2017年4月6日木曜日

(震災レポート39) 震災レポート・5年後編(5)―[福島原発論 ②]

 (震災レポート39)  震災レポート・5年後編(5)―[福島原発論 ②]

 
                                        

『福島第一原発 メルトダウンまでの50年』

烏賀陽弘道 明石書店2016.3.11

  ―事故調査委員会も報道も素通りした未解明問題―            ――[中編]





【3章】原発黎明期の秘密と無法


○事故の危険性を深刻に受け止めた損害保険会社

・福島第一原発事故のあと、日本政府や電力業界は「格納容器が破壊されて放射性物質が周辺を汚染するような事故は起きないと考えていた」という弁明を繰り返した。←→ しかし、1960年頃までに、日米両国で甚大事故が起きた場合の損害についてのシミュレーションを政府機関が試算していた。…しかし日本では、その内容のあまりの深刻さに公表を見送られてしまった(※ここでも都合の悪いことは隠蔽…)。←→ アメリカの試算は英語の論文として公表されている。(※う~ん、彼我のこの姿勢の差…。→ 「対米従属」がお得意といっても、こういう良いことは真似しないのか…?)

・こうしたシミュレーションの結果を真剣にとらえたのは、原発の事故損害保険を引き受けるかどうかを検討していた保険業界である。…保険会社は、原発事故が起きる確率や被害金額を計算した。→ 保険業界の結論は「事故の際の損害が大きすぎて採算が取れない」だった。…損害保険は「原発に賛成・反対」という立場からは無縁で、冷徹に経済的な観点から原発を査定するので、注目に値する貴重な歴史的証拠である。

・(「日本火災海上保険」の社長・会長だった品川正治の証言…斉藤貴男との対談本『遺言―財界の良心から反骨のジャーナリストへ』より)……当時、茨城県東海村で日本最初の商用原子炉(東海発電所)が稼働を始めた。日本原電(電力会社9社などが出資して設立)が保険契約者で、その保険を引き受けたのが「日本火災」だった。→ 賠償保険の算定は、あまりにも巨大なリスクになりそうなので、品川氏のいた企画部に担当が回ってきた。

・1953年、東西陣営の代理戦争だった朝鮮戦争が終わった直後、アメリカのアイゼンハワー大統領が「アトムズ・フォー・ピース」(原子力の平和利用)という外交政策を打ち出し、それまで軍事機密だった原子力発電政策を180度転換し、同盟国に積極的に技術移転する方針を宣言した。→ 留学生を無償で受け入れ原発技術を教育、燃料の濃縮ウランを貸与、実験炉を提供…「おんぶに抱っこ」方式だった。…つまり、アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)は、最新のエネルギー技術と引き換えに、世界の国々を西側陣営に引き入れようとする「技術輸出外交」だった。→ それに積極的に応じた国の一つが日本だった。

・日本では「原子力の平和利用」の宣伝が大々的に展開された。…1954年、読売新聞は「ついに太陽をとらえた」というキャンペーン記事を連載…同社が主催する「原子力平和利用博覧会」が全国10ヵ所で巡回開催された(※新聞の政治利用?)。…読売新聞の社長だった正力松太郎は、1956年に初代の原子力委員長と科学技術庁長官に続けて就任。政界・官界、マスコミ界を横断して原発の運転開始を推進していた。(※う~ん、アメリカ由来の原発推進の国策に、読売新聞社が当初から積極的にコミットしていった、という構図か…)

・品川氏は、推進派の「絶対安全」という触れ込みに疑問を持った。…「『原子力の平和利用』という言葉に私は惑わされなかった。原子爆弾と原子力発電は紙一重に思われた…『核』の問題として一括りにできるのではないか、放射能の人畜に与える影響は一緒ではないか。ウラン、プルトニウム、セシウムなど、調べれば調べるほど人類の敵に思えた。…絶対に事故は起こらない、絶対安全という言葉を、中曽根康弘担当大臣の主宰する会合でも、正力松太郎読売新聞社主の主催する会合でも聞かされた。日本火災の人たちでさえ、それに共鳴する人が多かった。…にもかかわらず保険を付けるとすれば、それは世間の人を欺くためとしか考えられない」「これは民間の損保会社が引き受けることができないほどの巨大リスクだ。国家が国策としてあくまで実行するというなら、それは国家が責任を持つべきだ。しかし無限大のリスクを果たして国家が担えるのか…」→(※この品川氏の疑問・懸念が、それから約半世紀後に現実のものとなってしまった…)

・品川氏は、原子力を専攻している学者、官僚の知人に話を聞いて回ったが、「細心の注意を払った設計をしており、地震や風水害、あるいはテロや従業員の自殺行為についても万全の防御をしている」という説明ばかりだった(※う~ん、学者も官僚も「立場」でものを言い…)。→ 偶然、知人の中に三高時代の同級生で、通産省で原子力を担当していた伊原義徳氏がいた。…1954年にアメリカに留学して原子力発電の技術を日本に持ち帰り、その後科学技術庁事務次官になった「日本の原発の父」ともいえる人物。

・偶然、著者は『ヒロシマからフクシマへ』を書くにあたって、この伊原氏を何度も取材し、日本の原発黎明期を知る貴重な証言を聴かせてもらっていた。→ そこで今回改めて、日本の原発黎明期に、保険業界と原子力行政それぞれの中枢にいた二人が、友人同士として、原発のリスクについてどんな話をしたのかを知りたいと思い、伊原氏の自宅を訪ねた。

・「何でも腹蔵なく話し合える仲だったので『絶対安全なんてものは世の中にはない』そんなことを話したと思う。あらゆる技術は危険が伴う…その危険を顕在化させないことが、それに伴う技術者の責務だ。それが技術者の共通の認識だと思う」「彼(品川氏)は保険業界で活躍する優秀な人間だった。その損害保険というのは、事故が起きるというのが前提の制度だ」
……原発事故のリスクをできるだけ隠蔽しようとしてきた近年の電力業界の態度や言動に慣れていると、「事故は必ず起きる」という(伊原氏の)発言は鮮烈である。…日本に原発を導入した当事者である伊原氏は、実はこうした現実的な感覚の持ち主である。それを品川氏に伝えたという。(※日本の原発黎明期には、通産省にもまだこういう人物がいた…)


○実際の賠償金は保険金支払い上限の48倍に

・原発事故の損害賠償に関する保険・契約には、民間保険会社と電力会社が結ぶ「原子力責任保険」と、電力会社が国と契約する「原子力補償契約」があり、どちらも強制加入。…なぜ民間と国と二重になっているかというと、「地震・噴火・津波」などの天災で発生した原発事故の損害は、民間保険会社は支払いを免責されているから(「戦争・社会的動乱・異常に巨大な天災地変」の場合は、電力会社も免責される)。

・2011年の東日本大震災の場合…福島第一原発事故は、「天災」によるものとして、民間保険会社は「免責」→ 政府との補償契約が作動した。…実は民間保険も政府保険も「支払い上限金額」が決められていた。…1961年の契約当初は上限金額はたったの50億円。71年に60億円、79年に100億円、そして3・11当時は1200億円に引き上げられていた。→ では、福島第一原発事故で実際に東京電力が支払った賠償金は、2016年1月15日現在、総額5兆8243億円…「上限」として想定された1200億円の50倍で、そして今なお増え続けている。

・差し引き5兆7043億円は、国が払った。上限を超える損害が生じたときには、その電力事業者に対して国が「援助」することになっているから…つまり財源は国民が収めた税金なのだ(根拠法はP142)。…民間保険にしろ政府保険にしろ、実際の事故の損害に比べて、その想定がいかに少額だったかがわかる。

〔伊原氏への質問に戻る〕

・(政府保険と民間保険が二重にあるのは?)…「それは国際的な制度として、原子力発電は保険制度を確立するのが当然だという国際的な動きがあったからだろう」「(原発事故)保険制度は、(リスクが非常に大きいので)国際的に何重にも担保する(世界の金融市場で何重にも分散させる)ということで成り立つ制度だ」…つまり、原発が導入されると同時に、日本は国際金融の枠組みに入っていく、そんな過程だった。

・(先ほど「危険を顕在化させないために努力する」と言われたが、それは「事故を起こさない」ということか?)…「いや、事故が起きたときに、周囲に住んでおられる方に大きな影響を及ぼさない、ということだ。事故というのは必ず起きるものなのだ。起きても、それが敷地の外に大きく影響しないというのが技術者の責務なのだ。」…(※3・11事故では、この「技術者の責務」が果たされることはなかった…)

・(保険はその構図にどう組み入れられたのか?)…「事故は必ず起きる。起きれば経済的な損害が発生する。だからそれを賠償する。その制度を確立して初めて、危険な技術というのは実施できる。(原発は)『危険であるけど役に立つ技術』なのだから、それを世の中に役立てるために損害保険制度が確立している。そういう考え方だ。」…(※だが3・11事故では、その保険制度の想定をはるかに超える〝巨大事故〟を起こしてしまった…)


○「事故が起これば国家財政が破綻」大蔵省の懸念

・民間保険の上限額である50億円(当初)という金額は、同時期のアメリカの原子力保険制度が上限216億円(6000万ドル)だったのに比較してもはるかに小さい。これはなぜか。→ 原発事故が起きたときの損害は巨大なので、保険会社の資本金の5%を限度にしておかないと、保険会社まで倒産してしまう、ということだ。(※保険会社の都合か…詳細はP144~145)

・さらに「上限額を超える損害は政府が援助する」という仕組みにも、これには大蔵省が抵抗した。…50億円までを企業が責任保険で払うのはいいが、それ以上の災害が出たとき、国家が補償する場合、その上限を決めておかないと、財政が破綻してしまうという懸念があったからだ。→ つまり、原発が事故を起こすと、保険会社どころか国家が破綻するくらいの巨額の損害が出る…と当時からわかっていたのだ。(※そして5年後の今、国はそのツケを「税金」や「電気料金」という形で国民につけ回ししようとしている…)

・実は、日本での原発事故保険の整備は、原発導入を先行して決めた後にドタバタと後付けで決まった(詳細はP145~147)。…ここでわかるのは、日本では「原子力発電を導入する」という決定が前のめりで先行し、「では、事故が起きたときの補償はどうするのか」という法律や保険制度の整備が後回しになっていた、ということだ。(※なぜそんなに「原発の導入」を急いだのか…?)

・そして1957年は、アメリカ・イギリスという当時の原子力発電の「先進国」が、「原発は絶対安全」から(イギリスのウィンズケール原子炉で、火災事故からレベル5の放射性ヨウ素の放出事故が起きたりして)「事故は起こりうる。起きれば被害は莫大」という方向に認識を転換した年だった。→ 莫大な損害をどうやって補償するのか、という法律や契約を変更し始めた。←→ だが、原発を導入する緒に着いたばかりの日本は、まだ「絶対安全」という単純素朴な幻想に酔っていた。(※これも日本社会のよくあるパターンか…。〝日本語の壁〟…?)


○あまりに巨大な原発事故の被害予測

・ウィンズケール原子炉事故と並んで英米の「安全神話」に冷や水を浴びせたのは、アメリカの原子力エネルギー委員会(AEC)が1957年に公表した原発の事故シミュレーション(WASH-740)。…「もっとも過酷な原発事故」を前提に、その被害を予測(詳細はP148~149)。→ その被害予測は巨大だった。…死亡:3400人、けが:4万3000人、物的損害70億ドル(2012年にインフレ換算すると570億ドル)→ 1964-65年の改訂版では…死亡:4万5000人、けが:10万人、物的損害:170億ドル(2012年のインフレ換算では1250億ドル)。→ こうした数字(※ホントに巨大な被害予測!)は、日本政府にも届いていた。

〔伊原氏への質疑応答〕

・(WASH-740という文書をご存知ですか?)…「名前は記憶しています。…そういう損害は発生しうると思っていた。だからこそ、国際的な保険の枠組みを確立しなくては、原子力発電は実施できないと思っていた」「当時はロンドンが損害保険の世界の中心地だった。…アメリカ市場とロンドン市場がうまくすり合わせて制度をつくっていた。」

・(原発事故の巨大な規模からしても、「これはやめておいたほうがいいのではないか」という結論にはならなかったのか?)…「日本政府としても世界の大勢に遅れをとってはいけない、という発想だったと思う。」

・(それは「経済面」か、それともアメリカを中心にする自由主義陣営に仲間入りするという「政治面」か?)…「政治的な背景のほうが大きかったかもしれない。戦争に負けてアメリカの占領下にあって、アメリカ文化を取り入れることで戦後復興を果たすわけだから、アメリカの考えを受け入れるということが根っこにあったと思う。」(※う~ん、原発も「対米従属」か、しかも前のめりに急いで…そして冷戦終結後も「対米従属」は変わらない…)


○天文学的な被害額を民間保険ではカバーできない

・(実はWASH-740が作成された背景にも、原発損害保険がある)…原子爆弾の開発では先陣を切ったアメリカだったが、第二次世界大戦後、原子力発電では劣勢にあった。…アイゼンハワー大統領が「アトムズ・フォー・ピース」を1953年に打ち出したのも、こうした劣勢を挽回するためだった。→ 原発の技術を無償で外国に移転し、アメリカ主導の国際原子力発電市場をつくる。一方、それらの国が核燃料を悪用して核兵器を開発しないよう、国際的な管理下に置く(そのために作られた監視機関が国際原子力機関<IAEA>)。→ それらの国をアメリカ主導の資本主義陣営「西側」に引き入れて、ソ連主導の「東側」に対抗する。

・それと同時にアメリカ政府は、国内の電力産業に原子力発電に参入するよう促した。←→ だが、彼らは消極的だった。原発事故が起こりうることは徐々に知られていた。その損害はまったく予想できないほど巨大になる可能性があることもわかっていた。→ 電力産業は、損害保険なしではとても手が出せない。保険業界も消極的だった。

・米連邦議会の合同原子力委員会が、その障害を取り除こうと動き始めた。…問題は、原発の危険性を十分つぐなえる保険を見つけ出すことで、その第一歩が、どういう性質の危険が予測されるかを、突き止めることだった。→ そして、それに対するAEC(原子力エネルギー委員会)の回答が、先述のWASH-740だった。→ だが、この結果を見た保険業界は、合同委員会の公聴会で、原発事故損害保険を拒否した。

・(公聴会での保険会社のある幹部役員の証言)…「現実にこんな大きな額にのぼる危険が存在するとすれば、そのような危険のあるものを認めるかどうかは、当然、公共政策の問題だ。…こんな天文学的な数値にあてはまるような保険の原則は存在していない。たとえ保険があったとしても、人や物に与える損害の量が、原子力の開発によって得られる利益に匹敵するのだろうか、という重大な疑問が残る」…(詳細はP153)

・保険がかけられないのなら、原子炉はまだ商業用には適さない、というのが妥当な判断である。←→ ところが、合同原子力委員会は変わった判断を下した。→ 原子力発電を「民間」に開くため、民間保険会社が保険を用意できないなら、政府が保険金を出そうという制度を作ったのだ。つまり、損害が出たら納税者がお金を払い、利益は民間企業が受け取るという制度である。…これは、電力会社という民間企業に、政府が巨額の補助金を出すのに等しい。(※う~ん、これが今、日本で現実化している…!)

