2014年7月29日火曜日

『日本農業への正しい絶望法』 神門善久(新潮新書)

(震災レポート26) 震災レポート・拡張編(6)―[農業論 ③]


震災レポート 26

                  中島暁夫




                                         
『日本農業への正しい絶望法』 
      神門善久(新潮新書)2012.9.20

 ――[後編] (2012.10.20 4刷)  


【5章】むかし満州いま農業



1.沈滞する経済、沈滞する農業


・農業保護額が農業の純付加価値を上まわっている(※つまり農業が生み出した価値=生産物よりも、農業に対する補助金の方が多い…)。→ 計算上は日本から農業がなくなれば国民所得が増加する、という異様な状態(※確かに異様)。…主要農産物はこれから大幅な関税削減が見込まれるので、今後、農業は商工業以上に苦境が予想される。
・いまや大規模農家にとって、外国人労働者は不可欠の存在。…数万人の単位で外国人が、「研修」や「技能実習」の名目で農業に従事。→ 日系の外国人や不法に働く外国人を入れれば、この数字を大きく上回る。…外国人を雇うためには、現地に渡航したり、仲介料などの経費を考えれば、決して安い労働力とはいえない。→ それでも、大規模農家が外国人を雇う理由は、単純に、日本人では農作業がつとまらないから。日本人は少しでも労働がきつくなると辞める。…高度経済成長期以降の日本人は、人為的に保護された環境で育っており、「繊細」「ひ弱」で、農業の現場では耐えられない。(※だが、久松農園のように農作業を合理的に見直せば、今の若い人たちにも可能性はあるのでは…)
・このように、日本の農業は出口の見えない長い低迷を続けているが、そのことは農家が貧しいことを意味しない。先述のとおり、日本の農家の多くは、農業以外で安定的な収入を確保(兼業農家)。…農家は都市住民なみの農外収入がある上に家も土地も所有(固定資産税も相続税も極端に軽い)。→ 農家は総じて経済的に恵まれている。


2.農業ブームの不思議


・(バブルがはじけた)1990年代の終わり頃から、日本経済の沈滞と、農業の空洞化の中、珍妙な現象が現れた。農業が成長産業としてマスコミで熱烈にもてはやされた。…「企業にとって農業ビジネスは21世紀に残された数少ない『宝の山』の一つ…」、2000年代に入るや、「食育」や「地産地消」「減農薬」とか「有機栽培」などの能書きがもてはやされ、全国各地で直売所がブームに。→ このような素地に立脚して、2008年頃からマスコミでは、農業で夢物語を描くのが一大ブームになった。雑誌の農業特集や夢いっぱいの農業本…「農ギャル」が話題になり、植物工場、バイオエタノールなどの夢のような技術が語られ、昔ながらの有機農業への憧憬が語られることもある。テレビや新聞は、「中国で日本の農産物が大人気!」といった報道を頻繁に流す。→ 商工業の不振が長引く中、「農業」は明るい話題を提供できる数少ない〝ネタ〟であり、各方面が農業にかける期待が膨らむ。→ このような風潮に企業も政治家も機敏に対応する。←→ しかし、夢物語をいくら盛り上げても、農業の実態から離れていくばかりだ。(※う~ん、もっと正しく絶望しろ、ということか…)
・農業ブームは、情報に基づいて思考し客観的に判断されたものではない。…農地の無秩序化、耕作技能の低下など、日本農業の現状も将来展望も暗い。しかし、農業で夢を描くことが目的化し、都合の悪い情報は存在しなかったことにして、農業ブームが捏造されたのだ。(※う~ん、これだけ激辛だと、ゴウド先生、マスコミにはなかなか取り上げられないだろう…)


3.満州ブームの教訓 


・農業の実態が崩壊しているのに、虚偽の農業ブームが盛り上がるのはなぜか? → この問いを解くカギは、戦前期の満州ブームとの類似性にある。…当時も、日本社会は閉塞感の中にあり、逃避行的に人々が満州での新生活を夢想した。
〔※当方の叔母も、戦前に満州に行ったことがあるらしく、「満州ブーム」にはそれなりに興味はあるのだが、枚数の関係もあり、この項は概略の紹介だけにとどめたい。〕
・第一次大戦直後の日本は空前の好景気だったが、この経済成長は、繊維などの軽工業の技術を欧米から模倣することで実現できた。…しかし、軽工業だけでは経済構造の厚みがなく、いつかは成長の限界に達する。
・戦前の日本の場合、1920年頃には、軽工業から重工業への脱却を迫られていた。…だが、当時の日本は重工業化を完遂するだけの実力を伴っていなかったので、日本経済は苦境の連続となる。→ この閉塞感を打開する手っ取り早い方法が、保護貿易と軍事的拡大だった。…しかも、植民地の確保は、安い食料の調達という点でも重工業には魅力的だった(労働者の賃金を低く抑えられるから)。→ かくして、日本は植民地に重工業製品(船や自動車)を売りつけ、植民地から食料を買いつけるという構造ができあがる。(※今も同じような構造…?)
・しかし、植民地からの安い食料の流入は、重工業には有利だが、国内農産物価格の低迷をまねき、農業には不利。→ 1920年以降、重工業の苦しみは農業にも波及。
・長期不況に陥ると、人々は劇的な治癒を政治に期待するようになる。→ このような状況で、大衆は急進的な経済改革を唱える論者を支持するようになる(※う~ん、今と似ている…)。その典型が井上準之助であり、その主張は、市場経済の競争メカニズム信奉に近かった。→ しかし、その政策は昭和恐慌を引き起こし、社会の閉塞感はますます深まった。…輸出不振による景気後退が起こり(当時の日本の輸出は半分が生糸関連)、養蚕を主たる現金収入源にしていた農家は大打撃を被った。
・1930年代の満州ブームはそういう流れの中で生まれた。…1932年に満州国が建国され、日本政府は、20年間で100万戸、500万人の移住計画を打ち出した。
・当時の日本社会では、満州は数少ない明るい話題だった。…左翼も右翼も、人道主義者も暴力革命主義者も、各人各様に、満州で夢を描いた。→ しかし、(今から振り返ってみると)満州夢の国論は、現実逃避でしかない。…虚構の満州ブームが盛り上がれば盛り上がるほど、満州は破滅への道を突き進んだ。…「ユートピアの無残な失敗」。
・当時の経済不振を生じさせた三つの準備不足
①金融システムの不備……当時は銀行倒産が頻発し、重工業化のための安定的な長期融資が難しかった。
②人材不足……重工業を受け入れるだけの科学知識を持った人材が不十分だった。
③貧富の差に対応する社会システムの不備。
―→ つまり、時間はかかるが、金融システムを再編し、人材を養成し、新たな時代に即応した弱者救済システムを構築するよりほかには、抜本的な解決はなかった(※この処方箋は、現在にも通用する…?)。←→ しかし、当時の日本社会は逃避行に走ってしまった。…満州で夢の国を空想して気を紛らわした。そのあげくが、破滅的な結末…。(※この「破滅的な結末」には当然、第二次大戦も含まれているのだろうが、戦争体験どころか、すでに原発事故さえも、どんどん風化が進行しているように見えるが…。詳細はP134~141)


