薄い)。…とにかくあまりにも非現実的だ(詳細はP206)」「何より、根本的な法律の矛盾として、水害などの『地域防災計画』では避難指示を出すのは市町村長なのに、『原子力災害対策法』では総理大臣。…全国知事会はそれを調整してくれるように原子力規制委員会にずっと言っているのだが、縦割りのために動かない(田中俊一委員長は全然やる気なし)。…「災害対策基本法」は総務省の管轄で、原子力災害は(かつては経産省下の原子力安全・保安院の担当だったが)今は原子力規制委員会だから、所管は環境省。→ 総務省と環境省が横の調整をしていない。現場はどうしてよいのか分からないんです。」…(※ここでも「縦割り行政」の弊害…詳細はP207~208)


○都道府県庁には放射性物質を扱う部署がない

・「3・11の前は、『絶対に原発事故は起きない。施設外に放射性物質は拡散しない』という前提だった。だから放射性物質を扱う部局は県自治体にはないのだ。都道府県庁で環境政策をする人たちは、『私たちには関係ない』と思っていた。…地域防災計画の原子力災害対策編というものを県は作ってはいたが、形式的なものです。」

・「国でも同じで、環境省の仕事ではなかった。それを事故が起きてから環境省が押し付けられた。…環境省が発足した1972年当時、例えばアメリカやドイツ等の諸外国では、原子力災害対策は環境政策の一貫ということになっていた。『原発事故が起きれば放射性物質で環境が破壊される』から。…だが日本ではSPEEDIのデータを原子力ムラ(経産省と当時の原子力安全・保安院)が抱え込み、放射能は『絶対に施設外には出ない』という大前提にしてしまった。だから環境省が公共用の安全水域や、放射性物質が大気中に漏れた場合の基準を作りようがない。『あり得ないこと』になっていたから。」

・(烏賀陽)…「つまり『放射性物質が放出されるような原発事故はあり得ない』というフィクションの上に行政が成り立っているので、環境省もそれはやらなくてよいことにされてしまった。」
(嘉田)…「だから、国の環境基準には放射性物質の項目がない。当然、自治体にもない。→ 『滋賀県独自で放射性物質の拡散シミュレーションをやろう』と私が言ったとき、滋賀県の環境政策の担当者は『僕らには放射性物質は扱えません、無理です』と言った。…防災対策の担当者も『原発事故のシミュレーションに関する科学的知識がありません』と言う。」…(※う~ん、日本はこの程度の「総合力」で、原発を50何基も稼働させていたのか…)→ 「私が元いた琵琶湖研究所の所長と相談・説得して、自治体として全国で初めてこの原発事故を想定した放射性物質の拡散シミュレーションをやったのです。というのは、文科省はSPEEDIのデータを、立地地元にしか渡さないから。」


○「汚染されないと避難させられない」住民見殺しの論理

・「『立地地元』には、安全協定で原発稼働の同意権がある。しかもいろいろな経済的なベネフィット、原発の交付金がくる。←→ ところが福井県・高浜原発から13キロしか離れていない滋賀県には同意権もなければ、交付金もこない。」

・「(国は)今の時点でも『避難計画にSPEEDIのデータを使わない』というのが指針。→ 『モニタリングデータだけで避難計画を作る』というので、これも私たちはおかしいと言っている。…というのは、モニタリングデータなら、すでに放射性物質が舞い落ちて、汚染されたことが分かってからしか避難できない。これでは県民が被曝するままに見捨てることになる」…(「汚染・被曝してから逃げよう」という逆立ちした理屈…)

・「SPEEDIの場合には、ある程度シミュレーションで予測できるが、『それでは避難させられない。実態として汚染されないとダメだ』と国は言う」→ 「結局国は、滋賀県に対してSPEEDIのデータを出すまでに2年くらいかかった。…県のシミュレーションは、2011年の3~4月にすぐに準備して8~9月にはほぼ出ていた。国がSPEEDIのデータを渡したのはそのずっとあとです」…(※福島原発事故が起こった後でも、この国の〝意固地さ〟はなぜ…?)