・こうして1957年に可決された「プライス・アンダーソン法」が、こうした損害保険の法的根拠をつくった。→ 日本の「原子力損害賠償法」(1961年)は、この法律を下敷きにしている、というよりそっくりそのままコピーしたような法律である。(※ここでも「対米従属」…)


○日本でも40年前に行われていた事故の被害試算

・日本でもWASH-740に相当する原発の事故シミュレーションは行われていた。「原子力損害賠償法」の制定にあたって、原発事故が起きた場合にどれくらいの被害が起きうるのか、試算する必要が出てきたからだ。

・科学技術庁の委託を受けて、日本原子力産業会議がWASH-740を手本にして1960年に報告書をまとめた(詳細はP155~158)。…だが、全文は公表されずマル秘扱いになった。→ 1961年、科学技術庁は衆議院の特別委員会に冒頭18頁の要約のみを提出し、全文が公開されたのは、なんと39年後の1999年である。(※ここでも日本の官庁の隠蔽体質…)

・(この被害試算によると)…損害額が最も大きい場合は3兆7300億円(当時の国家予算の2倍以上で、2011年でインフレ換算すると19兆7780億円)…ちなみに2016年1月までに東電が支払った賠償金は、総額約5兆8243億円、原発敷地外の除染に使われる国家予算は5兆円(見通し)。→ 東電が払う賠償金は時間と共に増え続ける。…1960年に予想された最悪のシナリオである約20兆円に達する日はそう遠くない。(※最近の報道では21.5兆円…民間シンクタンクでは損害総額50~70兆円という試算もあるらしい…)


○チェルノブイリ原発事故後もシビア・アクシデントを想定せ

・ここまでの検証から、保険業界だけでなく、日本の政府当局者は、遅くとも1960年には、原子力発電所の「事故は起こりうる」「起きた場合は国家予算の2倍以上の莫大な損害が出る」ということを知っていたことになる。←→ しかし、そのシミュレーション「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」の大半は公表されないまま、ひろく専門家の精査を受けることもなく、封印されてしまった。(※この秘密主義、どうにかならないのか?)

・内容を暴露したのは1979年4月9日付の共産党機関紙「赤旗」である。→ ところが、このシミュレーションの存在が暴露されたあとでも、1989年3月の参議院科学特別委員会では、政府(科学技術庁原子力局長)がシミュレーションの存在そのものを否定。→ そして1992年、原子力安全委員会は、チェルノブイリ原発事故後の世論の沸騰を受けて、のちに福島第一原発事故の原因につながる、以下の「決定」を下す。

・「我が国の原子炉施設の安全性は、設計、建設、運転の各段階において…多重防護の思想に基づき厳格な安全確保対策を行うことによって十分確保され…シビア・アクシデントは工学的には現実に起こるとは考えられない…」…(※う~ん、「隠蔽」をさらに「ウソ」で塗り固め、根拠のない「安全神話」を蔓延させた、原子力安全委員会の決定的な過失…!)

・福島第一原発事故後、この記述への評価はどうなったのか。
(原子力安全委員会・班目春樹委員長の証言)…「原子力安全委員会の安全審査指針に瑕疵があった…津波に対して十分な記載がなく、全電源喪失については、解説で『長時間そういうものは考えなくてもよい』とまで書いている。原子力安全委員会を代表しておわびする」「国際的に安全基準を高める動きがある中、日本では、『なぜそれをしなくていいか』という言い訳づくりばかりしていて、まじめに対応していなかった…安全指針一つ取っても、変えるのにあまりに時間がかかり過ぎている。そもそもシビア・アクシデント(過酷事故)を(前提に)考えていなかったのは大変な間違いだった。」(※う~ん、あまりにお粗末すぎる…)


○立地基準を定める前に建設地を決めた福島原発

・こうした1950~60年代の原発黎明期の政策史を洗い出していくと、驚くような事実がいくつも掘り起こされてくる。…原発事故が起きた場合のシミュレーションを秘密裏に葬ってしまった政府の秘密主義。…あまりに「大雑把」としか言いようのない「無法」もある。→ 私が「福島第一原発事故の原因は、50年以上前にすでに始まっていた」と考えるのはこういう点を指す。…例えば、福島第一原発は、国が立地基準を定める前に、東京電力が場所を決めてしまった原発の一つだ。

・スリーマイル島原発事故(1979年)やチェルノブイリ原発事故(1986年)など海外で原発の深刻な事故が起きても、「日本の原発の安全基準は世界でもっとも厳しい」「日本の基準ではあり得ない・考えられない」といった文言で政府は宣伝し、世論の動揺を抑えてきた。

・そうした「国が原発の安全を国民に保障する」ことを明文化し、義務づけた法律が「原子力基本法」(1955年)であり「原子炉等規制法」(1957年)だった。…これは政府と国民の「契約書」「約束」のようなものだ。→ その一つとして「どんな場所なら原発を作ってよいか」を定めた規則がある。原子力委員会が策定した、原発立地の「憲法」のようなものだ。…効力を持ったのは1964年5月。(詳細はP164~166)

・重要なことは、「原発が事故を起こしても、周辺に住んでいる住民に放射線障害を与えないように、離れた場所に原発を作りなさい」と決められていることだ。誠にもっともな決まりである。…この「原子炉立地審査指針」を原子力委員会が定めたのが、1964年5月。 ←→ ところが、(『東京電力30年史』によれば)福島第一原発の候補地として、現在地が選ばれたのは1960年なのだ。(詳細はP167~169)

・つまり、国が立地のルールを決める4年も前に、東電は福島第一原発の建設地を決め、福島県知事もそれを受け入れた、という話である。…東京電力は、国の規制ができる前に、単独で原発の場所を決めたということになる。つまり立地に何の規制も指導もなかった、ということだ。→ そこでもう一度、改めて前出の伊原さんに聞くことにした。


○「当時はそんなものだった」

・(当時「原子炉立地審査指針」を策定した目的は何だったのか?)…「事故が起きたら(原発の)敷地を超えないように、どういう危ないことが起きるか一生懸命考えた。マスコミがいう安全神話などというのはうそですから(笑)。当時の原子力関係者は『原発は危ないものだ、いつ暴走するかわからん』『そうなったらどうするか』という思いで一生懸命考えたのです」…(※なにしろ読売新聞のトップが「原発推進」の旗振り役だったのだから…)

・(「原子炉立地審査指針」の策定より福島第一原発の立地決定のほうが先だった、と知って驚いたのだが)…「まあ、当時はそんなものでしたからねえ」→ それ以上の事情を尋ねたが、「よく覚えていない」との返答だった。(※良心的とはいっても、ここらが元官僚の限界か…)
→ そこでもう一人、福島第一原発の立地を担当した元東京電力副社長の豊田正俊氏(90)を訪ねた。

・(福島第一原発の立地が始まるのは、まだ「立地指針」ができていない頃だが)…「だけど『重大事故』というのは、前から我々(東電)としてはちゃんと採用していた。…その当時はもう、原子炉が三基ぐらいすでにあった。…(原子力)安全委員会なんか当時はないから…イギリスとかアメリカから(東電が)仕込んできたことを、原子力委員に『向こうではこうだよ』と教えてやってる感じだった。…当時はしょうがないよ、技術レベルが違うんだから。…だけど、最近は原子力安全・保安院なんかが、そういう電力会社の言うことを信用して、とりこになってたというところが問題なんだ…」

・(つまり原子力委員会や国よりも電力会社のほうが、技術や知識で上回っていた、ということか)…「電力(会社)のほうが勉強しているよ。ともかく、官僚は何年かいたら(異動で)替わっちゃう。電力会社は、原子力は一生なんだから。…私なんか40年やってきたんだから…」(※ここでも役所の「たらい回し人事」が問題…詳細はP170~171)

・伊原、豊田両氏の証言をまとめると、「当時は原発に関する知識や技術は、政府や原子力委員会の学者より電力会社のほうが先に行っていた」ので、福島第一原発の立地が政府のルールより先でも「当時はそんなものだった」ということだ。(※学者もレベルが低かった…)

・立地のルールを国が決めるより先に、電力事業者が先に立地を決めてしまった原子力発電所が、日本にはいくつかある。…東海発電所(茨城県)日本初の商業用原発。1966年運転開始。…敦賀発電所(福井県)70年運転開始。…美浜原発(福井県)70年運転開始。…そして福島第一原発。71年運転開始。

・「立地指針」の文面について…原子炉や原発と居住地区との距離については具体的な数字があるわけではなく、「ある程度の距離」としか述べていない。→ その代わりに「全身線量の積算値」が示されている。(詳細はP172~173)


○班目委員長も認めた仮想事故想定のでたらめ

・(事故当時、原子力安全委員会委員長だった班目東大教授の、国会事故調査委員会での証言より)…「立地指針に書いてあること…仮想事故だとか言いながらも、実は非常に甘々の評価をして、余り出ないような強引な計算をやっている…」→ (実際には「仮想事故」の1万倍もの放射線量が放出されてしまったという事実に対する、責任を問われて)…「とんでもない計算違いというか、むしろ逆に、敷地周辺には被害を及ぼさないという結果になるように考えられたのが仮想事故だった…」(※う~ん、東大教授の驚くべき証言…詳細はP173~176)

・つまり「立地指針」の数値基準は、「周辺住民への被害にならない軽い数字を先に決めて、そういう事故までしか想定しなくてよいことにした」というのが、(その立地指針の監督役である原子力安全委員会の長の)班目氏の証言なのだ。逆立ちした話である。

・要は、福島第一原発事故で、実際に放出されたような放射線量を前提に、住民にとって安全なくらい居住地区を原発から離そうとすると、日本には「住むところがなくなってしまう」というのだ。逆に言えば、現実に放出された放射性物質の量から住民が安全なくらい原発を離すと、日本は狭すぎて、原発を作る場所はない、ということだ。→ もっと身も蓋もなく言ってしまえば、この立地基準に沿って作られた日本の原発はすべて、福島第一原発と同じ規模の事故を起こせば、周辺住民の被曝は免れない、ということになる。→ そしてそんな場所に福島第一原発を作ることを、国は規制しなかった。東電が自由に決めてしまった。


○海抜35mの丘陵地をなぜわざわざ低くしたのか

・福島第一原発を作った頃の津波対策について、まず単純な事実から……福島第一原発の立地場所は、建設以前は海抜35mの切り立った崖だった。→ それをわざわざ切り崩して、海抜10mにまで低くして原発を作った。一番低い場所は海抜4mだった。

・3・11のときに襲った津波の高さは15.4mだった。…元どおり、高さ35mのままなら、非常用ディーゼル発電機や配電盤が水没することもなかった。福島第一原発事故は起きなかったことになる。→ なぜそんなことをしたのか、調べてみた。…こんな単純な話を、事故調査委員会も報道も、誰も取り上げないからだ。

・(『東京電力30年史』より)…35mの崖を掘り下げて、建設用地にした。…目的① 船で運んできた重量物の荷揚げができる港湾を作る。…目的② 冷却水を海から吸い上げる。

・港湾を作って荷揚げする必要があった「重量物」とは圧力容器(440トン)である。…福島第一原発のようなBWR軽水炉では、原子炉で熱された水蒸気をタービンに送り込んで発電機を回す。→ 「復水器」で蒸気を冷却してまた水に戻し、原子炉の冷却材に送り込む。…そうやって水がぐるぐるループを回っている。

・この蒸気を冷却する方式には「水冷式」と「空冷式」の2種類あり、海水を使う福島第一原発は水冷式(「空冷式」は、水蒸気を「冷却塔」に循環させて空気に触れさせ、冷却する)。…湿度の高い日本では、空冷式は効率が悪く、巨大な冷却塔が必要になり採算が悪い。→「水冷式」を採用。

・水冷式の原発でも、欧米では河川から冷却水を吸い上げている例が多い(チェルノブイリ原発やスリーマイル島原発も)。→ 流量の大きい河川を持つ国は、内陸部にも原発を作ることができるが、日本の河川には原発が必要とする冷却水を取水できるほどの流量がない。海に頼るしかない。→ 日本の原発がすべて、(「空冷式」や「河川型」でなく)津波の恐れのある海岸にばかり原発が作られた理由である。

・海水の取水には「海底トンネル」と「港湾」の二つの選択肢があったが、巨大な鉄の原子炉(圧力容器)を横浜の工場から運搬するのに、当時の道路事情では無理だった。海上から船で運ぶしかない。また、それぞれ試算したところ「港湾方式」が一番安上がりだった。

・豊田・元東電副社長にも直接尋ねてみた。
(どうして35mの土地をわざわざ掘り下げる必要があったのか?)…「当時は、圧力容器を35m引き上げることのできるようなクレーンがなかった」「当時は(津波対策として)あれで大丈夫だと土木屋さんが言ったんだ。それを信用したんだ」(※責任転嫁?)……公平を期するために付け加えれば、海抜35mの地盤を10mまで掘り下げた理由は他にもある。地震対策だ。…柔らかい地層を10mにまで掘り下げたところに、硬い岩盤があった。

・通常の高層ビルやマンションなら、軟らかい地盤でも、コンクリートの杭を地下の硬い地層まで打ち込んで支える。←→ だが、福島第一原発では地震対策として、原子炉やタービンは、岩盤が露出するレベルまで土地を掘り下げ、建屋の底部と岩盤を一体化させる工法が採用された。…このほうが、地震が来ても原子炉やタービンを襲う揺れが少なく、かつ地盤沈下が防げると考えられた。(※要するに原発立地には不適な土地…詳細はP181~182)


○津波の予測はわずか3mだった

・福島第一原発の建設当時の津波予測…(東電の元原子力開発本部副本部長の小林健三郎氏の論文によると)…「津波の高さは3mちょっとを想定しておけばいい」と言っている(詳細はP183~184)。…あまりに粗雑な想定だった。→ 国が何ら基準を決めないうちに、東電が「独自の基準」で決めてしまったのが、福島第一原発の場所と高さだ。…その結果は、ご覧のとおりの「大甘」である。(※これも重大な〝過失〟の一つ…)