4.満州ブームと農業ブームの類似性


・70年時計の針を進めると、興味深い共通点が見いだせる。
・『満州ブーム』……○日清、日露、第一次大戦 →「一等国」の自信 ○1920年、反動恐慌 ○1928年、普通選挙 ○1929年、井上準之助蔵相 ○1930年、金解禁 ○1931年、満州ブーム
・『農業ブーム』……○「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の自信 ○1990年、バブル崩壊
○1996年、小選挙区制 ○2001年、小泉純一郎首相 ○2005年、郵政解散 ○2008年、農業ブーム
・両者の共通パターン……絶好調(自信満々)→ 長期不振 → 急進的改革者への期待 → 現状逃避的な夢物語…(P145 図3より)
〔※〝バブル〟は70年ごとに起きる(繰り返される)、と以前どこかで読んだ記憶があるが、その理由は、70年ぐらいで世代が交代し、前のバブルのことを忘れてしまうから、ということらしい。…先の戦争から、来年でちょうど70年…〕
・戦後、日本は1980年代まで高い経済成長を遂げたが、基本的には欧米の重工業の模倣。…戦前は、投資不足、人材不足、所得格差是正システムの不備のために、重工業化に失敗したが、戦後にはそれらに対する準備が、一応できていた(詳細はP142)。→ しかし、模倣のネタがなくなれば、それ以上の成長はできなくなる。その限界が来た(1990年頃が、模倣型成長の終焉)。
・ところが、自前で新たな技術を生み出すためには、高度成長を支えたシステムがかえって足かせとなる。
①従来型の長期資本の存在 → 新たな技術を生むためには、単純な長期資本では役に立たず、ベンチャーキャピタルのようなリスクを承知で機敏に動ける資金の方が必要になる。
②戦後の大学教育は、大学院があまり重視されず、革新的なアイデアを生む人材の育成には熱心でなかった(受身的な模倣型の教育)。それでは、とっぴな発想を育むことはできない。
③中小企業や農家の存在…彼らは、もはや弱者ではなくなった(※中小企業は弱者ではないのか…?)。→ このため、自民党による所得再配分は、弱者救済ではなく、単なる支持者への利益誘導になってしまい、貧富の格差を埋める効果がなくなった。……このように、バブルの好景気に熱狂して、大多数の人々が気づいていないうちに、日本社会は、システムの転換が迫られていたのだ。(※だが、民主党政権が、この「システムの転換」に失敗し、安倍反動政権が、歴史の歯車をまた元に戻してしまった…)
・バブルの崩壊は、その70年前の反動恐慌と同じような、日本社会の困惑の始まりだった。…自信満々から自信喪失へ(ジャパン・アズ・ナンバーワンからジャパンパッシングへ)という転換は、まさに70年前の状況に似ている。
・この閉塞感の中、政権交代可能な小選挙区制が衆院選挙に導入され(1996)、パフォーマンスに長け、急進的で市場原理重視の改革者とされる小泉純一郎が登場するのも(井上準之助に)似ている。→ 強力な改革者が閉塞感を一気に打破してくれるという希望も霧散し、いわば逃避的に農業で夢想するのが社会の流行になったのではないか。こう考えると、戦前の満州ブームと今日の農業ブームはまさに相似だ。(※う~ん、やや牽強付会という感じもするが…当方に「満州ブーム」に関する知識がないせいかもしれないが…)
・いまや労働人口にしめる農業の割合は3%程度で、多くの日本人にとって農業は未知の分野。また農業には牧歌的なイメージがあるので美化したストーリーが作りやすい。…ちょうど満州が未知の土地であったがゆえに、空想を膨らませられたのと同じだ。
・農業は、規格化も会計基準も曖昧で、ウソがばれにくいし、反証されにくい。→ 農業は逃避的な夢物語を展開するには、恰好の対象。
・満州ブームを振り返るにつけ、マスコミ(いわゆる「識者」も含む)が、大衆におもねって間違った「常識」を作り出してしまうことに気づかされる。…日本人は、「過去の悲惨な歴史に学ぶ」という言葉を、「戦争をしてはいけない」という意味に限定しがち(※確かに、そこがいわゆる〝進歩派〟の弱点か…?)。→ しかし、本当に学ぶべきことは、マスコミや「識者」がしばしば大衆に迎合して虚構を描き、危険な幻想が社会に歯止めなく拡張しうる、ということではないか。…歴史に学ぶというのなら、虚妄に満ちた「農業ブーム」の夢から脱し、厳しい現実を直視するべきだ。(※う~ん、ゴウド教授のこの警告はつつしんで拝聴し、厳しい現実を直視することに努めるとしても、戦前の「満州ブーム」と昨今の「農業ブーム」とでは、そのレベルも次元も、かなり違いがあるように思えるが…)


【6章】農政改革の空騒ぎ


1.ハイテク農業のウソ、「奇跡のリンゴ」の欺瞞


・いまや、農業が企業の参入によって活性化するというストーリーを、マスコミが描き、マスコミに取り上げてもらいたくて企業が農業を語る、という茶番劇ともいうべき状況だ。
・企業の重役たちがとくに大好きな話題が植物工場。人工光と水耕栽培で農作物を育てるというハイテク農業。…自然光を遮蔽して給餌も完全にコンピュータ制御という「ブロイラー工場」があるが、それの作物版が植物工場。→ 植物工場の見学は、農業に関心を寄せる「意識の高い」財界のリーダーたちの間で大人気という。
・しかし、この類の野菜工場の試行錯誤は、40年前からあったもの。成功している例もあるが失敗例も多い。…いかんせん、植物工場はコストが嵩む。無料で降り注ぐ太陽光を使わずに、わざわざ費用をかけて化石エネルギーを使うのだから、商業ベースにのせるのは難しい。→ 華々しく植物工場をオープンさせ、あっけなく破綻し、残骸をさらして地域の迷惑になっているという例は多い。
ex. オムロンの植物工場の失敗……東京ドームの1.5倍あり、東洋一と言われたガラス温室。1999年に稼働させ、「糖度の高い高品質トマト」をうたったが、わずか3年後に撤退。引き継いだ宮崎県の企業も倒産し、従業員は全員解雇され、トマト35万本が放置された。
ex.「コスモファーム・フロンティア江刺」は、2004年に5億5000万円を投じて植物工場を建設したが、わずか1年半で破綻。…参入時は、大規模な赤色LEDの採用で耳目を集めたが、わずか3206万円で競売に掛けられている。
・植物工場の経営状態に関するある調査によれば、単年度で黒字化しているのは16%にすぎず、初期投資の大きさに見合っている事例は皆無とのこと。…ビジネスに試行錯誤はつきものだが、財界のリーダーたちが植物工場に興じることが、満州夢の国論にも似た危険な臭いがする。(※昨日のテレビで「新しい植物工場稼働!」の報道があったが、大丈夫なのか…?)
・マスコミの植物工場礼賛には唖然とする。ex. コスト問題も克服できて輸出産業になりうる、という日経新聞(2012.3.25)。…ところが、この記事の直前の3月13日に、京都の企業「シーシーエス」が、植物工場の赤字に耐えられず事業の廃止に追い込まれている。日経が、これらの失敗例もわきまえずに記事を掲載しているのであれば、恐ろしい話。
・そもそも、植物工場は化石エネルギー多投入という問題がある。また植物工場内では労働は「商品化」され、技能は否定される。しかも、仮に植物工場がうまくいくならば、設備とマニュアルさえあればどの国でも操業できるから、製造業と同じで日本国内に居つづける理由はない。→ このように、植物工場を日本農業の希望であるかのように賞賛するのは、論理的にも矛盾している。(※「新鮮さ」が勝負という、工業製品と野菜との違いもあるのでは…?)

○「奇跡のリンゴ」の欺瞞

・ハイテク農業の真反対で、粗放農業を褒めそやす傾向もある。…農薬も肥料も撒かず、自然のままに農作物を育てるというもの。粗放農業でよい作物を作れ、お金も儲けられる。…いかにも自然や環境を愛する都市住民に受けそうな話。→ 実際、こうしたストーリーに基づいて書かれた『奇跡のリンゴ』という本は、都市の消費者に評判はよいが、よほど特殊な事情が重ならないかぎり、粗放農業は経営的にペイしない。「奇跡のリンゴ」そのものの成功を否定するわけではないが、そうした成功はまさに「奇跡」のような確率でしか起きないことを肝に銘じるべき。
・地球上の人口が十分に少なく、前近代的な生活様式で構わないというのであれば、天然に自生するものの中から、食べどきのものだけを採取するという「粗放」のスタイルの方がよい。…しかし現実には、70億もの人口があり、しかもその人口が増え続けており、粗放農業を普遍化するのは無理がある。…また、好きなときに好きなものを食べるという習慣がしみついてしまった現代人が、収穫の時期や量が調整できない自然採取を食生活のベースにすることは考え難い。…粗放農業も、ハイテク農業と同様、現状逃避的な夢物語といわざるを得ない。
〔※う~ん、この項は、本書で最も疑義のあるところだった。まず、「奇跡のリンゴ」の木村さん自身が、自分の農法について粗放農業ではなく「自然栽培」と言っていること。また、農業のすべてを「自然栽培」にしろ、と主張しているわけではなく、慣行栽培との併存と言っているのは、「里山資本主義」と既存の資本主義との併存と同じであること。…この二点だけで、ゴウド先生の「奇跡のリンゴ」批判はほとんど意味がなくなってしまう。また耕作技能を重視する点では、ゴウド先生の農業論とほとんど重なっていると思われる。→ 次回以降に木村さんの「自然栽培」についても取り上げるつもりなので、詳細はそこで取り扱う予定。〕


2.「六次産業」という幻想


・ハイテク農業と並んで、企業の重役たちが好きなのが農商工連携。…農産物加工やら農村観光やら農業経営管理サービスやら、商工業者が農業と連携することで新たなビジネス機会が生まれるという発想で、六次産業化(一次産業の農+二次の工業+三次の商業=六)ともいわれる。
・たがそもそも、農業者と商工業者との提携は、今日とは形態の違いはあっても、以前から普通に行われてきた。…今頃になって、企業の重役たちが、農商工連携をやたらと新しがるのは、農業者を昔ながらの進歩のない人たちとみなす驕りを感じる。…また、農商工連携が商工業者の補助金獲得の口実に使われる場合も多いし、商工業が主体となった農商工連携は、農業にとっては不利益になる場合が多々ある。(詳細はP153~154)
・農商工連携の失敗例(P154~155)を、著者がある雑誌記者に紹介したところ、その記者は熱心に取材し、「農商工連携が甘くないことがよくわかった」と著者も感謝された。→ しかし、彼の記事は掲載されなかった。社内での評判が悪かったという。…読者は「農商工連携で地域活性化」という楽しい話を求めているのだから、それにそぐわない真実(※不都合な真実)は報道する必要がないというわけだ。→ 巷には、農商工連携を褒めそやす「識者」がうんざりするほどいる。この記者が著者に接触してきたのも、農商工連携に懐疑的な意見を公言している人が著者以外には見つからなかったからだという。……戦前にナショナリズム的な報道が増えたのは、政府の統制のせいというよりも、マスコミが大衆迎合的な記事を書いて売上げを伸ばそうとしたからだというのが、今日のマスコミ研究者の中ではほぼ定着した見方。→ 今日、農商工連携がやたらと賛美されるのも同じような大衆迎合だろう。昔も、今も、マスコミや「識者」の行動原理は大して変わらないものだ。(※う~ん、このことは、今、様々な分野で見られる根の深いものであり、何度も繰り返し取り上げて、確認・検証すべき〝日本の難点〟だろう…)