○「リスクは知らせない」の根本にある父権主義

・「シミュレーションができたあと、今度はその公表に県内の市町村が抵抗した。『人心を混乱に落とし入れるな』という首長が多い。『リスクを知ったうえで備える』ことに、彦根と近江八幡の市長は最後まで納得しなかった。…『リスクは知らせるな、知らせる以上は避難も含めてすべての対策を取れ』と言う…『人々には知らしむべからず、寄らしむべし』です。…この発想は地方へ行

けば行くほど強い。」
・(烏賀陽)…「『避難計画すべてが完璧に整わないと、リスクを知らせるべきではない』というなら、いつまでたっても避難計画はできませんよね。」
(嘉田)…「だから作らないんです。こういう発想はもう、政治家の中にものすごく根深い。『住民を守ってあげる』と言うとよいことのように聞こえるが、結局見殺しにするということです。行政が全部守ってあげる。…これまで自民党がやって来た『パターナリズム』(父権主義)です。特に地方の政治家には多いですね」…「だから(川内原発を再稼働させた)鹿児島では避難計画を作らない…知事が非現実的な避難計画は作らないと言う。特に要援護者の避難計画は現実的ではない。だから避難計画は作らない。これでは、県民を見殺しにすることになる」…「行政が全部抱えてあげる。お前らの命はわしが預かった、とでも言わんばかりです。『知らしむべからず、寄らしむべし』という政治信条…もう日本中それが強い。自民党がそもそもそういう発想ですから。リスク開示をしない…」(詳細はP211~213)
〔※この「父権主義」の項、思わず長く引用してしまったが、これも「大衆は所詮愚かだ」という上から目線の大衆蔑視の一形態か…そして〝秘密主義〟〝隠蔽体質〟の根っこにあるもの…〕


○琵琶湖が汚染されれば被害は近畿全体に拡がる

・(烏賀陽)…「滋賀県の原発事故シミュレーションを見てびっくりしたのは、琵琶湖が汚染されてしまうと淀川水系が汚染されてしまい、それを上水道の水源にしている京都府、大阪府にも汚染被害が広がる、ということだった。」
(嘉田)…「そうです。1450万人、近畿全体に汚染地元が広がる」「大気汚染の後は水質汚染もやりました。そして放射性ヨウ素の拡散状態を見て、その後は生態系の影響です。生物濃縮とか…福島でもそうだったが、放射性物質は底に沈む。ナマズとか水底にいる生物から影響を受ける。」
(烏賀陽)…「大阪府民の飲み水も汚染されると聞いて、大阪府民の態度は変わったか?」
(嘉田)…「当時は橋下徹・大阪府知事も『そのデータをくれ』と言ってきたので、ちゃんと出した。だけど橋下さんは、2012年に石原・東京都知事と組んで維新の党を結成してからはガラッと変わった。もう原発のことは言わなくなった。…もう忘れている、彼は(笑)。…橋下さんが大阪府知事時代に(ある会合で)『テレビ取材が入らないなら僕は帰る』と言って帰り始めた。テレビがないところではご自分は発言しない。」

・「私は四つの提言をしている…
①『立地地元』『被害地元』『消費地元』の三つの地元があること。『消費地元』というのは、電力を消費する関西。…関西は被害地元とほぼ同じ。
②関西のみなさん自身が水で影響を受ける当事者なのだから、『琵琶湖を介して、自分たちの水が汚染される』ことに対して関心を持ってほしい。
③再稼働の必要がない。…2012年の大飯原発の3、4号機の時にずいぶん脅かされた…ブラックアウトしたら病院で命が危なくなるとか、経済が成り立たないとか、真夏のピーク時の話。→ 私は(関西広域連合のエネルギー対策・節電対策の責任者で)、ともかく真夏のピークをカットしましょうと、2000万人に呼びかけた(詳細はP215)。…『クールシェア』や太陽光発電などで、関西全域で約500万キロワットもカットした。もう、ブラックアウトなんて誰も言わないでしょう?…(※あの東京圏での「計画停電」も脅しだった…?)
④琵琶湖には足がない、避難できません。琵琶湖に放射性物質が降ったら、もう打つ手がありません。」(※う~ん、打つ手がないのか…)

・(烏賀陽)…「国はまだ『立地自治体しか再稼働に同意の必要はない』と言っているのか?」
(嘉田)…「同じです。(大飯原発の再稼働の時に)『安全協定で滋賀県の同意を得る義務はない』と言っている。」
(烏賀陽)…「『被害自治体』という概念を国は採用するでしょうか」
(嘉田)…「多分しません。彼らはともかく裏で意思決定したい。福井県知事だけの了解で進めたいと思っている。それこそ、何兆円という利害が絡んでいる。…経済利害と政治パワーの強さだと思う。」…(※う~ん、「父権主義」と「経済利害」が絡んで、「ともかく裏で意思決定したい」…これが〝日本政治の真実〟か…?)