・以後、東電や福島第一原発がいかに地震による津波を軽視してきたかは、多数の論文や報道記事、書籍で指摘されている。
(一例として、フリーの科学記者・添田孝史の『原発と大津波 警告を葬った人々』岩波新書より)…1986年、仙台市内で津波が運んだ堆積層の地層が発見され、宮城県以南でも津波地震が過去にあったことがわかってきた。…(1993年の北海道南西沖地震、1995年の阪神淡路大震災などの経験を踏まえて)1997年に旧建設省など7省庁が津波の想定方法を180度転換。→ 以後は、「起きた証拠ははっきり残っていないが、科学的に発生してもおかしくない最大規模の地震津波」を想定しなくてはならなくなった。原発の安全審査にも応用された。…2000年、電事連の報告書で、福島第一原発が国内の原発でもっとも津波に対する安全余裕がないことが判明(※電事連という身内からこんな報告書が出ていたのか…)。→ 東電は津波想定を約5mに引き上げた(※それでもまだたったの5m!)。…2002年、内閣府の中央防災会議の地震本部が、宮城、福島、茨城沖での日本海溝沿いを震源とする津波地震を予測(「長期評価」)。→ 東電は津波想定を5.7mに引き上げた(※たったの0.7mアップ!)。…2004年、中央防災会議事務局(国土庁)が、「長期評価」の予測した「日本海溝沿いの津波地震」を防災の検討対象にしないと決める(「過去に起きた記録がない、あるいは記録が不十分な地震は、正確な被害想定を作ることが難しい」という理由)。→ 委員の学者の猛反対を押し切り、「宮城から茨城沖まで津波地震が起きることを想定しない」ことに決定。…原発の津波地震対策にとっては大幅な後退(※う~ん、責任者や経緯の解明は?…状況的には政治家・官僚・業界主導か…?)。…2006年、原子力安全・保安院が、原発の耐震指針を28年ぶりに改定。→ 過去にさかのぼって原発の耐振性をチェックする「安全性再検討」(バックチェック)を電力会社に指示。→ 福島第一原発も、設置許可以来40年で初めて津波への安全性が公開の場で検討されるはずだった。←→ しかし電力業界は抵抗。→ 3・11の時点まで5年間、保安院はバックチェックの最終報告書が提出されていないのに、それを放置した(※もし、このバックチェックが震災前にしっかりと実施されていたなら…? これも重大な過失の一つだろう…)。…2008年、地震本部の「長期評価」を元に、東電が福島第一原発に最大15.7mの津波が来ることをシミュレーション(※う~ん、3年前に予測している! これは東電内の良心的な部分か…?)。
→ 後に3・11時に同原発所長になる吉田昌郎氏は原子力設備管理部長、首相官邸に詰めた武黒一郎フェローは原子力・立地本部長、武藤栄副社長は同本部副本部長として報告を受けたが、とり入れないことを決定。(※う~ん、この人たちは、3年後に、身をもってそのツケを払うことになるわけだが、その責任はまだ取っていない…。吉田氏は、事故処理の心労のせいか亡くなってしまったが…)


【4章】住民軽視はそのまま変わらない


○虚構に依拠した防災対策の最大の被害者は地元住民

・福島第一原発事故を経験したこの国では、「事故を契機に住民の避難対策は改められたのか」…また再び同規模の原発事故が起きたとき、今度は、住民は被曝することなく避難できるのか。…地震の巣のような日本なのに、巨大地震が来れば津波の襲来が避けられない海岸線に、54もの原子炉が並ぶ。

・同事故発生直後の住民避難は、壊滅的な失敗だった。…避難のための集合や輸送手段はおろか、法律上、避難指示の責任者である国は、避難先の準備や周知すらできなかった。…「原発はどの程度危険な状態なのか」という情報が、東電や国から知らされることはなかった(東電がメルトダウンを認めたのは事故から2ヵ月後だった)。→ 徐々に広がった避難区域の外側では、住民は水素爆発する原発の映像をテレビで見て危機感や恐怖を覚え、ばらばらに自家用に乗り、行き先も決められないまま故郷を脱出せざるを得なかった。→ 約23万人(環境省調べ)が被曝し、2015年11月現在でも約10万1500人(福島県調べ)が県内・外へ避難して家に戻れないままである。

・こうした惨状はすべて、国・電力会社の原発の安全基準や防災が、虚構の上に組み立てられていたからである。…「格納容器が突破され、外に放射性物質が漏れるような事故は起きない」「原発の敷地外に放射性物質が漏れ出すような事故は起きない」「よって住民の原発防災は基本的に必要ない」→ こうした虚構に依拠した防災政策の最大の被害者は、原発周辺に住む地元住民だ。…実例を挙げるとそれだけで紙数が尽きてしまうので、「あまりにひどい例」に絞らざるを得ない。

・一つは、5000人の村人と避難者1000人あまりが、何の警告もないまま3月15日の放射性プルーム(放射能雲)の渦中に放置された飯舘村をはじめ、北西方向に流れたプルームの真下にいた人々である。…そしてもう一つが、福島第一原発の南にある富岡町だ(全町が半径20キロ内)。→ 発生翌日の3月12日に全町避難を強いられ、「数時間で戻れる」と信じて財布と携帯電話だけ持って車に乗り、そのまま5年間家に帰れなくなった人も多い。

・忘れてはならないのは、同町沿岸部は3月11日に高さ21.1mの津波に襲われ、壊滅状態になったことだ。→ JR富岡駅の駅舎は流され、駅前商店街も破壊された。そのまま後片付けもできないまま、町民は翌日に避難を強いられた。→ だから、同駅周辺は2015年初頭でも、津波が破壊したままの風景がそのままになっていた。…2012年1月11日、郡山市に移転していた富岡町役場に、遠藤勝也町長を訪ね、話を聞いた(遠藤町長は、2014年7月20日、74歳で上顎歯肉がんで亡くなった)。…〔※吉田所長と同様、震災死だろう…〕


○国を信じて遅れた富岡町民の避難

・3月12日の午後、遠藤町長が最後に役場を脱出したとき、1回目の水素爆発の直前、間一髪だった。→ パトカーに先導され、午後4時半、川内村役場(原発から南西22キロ、県の指示した避難先)に到着した。…人口3000人弱の村に、富岡町はじめ外からの避難者6000人が着の身着のままで殺到した。

・この日の午後6時25分、避難する区域は半径10キロから20キロに拡大された。…川内村はギリギリ外である。ほっとした。→ しかし、14日午前11時、2回目の水素爆発が起きた。テレビ映像が流れると、村にいた町民の半分が逃げ出した。町長も焦った。ここも危ないんじゃないか。どうすればいいんだ…。

・携帯電話は通じない。国や県からはまったく連絡がない。周囲の状況がまったくわからない。→ ただ1台だけ生きていた衛星電話で、東京の原子力安全・保安院に電話をした。→ 日付が変わった15日未明の午前2時に、平岡英治・同次長から電話がかかってきた。…その言葉を、遠藤町長ははっきり覚えている。

・「国の想定では、原発事故は(半径)20キロを超えることはないんです。どうぞ国を信じて下さい」…「本当にそれでいいんですね」と遠藤町長は何度も念を押した。電話の相手は「20キロ圏内の屋内退避が最大ですから」と繰り返した。→ 町長はいったん「再避難せず」を決めた。

・15日の夜が明けると、一緒に川内村役場にいた福島県警の警察官40人に県警本部から撤収命令が出た。→ 町長は動揺した。…国の言ったことは何だったのか。一体どうすればいいのか。警察が撤収したと聞けば町民はパニックを起こす。→ 立ち去ろうとする署長に懇願して、12人が残ることになった。(※う~ん、この逸話は、かつての戦時中の満洲で、関東軍が日本人開拓民たちを置き去りにして撤収してしまった…という話を彷彿させる…!)

・遠藤町長は決心した。…もう、国も県もあてにならない。避難先を自分で探すしかない。→ 姉妹都市提携している埼玉県杉戸町は快諾してくれたが、行こうという町民がいない。→  結局、個人的なツテで、展示場「ビッグパレットふくしま」(郡山市)に決まった。…この15日とは、前述の原発北西方向、南相馬市から飯舘村、さらに福島市から千葉県北部まで流れる高濃度の放射性プルームの放出が起きた日である。

・「線量が急上昇しているらしい」「また放出があったようだ」…そんな話が住民の間を駆け巡っていた。→ 15日夜、真っ暗になってから、パトカーの先導で川内村を脱出した。ビッグパレットに到着したのは午前0時近かった。


○今でも悪夢にしか思えない

・結局、国からは誰も来なかった。県や東電から線量の高さや方向についての情報もなかった。避難の方向を決める「SPEEDI」のデータなど見たこともないという。…富岡町と東京電力を直につなぐような窓口が、そもそもない。連絡役がいない。…町は10キロ圏内でEPZ(後述)の範囲内なのだが、直接原発が建っている「立地自治体」(大熊町と双葉町)ではないからだ。(※う~ん、日本の「原子力防災」は、今回の事故対応の結果を見ると、「立地自治体」以外はなきに等しかった…?)

・「うんと、今でも怒っています」…遠藤町長は言った。→ その怒りの矛先は、「8-10キロ」というEPZ(Emergency Planning Zone)を決めた原子力安全委員会に向けられる。…「今だって、原子力安全委員会のメンバーがまったく変わっていない。班目委員長なんて、会ったこともない。お詫びも聞こえない。まったく罪悪感も責任感もない。これだけの事故を起こした最高責任者じゃないのか。安全をチェックして安全を高めるのが仕事じゃないのか」「原発の安全は国が担保していた。それを信じる以外の選択肢は我々にはなかった。その意味では私たちも『安全神話』を信じていたのかもしれない。それは完全に裏切られてしまった」「私たちの体験を、日本全体の原子力防災の共通認識にしてほしい。巨大地震はいつどこで起きるかわからない。『福島は対岸の火事じゃない。運転再開は安易にしちゃだめだ』…全国市町村長会でもそう話している」

・1時間ほど堰を切ったように話し続けた遠藤町長は、最後にふと言葉を切ると、こう言った。「本当に、今でも、悪夢のようだとしか思えないのです」


○避難範囲が拡大されても、被曝は防げず

・こうした避難の失敗を教訓に、2012年10月、国は「原子力災害対策指針」(住民を避難させるマニュアル)の内容を変更した。…原発事故の時、周辺住民に避難命令を出す権限は「国」にある。…原発事故はその被害範囲が自治体の境界を超えるほど広いことを想定して「国」に決定権が委ねられている。その根拠になっている法律が「原子力災害対策特別措置法」(原災法)だ。→ この法律に基づくさらに細かい指示書が「原子力災害対策指針」。

・周辺住民にとって一番影響の大きい事故後の修正は、「事故のときに屋内退避や避難の備えをする範囲」が拡大されたことだ。…事故前のその範囲は半径「8-10キロ」(EPZ)で、福島第一原発の周辺では実際に避難訓練が行われていたのは、半径3キロ以内。それも3キロ以内にある最寄りの公的施設に自宅から行くだけで、3キロ圏の外に避難するのではなかった。(※う~ん、これでは本番でまともな避難ができるわけがない…)

・事故後は、それを「30キロ」に拡大して「UPZ」(Urgent Protective Planning Zone)という名前に変えた。…この「30キロ」という数字は、国際原子力機関(IAEA)の基準に合わせたもの。屋内退避の後、実測値に基づいて避難することになっている(1週間の積算被曝量100ミリシーベルト)。→ 対象となる自治体数は、旧指針の15道府県45市町村から21道府県135市町村に増えた。(※福島原発事故の前は、避難指針が国際標準ではなかった、ということか…)
→ さらに、半径5キロ以内は「原発で異常が起きたら、放射性物質が出ていなくても即退避」ということになった。

・福島第一原発事故が起きてみると、旧「8-10キロ」という避難範囲は小さすぎてまったく役に立たなかった。→ 事故後約1ヵ月で「警戒区域=立ち入り禁止」の範囲は半径20キロにまで拡大された。…今もこの「半径20キロの円」は基本的に「立入禁止ゾーン」の骨格を作っている。

・より正確に言えば、この「半径20キロ」という規制区域も、現実にはまったく対応できなかった。→ 南東からの風に吹かれた放射性物質の雲(プルーム)は、原発から北西約30-50キロの飯舘村を全村避難が必要なほど汚染したからである。←→ ところが、プルームが同村に流れた2011年3月15日の時点では、政府は20キロ以遠にある同村に放射能汚染が及ぶことを警告しなかった。→ そのために村にいた住民約5000人と、避難してきた人たち1200~1300人は何の警告も与えられず、そのまま被曝した。(※詳細は「震災レポート⑮」…『原発に「ふるさと」を奪われて』―福島県飯舘村・酪農家の叫び― 長谷川健一 宝島社2012)

・ここでもうすでに新しい「指針」の欠陥が見えてくる。
(1)原発から半径30キロという区切りは小さすぎる。…もし仮に福島第一原発事故がもう一度起きたとすると、「新指針」の下でも、飯舘村は大半が避難対象に入らない。
(2)避難範囲を円で区切るのは無意味。…放射性物質は風に吹かれて雲のように方向を持って流れる。→ 「どの方向に逃げるのか」を、その日の風向きによって決めないと意味がない。


○非現実的すぎる放射能拡散予測

・こうした「新しい指針」とともに、国(原子力規制委員会)は2012年に、全国16原発で「福島第一原発事故級の事故が起き、放射性物質が原発外に流れ出た」という前提に基づいた放射能拡散予測シミュレーションを公表した。…それまで50年以上、国は「原発事故で敷地外に放射性物質が流れ出ることはない」という前提に固執していたので、それを思えば一大方向転換である。(※あれだけの大事故を起こしたのだから、当然のことだが…)

・しかし、その政府のシミュレーションで「新避難対象区域=30キロ圏」が小さすぎることが、すでに露見している。…ex. 福井県の大飯原発など4原発で、30キロを超える地点が、積算被曝線量が避難基準値の1週間100ミリSvに達する試算が出ている(京都府南丹市、新潟県魚沼市など)。…また、隣接する高浜原発が事故を起こした場合の拡散予測では、大飯原発が避難基準値に達する地域に入る。→ つまり、大飯原発にいる要員も避難の必要が出てくる(→高浜原発と大飯原発が共倒れ…)。→〔※〝原発銀座〟の危険性…今回の事故でも、福島第二原発も(女川原発も?)この危険性をギリギリで免れた…〕

・さらに、国のこのシミュレーションは「非現実的すぎる」と批判を受けた。…①地形をまったく考慮していないこと。②「放射能放出から一週間、風向きが同じ」…という現実にはあり得ない仮定で作られたこと。(詳細はP197~198)


○新指針でも機能不全を起こしかねないオフサイトセンター

・この「新指針」には大きな欠陥がまだ残っている。→ 「オフサイトセンター」(緊急事態応急対策拠点施設)の移設が進んでいないのだ。

・オフサイトセンターとは、原子力施設において、事故が発生した敷地(オンサイト)から離れた外部(オフサイト)で現地の応急対策をとるための拠点施設。→ 国・都道府県・市町村や、事業者(電力会社など)の防災対策関係者が1ヵ所に集合して、連絡を密にしながら対策をとることになっていた。

・ところが、福島第一原発事故では、まったく機能しなかった。…福島県大熊町の「福島県オフサイトセンター」は原発からわずか5キロの位置にあった。→ オフサイトセンターの場所そのものが、放射線量が上がって避難対象区域になってしまった。…換気施設に放射性物質を取り除くフィルターもなかった。…さらに、周辺の市町村は住民避難に手一杯なうえ、地震や津波で道路網は寸断され、渋滞やガソリン供給が不安定になるなどで、関係者が集まることはできなかった。また電源も、電話などの通信手段も途絶してしまった。(※ここでも、〝安全神話〟による油断、準備不足、認識不足、というしかない…)

・オフサイトセンターは「原子力災害対策特別措置法」が定めている原子力災害のときの司令センターだ。→ オフサイトセンターが機能しないということは、住民避難の「司令部」が失われたことを意味する。→ この失われた「司令部」の機能を引き受けて、東京の首相官邸や原子力安全委員会は大混乱に陥った。→ 結局、福島市にある福島県庁に撤退したが、この「司令部の機能不全」のせいで、すべての住民避難計画が狂った。(※オフサイトセンターの重要性…そして、この国の「総合力」の脆弱性…)