3.規制緩和や大規模化では救えない


・「農地取得の既成緩和」は、昨今流行の農業政策提言で必ず出てくる常套句であり、経済学をかじった人間が使ってみたくなる論理。…だが農業は、あくまでも野良という現場で行われるもの。動植物の生理はもちろん、気象・地質、そして行政の実態と地域ごとの特性をふまえなければならない。経済学的アプローチが使いやすいように現実を捻じ曲げて解釈するということはあってはならない。→ 自然科学であれ、社会科学であれ、使い方を間違えれば社会に多大な害悪をもたらす。…原子力という科学への過信が招いた大惨事に直面している今日の日本にあって、すべての学問領域において、真実を正視してきたかどうか自問するべきだ。〔※原発事故は「原子力という科学への過信が招いた」という言い方には、異論もあり得るだろうが、日本の原子力関係の学者・技術者たちが(そして医学・医療の関係者たちが)、真実を正視してこなかった(その多くは今も正視していない)ことは、明らかなのではないか…〕
・こういう「規制緩和」論こそ、患者に聴診器を当てずに、医学書だけで診察しているような論理。…日本の場合は、農地行政が崩壊していることもあって、農地法の規制は有名無実。いくらでもこれらの規制は尻抜けできる。→ このため、産廃業者や不動産屋などがダミー農業生産法人を仕立てるというケースが後をたたない。中には、農外転用目的で農地取得を狙っている業者が、農地行政の運用体制の不備につけこんで、転用したり、耕作放棄したりしている。(詳細はP157~158)
・経済学でいう「競争」と「無秩序」はまったく意味が違う。…「競争」とは、価格のみをシグナルとして需給調整が行われる状態。→ その場合、詐欺や債務不履行をしないとか、ルールが明確に守られていることが大前提で、市場に参加する者を「規制緩和」によって増やせば、経済の効率は高まる。これが「競争」の本来の意味。←→ これに対し、ルールが不明確な状態は無秩序。→ 無秩序状態で市場に参加する者を「規制緩和」で増やせば、詐欺師や破産寸前の者が取引に参加することを誘発し、経済の効率はむしろ悪化する。
・現下の農地利用は、不適切な転用や耕作放棄にも歯止めがかからない「無秩序」の状態。…真面目に農業に打ち込もうとする者が馬鹿をみるという状態。→ この状態で「規制緩和」をしても、非営農目的での農地取得を助長するだけ。
・「大規模化」も、昨今の農政提言でみられる常套句。…日本農業の規模が過小だとして、大規模化すれば農業の競争力が高まるという主張。…だが、仮に規模が過小だとすれば、それは農地について「競争」が成立していないことを意味。「競争」が成立していない状態で、規模を大きくしたところで、競争力が高まるという保証はない。(※う~ん、分かりにくいが、農地行政がきちんと運用され、農地の「競争」が成立していれば、無理やり「大規模化」しなくても、自然に適正規模になる、ということ…?)
・一党独裁政権下で強引に大規模営農化している某国がある(※中国?北朝鮮?)。この某国は、農業が強化されるどころか慢性的な食料不足。…真面目に農業に打ち込む環境になければ、規模という外形にこだわっても無意味なのはこの例からも明らか。
・日本の場合、既述のように、農地行政の運用体制の不備のために農地利用のルールが骨抜き状態になっており、このことが「競争」を阻んでいる。→ 農地利用の骨抜き化をいかにして防ぐかを具体的に議論することなく、大規模化を提唱しても、無意味だし無責任。
・そもそも、規模にこだわるという発想自体が、現実離れしている。…現在の農業では普通に行われている(田植え、稲刈り、耕起などの)農作業の委託や受託(実質的には農地の貸借と同じだし、それには農地法の規制がかからない)をどう扱うかで、「耕地面積」は変わってくる(つまり、そもそも「耕地面積」自体が曖昧)。
・また、事実上は別々に経営をしている農家が、書類上だけ合併して、大規模経営を装うこともできる。…実際、小泉・安倍政権下で、大規模営農に農業補助金を集中させようとした際、補助金獲得を狙ってこのような「名ばかり大規模営農」が設立される動きもあった。(※今の日本には「名ばかり○○」が多過ぎる…!)
・マスコミや「識者」は、大規模化すれば装置や機械の運転効率が上がるという論調を好む。…しかし、(3章で記述のように)商工業の場合とは異なり、装置や機械への依存は農業の収益向上をもたらすとは限らない。しかも、日本のように平地が狭く、農地のあちこちで道路や河川や諸々の建物と交錯するところでは、大規模化が装置や機械の運転効率をどれほど上げるかも疑問だ。


4.JAバッシングのカン違い


・昨今、JAが官僚や族議員と癒着して既得権益の擁護に汲々としている、というJAバッシングが流行っている。…日本農業の諸悪の根源をJAに押しつける見方だ。
・確かに1990年代前半までは、「農政トライアングル」は、そこそこに説得力があった。JAの票田としての結束力も強かったし、食糧管理法などでJAの地位は保護されていた。…このような状況下で、JAが悪平等的に農家を「どんぐりの背比べ」状態に押し込み、革新的な農家の出現を阻んだ側面はあった。
・しかし、1995年に食糧管理法が廃止され、JAによる流通支配も大きく後退し、収益源であった金融事業も不振が続いている。→ いまや、JAはいつ経営破綻しても不思議でない状態。…経営基盤がこれだけ脆弱では、組合員農家を組織化できるはずがない。…選挙制度の変更の影響も加わり、票田としてのJAの弱体化は、2000年代に入って以降、とくに著しい。(※そうだったのか…驕れるもの久しからず…詳細はP161~166)
・かつてはJAの組織力が強大すぎて、日本農業の活力を殺いでいたが、皮肉なことに、いまやJAの弱体化が農地利用の無秩序化などをもたらし、農業崩壊の加速要因になっている。→ 自分勝手な土地利用や水の利用が拡がり、耕作に専念しようとする者の足を引っ張っている。また、(1章で述べたように)JAの行政補助機能の低下により、補助金の不正受給がチェックできなくなっている可能性もある。
・もちろん、経済団体に過ぎないJAに、秩序維持や行政補助の機能を期待すること自体に無理があった。→ 本来ならば農業行政の体制を立て直して、JAがなくても農村の秩序が維持される状態にするべき。…それを論じずに、単にJAの悪い部分を批判するだけなら、無責任な放談にすぎない。(※これはある意味で、原発事故における「東電たたき」にも言えることか…? 国の原子力行政の責任は、未だにほとんど問われていないようだし…)


5.JAの真の病巣


・安易なJAバッシングに対して警鐘を鳴らしたが、それはJAが正当だということを意味しない。マスコミや「識者」が取り上げたがらない部分にJAの最も深刻な矛盾がある。それは、JAの組合員資格に関する疑念。
・農協法の員外利用率規制(原則として、JAの非組合員の事業利用髙は組合員のそれの1/4未満でなければならない)が、多くのJAの事業(金融事業やスーパーなど生活関連事業)で違反状態になっている。
・JAの組合員の定義自体が曖昧で、正・准を含めた組合員戸数は農家戸数の3倍以上という異常事態。…員外利用率規制を逃れるためには、非農家を准組合員にすればよいから。
・実は、多くのJAは、農業共同利用施設で大赤字を出している。…この共同利用施設の主たる利用者は、サラリーマンなどの安定的な農外収入を得ながら、週末のみに零細農業を営む兼業農家。→ 共同利用施設のサービスを採算性を無視した出血料金で提供することによって、JAの収益を巧妙に兼業農家に重点的に配分している。
・このように、現下のJAは農業者の組織なのかどうなのか、曖昧模糊としている。しかも、JAの歪みは、今後、ますます増大するだろう。…このような状態は、農業にとっても地域経済にとっても、不健全だ。→ JAは、農業者の組織だというなら、非営農事業を切り離し、営農事業に専念するべき。そうでないなら、准組合員に正組合員資格と同等の権利を与えるべき。…いずれにせよ、組合員資格の問題を曖昧にしたまま、現在のJAを農業者の組織として社会的に容認するべきではない。
・JAに特権的に金融事業と非金融事業の兼営が認められていることも、見直されなければならない。→ いまや、住宅資金貸付(多くはアパートの建設運営資金)が主力になるなど、JAの金融事業は非営農関連が大きくなっている。…通常の銀行や保険会社には金融以外の兼営が認められていないのに、JAだけを特別待遇する意味があるだろうか。
・JAの資金運用能力には疑問がある(詳細はP171~172)。…これほどの金融機関(預金残高でみずほグループを上回る)がもしも破綻すれば、一国の金融システム全体に悪影響を与えかねない。→ JAから金融事業を分離して、信金化するか、あるいは市中銀行に売却するべき。それこそが、金融界のためにも農業界のためにも利益だ。
・JAの組合員資格や金融事業の分離について、マスコミや「識者」は話題にしたがらない。…組合員資格の問題を論じれば、農地の所有者・耕作者の確定(※これが日本はデタラメらしい)という面倒くさい作業が不可欠になる。…金融事業の分離も、日本の金融市場の再編を論じなければならなくなる。大切な議論だが、論じて楽しい話題ではない。→ 大衆迎合的なマスコミや「識者」ならば、そういう話題は避けるだろう。(※最近、ようやく政府自民党も、「農協改革」をやろうとしているようだが、果たしてその行く末は…?)