○原子力防災体制の欠陥

・嘉田前知事の話から、福島第一原発事故後なお残る国の原子力防災体制の欠陥を抽出してみる。(12項目)
〔事故後も変わらない円形の避難地域設定の問題点〕
(1)原発を中心にコンパスで5キロあるいは30キロの円を描いて避難区域を決めるやり方は、実効性のある避難には役立たない。
(2)風向き、降水(雨、雪)など気象条件と地形を勘案して汚染を予測し、避難が必要な方向と範囲を決めなくてはならない。

・住民避難の観点からいうと、福島第一原発事故での最大の教訓は「放射能を帯びたチリの塊が雲状(プルーム)になり、風に吹かれてランダムに飛んでいく」ということだ。…政府が決めた「直径Xキロの円」などとまったく無関係に飛び広がった。そして地上に落ちたところが放射能汚染地帯になった。

・風に乗ったチリの拡散は一種の「自然現象」なのだから、人間が決めた人為的なラインなどお構いなしで動く。←→ ところが政府はそのことに気づかず、あるいは気づいても改めず、避難範囲を半径「3キロ→5キロ→10キロ→20キロ」と数値を増やしただけだった。

・そもそも「円形の避難範囲設定」が間違っていたのだ。→ その結果、避難すべき人が避難できず、避難しなくてもいい人まで避難するという無駄と混乱を生んだ。→ そして、原発事故後の「新指針」でも、政府の基本は「円形の避難地域を設定する」で、同じ過ちをそのまま繰り返している。

・もともと「住民避難範囲を円で設定する」という発想は、1979年のアメリカ・スリーマイル島原発事故で始まった。…当時はメルトダウンと放射性物質拡散のような大きな原発事故そのものが想定されておらず、メルトダウンが進行していた非常に緊張度の高い中、約300キロ離れたワシントンのNRC(原子力規制委員会)の担当者が、「とりあえずの対策」として提案したのが「原発から半径5キロの線を引いて、内部の妊婦や未就学児童を避難させる」という案だった。→ それがそのまま事故後も政策として定着し「前例」として各国にも広がった、というにすぎない。…つまり何らかの実効性を確認した上で「円」で限定するという政策が生まれたわけではない。

・原発事故前も後も、日本政府の発想は、それをそのまま形だけコピーしているにすぎない。…福島第一原発事故で円形が無意味だと分かっているのに、事故後も「なぜ円形なのか」「意味がないのではないか」という疑問を誰も問わないのである。(※う~ん、ここでもアメリカのコピー、「対米従属」か…。しかも、世界史的な「原発過酷事故」を起こしてしまった後でも、改められない、教訓を生かせない、失敗に学べない…。→ このことは、70余年前に国民が「甚大な犠牲」を強いられた、あの「戦争の失敗・教訓」を生かせてないことの、繰り返しか…?)
〔SPEEDIを避難に生かせなかったのは人為的ミス〕
(3)そうした気象条件や地形を合算して避難の必要な地区を予測するシステムとして、原発事故前に「SPEEDI」があった。←→ しかし原子力規制委員会は、「福島第一原発事故ではSPEEDIは役に立たなかった」と結論づけて、避難計画の策定から排除してしまった。(実際には、SPEEDIがシステムとして機能しなかったというよりは、政府内部や東京電力内部でSPEEDIの存在が忘れられていた、避難計画にどう生かすかを理解できる人がいなかった、という側面が強い…)
(4)従って、新指針の避難方針は「モニタリング」で汚染を計測して範囲を決め、避難を開始することになっている。→ これは「放射性物質が飛散し、降下した量」を測定してから避難を決める、という手順である。…つまり「その地域が汚染してから避難のやり方を決める」という倒錯した手順であり、そこにいる住民は避難前に被曝する可能性が高い。
・SPEEDIは、こうした「円形避難」の欠点を補うシステムとして存在した。「放射性物質の雲(プルーム)がどちらの方向に、どれくらいの距離まで流れるのか」を刻々シミュレーションしていくシステムだった。→ 「放射性雲の流れる方向に行ってはいけない」「その方向に住んでいる人を避難させよ」を警告するためにあった。