・オフサイトセンターが原発から5キロという至近に設けられていたことは、はっきりとした国のミスだ(詳細はP199)。→ 事故後、国は原災法の施行規則をこう書き換えた(2012年7月)。…「立地地点を(20キロ未満から)5-30キロに変更」「空気浄化フィルター等の放射能遮断機能の確保」「30キロ圏外であり別方向に位置する複数の代替オフサイトセンターを確保」…(※いつも後手後手の〝泥縄〟か…)

・3・11後、オフサイトセンターはどうなったか(P201に一覧表)。→ 12の代替オフサイトセンターが、まだ国が決めた「新指針」の30キロの内側にある。…今回の事故で、50キロ離れた飯舘村までが汚染で避難を余儀なくされたことを考えると、14の代替オフサイトセンターが50キロ圏内に入ってしまう。→ 「第二の福島第一原発事故」が起きたときには、これらのオフサイトセンターは機能しなくなる可能性が高い、極めて脆弱な構造だと言える。


○「被害地元」嘉田前滋賀県知事の危機感

・もう一つ大きな問題がある。…国の新しい指針に従って「5キロと30キロ圏内」を想定した避難訓練について、多くの自治体で行われているのは「半径5(30)キロの円をコンパスで書いて、その内部の住民を動かす」訓練にすぎない。…依然「被害は30キロ内で完結する」という「都合のいいシナリオ」が前提になっている。

・こうした国の3・11後の住民避難政策に疑問を抱いた数少ない自治体首長の一人が、滋賀県知事だった嘉田由紀子氏。…滋賀県には原発がないが、隣の福井県の敦賀湾沿いには、15基の原子炉が集中していて「原発銀座」と呼ばれている。→ 敦賀原発は滋賀県側から13キロしか離れていない。

・福島第一級の原発事故が福井県で起きた、と想定して当てはめると、琵琶湖北部に放射性物質が降り注ぐことになる。…嘉田前知事は「福井県で原発事故があれば、京都・大阪という関西の主要都市の水道が汚染される」という危機感を持った。→ 滋賀県は国を待たずに、独自の原発シミュレーションを実施し、独自の防災計画を作るに至った(2011年秋…詳細はP202~203)。

・滋賀県が独自に放射性物質拡散シミュレーションを作るきっかけになったのは、文科省が同県の求めにもかかわらず「SPEEDIによるシミュレーション結果を渡さない」と表明したこと(※なぜ?…縄張り意識? 隠蔽体質?)。…県の計算式の原型になっているのは「琵琶湖環境科学研究センター」が持っていた光化学スモッグの大気汚染モデル。→ どうしてこの調査をすることを決心したのか、嘉田前知事に直接取材した。


○避難そのものがあまりにも非現実的

・「私は知事として『被害地元』という概念を作り、一生懸命『命と暮らし』を守ろうとしてきたが、『実効性のある避難計画は今のままでは無理だ』という結論に…その一つが交通問題。自動車では20~30時間のすごい渋滞になる。…(琵琶湖ルートの)船の逃げ道も、最大1000人乗れる船が二つしかない。それが一往復するのに2時間かかるのに、高浜原発から30キロ圏内には6万人いる…」「滋賀県は、(単なるコンパスで円を描いての30キロというのはおかしいだろうという判断で)風と地形とを併せた形での『43キロ圏内』という県独自の避難計画を作った。…データに基づいてUPZを作ったのは全国でも滋賀県だけ」「私は科学者なので、単なるコンパスで引いた円では納得できなかった。…リスク管理というのは最悪の事態を想定することです」…(※う~ん、日本にもこんな県があったのか…詳細はP204~205)

・「もう本当に非現実的…(あらゆる条件の市民を)『20時間以内に移動することは不可能』と言わざるを得ない。…他にも、ヨウ素剤の配布は国の新指針では『5キロ圏内では日常的に配布』『30キロ圏内では汚染した直後に配布』となっているが、そんなことは無理(烏賀陽注:ヨウ素剤は被曝後24時間以内に服用しないと効果が薄い)。…とにかくあまりにも非現実的だ(詳細はP206)」「何より、根本的な法律の矛盾として、水害などの『地域防災計画』では避難指示を出すのは市町村長なのに、『原子力災害対策法』では総理大臣。…全国知事会はそれを調整してくれるように原子力規制委員会にずっと言っているのだが、縦割りのために動かない(田中俊一委員長は全然やる気なし)。…「災害対策基本法」は総務省の管轄で、原子力災害は(かつては経産省下の原子力安全・保安院の担当だったが)今は原子力規制委員会だから、所管は環境省。→ 総務省と環境省が横の調整をしていない。現場はどうしてよいのか分からないんです。」…(※ここでも「縦割り行政」の弊害…詳細はP207~208)


○都道府県庁には放射性物質を扱う部署がない

・「3・11の前は、『絶対に原発事故は起きない。施設外に放射性物質は拡散しない』という前提だった。だから放射性物質を扱う部局は県自治体にはないのだ。都道府県庁で環境政策をする人たちは、『私たちには関係ない』と思っていた。…地域防災計画の原子力災害対策編というものを県は作ってはいたが、形式的なものです。」

・「国でも同じで、環境省の仕事ではなかった。それを事故が起きてから環境省が押し付けられた。…環境省が発足した1972年当時、例えばアメリカやドイツ等の諸外国では、原子力災害対策は環境政策の一貫ということになっていた。『原発事故が起きれば放射性物質で環境が破壊される』から。…だが日本ではSPEEDIのデータを原子力ムラ(経産省と当時の原子力安全・保安院)が抱え込み、放射能は『絶対に施設外には出ない』という大前提にしてしまった。だから環境省が公共用の安全水域や、放射性物質が大気中に漏れた場合の基準を作りようがない。『あり得ないこと』になっていたから。」

・(烏賀陽)…「つまり『放射性物質が放出されるような原発事故はあり得ない』というフィクションの上に行政が成り立っているので、環境省もそれはやらなくてよいことにされてしまった。」
(嘉田)…「だから、国の環境基準には放射性物質の項目がない。当然、自治体にもない。→ 『滋賀県独自で放射性物質の拡散シミュレーションをやろう』と私が言ったとき、滋賀県の環境政策の担当者は『僕らには放射性物質は扱えません、無理です』と言った。…防災対策の担当者も『原発事故のシミュレーションに関する科学的知識がありません』と言う。」…(※う~ん、日本はこの程度の「総合力」で、原発を50何基も稼働させていたのか…)→ 「私が元いた琵琶湖研究所の所長と相談・説得して、自治体として全国で初めてこの原発事故を想定した放射性物質の拡散シミュレーションをやったのです。というのは、文科省はSPEEDIのデータを、立地地元にしか渡さないから。」


○「汚染されないと避難させられない」住民見殺しの論理

・「『立地地元』には、安全協定で原発稼働の同意権がある。しかもいろいろな経済的なベネフィット、原発の交付金がくる。←→ ところが福井県・高浜原発から13キロしか離れていない滋賀県には同意権もなければ、交付金もこない。」

・「(国は)今の時点でも『避難計画にSPEEDIのデータを使わない』というのが指針。→ 『モニタリングデータだけで避難計画を作る』というので、これも私たちはおかしいと言っている。…というのは、モニタリングデータなら、すでに放射性物質が舞い落ちて、汚染されたことが分かってからしか避難できない。これでは県民が被曝するままに見捨てることになる」…(「汚染・被曝してから逃げよう」という逆立ちした理屈…)

・「SPEEDIの場合には、ある程度シミュレーションで予測できるが、『それでは避難させられない。実態として汚染されないとダメだ』と国は言う」→ 「結局国は、滋賀県に対してSPEEDIのデータを出すまでに2年くらいかかった。…県のシミュレーションは、2011年の3~4月にすぐに準備して8~9月にはほぼ出ていた。国がSPEEDIのデータを渡したのはそのずっとあとです」…(※福島原発事故が起こった後でも、この国の〝意固地さ〟はなぜ…?)


○「リスクは知らせない」の根本にある父権主義

・「シミュレーションができたあと、今度はその公表に県内の市町村が抵抗した。『人心を混乱に落とし入れるな』という首長が多い。『リスクを知ったうえで備える』ことに、彦根と近江八幡の市長は最後まで納得しなかった。…『リスクは知らせるな、知らせる以上は避難も含めてすべての対策を取れ』と言う…『人々には知らしむべからず、寄らしむべし』です。…この発想は地方へ行

けば行くほど強い。」
・(烏賀陽)…「『避難計画すべてが完璧に整わないと、リスクを知らせるべきではない』というなら、いつまでたっても避難計画はできませんよね。」
(嘉田)…「だから作らないんです。こういう発想はもう、政治家の中にものすごく根深い。『住民を守ってあげる』と言うとよいことのように聞こえるが、結局見殺しにするということです。行政が全部守ってあげる。…これまで自民党がやって来た『パターナリズム』(父権主義)です。特に地方の政治家には多いですね」…「だから(川内原発を再稼働させた)鹿児島では避難計画を作らない…知事が非現実的な避難計画は作らないと言う。特に要援護者の避難計画は現実的ではない。だから避難計画は作らない。これでは、県民を見殺しにすることになる」…「行政が全部抱えてあげる。お前らの命はわしが預かった、とでも言わんばかりです。『知らしむべからず、寄らしむべし』という政治信条…もう日本中それが強い。自民党がそもそもそういう発想ですから。リスク開示をしない…」(詳細はP211~213)
〔※この「父権主義」の項、思わず長く引用してしまったが、これも「大衆は所詮愚かだ」という上から目線の大衆蔑視の一形態か…そして〝秘密主義〟〝隠蔽体質〟の根っこにあるもの…〕


○琵琶湖が汚染されれば被害は近畿全体に拡がる

・(烏賀陽)…「滋賀県の原発事故シミュレーションを見てびっくりしたのは、琵琶湖が汚染されてしまうと淀川水系が汚染されてしまい、それを上水道の水源にしている京都府、大阪府にも汚染被害が広がる、ということだった。」
(嘉田)…「そうです。1450万人、近畿全体に汚染地元が広がる」「大気汚染の後は水質汚染もやりました。そして放射性ヨウ素の拡散状態を見て、その後は生態系の影響です。生物濃縮とか…福島でもそうだったが、放射性物質は底に沈む。ナマズとか水底にいる生物から影響を受ける。」
(烏賀陽)…「大阪府民の飲み水も汚染されると聞いて、大阪府民の態度は変わったか?」
(嘉田)…「当時は橋下徹・大阪府知事も『そのデータをくれ』と言ってきたので、ちゃんと出した。だけど橋下さんは、2012年に石原・東京都知事と組んで維新の党を結成してからはガラッと変わった。もう原発のことは言わなくなった。…もう忘れている、彼は(笑)。…橋下さんが大阪府知事時代に(ある会合で)『テレビ取材が入らないなら僕は帰る』と言って帰り始めた。テレビがないところではご自分は発言しない。」

・「私は四つの提言をしている…
①『立地地元』『被害地元』『消費地元』の三つの地元があること。『消費地元』というのは、電力を消費する関西。…関西は被害地元とほぼ同じ。
②関西のみなさん自身が水で影響を受ける当事者なのだから、『琵琶湖を介して、自分たちの水が汚染される』ことに対して関心を持ってほしい。
③再稼働の必要がない。…2012年の大飯原発の3、4号機の時にずいぶん脅かされた…ブラックアウトしたら病院で命が危なくなるとか、経済が成り立たないとか、真夏のピーク時の話。→ 私は(関西広域連合のエネルギー対策・節電対策の責任者で)、ともかく真夏のピークをカットしましょうと、2000万人に呼びかけた(詳細はP215)。…『クールシェア』や太陽光発電などで、関西全域で約500万キロワットもカットした。もう、ブラックアウトなんて誰も言わないでしょう?…(※あの東京圏での「計画停電」も脅しだった…?)
④琵琶湖には足がない、避難できません。琵琶湖に放射性物質が降ったら、もう打つ手がありません。」(※う~ん、打つ手がないのか…)

・(烏賀陽)…「国はまだ『立地自治体しか再稼働に同意の必要はない』と言っているのか?」
(嘉田)…「同じです。(大飯原発の再稼働の時に)『安全協定で滋賀県の同意を得る義務はない』と言っている。」
(烏賀陽)…「『被害自治体』という概念を国は採用するでしょうか」
(嘉田)…「多分しません。彼らはともかく裏で意思決定したい。福井県知事だけの了解で進めたいと思っている。それこそ、何兆円という利害が絡んでいる。…経済利害と政治パワーの強さだと思う。」…(※う~ん、「父権主義」と「経済利害」が絡んで、「ともかく裏で意思決定したい」…これが〝日本政治の真実〟か…?)


○原子力防災体制の欠陥

・嘉田前知事の話から、福島第一原発事故後なお残る国の原子力防災体制の欠陥を抽出してみる。(12項目)
〔事故後も変わらない円形の避難地域設定の問題点〕
(1)原発を中心にコンパスで5キロあるいは30キロの円を描いて避難区域を決めるやり方は、実効性のある避難には役立たない。
(2)風向き、降水(雨、雪)など気象条件と地形を勘案して汚染を予測し、避難が必要な方向と範囲を決めなくてはならない。

・住民避難の観点からいうと、福島第一原発事故での最大の教訓は「放射能を帯びたチリの塊が雲状(プルーム)になり、風に吹かれてランダムに飛んでいく」ということだ。…政府が決めた「直径Xキロの円」などとまったく無関係に飛び広がった。そして地上に落ちたところが放射能汚染地帯になった。

・風に乗ったチリの拡散は一種の「自然現象」なのだから、人間が決めた人為的なラインなどお構いなしで動く。←→ ところが政府はそのことに気づかず、あるいは気づいても改めず、避難範囲を半径「3キロ→5キロ→10キロ→20キロ」と数値を増やしただけだった。

・そもそも「円形の避難範囲設定」が間違っていたのだ。→ その結果、避難すべき人が避難できず、避難しなくてもいい人まで避難するという無駄と混乱を生んだ。→ そして、原発事故後の「新指針」でも、政府の基本は「円形の避難地域を設定する」で、同じ過ちをそのまま繰り返している。

・もともと「住民避難範囲を円で設定する」という発想は、1979年のアメリカ・スリーマイル島原発事故で始まった。…当時はメルトダウンと放射性物質拡散のような大きな原発事故そのものが想定されておらず、メルトダウンが進行していた非常に緊張度の高い中、約300キロ離れたワシントンのNRC(原子力規制委員会)の担当者が、「とりあえずの対策」として提案したのが「原発から半径5キロの線を引いて、内部の妊婦や未就学児童を避難させる」という案だった。→ それがそのまま事故後も政策として定着し「前例」として各国にも広がった、というにすぎない。…つまり何らかの実効性を確認した上で「円」で限定するという政策が生まれたわけではない。