6.農水省、JA、財界の予定調和


・(表向きの顔と違って)いまや財界は農水省とJAの応援団。…国際志向の強い企業は製造拠点の海外移転を進めるなど、すでに「日本離れ」をしていて、貿易問題も含めて日本政府の動向への注視力も薄らいでいる。→ 結果的に財界の政治運動でも、内需頼みの国際志向の弱い企業の影響力が強まる。
・そういう内需頼みの企業は、農商工連携などで、農家やJAとの連携を図っている。→ いまや、農業界と商工界は、地域の雇用を守る「善良な弱者」を自称して政府に保護を求めるという点で、「同じ穴の貉」と化しつつある。(※変わらぬ〝依存体質〟…)
・国内農業政策の提案は驚くほど類似している。…経団連もJAも大規模営農を礼賛し、大規模化で赤字が出る場合は補助金で補填することを提案。…昨今、企業(とくに土建会社)やJAが、機械や装置に頼ったマニュアル依存型大規模農業を手がけているが、それが総じて技能不足の赤字経営。→ その赤字を政府に財政負担で補填させようとしている。…政府も、それに即した国内農業政策の方針を表明。…つまり、政府と経団連とJAが予定調和的に、企業やJAによる脆弱なマニュアル依存型農業へと補助金を誘導しているのだ。(※なるほど、そういう構造か…。〝食料自給〟のために植物工場に補助金を! とか…)


7.農業保護派の不正直


・農産物輸入障壁や農業補助金を求める「農業保護派」は、JAはもちろん、消費者団体や「識者」の中にも多々見受けられる。…彼らが農業保護を求める根拠は、食料安全保障や環境保護などの「多面的機能」だ。
・かりに農業に多面的機能があるなら、違法脱法の農地転用など、不適切な農地利用は断じて許し難い行為のはず。また、農地基本台帳の整備は、違法脱法の農地転用を防止する効果もあるし、農業補助金の支給を円滑化するから、「農業保護派」から圧倒的な支持があってよいはず。←→ ところが、「農業保護派」は総じて、農地基本台帳の不備や転用規制の有名無実化という重大問題に関しては論及を避けている。…おそらく、「農業保護派」の関心は「農業」ではなく、「農家」を弱者に仕立て、その「農家」の保護を訴えることで、自分を「善人」に仕立てたいだけではないか。〔※う~ん、ちょっと言い過ぎなのでは…。具体的な情報不足(勉強不足)という要素の方が大きいのでは…〕
・繰り返すが、農家の平均所得は同世代の非農家を上回る。農家は、農地のほか自宅などの不動産を所有している場合が多い。→ (都市住民と同様)公的扶助を必要とする農家もいるが、「農家はかわいそう」とひとくくりにしてしまえば、相対的に恵まれた農家をさらに助けるだけになりかねない。(※何事も、きちっと現実・実態を注視せよ、ということか…)


8.TPP論争の空騒ぎ


・TPP論争のいくつかの特徴
①貿易自由化論者の中に、国際分業の利益を論拠にする意見が、ほとんどみられない。(国際分業の利益…各国が得意な産業に特化して、国内生産と国内消費のギャップを輸出入で埋めるようにすれば、世界全体の経済活動が効率的となって、すべての国が恩恵を受ける、という経済学の古典的な考え方。)→ 昨今は、新興国の攻勢の前に日本企業は競争力を喪失しつつあり、単純に国際分業の利益を唱えれば、自らの首をしめかねないという危惧があるからだろう。(※つまり、国際的に打って出られる「得意な産業」がなくなってきている…)
②財界とJAが対立ではなく、予定調和している。→ 農商工連携や大規模営農という国内改革で、補助金を政府に求めている点で共通している。(※これは日本農業の衰退の道…)
③国産農産物を美化し、農産物貿易自由化反対を訴えることで、都市住民票を得ようという政治的な動きがみられること。(詳細はP179~180)
④日本農業の具体的懸念の議論を避け、貿易自由化の是非という理念論に逃げ込んだこと。…いうまでもなく、目下の日本農業の最大の具体的関心事項は放射能汚染問題。→ (4章で述べたように)この問題は根深く解決策は見つからない。…しかしTPPを論議するとき、放射能汚染問題はとりあえず話題の外に置かれがち。
・根本的な問題として、今の日本には貿易交渉の場で交渉カードがない。→ 国際政治でも国際経済でも影の薄い国には、貿易交渉の場でも影響力がないのは当たり前。…この意味でも、TPP論争には不毛さを感じる。