・しかし、福島第一原発事故のときに「役に立たなかった」という俗説が一人歩きして、事故後、原子力規制委員会は避難計画への運用をやめてしまった。←→ しかし、これはSPEEDIがシステムとして機能しなかったというよりは(PBSというバックアップのシステムが存在した事実は、5章で後述)、その存在を知り、避難計画にどう使うのかを知る人が、政府(首相官邸、経産省、原子力安全・保安院、原子力安全委員会など)や東京電力内部にいなかった、存在を知っていても現実への応用を思いつかなかったという「ヒューマンエラー」である色彩が強い。→ そしてそうした人々は、処罰されたり責任を問われたりしていない。(※つまりここでも、「失敗」を検証・反省し、未来に生かす、ということがなされていない…)
〔避難そのものがあまりにも非現実的〕
(5)避難区域にいる6万人の地域に、脱出路が国道一本しかない。脱出にはバス500台が必要。→ 20~30時間の渋滞が発生する。…「20時間以内」の実効性のある避難は物理的に不可能。
(6)同じ6万人の地域に医師は15人しかいない。薬剤師も同様。→ ヨウ素剤の実効性のある配布は不可能。
〔あくまで当事者は立地地元だけ〕
(7)原発からの距離が十数キロであっても、原発がない都道府県を、国は「地元」とは認めない。
(8)よって、国主催の原発事故の避難訓練に、国は「立地地元ではない隣の都道府県」を含めない。
(9)よって、再稼働の合意を必要とする安全協定の対象に「立地地元ではない隣の都道府県」は含まなくてよい。隣県が反対しても再稼働してよい(福井県の大飯原発再稼働ではそのとおりになった)。
(10)放射性物質の拡散を予測したSPEEDIなどのデータを、国は「立地地元ではない隣の都道府県」に渡さない。→ 隣県は、自分でシミュレーションをして避難計画を決める必要がある。

・政府の事故対策には、「人工的な境界線に固執して、自然現象を無理やり当てはめようとする発想」が頻出する。…(7)~(10)は「都道府県境」という人工的な境界線で当事者の自治体(都道府県)を決める無意味な発想である。

・滋賀県の事故シミュレーションが明らかにしたのは、琵琶湖の北部に放射性物質が降り注ぎ、琵琶湖水系を水源とする京都府、大阪府の上水道も汚染されるということ。→ つまり被害を受ける都道府県は、滋賀県、京都府、大阪府と「県境」に関係なく広がるということだ。

・ところが、国は福島第一原発事故後も「原発が建っている都道府県だけが当事者」という姿勢を崩していない。…これが「立地地元」「立地自治体」の発想である。だから、国主催の防災・避難訓練に隣県を含めない。←→ 事故が起きれば自分たちの県にも放射性物質が来ると分かっている隣接する都道府県は、自分たちで独自の訓練をするほかない。
〔中央官庁の縦割りの弊害が生む避難指示問題〕

・これは次の(11)と合わせて考えると、極めて危険な状態だということが分かる。
(11)水害、土砂崩れ、噴火といった「一般災害」では「災害対策基本法」で自治体が避難指示を出せる。←→ ところが原子力災害だけは「原子力災害対策特別措置法」に基づいて総理大臣が避難指示を出す。…「災害対策基本法」は総務省が管轄し、「原子力災害対策特別措置法」は環境省が所管する(福島第一原発事故前は経産省下の原子力安全・保安院が所管)。→ 二つの官庁が縦割りのまま横の調整をしない。…「誰が避難指示を出すのか」「誰の避難指示に従うのか」という最も基本的な法律が、「股裂き状態」のまま放置されている。→ いざ事故の場合、地元自治体が判断に迷う。

・福井県の原発で事故が起きた場合、13キロしか離れていない滋賀県の住民はどうすればよいのか? 知事や市長は避難指示を出すのか?…嘉田前知事の問いかけは、こういう切実な問題を含んでいる。→ (1章で検証したように)福島第一原発事故では、政府内部で貴重な時間が浪費され、国の避難指示までに時間が空転したことが明らかになっている。…隣県としては死活的な問題だろう。

・無論、国の避難指示を待たずに自治体が避難を命じることも可能である(福島第一原発事故では、数分の差で国より先に福島県が避難指示を出している)。←→ しかしその場合、中央官庁(医師の派遣には厚労省が、バスの手配には国交省がからむ)や国の機関(自衛隊など)は避難に協力してくれるのか? 警察は? …こうした問題はまったく解決されないままになっている。しかもその原因は、総務省と環境省がすり合わせをしない、という旧態依然とした「中央官庁の縦割り行政」なのだ。(※う~ん、結局、この問題に戻ってしまう…)
(12)福井県の原発で福島第一原発事故級の大事故があった場合、隣県・滋賀県の琵琶湖に放射性下降物が降る。→ 琵琶湖は下流の京都府、大阪府の上水道の水源であり、放射能汚染被害が都市部に拡大し、被害規模が増える。
                               (3/25…4章 了)            


 次回の〔後編〕は…最終の【5章】原発事故の進展は予測できなかったのか…の予定です。→ 4月中の完成を目指します。
                                   (2017.3.25)