・原発事故前も後も、日本政府の発想は、それをそのまま形だけコピーしているにすぎない。…福島第一原発事故で円形が無意味だと分かっているのに、事故後も「なぜ円形なのか」「意味がないのではないか」という疑問を誰も問わないのである。(※う~ん、ここでもアメリカのコピー、「対米従属」か…。しかも、世界史的な「原発過酷事故」を起こしてしまった後でも、改められない、教訓を生かせない、失敗に学べない…。→ このことは、70余年前に国民が「甚大な犠牲」を強いられた、あの「戦争の失敗・教訓」を生かせてないことの、繰り返しか…?)
〔SPEEDIを避難に生かせなかったのは人為的ミス〕
(3)そうした気象条件や地形を合算して避難の必要な地区を予測するシステムとして、原発事故前に「SPEEDI」があった。←→ しかし原子力規制委員会は、「福島第一原発事故ではSPEEDIは役に立たなかった」と結論づけて、避難計画の策定から排除してしまった。(実際には、SPEEDIがシステムとして機能しなかったというよりは、政府内部や東京電力内部でSPEEDIの存在が忘れられていた、避難計画にどう生かすかを理解できる人がいなかった、という側面が強い…)
(4)従って、新指針の避難方針は「モニタリング」で汚染を計測して範囲を決め、避難を開始することになっている。→ これは「放射性物質が飛散し、降下した量」を測定してから避難を決める、という手順である。…つまり「その地域が汚染してから避難のやり方を決める」という倒錯した手順であり、そこにいる住民は避難前に被曝する可能性が高い。
・SPEEDIは、こうした「円形避難」の欠点を補うシステムとして存在した。「放射性物質の雲(プルーム)がどちらの方向に、どれくらいの距離まで流れるのか」を刻々シミュレーションしていくシステムだった。→ 「放射性雲の流れる方向に行ってはいけない」「その方向に住んでいる人を避難させよ」を警告するためにあった。

・しかし、福島第一原発事故のときに「役に立たなかった」という俗説が一人歩きして、事故後、原子力規制委員会は避難計画への運用をやめてしまった。←→ しかし、これはSPEEDIがシステムとして機能しなかったというよりは(PBSというバックアップのシステムが存在した事実は、5章で後述)、その存在を知り、避難計画にどう使うのかを知る人が、政府(首相官邸、経産省、原子力安全・保安院、原子力安全委員会など)や東京電力内部にいなかった、存在を知っていても現実への応用を思いつかなかったという「ヒューマンエラー」である色彩が強い。→ そしてそうした人々は、処罰されたり責任を問われたりしていない。(※つまりここでも、「失敗」を検証・反省し、未来に生かす、ということがなされていない…)
〔避難そのものがあまりにも非現実的〕
(5)避難区域にいる6万人の地域に、脱出路が国道一本しかない。脱出にはバス500台が必要。→ 20~30時間の渋滞が発生する。…「20時間以内」の実効性のある避難は物理的に不可能。
(6)同じ6万人の地域に医師は15人しかいない。薬剤師も同様。→ ヨウ素剤の実効性のある配布は不可能。
〔あくまで当事者は立地地元だけ〕
(7)原発からの距離が十数キロであっても、原発がない都道府県を、国は「地元」とは認めない。
(8)よって、国主催の原発事故の避難訓練に、国は「立地地元ではない隣の都道府県」を含めない。
(9)よって、再稼働の合意を必要とする安全協定の対象に「立地地元ではない隣の都道府県」は含まなくてよい。隣県が反対しても再稼働してよい(福井県の大飯原発再稼働ではそのとおりになった)。
(10)放射性物質の拡散を予測したSPEEDIなどのデータを、国は「立地地元ではない隣の都道府県」に渡さない。→ 隣県は、自分でシミュレーションをして避難計画を決める必要がある。

・政府の事故対策には、「人工的な境界線に固執して、自然現象を無理やり当てはめようとする発想」が頻出する。…(7)~(10)は「都道府県境」という人工的な境界線で当事者の自治体(都道府県)を決める無意味な発想である。

・滋賀県の事故シミュレーションが明らかにしたのは、琵琶湖の北部に放射性物質が降り注ぎ、琵琶湖水系を水源とする京都府、大阪府の上水道も汚染されるということ。→ つまり被害を受ける都道府県は、滋賀県、京都府、大阪府と「県境」に関係なく広がるということだ。

・ところが、国は福島第一原発事故後も「原発が建っている都道府県だけが当事者」という姿勢を崩していない。…これが「立地地元」「立地自治体」の発想である。だから、国主催の防災・避難訓練に隣県を含めない。←→ 事故が起きれば自分たちの県にも放射性物質が来ると分かっている隣接する都道府県は、自分たちで独自の訓練をするほかない。
〔中央官庁の縦割りの弊害が生む避難指示問題〕

・これは次の(11)と合わせて考えると、極めて危険な状態だということが分かる。
(11)水害、土砂崩れ、噴火といった「一般災害」では「災害対策基本法」で自治体が避難指示を出せる。←→ ところが原子力災害だけは「原子力災害対策特別措置法」に基づいて総理大臣が避難指示を出す。…「災害対策基本法」は総務省が管轄し、「原子力災害対策特別措置法」は環境省が所管する(福島第一原発事故前は経産省下の原子力安全・保安院が所管)。→ 二つの官庁が縦割りのまま横の調整をしない。…「誰が避難指示を出すのか」「誰の避難指示に従うのか」という最も基本的な法律が、「股裂き状態」のまま放置されている。→ いざ事故の場合、地元自治体が判断に迷う。

・福井県の原発で事故が起きた場合、13キロしか離れていない滋賀県の住民はどうすればよいのか? 知事や市長は避難指示を出すのか?…嘉田前知事の問いかけは、こういう切実な問題を含んでいる。→ (1章で検証したように)福島第一原発事故では、政府内部で貴重な時間が浪費され、国の避難指示までに時間が空転したことが明らかになっている。…隣県としては死活的な問題だろう。

・無論、国の避難指示を待たずに自治体が避難を命じることも可能である(福島第一原発事故では、数分の差で国より先に福島県が避難指示を出している)。←→ しかしその場合、中央官庁(医師の派遣には厚労省が、バスの手配には国交省がからむ)や国の機関(自衛隊など)は避難に協力してくれるのか? 警察は? …こうした問題はまったく解決されないままになっている。しかもその原因は、総務省と環境省がすり合わせをしない、という旧態依然とした「中央官庁の縦割り行政」なのだ。(※う~ん、結局、この問題に戻ってしまう…)
(12)福井県の原発で福島第一原発事故級の大事故があった場合、隣県・滋賀県の琵琶湖に放射性下降物が降る。→ 琵琶湖は下流の京都府、大阪府の上水道の水源であり、放射能汚染被害が都市部に拡大し、被害規模が増える。
                               (3/25…4章 了)            


 次回の〔後編〕は…最終の【5章】原発事故の進展は予測できなかったのか…の予定です。→ 4月中の完成を目指します。
                                   (2017.3.25)
          


2017年3月24日金曜日

(震災レポート38 )

(震災レポート38)  震災レポート・5年後編(4)―[福島原発論 ①]



・昨年の後半に高齢の親族の看取りということがあり、いろいろ忙殺されてだいぶ間が空いてしまった。昨年からサブタイトルを「5年後編」としたが、震災後もうすぐ6年になろうとしている。ここで遅まきながら、もう一度福島原発事故の原点に戻って、「なぜこの事故は起こったのか」そして「この事故は戦後の日本社会にとってどういう意味を持っているのか」ということについて、改めて検証してみたい。世界的な〝激動の年〟あるいは〝混迷の年〟になるだろうと予測されている2017年を、そこから始めてみたい。
                                         

『福島第一原発 メルトダウンまでの50年』
 烏賀陽弘道 明石書店2016.3.11
―事故調査委員会も報道も素通りした未解明問題  ―――[前編]


〔烏賀陽(うがや)弘道は(「震災レポート」⑤の『報道災害【原発編】』や⑳の『原発難民』でも取り上げたが)1963年京都市生まれ。フリージャーナリスト。86年京都大卒業後、朝日新聞入社。03年にフリーランスに。…著書に『原発難民』『ヒロシマからフクシマへ』など多数。〕


【まえがき】

〔この本の意図〕

・福島第一原発事故の発生直後から、もう50回前後はフクシマの現地に取材に足を運んだ。また避難民の話を聞くために、福島県外の避難先も訪ね歩いた。
・さらに「一体なぜ、政府や電力会社はこんな失敗をしたのか」という問いの答えを探して、政治家や官僚、学者たちの話を聞いて回り、また彼らの書いた著作を読み、会いに行った。原発関係者にもたくさん会った。事故調査委員会にも取材した。「原発の生まれ故郷」であるアメリカの核施設も取材して歩いた(『ヒロシマからフクシマへ』ビジネス社2013.7.1 参照)。
・そんな作業を5年続けてみると、おぼろげながら一つの像が見えてきた。…この本は、「ポスト・フクシマ」としか言いようのない、長くて暗い現在進行形の時代の、(5年間の取材の成果を一区切りとした)途中経過報告である。


〔取材テーマ〕

(1)フクシマの避難者や被災地はこれからどうなっていくのか。…その事実を後世の歴史のために記録していくこと。
(2)「一体なぜ福島第一原発事故は起きたのか」「なぜ住民避難に失敗したのか」という真相を詰めていくこと。
(3)「事故後、原発事故が起きたときの対策は、住民の安全を守るに足るよう改善されているのか」をウォッチしていくこと。
(※これらはまさにジャーナリストの本質的な役割…)

→ そうやって原発事故をさかのぼって取材していくうちに、福島第一原発事故の遠因は、日本の原発黎明期である1950年代からあったのではないか、という仮説が私の中で芽生えた。……政府が立地基準を定める前に、東電が勝手に自前の津波や地盤の基準で同原発の場所を決めてしまった話(3章)。その後、保険業界などが保険引き受けを拒否するほどの巨大事故を予想していたにもかかわらず、政府はそれをまったく無視、さらに情報を隠蔽してしまった話(同)…。
・こうした過去の事故原因が積み重なった醜悪な集積体が、福島第一原発事故なのではないか。…この本は、その仮説を述べ、根拠を示そうとしている。
・この「原子炉3基がメルトダウン」という世界で類例のない惨事に至った原因について、マスコミ報道や事故調査委員会は「事故後の政府や東電の対応がいかに失敗したか」を解明することに腐心しているが、私には「原因は50年以上さかのぼって存在した」という感触が強くなった。…「50年以上にわたって各人が各所でミスを積み重ねた結果」があの大惨事なのだ。
・しかし、こうした検証を積み重ねるうちに、「日本社会には、原発という巨大なエネルギー源を引き受け、運転していくに足る総合力があるのか」という疑問が膨らみ始めた。
・福島第一原発事故は、日本社会全体が持っている「総合力」or「国力」を計測する絶好のケーススタディだと思われる。…これは、第二次世界大戦(太平洋戦争)の悲惨な敗北が、当時の日本の組織文化や社会文化の欠陥をあぶり出す研究材料になった現象に似ている。(※太平洋戦争の敗北と原発事故とのアナロジー)
・「敗戦体験」では、軍事優先主義や帝国主義、民主主義の否定といった社会・経済・政治上の要因が国の破滅を招いた、という教訓を引き出した(※う~ん、戦後70年を経て、今その「教訓」が危うくなってきている…)。→ 福島第一原発事故という巨大な失敗も、そうやって未来への教訓として「何を改めるべきなのか」を学ぶ材料にしなくてはならない。(※う~ん、これも事故後早や5年にして、あやしくなってきた…)


〔現代日本の組織文化や法律・制度の欠陥〕

・原発事故の取材を通して、あちこちで現代日本の組織文化や法律・制度の欠陥が姿を現してきた。それらは大ざっぱに三つに分けられる。

(a)組織文化の欠陥
・例:国と都道府県がバラバラに動いていて、制度や法律の実効性を削いでいる。…国の中でも環境省、総務省、経産省などがコーディネートなしにバラバラに動いている。統合性に欠ける、いわゆる「タテ割り行政」(※各々の省益の確保や天下りの斡旋に精出している…)。…また電力会社や政府の情報を公開しない秘密主義もこれに該当する(→ 1,4章)。(※この「情報公開」に関する意識の低さは、日本社会のあらゆる分野に共通する課題だろう。…今のところ「小池都政」は、少なくともこの「情報公開」に関する姿勢については評価できるか…)

(b)法律・行政制度
・例:放射性物質は風に吹かれたチリのようにランダムに飛び散ることが分かっている現在でも、国の住民避難政策は「原発を中心にした真円」の「線」で区切る、という実効性の低い形をとっている。また原発から数キロの至近距離に住民がいても、県境をまたぐと「立地自治体ではない」として稼働の同意対象から外される。(→4章)

(c)ヒューマン・ファクター
・例:原発のメルトダウン動向をほぼ正確に予測していたシミュレーションが計算され、首相官邸にまで届いていたにもかかわらず、誰もその意味や価値を理解できなかった。…一刻を争う事態の中、テレビ放送用に無駄なやらせ閣議を開いた。…緊急事態宣言の決裁を先送りして無駄な会議に中座し時間を浪費した、などのヒューマン・エラー。(→1、4章)
……こうした「組織文化」「法律・行政制度」「ヒューマン・ファクター」の欠陥は、原発事故後5年を経ても、改善された形跡を見出せない。…例:福島第一原発から数キロの距離にあったために、機能不全に陥った司令センター「オフサイトセンター」が、やはり政府の避難指定区域である30キロ圏内に設置・移設されている例が、全国多数ある。→ 未来のいつか、3・11と同じ地震や津波が日本の原発を襲えば、また同じような規模の汚染や被曝が繰り返されるのではないか。
・また、この原発事故に対する「検証能力」にも大きく落胆した(詳細はP9)。そして、そうした事故調査委員会の報告を検証すべき立場にあった新聞やテレビなどの報道機関も、そうした事故調査委員会の欠陥を指摘した形跡がない。
・検証能力を欠いた社会とは、レフリーやジャッジがいないスポーツゲームと同じだ。→ そこには反則や違法がはびこる。…人間のやることから失敗を完全に排除することはできない。しかしいったん失敗が起きたら、徹底的に原因と責任を検証しなければならない。←→ そうしなければまた同じ失敗が繰り返される。→ そんな社会は疲弊し、劣化する。


〔「現在までに、何重のミスが重なっているのか」という層〕

(ア)2011年3月11日に至るまでに、事故の遠因をつくった東京電力や電力業界、規制官庁、政界、学界。
(イ)事故後、被害(主に被曝と汚染)をもっと軽く抑えることができたのに、その方策を取らなかった、あるいは拡大させた電力業界、規制官庁、政界、学界。
(ウ)そうした事故原因を調査・究明するはずの調査委員会。
(エ)同じ事故や被害が繰り返されることがないよう法律や制度を改善するはずの電力業界、規制官庁、政界、学界。
(オ)そうした改善や事故原因の究明がなされているのかを検証する報道。