9.日本に交渉力がない本当の理由


・目下、WTO(世界貿易機関)は、農業補助金について、新たなルール作りを提唱(増産効果の強い補助金を減らそうという方針)。←→ ところが、ここ数年、日本はわざわざ、この方針とは真逆で、増産効果の大きい補助金を増やし続けている。…このままでは、今後の国際農業交渉でさらなる窮地に陥りかねない。
・そもそも、なぜWTOが増産効果の強い補助金を削減しようとしているのか。…伝統的に
先進国では農業者の政治力が強い。…米国も欧州も多額の農業補助金によって農業者の所得を守ってきた。→ この補助金が穀物の増産を招き、90年代には欧米とも深刻な穀物の過剰在庫を抱え込んだ(※世界は〝食料不足〟ではなかったのか…?)
・穀物は貯蔵費用がかさむから、過剰在庫は早急に処分しなければならない。→ かくして、欧米とも輸出補助金を手当てして、途上国へ輸出する穀物のダンピングを始めた。…これは、農業保護の財政的余裕がない途上国の穀物生産にとって大打撃だった。…しかも、さらなる穀物相場の低迷を恐れ、途上国を対象とした農業研究を抑制すべく、先進国は国際的な研究資金援助も削減した。(※う~ん、かなり露骨な自国利益優先か…)
・また、90年代は先進国の金融機関が世界銀行とともに、途上国に債務返済を迫った時期でもある。→ 途上国には、自給的な穀物を生産する代わりに、コーヒーなどの外貨を稼げる商品作物を生産するよう、間接的な圧力が加えられた。…つまり、飢えを回避する能力をつけるのではなく、手っ取り早く金を稼げ(※そして借金を返せ)と先進国は途上国に強要したのだ(※こうなると先進国エゴか…)。
・つまり、90年代、欧米は多大な農業補助金の注入によって食料自給率を高めたが、それは同時に、途上国の穀物生産を犠牲にする行為でもあった。→ こうしたことへの反省から、95年発効のWTO協定は、先進国に増産効果の強い農業補助金の削減を義務づけた(※なるほど、そういうことか…)。→ しかし、ここには抜け穴があった。バイオエタノールへの補助金は、WTO協定の外にあったのだ(※食料じゃないから…?)。…いうまでもなくバイオエタノールの原料はトウモロコシなどの穀物。→ これに目を付けた欧米が、2000年代に入って、積極的にバイオエタノール製造工場に補助金を投入した。→ これによって、食料とは別の需要が生まれ、穀物の価格は吊り上げられた。
・そこに穀物の輸出大国であるオーストラリアやウクライナの大旱魃が重なって発生したのが、2007年と2008年の穀物価格高騰。…(英国のガーディアン誌によると)世界銀行は、この時の穀物価格上昇の75%がバイオエタノールの増産に起因するという推計結果を得たが、その公表を政治的理由で差し控えたという。…バイオエタノール増産の圧倒的部分を占めるのは欧米。欧米は自分達の非を認めたくないという理由で、この75%という推計の存在を公にしようとしなかった、という説が有力。(※う~ん、欧米の〝民主主義〟も、この程度か…)
・もっとも、高騰したといっても、実質価格は80年代の平均水準付近に戻っただけだから、少なくとも先進国にとっては大きな打撃ではなかった(そもそも食費への支出割合は低い)。しかし、所得水準が低い途上国の庶民にとっては、穀物価格の上昇は生活費に甚大な影響を与え、社会的騒乱の引き金になる。
・途上国にしてみれば、先進国のおかげで90年代には穀物生産の基盤を壊され、2000年代は先進国発の穀物価格高騰に翻弄されたことになる。…昨今、先進国が途上国向けの穀物援助を言い出しているが、過去の政策への反省がなければ、人道主義を騙った偽善といわざるをえない。→ そもそも過去にも援助の名目で先進国が余剰穀物を途上国に送り、途上国農業がますます疲弊したケースが何度もあったことも反省しなければならない。〔※多国籍バイオ企業が、GM種子(1代種)と、それに適応させた農薬とのセット販売で、途上国の農業を支配している、という話もあったのではないか? この件も、また機会があれば取り上げたい。〕
・世界の飢餓対策を真剣に考えるのであれば、途上国の農業強化こそが必要なはず。→ 途上国で環境保全的に良質な農産物を作るための研究・普及活動を支援したり、そういう農産物の販路を確保したりすることこそが、先進国に求められる。
・日本は、前記の穀物ダンピングには加わっていないので、欧米よりは罪は軽いかもしれない。→ しかし、高関税によって途上国からの農産物輸入に消極的だという点については、しばしば国際機関から批判されている。…また、日本も90年代に国際研究機関への拠出を減らしており、欧米と同罪だ。(※途上国からの農産物輸入は、「環境保全的に良質な農産物を作る」農業の普及と、セットであるべきだろう…)
・2007年以降、民主党と自民党による農業者へのバラマキ合戦(※選挙対策!)の中で、増産効果の強い農業補助金を増やし続けることになった。ex. 戸別所得補償…おおむね作付面積や生産量に応じて補助金が支給されるため、農業者の増産意欲を高める。
・ここまでに見た流れを反省してWTOは、増産効果の強い補助金をOTDS(貿易歪曲的国内支持全体)として識別し、WTO加盟の各国ごとにOTDSの削減目標を設定するよう求めている。…このOTDS削減は、関税削減、輸出補助金削減と並ぶ、農業交渉の三本柱。→ ところが日本政府は、日本のOTDSを2008年時点までしか公表していない。…著者たちの推計によれば、その後は増加基調(詳細はP186)。→ このままでは、OTDS削減という国際的な潮流から日本はますます乖離することになり、国際交渉での発言力をますます失いかねない。(※う~ん、農業問題は複雑で難しい…)
・先進国は飽食のきわみにある。→ その先進国が、将来や緊急時の食料不足の心配におびえて自国だけの食料確保に走るのは、途上国の食料・農業事情を無視する行為であり、先進国エゴと言わざるを得ない。(※う~ん、これまでの論の流れでは、妥当な「正論」と言わざるを得ないが、ただ、ある程度までは「食料安保」的な自国産農産物の確保も必要なのではないか…)
・他方、アフリカなどの貧しい人々は、今回の穀物価格急騰のはるか以前から、慢性的な飢えに悩んでいる。…肥満人口が飢餓人口を上回っているという事実が端的に示すように、世界全体では食料の絶対量は足りている(※う~ん、絶対量は足りているのか…。ただ、アメリカなどでは、貧困層がジャンクフードによって肥満になっている、とも言われているが…)。 → しかし、先進国の圧倒的な経済力の前に、途上国はあっけなく〝買い負け〟してしまう。…1人当たり所得が数万ドルという先進国の人々なら簡単に出せる金額でも、1人当たり所得が数百ドルという途上国の人々には、大金になる。(※以上はあくまで平均値での論だが、これに最近は先進国でも〝格差拡大〟の問題も加わり、事態はより複雑化しているのでは…)
・世界の飢餓人口は、2008年後半以降に急増…この時期、世界的には穀物は豊作だったにもかかわらず、なぜ飢餓人口が増えたのか。→ それは同年のリーマンショックによる世界不況で、途上国の貧困層の収入が減ったため。…飢餓が食料の絶対量の問題ではなく、経済力の問題だということを端的に示している。(※う~ん、将来の人口増加によって、人類は深刻な食料不足に直面する…という警告が、つい最近も報じられていたが…。日本ぐらいの人口減少がちょうどいいらしい…? → 様々な論や提言に対する、分析・検証が常に必要ということか…)
・われわれ先進国は、国際的な所得格差に対して総じて鈍感になりがちだ。…新興工業国のような例外はあるものの、世界全体では、先進国(欧米+日本)とその他の国々との所得格差は、戦後一貫して広がっている。→ 先進国の人口は世界人口の20%にも満たない。その先進国の人々だけが教育機会や社会保険などの様々な恩恵に浴し、途上国の人々には不遇を押しつけるというのが合理化できるはずがない。しかも、交通通信の発達により、途上国の人々も、先進国の生活にごく間近で触れている。→ 途上国の国民が、先進国への怨嗟の情を抱くとしても不思議はない。(※このことに加えて、先進国の内部でも〝格差〟が広がりつつあり、〝社会への怨嗟の情〟は膨らみつつあるのではないか…)
・近年、先進国を標的とした国際テロが頻発しているが、その背後にはこのような怨嗟があることを忘れてはならない。(※同様に、最近の〝テロ的な犯罪行為〟の中には、先進国の住民によるものも増えているように思われるが、同様の背景による〝怨嗟〟なのではないか…?)
・この怨嗟を直視し、是正策を本気で考えなくてはならない時期に来ている。資金や技術の国際支援が無効だとは言わないが、途上国産品の優先的買い上げや、計画的な経済難民受け入れなど、大胆な手段に訴えなければ、おそらく格差の是正策にはならないだろう。…そういう格差是正策は、先進国の人々にとって当面の負担を強いるものだが、長期的視点に立てば、先進国自らが途上国の飢餓や貧困の削減のために、当面の利益を喪失することを甘受するべき。(※と同時に、先進国内部の〝格差是正策〟も必要だろう…)
・しかしながら、先進国の人々の圧倒的多数は「自分たちだって食料確保が万全ではないのだから」と言い訳をして、先進国内の話題に没頭しているほうが、少なくとも当面は居心地がよい。…その点で、現在、大流行の「食料危機が来る」だの「食料自給率向上をめざせ」だのというまやかしの「通説」は、耳に心地よく響く。…政治家とか「識者」とかは、そういう圧倒的多数派の心理をくすぐるのに長けている。かくして、彼らによって、まやかしの「通説」が盛り上がることになる。(※う~ん、「食料危機」とか「食料自給率の向上」というのは、本当にまやかしの「通説」と決めつけていいのだろうか…? 当方に、何か確たる論拠があるわけではないが、ゴウド教授のこの部分の論にも、まだ納得しかねるものが残ってしまうが…。それと、ゴウド先生には、「先進国内の格差」に対する言及が、ほとんどないようだが…)



【7章】技能は甦るか


1.「土作り名人」の模索


・Kさんは「土作り名人」と呼ばれる60歳の名人農家。K名人の主な仕事は全国行脚の栽培指導。ただし、指導料は取らない(足代と食事代だけ)。…指導に際して、農地だけではなく、集落全体の水流、地形、風向き、文化などを鋭く観察する。集落の人間関係や農業者の家族関係まで考慮する(人間関係や家族関係も、農作物の生育状態に現れる)。
・K名人は中学卒業後、主に電気関係の仕事をしていたが、20歳代半ばに郷里に戻り、農業を始めた。…最初は、農業は学問がなくてもできるものだと高をくくっていた。ところが、ある農業講習会に出かけて、ショックを受ける。講師が、化学や生物学の知識をまじえて、「土作り」の概念を説く。→ K名人は、その講師に惹かれ、その勉強会に頻繁に出て、黒板消しの役割を買って出る。黒板を消しながら、内容を暗記するのだ。
・K名人は中学しか出ていないから化学・生物学の知識が不足していた。それを補うために、K名人は独学を決意する。…K名人は照れ屋で自分の猛勉強を他人に知られたくないので、過去の勉強の痕跡が残るノート類をすべて廃棄した(つもりだった)。→ それらの一部を奥さんがこっそり残しておいてくれて、回り回って、いま著者の手元にある。その手垢にまみれた教材とノートに、若き日のK名人の猛勉強を感じる。(※リンゴの木村さんのエピソードとも似たものを感じる…)
・K名人の自慢は、自家製の堆肥。床(とこ)の角度や空気孔の位置など、細部にわたって工夫がされている。切り返しも自身がするし、入念に管理して、自分の農地に投入するのはもちろん、近隣でK名人に師事している農業者にも分けられる。…K名人が栽培指導をする動機は、自身が新規就農者として苦労したので、他の人の努力を助けたいという気持ちが強いから。また、現下の農業者を見ていて、耕作技能の低下を憂いているから。
・K名人は、化学肥料や農薬に頼った慣行栽培が嫌いだが、かといって、有機栽培の認証(JAS規格)には固執しない。要はよい作物を育てればよいのであって、認証自体が目的化してはならない、という発想。…尿素系の肥料を使えば有機栽培の認証が取れないといった、有機栽培認証の非合理性もK名人には気に入らない。
・残念ながら、K名人に師事する農家は少数派で、年配層が多い。→ K名人の指示に従えば、確かに品質も良くなり気象変動への抵抗力も強くなる。…しかし、少々品質が良くなっても、いまの消費者は舌が愚鈍だから評価してもらえる保証はない。また、異常気象への対策を強めるよりも、異常気象がきたときは皆と一緒に被害を受けて、政府に救済を求めるほうがラクだ。
・厄介なのは、親がマニュアル依存型農業をしている場合。→ 後継者は、親の様子を見ていて、耕作技能を磨くことへの関心が薄れている。…農産物はマニュアル依存で作るものであり、あとは補助金の獲得や宣伝・演出で儲けようという安易な発想が染みついている。
・K名人に師事する農業者は親が農家でない場合が多い。…北海道のタマネギ名人のNさんもその一人で、散髪屋から一念発起して就農した。→ ただし就農当初のNさんは、農薬や肥料を使う慣行栽培で、規模拡大志向が強く、地域で随一の大規模タマネギ農家になった。→ ところが、規模拡大は機械の稼働率は上げたが、作物の管理がおろそかになり、費用に比べて売上が伸びなくなった。ついには、破産の一歩手前という状態に陥った。
・Nさんは、タマネギ作りを根本から見直すことにし、K名人に師事することになった。→ 出費を減らし、手間ひまをかけて良いものを作るというK名人のやり方ならば、経営を建て直し、借金も返せるとNさんは考えた。
・最初の3年は、作物の出来も非常に悪く、まだ従来の慣行栽培の方が収益があがる状態だった。…まだ技能が足りなかったし、慣行栽培のときの化学肥料や農薬の多投で、Nさんの農地がバランスを失っていたから。ちょうどアルコール中毒状態からアルコールを抜こうとして、禁断症状があらわれるように、Nさんも、最初の数年間は、もがいていたのだ。(※これは、〝誰もが通る道〟らしい…)
・5年目あたりからようやく慣行栽培のときなみの収穫ができるようになり、10年たって、すっかり、その地域で一番といわれるほどのタマネギを作るようになった(※木村さんのリンゴも、確か10年ぐらいだった…)。…Nさんのタマネギは、おいしくて日持ちがよい。皮をむいて涙が出ない。健康的に育っているから細胞壁がしっかりしているのだ。硝酸由来の「えぐみ」がないからたくさん食べられる。→ Nさんのタマネギは近隣農家の2倍の値段がつく。農地面積も15ヘクタールまで減らした。
・K名人は、日本のみならず、韓国・中国にも出かける。中国での農業指導に対して、温家宝首相から直々に感謝を受けたこともあるという。
・K名人の人生航路は、技能集約型農業の実践例としても参考になる。…青少年期は農業自体には従事していなくてもよいから、自然環境の中でわんぱくに遊び、自然の摂理を体得する感覚を養う。→ 農業以外の世界も覗いた上で、農業に従事する。生物化学などの基礎勉強を積む。→ 柱になる作物を決めてそれで経営を安定させつつ、いろいろな作物に挑戦し、経験を積む。→ 高齢となり、体が動きにくくなったら指導者として各地を回る。(※これはまさに、リンゴの木村さんの人生航路でもある…)
・こういう人生航路を歩む人材が増えれば、技能も高まり、将来世代に対して大きな財産になる。…しかし残念だが、こうした人材はなかなか見つからない。もしかするとK名人のような「人種」は日本社会から絶滅するかもしれない。(K名人や著者が期待している、兵庫に農業IターンしたFさんの事例…P199~202)


2.残された選択肢


〔※この項はこれまでの内容の確認的な記述が多いので、それらの部分はなるべく割愛し、要点のみの紹介とした。〕
・本書では、崩壊の危機にある日本の耕作技能をいかに救済し、技能の継承・発展へとつなげるかが、農業政策の最大の眼目である、と指摘してきた。そして、①農地利用の無秩序化(「川上問題」)、②消費者の舌の愚鈍化(「川下問題」)、③放射能汚染問題…この三つが、農業者が技能を磨こうとするのを邪魔していることをみてきた。→ これら三つを除去するための工夫こそが、技能集約型農業を育む政策である。
①の「川上問題」については要点は、土地利用計画の明確化。……理念論として、土地利用計画の明確化が必要なことに反対する人はいまい。←→ ところが、いざ自分の土地の利用について制約が課せられると、「個人の土地をどう使おうと個人の勝手」というわがままが吹き荒れる(※典型的な「総論賛成、各論反対」…)。→ この結果、建築基準法違反の常態化にみられるように、農地・非農地を問わず、土地利用は無秩序化している。
・農地利用に秩序を求めなければならないが、そのためには非農家にも土地利用の秩序を求めなければならない。また、農薬の飛散による住民の健康被害、住宅の生活光による作物の生育障害など、農家と非農家のトラブルが絶えないだけに、両者の利害調整もしなければならない。…このように、農地の問題を非農家が「ヒトゴト」と考えている限りは、「川上問題」は解決しない。
・そもそも土地利用のように私益と公益が競合し、しかも地域密着型の問題は、単純な市場経済の競争原理は機能しない。計画的な土地利用が好ましいことは万人が認めるが、たとえば商業地の設定ひとつを考えても、閑静な住環境を求めて抑制するか、街の賑わいや利便性を求めて拡大するかは、個人によって価値観が異なる。
・日本社会では、土地利用については所有者の自由が認められるという私有財産権の曲解や、私権の主張と民主主義の混同が蔓延している。←→ しかし、欧米先進国では、土地利用については所有者の自由が制約されることは常識。…また、個人間で価値観が対立するような地域密着型の問題については、市民自身が討論をもとに解決策を探るという参加民主主義があってこそ、本来の民主主義だ。
・米国では、市民自身が土地利用計画の策定と運用の義務を負うことで、この問題に対処してきた。…市庁舎に夕方から夜にかけて集合して、侃々諤々の議論を重ねて、道路を拡幅すべきかどうかとか、建物の高さや色調など、様々な土地利用のルールを決めてきた。→ 時間はかかるが、市民自身が決めることにより、遵守への意識が高まる。〔※先日テレビで、香川県高松市(?)での商店街復興の成功例を紹介していた。まさに、商店街の店主たち自身が、毎晩のように侃々諤々の議論を重ねて、土地の所有者の自由をある程度制約する形で(商店街全体で60数年の期限付借地権を設定し、土地の所有と利用を分離)、土地利用計画を策定し、運用してきた、とのこと。ちなみに、衰退して〝シャッター通り化〟する商店街は、こうした取り組みに失敗して(あるいはもともとやらないで)、「不在地主」ばかりになった商店街、とのことだった。〕
・土地利用計画の策定は、将来の街づくりを構想することでもある。逆にいうと、無秩序な土地利用をすれば、その不利益は長期にわたる。…それは、四半世紀前のバブル時代の乱開発のツケにいまだに悩んでいることからも明らか。→ 将来世代の利益を保護するためにも、土地利用計画の明確化が必要。
・日本でも農家・非農家を問わず市民自身が、地域の土地利用計画の策定・運用に参画することが求められる(※いま東北の被災地でも、この課題がシビアに試されている…)。―→ このような参加民主主義の導入のために、少なくとも、下記の三点が求められる。
(1) 平成検地
・真っ先になすべきは、「農地基本台帳」を徹頭徹尾見直して、どこにどんな農地があるのか、所有者は誰で、耕作者は誰なのか、徹底的に洗い出すこと。(1章で説明したように)台帳は農地なのに、実態は宅地や駐車場になっているケースは珍しくない。→ これだけ杜撰な現状把握では、そもそも政策設計の議論さえ始められない。
・いまはGIS(地理情報システム)も発達しているから、技術的には平成検地は難しいことではない。→ 平成検地の最大の障壁は、個々の農地所有者からの猛烈な反発。…すでに違法転用してしまった農家や、相続税が不当に軽課だった農家、また、これから転用を期待している農家…そういう後ろ暗い農家は、平成検地に猛反発し、「俺の土地を俺が勝手に使ってどこが悪い」と開き直ることも考えられる。
・平成検地のためには、都市部に住む一般市民の協力も不可欠。(1章で指摘したように)土地利用の無秩序化は、都市部も同じだから。→ 日本の国土を、これからは自分勝手に使うのではなく、計画的に有効利用していくためには、不可欠なこと。
(2) 徹底した情報公開
・農地基本台帳の情報をはじめ、どこでどういう転用計画が持ち上がっているかとか、いつどういう理由で転用を許可したかなど、土地利用に関わる情報を、克明に情報公開するべき。→ それが違法行為や脱法行為の抑止効果を持つから。…(具体例)「分家名目で農地を転用 → 家を建てて第三者に売却」、「台帳上は農地のまま → 駐車場に」、「不動産業者の入れ知恵で、ニセの診断書を提出し、生産緑地の転用許可を得て、アパートを建設」…(詳細はP208~210)
・こうした事例に対して、「徹底した情報公開」は抑止効果を期待できる。←→ しかし、こうした情報公開に、行政はひどく消極的。…市民があえて役所に情報開示請求を行わない限り、行政が公開することは稀だ。(※日本は、「情報公開」に関しては途上国並みか…)
・もしも情報公開が積極的に行われていれば、行政も農地所有者も不動産業者も慎重に行動せざるを得なくなる。→ 恣意的な重病認定も行われなかっただろうし、違法行為も抑止できただろう。…また市民も、生産緑地という制度がよいものかどうかや、さらには地域の土地利用はいかにあるべきかについて、より真剣かつ具体的に考えるようになろう。
(3) 人から土地への大転換
・従来から農業政策では、「どういう人(ないし企業)が農業にふさわしいか」に議論が集中しがちだったが、そういう発想を根本的に改め、「どういう土地利用がふさわしいか」を農業政策設計の中心に据えるべき。…補助金支給であれ農地利用規制であれ、「ふさわしい人(ないし企業)ではなく、「ふさわしい土地利用」を指定する。→ 「人から土地へ」と称すべき農業政策の考え方の大転換。…どの職業でも、一見すると、単なる変わり者と思われていた人が、新たなビジネスモデルを生み出すということがある。→ 行政や「識者」には革新者を見抜く能力はないと考えるべき。
・本書で提唱するのは、徹底した農地の利用規定を作成し、その利用規定さえ守っていれば、誰が農地を使っても自由にする、というもの(利用規定の例はP212)。→ そうすれば、より高い小作料ないしより高い地価を提示できる農家が耕作することになる。…これこそが市場経済における競争メカニズム。→ 地力収奪や周辺の農業に悪影響がでないように農地利用のルールを先立って決めてあるのだから、そのルールを守っているのであれば、何をやってもそれは本人の発意として尊重するべき。→ そういう自由な発意の中から革新が生まれる。
・以上のような参加民主主義の体制を整備した上で、日本全体の農地面積を計画的に減らすことも真剣に考えるべき(※う~ん、減らすのか…)。…現在は、条件の悪い農地にも無理やり公共事業を投入する傾向がある(条件が悪すぎて山に戻したほうがよいような耕作放棄地を農地に戻すための公共事業や、ほとんど利用されていない農業用水路の改修など)。→ 戦後の食料難時代に無理やり切り拓いた山間地の農地は、植林をして山に戻すほうが環境にもよい。…農地は耕作技能の修練の場と位置づけ、守るべき農地に限定的に最高級の灌漑水設備を導入するべき。(※う~ん、説得力あり…)
・蚕食的な農地転用を防ぐため、先手を打って、農地を計画的に農外に放出した方がよい。→ 国内農業の生産量は減るだろうが、それは農産物価格水準の引き上げになり、耕作意欲を増進させるだろう。(※日本の農産物はすでに割高なのでは…? 庶民は安い輸入農産物…?)
・農地を計画的に農外転用するためには、毎年どれくらいの農地面積を放出するかなど、いろいろ工夫が必要。その一つとして、転用権の入札構想が有用だろう。(詳細はP214)