―→「誰一人その責務を果たせていない」という「総崩れ状態」なのだ。

・原発事故で国土が放射能に汚染され、10万人もの住民が家や故郷を失うというのは、戦争に次ぐ「国難」級のクライシスである。…そこまで来てもなお、電力業界、規制官庁、政界、学界、報道という日本の「ベスト・アンド・ブライテスト」たちが全員エラーを犯し続けている。誰も完全に職責を果たせていない。→ この現実を、私たちは否認することなく、直視する必要がある。その意味をもっと真剣に考えなくてはならない。
・「原発という、事故を起こせば危険だが、得るところも大きい巨大エネルギー源を、どう社会が引き受けていくか」という「社会の総合力」において、事故調査委員会や報道なども立派な当事者なのだ。…「巨大なエネルギー源であるがゆえに、万が一にもミスがないようチェックし、監視し、検証する」社会が担う機能の当事者なのである。
・こうした電力業界、規制官庁、政界、学界から報道までを含めた「社会全体の総合力」が「原発を引き受けるレベルに達しているのか」というテストが、福島第一原発事故だった。→ 日本社会はそのテストに落第したのだ。そして事故後の行動においても、やはり及第点には達していない。→ そして実はこの「日本社会には原発を引き受け切れる総合力がない」という現実こそ、日本人がもっとも目を背けたい、否認したい現実なのではないか。


〔福島第一原発事故は終わっていない〕

・2011年3月11日午後7時18分に政府が発した「原子力緊急事態宣言」は、現在も解除されていない。…福島第一原発は「収束」「鎮静化」どころか、火事でいえばまだ火が消えていない状態なのだ。それを政府も認めている。…私たちはまだ、あの「2011年3月11日の暗くて重い夜」の中にいる。
・その間に、被爆した人の数は約23万人、避難を続ける人の数はまだ10万人いる。…大都市近郊の中型都市が一つまるごと消えてしまった計算だ。…(2016年2月現在)税金から支払われる賠償金は5兆8000億円超、除染費用は約5兆円の見通し。(※最近の報道では賠償金はさらに増えて7.9兆円…)
・「福島第一原発事故は終わっていない」どころか、2011年3月11日からずっと続いているのだ。これほど長期間続く事故というものが、人々の理解を超えている、というだけである。
・そして福島第一原発事故には、5年経っても未解決・未解明のまま放置されている事案が多すぎる。…ex.「なぜ冷却装置が使われなかったのか」(→2章)「事故後も実効的な住民避難策の改善が見られない」(→4章)等々…。


〔そして誰もいなくなった〕

・ふと周りを見渡すと、発生直後から5年間、福島第一原発事故を取材し続けている同業者は、社員記者・フリー記者問わずほとんど誰もいなくなってしまった。新聞やテレビはもちろん、週刊誌や月刊誌を見ても、福島第一原発事故は「その他たくさんのニュースの一つ」として埋没している。…私自身「原発ものは広告や営業が嫌がる」と次々に連載を打ち切られ、読者の寄付と自腹を原資に取材に行くという苦境を強いられている。
・(マスコミだけではなく)人々の日常会話でも「原発事故」は「口にするのがためらわれる話題」に変貌しつつある。…日本社会は本格的な「忘却」あるいは「黙殺」の過程に入ったようだ。
・原発から流出した放射性物質が近隣住民を被曝させるという深刻な事態は、人類の歴史で3回しか起きていない(前の2件は米・スリーマイル島事故、旧ソ連・チェルノブイリ事故)。…この急速な国を挙げての忘却は、「驚いた」を通り越して不気味さすら感じる。


〔日本社会の総合力の欠如〕

・やはり「日本社会には原発を引き受け切れる総合力がない」のではないか。→ 日本人はそれを認めたくない。かくも自分たちの社会が劣化してしまったことから、目を背け、否認したい。…そんな無意識が作動しているのではないか。
・しかし、私たちは心に刻まなければならない。日本の原発は、冷却水の取水を河川や湖水ではなく、海水に頼っているので、すべて海岸線上にある(→3章)。言うまでもなく日本列島は世界有数の地震多発地帯であり、しかも、震源地によっては海岸に津波が押し寄せることを避けられない。…我々が福島第一原発事故で目撃した通りである。
・私は原発否定論者ではない。莫大なエネルギーを生む原発は、安全に運転されている限りは有益なエネルギー源のはずである(※う~ん、核廃棄物の最終処分場は…?)。→ 取材で訪れたアメリカには「半径50キロは無人の砂漠」というような人口希薄地帯に原発が設置されていた。…そのくらいの広い国土があれば、日本ほど神経質になる必要がないというのが肌でわかった。(※そして最終処分場には無人の砂漠orアラスカがある…?)
・しかし、日本にはそんな人口希薄地帯はなく、海岸地帯はどこも世界有数の人口過密地である。そこに原子炉が並んでいる。→ 地政学的な判断だけでも、日本が原発を運転し続けるのはきわめてハイリスクと考えざるを得ない。→ そして既述のように、日本社会の総合力は、このリスクを乗り切るには落第点しか取れない。……原発否定論者ではない私が危惧するのは、そういったリスクである。
・この本の内容は(原発の専門家の査読を経ているが)あくまで私の仮説であり、至らない部分が多々あることは承知の上で、社会的議論と、集合知を呼ぶ意味であえて刊行する。→ そうして「2回目のフクシマ」を起こさないことが、私がこのささやかな本に込めた願いである。そして、それこそが、家や故郷を理不尽に奪われた被災者の無念を未来に活かす、唯一の道だと信じている。 

(2016年2月 烏賀陽弘道)

(注記:「福島」を「フクシマ」とカタカナ表記するのは一義的には「福島県」「福島市」の混同を避けるためだが、広義には原発事故や汚染が「福島県」という行政区分を超えて汚染が広がった事実を含めて「福島第一原発事故の被害や影響が及んだ空間」を示す概念として「フクシマ」という呼称を用いる。)


【1章】政府内部3・11のロスタイム


○「国は私たちを国民だと思っているんだろうか」

・この章では、東日本大震災当日に政府内部で起きた時間の浪費(ロスタイム)を検証する。…それは、そのロスタイムが、住民避難を遅らせ、被曝を招いたから。→ 福島第一原発事故から学ばなければならない最大の教訓は、この「東京での政府の分単位の遅れが、原発周辺の住民にとっては致命的になる」ことである。→ それらを分析し記録に残すことで、同じ悲劇を繰り返さないための教訓にできる。
・福島第一原発が立地する大熊町(人口約1万1500人)と双葉町(6900人)。…大熊町は、1号機の水素爆発より36分早くすべての町民が脱出できた。一方の双葉町は、脱出が完了したのは爆発から約30分後だった。→ このため、まだ残っていた町民が降ってきた放射性下降物を浴びた。…つまり、約1時間の差が明暗を分けた。…「あと30分避難完了が早ければ、住民の被曝は少なくて済んだ」と考えざるを得ない(詳細はP21)。→ 原発災害では、30分のロスタイムも許されない。私が「地震発生から1号機爆発までの25時間の間の政府のロスタイム」にこだわる理由はここにある。
・(脱出した最後のグループにいた双葉町・井戸川町長の話)…「『ドン』と低い音がしたんです。…その瞬間、何が起きたかわかりました」「もう終わりだ、と思いました」「死を覚悟したんです。今でもそうです。…あそこには若い病院の職員もいた。看護師さんもドクターもいた。まだ300人くらいがいたんです」「国は、私たちを国民だと思っているんだろうか。…まるで明治維新の未完成の部分が今日まだ残っている、みたいな話じゃないですか」(詳細はP21~24)。…双葉町民があと30分早く脱出できていたなら、双葉厚生病院の悲劇は起きなかったことを、もう一度記しておく。


○テレビ用やらせ閣議で30分のロス

・(海江田経産大臣の回顧録&インタビューより)…福島第一原発事故の当日、一度済ませた閣僚の「緊急災害対策本部会議」を、「閣僚の一人」の提案により、テレビカメラ向けにやり直し、「移動も含めて約30分の時間」を無駄にした。…つまり、テレビ報道のカメラに収録されるために、メモという台本を読み上げ、すでに終わった会議をフリだけやって見せた。
・どの「閣僚」がやらせ会議を提案したのか、という著者の質問に対して、海江田氏は「言えない」として言明を避けたが、著者はその「閣僚」を菅直人総理と推論している。→ 菅元総理にも取材を申し込んだが、応答はなかった、という。(詳細はP24~30)


○保安院内で海江田氏に「15条通報」が伝わるまで50分

・原発事故の情報伝達にまつわる行政と法律の仕組み。…甚大な原発事故の発災 → 「原子力災害対策特別措置法」が作動 → この時点から、周辺の住民の避難は東京の「国」政府の責任になる。…住民の強制避難やある区域の封鎖、移動の制限など居住や移動の自由、私有財産の部分的な制限が必要になる。また地方自治の原則を一部停止して、都道府県に指示を出すこともある。→ そうした権限=権力の行使のために、総理大臣を長にして、政府組織を臨時に改編する。この司令部を「原子力災害特別対策本部」という。…こうした国権の発動のための根拠法が「原子力災害対策特別措置法」。(詳細はP30~31)
・原発がすべての冷却用電源を失ったとき(全電源喪失)、電気事業者は政府に通報しなければならない、という法的義務がある…「15条通報」。→ 逆に言うと、15条通報が政府に届き「原子力災害特別対策本部」が結成されないと、避難を命じる法律的な主体が出現しないので、住民の避難は始められない。
・ところが、福島第一原発から原子力安全・保安院に15条通報が届いてから、海江田経産大臣に(経産省の中を)連絡が届くまで、50分もかかっている。(詳細はP31~40)
〔※遅れた要因は、各担当部署の〝未経験・未想定〟の事態によるミスやロスと、一刻を争う緊急事態のさ中に「起草・校正・校閲」という生真面目な文書主義によるものとされ、やはりここにも、日本の原発の「安全神話」による、「過酷事故」に対する備えの甘さが見てとれる…〕


○菅総理、非常事態宣言を了承しないまま党首会談へ

・(「海江田ノート」によれば)…海江田通産大臣が、菅総理に非常事態宣言発令を上申すると、菅総理は「チェルノブイリ級の原発事故」と認めることに躊躇し、また寺坂保安院長が事務官僚(経済学部出身)で技術的な質問に答えられないのに怒り、さらに法的な根拠を尋ねて、その場にいた政府スタッフたちが『緊急事態関係法令集』を調べ出し…そうこうするうちに、菅総理は、(原子力緊急事態宣言の発令を了承しないまま)予定されていた与野党の党首会談に行ってしまった。(※う~ん、これがこの国の「危機管理の総合力」か…)
・繰り返すが、総理が了承しないと、原子力緊急事態宣言は発令されない。原子力災害特別対策本部も発足しない。つまり住民避難を始めることができない。→ 結局、福島第一原発から原子力安全・保安院に15条通報のファックスが到着してから原子力緊急事態宣言が発令されるまでに2時間18分。→ 翌12日、双葉厚生病院に取り残されていた井戸川町長はじめ、約300人の患者や職員がわずか30分差で脱出が間に合わず、放射性降下物を浴びてしまったことを思い出してほしい。…この「政府内」の2時間18分のロスは痛恨である。(詳細はP41~43)


○事故に生かされなかった訓練の教訓

・菅総理による1時間21分のロスは、非常に不思議に見えた。というのは、菅総理は2010年10月に今回の福島第一原発事故と同様の想定をした「原子力防災総合訓練」に参加し、「15条通報 → 原子力緊急事態宣言発令」の手順を一度練習し、その時は経産大臣の上申書を受けてから緊急事態宣言まで、わずか57秒しかかかっていない。…つまり、この訓練の教訓はまったく本番で生かされていない。
・このことについて、菅元総理の著書『東電福島原発事故』(「震災レポート⑳」参照)を検証してみると、その記述には「住民避難」の観点が抜けている。……地震が発生した後の政府当局者の小さなロスタイムの積み重ねが、最後は雪だるま式に膨れ上がって住民避難の遅れになった。←→ しかし、こうしたロスタイムについて、当事者たちの責任感は薄い。そして、彼らの証言を取材していく中で気づいたのは、その多くが「3月12日の水素爆発の時点で、30分差で逃げ遅れた人たちが双葉町に約300人いた」という事実を、彼らは知らなかったことだ。
・福島第一原発事故は巨大な事故である。当事者たちも、それぞれの担当や持ち場、その周辺での事実を知っているにすぎない。…事故の全体像を把握している人がほとんどいないのだ。→ よって「自分の持ち場で起きた何分かのロスタイムが積もり積もって、住民が逃げ遅れた」という全体像に気づくこともほとんどない。…政府・国会・民間など各事故調をはじめ、報道にもそうした原発周辺にいた住民の観点からの分析や追及は見つからない。


○崩壊熱の危険を伝えなかった保安院次長

・2ヵ月前に経産大臣に就任したばかりだった海江田氏は、原発事故に関する「予備知識」がなかったと考えるのが自然だろう。→ 事実、海江田大臣は、平岡原子力安全・保安院次長が原子力緊急事態宣言の上申書を持って来るまでは、「原発が深刻な事態になっている」と認識していなかったという。→ 従って、経産省の対策会議では、むしろ原発のことよりも、これから起こる大規模停電と、コンビナートの火災をどうするかという話が、主に優先的な課題だった、と著者のインタビューに答えている。
・平岡次長はなぜ、原発が最悪の事態になる前に、もっと早く原発の危険な状態について海江田大臣に知らせなかったのだろうか。…その後異動を繰り返して環境省審議官になっていた平岡氏に取材を申し込んだが、「もう原子力安全・保安院次長ではないので」という理由で断られた(詳細はP47~49)。〔※う~ん、日本の官僚組織の「たらい回し人事」の無責任さか…最近話題の都庁も、そのミニチュア版…?〕


○ベント決定から実施まで5時間もかかった理由

・その後、翌日12日午後3時36分に1号機が水素爆発するまでには、まだ様々なロスタイムが発生している。…その一つが、3月12日午前6時半、海江田経産大臣が東電に1,2号機のベントの措置命令を出すまでの過程。(「ベント」…原子炉や格納容器の破裂を防ぐために、圧力が高まった格納容器内部の空気を大気に放出して圧力を下げる作業)
・ベントをすれば、放射能を帯びた気体が大気に放たれる。→ 前もって周辺の住民を避難させなければ被曝してしまう。…日本の原発でベントが行われるのは初めてだった。
・しかし、ここでも官邸側と東電(連絡役として武黒一郎フェロー)との間で、ミスコミュニケーションが何度も繰り返されている。
(福山官房副長官の回顧録『原発危機 官邸からの証言』より)…官邸にいる武黒フェローは、福島第一原発現地と直接連絡を取っていたのではなく、東電本店(東京・日比谷)に問い合わせていただけだった。…原発 → 本店 → 武黒フェロー と伝言ゲームの介在者が増えていた。→ 情報源不明=信憑性不明の情報がそのまま流通、その結果ミスコミュニケーションが多発して、時間が空転した。(詳細はP50~52)