3.消費者はどうあるべきか


・(ニュージーランドで対日食料品輸出を手がけてきた業者の意見)…「以前は品質への関心が強かったのに、今の日本は価格の引き下げ要求ばかりだ」、「日本の残留農薬、残留ホルモンやサステナビリティー(農場や食品工場などで省エネや自然環境に負荷が少ない生産方式を採用すること)への関心は低い」。(※確かに〝低価格〟ばかり追求すると、そうなるか…)
・日本の消費者は、自分たちは食料品の安全性や品質に敏感な国民だと思い込んでいる傾向がある。農業ブームはそういう「思い込み」を助長…。日本人は大した根拠もないのに、自分たちは品質や安全性を重視しており、自国産のものが世界で最高だと思い込むという悪い習性がある。…長らく日本を上客にしてきたニュージーランドの業者の声は傾聴するべき。→ 事実、彼らは日本の要求に応じて、対日輸出は品質よりも価格重視に切り替えているのだ。(※う~ん、ある程度の説得力あり…。ただ、日本の庶民層の〝余裕のなさ〟の現われでは…?)
・本書では、食生活の乱れや保存料の多用で(とくに発がん性の高い保存料は味にも影響を与えるので調味料の多用も招く)、消費者の味覚が壊れている可能性を指摘した。…そして、「有機栽培」などの「能書き」や顔写真などの宣伝・演出に頼るようになる風潮を、「川上問題」として紹介した。→ この結果、環境破壊的で品質も悪い農産物が、宣伝と演出次第で良質のものと評価され、高値で売れたりする。…このような状況では、農業者は技能を磨くのが馬鹿馬鹿しくなる。
・本来、人間の舌にはよしあしを判定する能力がある。ところが、孤食化など食生活の乱れにより、その能力が退化している。→ いかにして、本来の能力を回復させるかが、「川下問題」の解決の主眼となる。…「川下問題」の解決は、耕作技能の再生のみならず、消費者の健康増進のためにも必要。
・本来の舌の能力を回復できるかどうかは、第一義的に消費者の意欲次第。→ 家族の団欒の確保、冷蔵庫の整理、嗜好性食品の抑制など、ごく普通の努力が続けられるかだ。←→ そういう努力をしないで、行政や生産者や流通業者に安全・安心・利便性を一方的に求めるならば、舌の能力はますます悪化し、品質の悪い農産物を宣伝と演出で売るという風潮に歯止めがかからない。(※う~む、今の時代の流れからみると、これはかなり難題か…?)
・消費者が自分の舌を鍛えた上で、自ら農村に出向き、農業者を探して信頼関係を作らなくてはならない。…名人農家が不断に生育の状況把握をしてこそ、健康的に作物が育つように、名人農家と日常的に良好な人間関係を構築していてこそ、消費者も絶品の作物を手にすることができる。(※う~ん、普通の一般人がとてもここまではできない。ゴウド先生、〝絶望〟のあまり、〝ないものねだり〟に陥ってしまった…? また、農産物の栽培について基礎的な知識を持つためには、消費者には観賞用の花の栽培を勧めている。…屋内や庭先という環境は野菜には向かない。見ようによっては植物虐待、とのこと…詳細はP222)


4.放射能汚染問題と被災地復興対策


・放射能汚染の危惧が国の内外で拡がっている。…国内でも東日本産の農産物が敬遠される傾向が強い。福島産のみならず、東北・関東の農産物が総じて売れない。露地野菜やコメはいうまでもなく、施設園芸や畜産物でも値崩れ状態。…海外からの警戒感はさらに強い。強弱の差はあるが、原発事故から一年を経て、40ヵ国が輸入規制をしている。公的な輸入規制がなくても、日本産農産物への需要が減退している。
・よく風評という表現がされるが、「根拠がない風評を信じるほうが悪い」という単純な図式は成立しない。(※福島県当局などは、農産物だけではなく、「健康への影響」についても、この〝単純な図式〟のよう…)
①日本人自身が、原発事故以前は「海外産農産物は危険」という「風評」で、海外産を不当に低評価してきたという事情がある(※う~ん、確かにその傾向はあるが、安全という確証もないのでは…?)。1章及び前節で述べたように、国産農産物が安全安心だという根拠は薄弱だ。(※この件については、久松氏より神門教授の方が説得力があるように思われる…)
②低線量放射能汚染については科学的知見が蓄積されておらず、放射能汚染を神経質に危惧することを「根拠がない」とは断じられない。→ 原発事故から1年たっても基準値を超えた放射能汚染が検出されており、少なくとも向こう数年間は完全な除染はないと考えるべき。(※この見解は、「震災レポート④」の近藤誠医師の見解と近いものであり、現時点でも妥当と思われる。)
・もちろん、科学的知見が不十分な点では、GMO(遺伝子組み換え)や農薬の有害性についても言える。→ GMOや農薬にどの程度の有害性があるかは、まだ科学的にも未解明の部分がある。(※これも妥当な見解と思われるが、ちょっと気になるのは、『キレイゴトぬきの農業論』の久松氏とか、『フード左翼とフード右翼』の著者のように、かえって若い人の方が、「GMOや農薬は安全だ」と断定的に言っていることだ…)
・だがそもそも、摂食という行為自体が、他の生物を体内に取り込むことであり、栄養とともに危険要素も体内に取り込まざるを得ない。従って、科学的に100%の安全性が食物について証明されるということなぞあり得ない。〔※というより、そうした摂食・排泄によって、栄養は取り込み危険要素は排除(免疫機能)しながら、体内の60兆個の細胞がおおよそ2ヵ月で入れ替わっている(動的平衡)、ということ自体が生命の本質…〕
・(安全性について)すべては程度問題ということになる。しかも、遺伝子に人為的な措置を施してもGMOには判定されないケースもあるなど、境界線は一般に考えられているほど明確ではない。→ このような状況で、GMOや農薬をはじめ、危険要素を全面禁止すれば、太古の農業生産に逆戻りになり、現在の世界人口を養うのは不可能になる。(※ちょっと飛躍しすぎ? 誰も「危険要素を全面禁止せよ」とは言っていないのでは…。それに農薬や化学肥料やGMOを使わない自然栽培の農法は、様々な科学的知識を駆使しており、「太古の農業生産に逆戻り」という表現は適切ではない…)
・このように考えると、放射能のみならず、農産物の安全性に関する基準は、科学的知見をふまえながら、消費者や農業者が議論を重ねることが不可欠。(※これはちょっと、当たり前の抽象的な提言…)
・震災以後、農業についても復興の提言が、マスコミや「識者」からされているが、震災以前と同様に、「規制緩和」「企業の農業参入による大規模化」でほぼ共通している。それどころか、津波で広大な荒地が生まれたことを「好機」とみなし、それらを一気に進めようという論調が目立つ。
・原発事故から何も学んでいないのではないか、と懐疑せざるを得ない。…企業による大規模農業では、機械や装置の稼働率を高めるために省力化技術が採用されがちで、被災地での農業労働需要を削減する。→ 従前の農業者が離農を余儀なくされ、首都圏へ移動するケースが多発する。…これでは、東京一極集中による首都圏の巨大な電力需要が東北に原発を建設させたことを、まったく反省していないことになる。…しかも、機械や装置への依存は化石エネルギー多投と同義であり、原発事故が省エネ社会への転換を迫っていることにも逆行する。
・被災地の土地利用の再計画については、拙速を避けねばならない。…具体的内容を詰める際は、地域住民が自分たち自身でルールを作らなくては、そのルールを皆で守るという意識も生まれない。土地利用計画の策定や運用を行政任せにしている限り、またしても「所有地をどう使おうと個人の勝手」という意識が頭をもたげ、違法脱法行為が蔓延して「元の木阿弥」となりかねない。
・農地は水利権や抵当権も複雑な上、被災に関連して土地の境界線や損害請求額の確定に膨大な労力が必要(詳細はP226)。→ 要するに、被災地を白地のキャンパスに見立てて自由にアイデアを競っても空しい(※「識者」の陥りやすい罠か…)。
・復興計画の「策定・運用過程」をいかにして透明・公正に進めるか(※徹底した情報公開)が大切。…最初から完璧な復興計画を描こうとせず、小さな失敗と検証を繰り返しながら、地域住民が学習し、改善していく仕組みを構築するべき。(※う~ん、確かに「正論」であろうが、実現性は…? いずれにしても時間がかかりそう…)
・被災地の復興と農業の復興は必ずしも一致しないことに注意するべき。→ 個々の優秀な農業者を伸ばす、という農業振興の観点からは、あえて被災地を去って代替地を求めることを支援するべきケースも少なからずある(※とくに福島?)。…被災地にとっては人材流出になりかねず、痛みの伴う選択だが、当該農業者が移転先で十全に営農の意欲と能力を発揮できるのならば、それが被災者の利益になるし、日本農業の利益にもなる。
・そもそも、日本の各地で、きちんとした耕作技能を持つ者がいなくなって、農地が荒れているところがある(今後も増えていきそう)。→ 従って、被災地に限らず、これからは農業者が地域の枠を越えて積極的に移転していくことも考えるべき。(※う~ん、これは大胆だが、本質的な提言ではないか…)
・実は、異なった土地での耕作を経験することが、技能を練磨する機会になることも多い。→ 新たな土地では、作目の選択や土壌改良からやり直さなくてはならないが、その試行錯誤を通じて、作物の特性や、農家自身の得手・不得手が分かるようになる。→ そう考えれば、震災で移転を余儀なくされることも、前向きに受け止めることができる。
・農業者の移転を促そうとするときに障壁となるのは、「ヨソ者排除」という日本社会の悪しき風習。→ 移転の候補地域にいくら優良農地があっても、優良農地の所有者が耕作放棄をし続け、移転希望者に提供されるのは条件の悪い農地ばかりであったり、年数の短い貸し出ししか受けられなかったりする。…それでは地力作りにも専念できず、営農の意欲・能力が挫かれる。
・「ヨソ者排除」の悪しき風習は、法律の問題ではない。→ 市民自身が「ヨソ者排除」の意識を戒めなければならない。被災地の問題を非被災地の人間がどれだけ自分の問題として受け止められるかが問われている。〔※う~ん、結語としては抽象的でちょっと弱いのでは…。それより、例えばJリーグのように、「ヨソ者排除」(ヘイトスピーチも?)の抑止策として、何らかの具体的なルールを決めるべき時期に、日本社会は来ているのではないか…〕


【終章】日本農業への遺言


○本書の主張は下記の四点に要約できる
①日本農業の本来の強みは、技能集約型農業にある。
②耕作技能の発信基地化することにより、農業振興はもちろん、国民の健康増進、国土の環境保全、国際的貢献など、様々な好ましい効果が期待できる。
③しかし、その農地利用の乱れという「川上問題」、消費者の舌の劣化という「川下問題」、放射能汚染問題の三つが原因となって、農業者が耕作技能の習熟に専念できず、肝心の耕作技能は消滅の危機にある。
④マスコミや「識者」は、耕作技能の消失という問題の本質を直視せず、現状逃避的に日本農業を美化するばかりで、耕作技能の低下を助長している。
・残念ながら、正直に言えば耕作技能の回復は不可能ではないかとも感じる。ここ数年の農業ブームのおかげで、一気に事態は悪化の速度を上げてしまった。…おそらく手遅れだ。
・社会が現状逃避的になって架空の議論に盛り上がるというのは、75年前にまさに日本社会が経験したことだ。「大東亜共栄圏」だの「神国日本」だの「神風」だの、虚偽の繁栄論がマスコミと「識者」によって流布された。政府の統制のせいという見方がされがちだが、「不快な事実は知らないことにしておこう」という大衆の心理があって、それをマスコミや「識者」が汲み取っただけという見方もできるのではないか。
・「自由」なはずの今日の日本においても、不愉快な正論を大衆は抹殺しようとする。マスコミと「識者」が事実を捻じ曲げた論陣を張ることで、そういう大衆に迎合する。…本書では、農業という話題を使って、75年前も今も変わらない日本社会の体質を描いた。(※う~ん、この著者の「大衆観」については、ちょっと一方的で違和感も残るが、そのことを展開していく余裕は今はない…)
・おそらく、日本社会の同質性の高さが、この歪みの元凶だろう。…不快な事実から目を背けようとするのは日本人に限ったことではない。しかし、異質性が高く、価値観の異なる隣人に常に晒されている社会(※欧米か?)では、相互監視の緊張感があり、非生産的な逃避行に対しては隣人が目ざとく咎める。←→ ところが日本社会は同質性が高いため、まとまって「見なかったことにしよう」という雰囲気を作れば、それが通用してしまう。(※う~ん、単に「同質性」だけの問題なのか…?)
・本書では、今日の農業問題について、執拗にマスコミや「識者」の誤謬を指摘した。…「自称・改革派」も「自称・保護派」も同類だ。馴れ合い的に激論の真似をしているだけで、両者は真実から目を背けて虚構に逃避しているからだ。→「こういう論陣を張るからには、今後、私がマスコミや「識者」から敬遠され、発信機会がなくなることも覚悟しなければならない。実際、ここ数年、私は発信しにくい気配をだんだん強く感じている。」
・日本(とくに放射能汚染の危惧のある地域)の農業は、耕作技能を失い、マニュアルに依存するばかりのへたくそ農業や形ばかりのハリボテ農業(耕作技能やよいものを作るという魂を失った農業)に席巻されつつある。→ 気候さえ恵まれれば生産量は取れるかもしれないが、栄養価も低く、環境にも悪く、高コストで国民経済の負担になるだろう。そして、気象変動に敏感になり、緊急輸入やらダンピング輸出やらを繰り返すようになるかもしれない。
・耕作技能の崩壊は、将来世代に対する負の財産だ。耕作技能の回復はもはや手遅れだとすれば、著者がなすべきことは、崩壊のメカニズムを記しておくことだ。…国内外の将来世代は、日本社会がどういう特徴を持っているかを知るための材料として、本書を利用して欲しい。また、この日本の愚かな経験の轍を踏まないよう、教訓として欲しい。

―― 日本農業で耕作技能が衰退していくプロセスは、人間の愚かさの凝縮だ。農地利用の乱れとか、農業政策の地方行政の崩壊とか、消費者の舌の劣化とか、それぞれの問題に、自堕落で大事なものを失うという人間の「粗忽さ」がある。私はそれを批判するのではなく、ありのままに描いて、詠嘆をしたい。…本来、「人間社会の愚かさに詠嘆する」というのは、小説とか芸術の仕事だ。小説や芸術に、万人に共通する愚かさが描かれているとき、人々は感動する。その感動のメカニズムをこの新書でやりたいというのが私の意図だ。こういう心境になったのは、3・11以降の私自身の経験が大きい。…3・11以降、私は「識者」にげんなりした。3・11直前まで、「日本の原発は世界で一番安全・安心」と、したり顔で「解説」していた「識者」が、臆面もなく、3・11以降も「識者」としてマスコミに登場し、東電批判をまじえて「解説」する。…「識者」の無節操さ・卑怯さは、実に情けない。しかし、ひるがえって自分自身はといえば、3・11の原発ショックで、わが身を守ることばかりを考えていた。これまで報道のウソなどを研究していただけに、初期報道で原発がチェルノブイリ事故並みになるだろうと直感した。その直感を誰にも言わず、自分だけは助かりたいという一心で行動した。…3・11以降、マスコミで「識者」を見かけるたびに、(彼らのような発信力はないが)わが身に共通する醜悪さをみせつけられてがっかりする。…私のスランプは相変わらずだが、ようやく気を取り直して本書に取り組んだ。「悪者探し」はしたくない。人間社会の愚かしさを、自分自身の嗚咽を搾り出すようにして書いた次第だ ――

〔※著者の「日本農業への遺言」のさめた熱意に押されるように、当方の「メモ」の量も増えてしまい、予定枚数をだいぶオーバーしてしまった。もちろん、この著者の見解に対して様々に疑義・異論はあるだろうが、今日の「日本農業」に関する問題点については、基本的なところはほぼ網羅されているのではないだろうか。そして、この震災後の「日本社会」を考えていく上での、いくつかの示唆も含まれているように思われた。〕
                                                                      (6/17 了)        

次回は、『野菜が壊れる』新留勝行(集英社新書) を取り上げる予定です。農薬と化学肥料について、別な視点からやはり基本的な事柄や問題点を押さえておこうと思っています。
                                                                    (2014年6月17日)                 

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