○SPEEDI以外のシステムが事故の進展を予測していた

・こうした時間の空転について取材を進めて気づいた。…政府内の関係者は一様に「そのとき原子炉の中がどうなっていたのかは分からなかった」「メルトダウンが進行しているとは分からなかった」「分かったのは、ずっと後だった」(だから仕方なかった)という弁明を話したり書いたりしている。←→ しかしこれは事実ではない。福島第一原発の推移について、かなり正確に予測したデータが計算され、ちゃんと首相官邸に届いていたからだ。
・(福山官房副長官の回顧録より)…(2011年3月)11日午後10時44分、保安院が「福島第一2号機の今後の進展について」と題するペーパーを官邸の危機管理センターに報告した。それはプラント解析システムによって今後、2号機がどうなっていくのかを予測していた。…22:50 炉心露出 23:50 燃料被覆管破損 24:50 燃料溶融(※メルトダウン!) 27:20 原子炉格納容器設計最高圧到達…
・現場に近づけないような原発の過酷事故に備えて、ERSSという原子炉のモニタリングシステムがあり、それをSPEEDIという事故シミュレーションのシステムに出力して、避難を決めることになっていた。…「それがうまく作動しなかった」(班目原子力安全委員長の国会事故調での証言)。→ これを受けて、事故後発足した原子力規制委員会も「避難の指針にSPEEDIを使わない」と表明している。
・しかし「事故に備えたシステムが事故でダウンする」という話は、よく考えればおかしい。何かフェイルセーフ(安全装置)があるはずではないのか。→ 取材してみると、ちゃんとあった。…こうした原子炉から直接データを取るシステムがダウンした場合に備えて、「プラント挙動解析システム」(PBS)という原発事故のシミュレーションソフトが用意されていた。…これはほとんど報道されていない。(PBS=Plant Behavior System)
・アメリカで1960~70年代に行われた原子炉の破壊実験のデータからプログラムを組んだアルゴリズムに、日本の全原発・全原子炉ごとの固有データを組み合わせてある。→ DVD-ROMに収められ、通常のノートパソコンがあれば計算できる。(→詳細は5章で)
・福島第一原発事故でもPBSは正常に作動し、前述のような事故予測を官邸に届けていた。…つまり、報告が届いて6分後には炉心の水が蒸発して燃料棒が露出 → 空焚きが始まり、1時間後にはジルコニウム被膜が溶ける → 水素が発生する → 爆発の可能性が生じる。2時間後にはメルトダウンが始まる。…はっきりそう書かれている。つまり「今から約2時間後に炉心はメルトダウンする」と告げているのだ。
・しかし、海江田大臣も福山官房副長官も、PBS予測の重要性を理解していた形跡がなく、聞き流してしまう。首相官邸の政治家も原子力安全・保安院の官僚、東電幹部も、このシミュレーションの重要性を誰も理解していなかった可能性が高い。少なくとも「これは大変なことじゃないのか」と注意を喚起した形跡がない。→ このPBSシミュレーションは首相官邸から報道発表され、当時の新聞にも数行だけ記事が出ている。しかしその真の意味を見抜いた報道記事も見当たらない。(※う~ん、日本社会のほとんどが、原発事故に対して認識不足、準備不足であり、総合力がない…)
・(政府内部にいた人々を複数取材する過程で気づいたこと)…当時の彼らにはまだ「原発事故はどれくらいのスピードで進行するのか」という「時間感覚」がない。…「原発事故など初めての経験だからやむを得ない」という弁明を何度も聞いた。←→ しかし、だからこそ、そうした「原発事故の時間感覚」を知るためにPBSが開発され、備えてあったのだ(→ 5章で詳述)。…その意味を理解し、対策に反映させた形跡がまったくない。→ 結局、2号機は4日後の3月15日早朝、大きな音と振動がして圧力容器の圧力がゼロになった(つまり穴やクラックが生じた可能性が高い)。→ 高濃度の放射性物質が漏れ出し、北西に流れて飯舘村や南相馬市を汚染した放射性雲はこの時に流れ出た。


○保安院の平岡次長は重要な情報を伝えなかった

・これらの原発事故の対応について、(総理や官房長官、経産大臣など政治家職が気がつかなくても)平岡次長や班目委員長らにとってはまさにこの分野が、長年取り組んでいる「専門」のはずである。←→ だが、適切な助言をせず、逆に前述のとおり原発事故の進行を楽観的、過少に評価したり、本当の危機的な部分の情報を省いた情報を政治家職に知らせている。(詳細はP55~57)
・とくに平岡次長は原発の安全や防災を担当する官庁のナンバー2でありながら、自分が属する組織の長への情報伝達にも、首相官邸への情報伝達にも失敗している。なぜこれほどの失態が重なったのか……平岡次長が取材を拒否しているので、真相は分からないままである。(※平岡氏は、今は環境省からまた経産省に戻っているそう…)


【2章】使われなかった緊急冷却装置

〔※この章は、技術的に複雑で専門的なことまでよく取材されて書かれているが、枚数の関係で簡略にまとめざるを得ない。→ 詳細は原本を参照されたい。〕

○主力の緊急炉心冷却装置ECCS(Emergency Core Cooling System)

・原子炉3基がメルトダウンする深刻な事態になった福島第一原発事故の原因について、四つの事故調査委員会(政府、国会、東電、民間)が素通りしたままの大きな盲点が残っている。しかもそれは、原発関係者の間では「もっとも致命的な人為的ミスなのではないか」と指摘されている問題。→ それは「地震が発生してから津波が到達するまでの約50分間起動しておくべきだった原子炉の冷却装置を起動しなかった」という可能性である。
・福島第一原発は地震の揺れを検知して自動停止した。→ しかし、フル出力で運転していたので、余熱が大きい。それに加えて、核分裂が止まった後も燃料棒の生成物は高熱の「崩壊熱」を出し続ける。→ 水を入れて冷却を続けないと、(原子炉の運転は止まっていても)崩壊熱で燃料棒が溶け落ちて「メルトダウン」に至る。…電源が途絶えると、冷却装置が働かず、燃料棒が加熱して溶ける。…現実はその通りになった。
・こうした崩壊熱を冷やし、高温の原子炉を冷ます主力装置として「緊急炉心冷却装置」(ECCS)がある。…直流電源で起動し、(あとは電源がなくても)原子炉の蒸気で動き続ける。→ しかし、この緊急炉心冷却装置(ECCS)は、福島第一原発事故では使われないまま終わった。(詳細はP61~62)


○福島事故の9ヵ月前に起きていた深刻な事故

・メルトダウンに至るような「最悪の事故」が進行しているのに、なぜ津波が来る前に、せっかくの主力の冷却装置・ECCSを起動しておかなかったのか。…ここが説明されなければ、本当の事故原因の解明にはならないのに、今も素通りになっている。
・「なぜ主役の冷却装置は使われなかったのか」という疑問の手がかりを探していて、3・11福島事故のわずか9ヵ月前に、同じ福島第一原発2号機が深刻な事故(一時的に全電源を喪失)を起こしていたことを見つけた。…この2号機は、2011年3月15日に高濃度の放射性物質漏れを起こし、全村避難になった飯舘村をはじめ、広範囲の汚染を引き起こした「主犯」である。←→ だが重大な事故にもかかわらず、当時はこの事故そのものが、ほんの短い記事でしか報道されなかった。(詳細はP64~70)
・アメリカの原発では、ハリケーンが頭上を通過する際には、あらかじめ非常用ディーゼル発電機を起動して、非常用電源に電力を供給しておく。常用電源は送電線につないでおく。…外部電源が途絶えた時も、非常用電源への電源供給をあらかじめ確保しておくためだ。(※う~ん、アメリカの原発では非常時への備えは、日本の原発より周到ということか…)
・しかし福島第一原発2号機での「前年事故」では、この非常用ディーゼル発電機へのつなぎ替えに失敗し、全電源喪失状態になった。→ そして、冷却水が蒸発して水位が低下するという非常事態になっても、「主戦力」であるECCSは使わず、性能が劣る補助用の冷却装置(RCIC 原子炉隔離時冷却系)しか使っていない。…3・11ではこれと同じ手順が踏まれている。


○津波が来る前からECCSを起動できたはず

・3・11事故の場合…地震で送電線が倒れ、外部電源は途絶えたが、まだ津波の襲来は受けず、非常用ディーゼル発電機は生きていた。→ しかし、なぜか運転員は(主戦力の緊急炉心冷却装置・ECCSを起動せず)、補助的な冷却装置だけ起動している。(詳細はP72~73)
・なぜ「主戦力の冷却装置ではなく、補助の冷却装置から使い始める」という手順が、前年事故でも3・11事故でも、全く同じなのか。→ いろいろ調べてみると、この手順が(運転員が間違えたのではなく)「あらかじめ定められた手続き」だった、という記述が出てきた…(3・11事故について政府事故調の「中間報告書」P80)…(詳細はP73~74)
・つまり、震度6の東日本大震災の揺れが襲来するという「非常事態」においてなお、福島第一原発の運転員は、地震も何もなかった「平時」の前年事故とまったく同じ原子炉冷却の手順を踏んだ。…これがミスの始まりだったのではないか。


○専門家も首をかしげる手順のおかしさ

・「なぜ最初から、より冷却性能の高いECCSを使わなかったのか」…これに対し東電は、「地震から50分後には津波が来てすべての電源を破壊してしまったので、どのみちECCSも使えなかった」という説明をし、3事故調の報告もそれをそのまま繰り返している。←→ しかし、これはおかしい。…ECCSは、起動こそ電源が必要だが、いったん動くと、原子炉の圧力を使って動き続けるからだ。→ 津波で電源を失う前に起動しておけば、その後も原子炉の蒸気で動いたはずだ。(※つまり非常時のバックアップとして、そのように備えてあった…)
・このことは、アメリカの原子力監督庁であるNRC(原子力規制委員会)の定義にも、はっきりと書かれている(P76に烏賀陽の訳文あり)。…また、いったん起動すれば、ECCSが原子炉の蒸気で動くことは、3・11事故で3号機が証明している。…3号機の直流電源盤は浸水を免れたので、津波後もECCSが直流電源で起動できる状態にあった。→ そのECCSが幸運にも偶然自動起動し、約14時間動き続けた。→ しかし、この幸運に恵まれた3号機も、13日午前2時42分、ECCSの破損を恐れた運転員が手動で停止してしまった。→ 結局、冷却装置が何もない状態になり、13日午前11時1分に3号機は水素爆発に至る。
・「もし主戦力であるECCSを津波が来る前に起動していたら、その後の展開はどうなっていたのか」…元四国電力社員の松野元さん(原発事故の防災専門家で伊方原発の勤務経験もあり。…5章にも登場)に意見を聞いた。
(松野)…「もし津波が来る前にECCSを起動しておいて、能力の高いECCSから使っていたら、メルトダウンにまでは至っていなかったと思う。ただの外部電源喪失事故で終わっていた可能性が高い」「ECCSは起動には直流電源が必要だが、いったん起動したら原子炉の蒸気で動く」「(もし福島第一原発事故の現場にいたら)ECCSを使って圧力が下がったら、(補助的で低圧でも動く)RCICに引き継ぐ。最後はディーゼル駆動ポンプの消火ポンプで注水していく。将棋でいえば能力の高い順に飛車、角、金銀、桂馬と使っていくのが鉄則だと思う。」(詳細はP75~78)


○スクラムには「通常停止」と「緊急停止」の2種類ある

・〔なぜ前年事故でも3・11事故でも、東電や福島第一原発の現場が、ECCSを後回しにして、性能が劣るRCICなどの補助的な冷却装置から使っているのか…その理由や背景についての松野氏の見解〕……日本の原発では、通常運転のフル出力のまま「スクラム」(制御棒を原子炉に入れて停止させること)させることは滅多にない。ほとんどの原子力研究者が知っている「スクラム」は、毎年の定期点検の前に原子炉を停止するための通常のスクラム。→ 段階的に出力を下げ(通常運転の出力の15%程度まで)、崩壊熱を低下させながらゆっくりかけるスクラム(自動車のブレーキに例えると、時速100キロの高速運転からいきなり急ブレーキを踏むのではなく、15キロまで速度を徐々に落としてから最後のブレーキを踏んで止める)。…この定期点検のときの「ゆっくり停止型のスクラム」が「通常停止」。←→ 反対に、時速100キロでいきなり踏む「急ブレーキ型のスクラム」が「緊急停止」…つまり、「スクラム」には2種類ある。
・定期点検のときの「ゆっくり停止型」なら、RCICなどのような(補助的な)冷却能力が低い装置でも崩壊熱に対応できる(冷却水の水位もほとんど変動しないから、ECCSは動かす必要がない)。
・3・11では、突然地震が来て、原子炉は「急ブレーキ型スクラム」(緊急停止)をかけた。←→ ところが、その後の冷却装置の使い方は(運転員は)「ゆっくり停止型」をやっている。…これがそもそも間違いなのではないか。→ 急ブレーキをかけたのだから、「ゆっくり停止型」の時より停止直後の崩壊熱は数倍あったはずだ。…それではRCICなどの(補助的な)冷却装置では崩壊熱の冷却が追いつかない。→ 10倍の冷却能力を持つECCSを、その時点で投入すればよかった。…だが、その前に津波が来てしまった。
・2010年6月17日の2号機の「前年事故」では、約30分で2mも冷却水が失われた。ものすごいスピードだ。→ 急ブレーキ型で原子炉が停止したときは、原子炉の熱量が大きいのだから、ゆっくり停止型よりはるかに速いスピードで冷却水が失われる。停止後すぐに水位が下がり始める。…そういうスピード感という教訓を前年事故から学ばなかったのではないだろうか。(※う~ん、「失敗・教訓」から学ぼうとしない組織文化…。東芝もコケタし…)
・(事故調査委員会の検証の甘さ)…事故調はどこも「スクラム」に種類があることを分かっていないのではないかと思える。…東電や政府関係者も「通常停止」と「緊急停止」の違いを曖昧にしたままにしている。そこを見破れないように見える。(※う~ん、これが日本社会の「総合力」の実力か…)


○かつては行われていたECCSの操作訓練

・昔からずっとこうだったわけではない。福島第一原発でも、過去にはECCSがメルトダウン事故を防ぐ炉心冷却の「要」だった。
・(朝日新聞いわき支局編『原発の現場』1980年より)…1979年3月、アメリカのスリーマイル島原発でメルトダウン事故が起きた後、日本政府は原発の「特別保安監査」を実施した。…当時、スリーマイル島原発事故の原因は「人為ミス」と報道されていた。その一つが、作動していたECCSを運転員が間違ってオフにしてしまったことだ。←→ それについて、福島第一原発の運転員たちは、取材にこう反応している…「同じ運転仲間なんだが、原子炉を知らない人が操作したんじゃないか」…あらゆる事故を想定し、訓練、点検を続けている当直員たちにとって、それは「決してあり得ない」事故なのだった。
・この本には、運転員の研修施設で、事故を想定したシミュレーションでECCS操作の訓練が入念に行われることが詳しく書かれている。…あくまでECCS系を主力に冷却の手順が決められ、訓練も繰り返されている。…つまり、1979年の時点では、同じ福島第一原発でECCSを使いながら、訓練を繰り返していた。←→ なぜ、2010年までのいつの時点で、それが変更されたのか。(※この約30年の間に何があったのか…)


○吉田所長の言葉に反応しなかった事故調

・(政府事故調の中間報告での福島第一原発・吉田所長の発言より)
①吉田所長も主戦力ECCSではなく、補助的な冷却装置で原子炉を冷却することを考えていた。…つまりECCSを使わないことは運転員の判断やミスではなく、原発所長が承認し、共有する「組織全体の意思」だった。
②「長時間全交流電源を喪失する事態はない」という前提があった。(※「安全神話」…?)

・政府事故調の基本的な間違い…(「吉田調書」より)
①「なぜECCSを最初から投入せず、補助的な冷却装置から使ったのか」という疑問を投げかけない。
②2ヵ所だけ、吉田所長が「ECCS」「非常用炉心冷却系」という言葉を口にする場面があるが、ここでも政府事故調はまったくその言葉を素通りする。…冷却装置の知識で、明らかに質問者は吉田所長に負けている。(詳細はP85~87)

・東電が原子炉の冷却にECCSを後回しにする手順を決めていたにしても、どうしてそれが国の検査で咎められなかったのだろうか。→ (原発の運転員として勤務経験のある人の話)…「実際に原子炉の水位が下がったときに、ECCSが起動するかどうか」までは、国は検査で確認しない。…性善説が前提であれば、これで官庁検査は成立する(笑い)。しかし世の中には、フォルクスワーゲンの排気ガス検査のように、企業ぐるみで、検査をごまかすことがあるということも事実だ」。(※日本の官庁検査は「性善説」が前提? 要するに甘い…)


○虚構のシナリオで立てられた対策

・(こうした手順の背景を歴史的にたどると)…日本の原発の「安全設計指針」は、スリーマイル島原発事故(1979年)やチェルノブイリ原発事故(1986年)の教訓から学ぶことなく、1990年の全面改訂でも「長時間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない」などとした。(詳細はP91~93)
・つまり、原発が電源と冷却装置を失っても、短時間(30分以下)で復旧すると考えればよく、その範囲で対策をとればよろしい…と、国がそんな「虚構」にお墨付きを与えている。→ この「30分」という想定には、現実や理論に基づいた根拠がなかった。「とりあえず、そうしておく」という、ただの「慣行」だった。(※う~ん、こうした根拠のない「慣行」は、日本の制度・組織文化の得意ワザ…? そして、一度始めたら止められない…)
・こうした「外部電源喪失は最長30分を想定すればよい」という「30分ルール」が、「原子力ムラの明文化されていない慣習」から、規制当局のお墨付きとして明文化されたのは1993年である。
・(政府事故調の最終報告書によると)…規制当局である原子力安全委員会が、規制対象である電力会社に「電源喪失は30分でいいということにするから、その理由を考えて」と丸投げした。…これは規制当局が電力会社の「虜」つまり「言いなり」になっていたエピソードとして、その後あちこちで引用されている。(※う~ん、この〝丸投げ〟パターンも、日本社会の他の分野にもよくある〝負の文化・体質〟であり、社会の「総合力」を弱めている元凶か…)
・だが、ここには極めて深刻な問題がもう一つ隠されている。…1993年の原子力安全委員会の「30分ルール明文化」は、電力会社にすれば「規制当局が30分で電源が回復するという想定でいいというのだから、その範囲で事故対策を考えればいいのだ」と考える。…(後述するように)電力会社には原子炉の寿命を延ばすために、ECCSのような強力な冷却装置をできるだけ使いたくないという事情がある(※原子炉の稼働期間を延ばすほど、それだけ利益が上がる)。→ ならば、30分で電源が回復するシナリオの中で、ECCSを使わず、原子炉を傷めない冷却をすればよいことになる。→ その結果「ECCSは起動せず、まず能力の低い補助的な冷却装置から使う」という事故対応になった。……そう推論すると、すべてが自然かつ合理的に説明できる。…〔※う~む、原子炉の寿命を延ばそう(経営的動機)として、逆にメルトダウンという世界史的な過酷原発事故を起こしてしまった…?! → 詳細は5章でも〕
・しかしこの視点からも、事故調査委員会や報道はまったく検証を加えない。…政府事故調が打ち出した「規制当局が規制対象の企業に規制内容を作文させるとは何事か」という方向に引きずられ、「30分ルールが事故対策にどんな影響を与えたのか」「それは福島第一原発事故にどうつながったのか」という視点からの検証を欠いている。


○外部電源回復までの30分を超えていた前年事故

・(著者の質問メールに対する東電の回答より)…福島第一原発2号機の「前年事故」での外部電源喪失の時間は33分…30分を超えていた。→ つまり「日本は外部電源の供給が安定しているから、外部電源は30分で必ず回復する」というシナリオ(※安全神話)の前提条件の一角が崩れていた。→ 本来は、電力会社や規制当局はこの時点で「30分で電源が回復するというシナリオは見直したほうがいい」という対策を打つべきだった。
・3・11では、① 地震で送電線が倒壊し、外部電源が(30分どころか)何日も途絶えた。
② その間に津波が来て非常用ディーゼル発電機も水没して「全交流電源喪失事故」となり、
③ さらに直流を失って「全電源喪失」にまで至ってしまった。
……つまり福島第一原発事故は、①「外部電源喪失事故」 → ②「全交流電源喪失事故」 → ③「全電源喪失事故」と、最初は軽かった事故が、連続的に成長していった姿をしている。
・①の時点では、まだ「外部電源喪失事故」が起きたに過ぎなかった。…これは同原発の運転員にとっては「前年事故」で経験したばかりの「経験済み」の事故だったはずである。→ その事実に照らしてみると、「30分で電源回復シナリオ」は「事故が成長する可能性を考えなくていい」と、事故対策に盲点を残した可能性が大きい。…すなわち「ECCSを動かさないで、ひたすら外部電源の回復を待てばよい」という「お墨付き」を与えてしまったのではないか。


〔要点の箇条書き〕
(1)事故時、崩壊熱冷却用の電源が止まっても、30分後には外部電源が回復する。それ以上長時間の電源喪失を想定しなくていい。…そんな虚構の想定を国が1993年に認めていた。
(2)30分間はRCICなどの補助的な冷却装置で冷却しておけばよい。主戦力のECCSを登場させる必要はない。…そんな認識が電力会社に広まった。
(3)「強力なECCSがあっても、どうせ短時間で外部電源が回復するのだから、使わなくてもいい」「冷却にはまず補助用のRCICなどから使う」という事故対応手順を電力会社は定めた。
(4)2010年6月17日の福島第一原発2号機の電源喪失事故(前年事故)は、そのとおりの対応になった。
(5)3・11で地震が発生し津波が到達する間も、その手順書のとおりに福島第一原発の現場は対応した。
(6)ECCSは起動されないまま津波が来た。
……(2)~(5)は著者の推論にすぎないが、こう考えると、起点(1)と終点(6)が自然につながる。


○電力会社がECCSを使いたくないわけ

・電力会社がECCSの使用を避けたいのは、原子炉の寿命を延ばすためだと先に述べた。ECCSを使うと、原子炉の寿命が縮まるのだ(詳細はP98)。…もとより、圧力容器は放射線に長年さらされ続けている。強度がどうなっているのかは未知数である。
・電力会社側には「原子炉の寿命を延ばしたい」という経営上の要請がある。…2000年過ぎから、原発の「運転期間」を延長しようという動きが世界の潮流になっていた。→ 日本でも、40年だった運転期間を60年に延ばそうという「運転期間延長」の申請を原子力規制委員会は受け付けている。
・なぜ延長したがるか…原発の新規の建設が難しくなってきたからだ(※東芝の経営危機の原因の一つと言われている…)。…耐用年数が過ぎた原子炉を廃炉しなくてはならない(※廃炉は費用も手間ひまもかかる厄介なもの…)。→ 原発を減らさず、新規の建設もせずに済ませるには、今ある原発の使用を延長するほかない。
・ECCSを使って熱い炉心に冷水を浴びせる行為は、明らかに原子炉の寿命の延長とは逆行する(詳細はP98)。→ 電力会社には「できるだけECCSは使いたくない」という経営面からの動機がある。←→ しかし、これは安全面からの要請には逆行している。(※う~ん、このジレンマは、原発の隘路であり、根本的な矛盾か…)
・もう一つ、ECCSを使いたくない背景がある。…日本で唯一ECCSが作動した「本物の破断事故」である、1991年2月9日の「美浜原発2号機破断事故」(詳細はP101)のトラウマ。→ 微量ながら大気中に放射性物質が放出された。→ 新聞は一面トップで大騒ぎになり、新聞やテレビには「ECCSが作動するのは大事故」という認識が定着した。→ 電力会社には「ECCSを作動させて大騒ぎになるのはできるだけ避けたい」という動機が生まれた。(※う~ん、事故をなるべく「過小評価」(小さく見せよう)とする動機づけの背景の一つか…)


○「前科」のある2号機の原子炉

・日本でECCSが作動した事故は、過去に5件ある(詳細はP100~101)。…注目すべきは、そのうちの2件(1981年と1992年)が福島第一原発2号機だ、ということ。→ そして2010年の「前年事故」でも、あと45㎝水位が下がっていたら、ECCSが作動して6番目(福島第一原発2号機としては3回目)のECCS事故になっていたはずだ。…これほどECCS事故を繰り返している原子炉は、日本には他に例がない。
・2回もECCSによる「急激な冷却」を経験している2号機は、東京電力にとっては「運転期間の40年から60年への延長」には最も障害になる「前科のある原子炉」だったはずだ。少なくとも2号機では「ECCSを動かすのをためらう」理由は十分にある。
・なお、これらの事故は「5例のうち4例は誤信号、誤作動だった」と記述されている。つまり、自然災害がない、誤信号や誤作動でも、水位低下=「原子炉の空焚きへのよーいドン」は起こりうることが分かる。→ 本来は「なぜ福島第一原発2号機で、かくも頻繁に、原子炉の水位低下を招くような重大な電源の異常が起きるのか」という原因を、遅くとも2010年に起きた事故までに探るべきだった。←→ それはなされないまま、3・11を迎えてしまった。


○なぜ事故対応は変わったのか

・ここまでの検証で、少なくとも1979年から1992年までの間は、「ECCSを起動する」と「事故時運転操作対応手順書」(マニュアル)に決められていたことが分かる。東電も92年の事故対応が手順書に沿っていることを認めている。←→ それが、2010年の前年事故では、ECCSを使わず、補助的なRCICを起動してしのごうとしている。…3・11でも「社内の規定通り」の同じ手順が繰り返された(ECCSを使わなかった)。
・つまり1992年から2010年の18年の間に、事故対応が公式に変わったことが分かる。…それは既述のとおり、「外部電源喪失は最長30分を想定すればよい」という「30分ルール」が、「原子力ムラの明文化されていない慣習」から、1993年に規制当局のお墨付きとして明文化されたために、電力会社は当然、そのシナリオの範囲内で事故対応マニュアルを変更した、と考えるのが自然だろう。
・著者の取材に対して、東電は「これは規定の事故対応手順書のとおりである」と繰り返し強調する。「規制当局が『それでいい』と言ったことに従った」「ゆえに違法性はなく、わが社の責任ではない」と暗に言っている。…それを真に受けたのか、見て見ぬ振りをしたのか、政府事故調の報告はその詳細を不問に付し、「あらかじめ決められた手順に従って、RCICなどを起動した」としつこく記述している。
・しかし、ここで事故調査委員会が問うべきだったのは、「そもそも東電が決めていた事故対応手順は正しかったのか」「間違っていたのなら、その原因、背景は何か」だった。→ しかしこの角度を見落とし、一番肝心の「事故原因の究明」が不発のまま終わっている。
・3・11では、地震から約50分後に津波が来襲し、ディーゼル発電機と配電盤を破壊してしまったため、「30分で電源回復」シナリオは崩壊した。→ 電源を失ってしまうと、もうECCSは起動できない。1時間に1000トンの水を注水できる本来は主役のはずの冷却装置はもう使えない。すべては手遅れになった。→ こうしてせっかくのECCSは使われないまま、原子炉は最悪のコースをたどった。…こう考えていくと、すべてに自然な説明がつく。
・(東電との5回にわたる質疑より)…東電は「なぜECCSを津波が来るまでに起動しなかったのか」「いつ、事故対応マニュアルを変更したのか」の2点に、正面から答えることを避けている。…つまり、情報は出さないが、否定もしない。善意に解釈すれば「本当のことは言わない。が、ウソも言わないようにしている」とも言える。…また「地震後、津波が来る前にECCSを起動しておけば、どうなっていたでしょうか」という核心の質問には「仮定の話には答えない」と回答を拒否している。(※う~む、あれだけの事故を起こしておきながら、この不誠実…! → 詳細はP115~134)
・津波が来る前、まだ直流電源が生きている間にECCSを起動しておけば、その後は原子炉の蒸気で動き続ける。→ 津波が来て電源を全部なくしても、原子炉への注水を続けられた可能性が高い。←→ しかし東電の立場にすれば、政府・国会事故調にも隠した「津波前にECCSを起動しておかなかったことはミス」とは、今になって認めるわけにはいかないだろう。(※一度隠蔽をすると、ウソを重ねざるを得なくなる…)
・(もし著者のこれまでの推論が正しいと仮定するなら)…本来なら、事故調査委員会は、「全電源喪失は30分で回復する」というシナリオの明文化を許した原子力安全委員会のメンバーに、「なぜ全電源喪失が30分で終わるなどという空論を許したのか」と問わなくてはならない。→ またそれを容認した、あるいは見逃した監督官庁(原子力安全・保安院や経産省など)の官僚や政治家職にも同じ質問をしなければならない。…しかし、そうした動きは調査委員会にはない。これは責任者を明確化するという点で、極めて不十分なのではないか。(※「責任者が不明確」というのは、いま都庁でもそのミニチュア版が進行中…)


○ECCSとRCICを両方起動するのが海外のスタンダード

・ここで視点を変えて、全電源喪失事故のときの対応について、海外ではどういう基準を定めているのかを見てみる。
〔米国NRC(原子力規制委員会)の1981年の報告書より〕…アラバマ州ブラウンズ・フェリー原発で1975年に起きた事故(ケーブル火災により炉心冷却が不安定化)を教訓にして作られた安全基準。

① 全電源喪失は4-6時間を想定する。
② 原子炉が緊急停止したら、ECCSとRCICは同時に起動する。
③ 水位が平常に戻ったらECCSを止めてよい。

・要するに「緊急時にはECCSとRCICを両方起動せよ」と言っている。…「火事になったら消防車を呼べ。そして消火器も使え。両方使え」である。ごく常識的な話である。…つまりアメリカでは「原子炉が停止したら、ECCSとRCICは同時に起動しておけ」だが、日本はそうした国際標準の安全対策をしていなかった、ということになる。〔※う~ん、(現政権がよく言うように)どこが「日本の原発の安全基準は世界最高水準」なのか…?〕
・蛇足だが、ほかにも、アメリカの安全基準では備えられていたが、日本では行われていなかった「これさえあれば」という設備はたくさんある。…ex. 全電源喪失時にも、計器を読み取れるよう、8時間持続する移動式の直流バッテリーの設置。あるいは非常用ディーゼル発電機は厳重な水密扉の部屋に設置することなど…。(※う~ん、ほとんど津波の心配がないアメリカの原発に、こうした安全基準があるのに…しかも1981年の時点で…!)


○唯一の冷却装置を誰も使ったことがなかった。

・もう一つ重要な事実を指摘しておく。…福島第一原発の1号機は最も古い型だったため、ECCS以外の冷却装置がIC(非常用復水器)しかなかった。そしてそのICは作動していなかった。→ ところが、誰もそのことに気づかなかった。なぜなら「誰もICを実際に運転した経験がなかった」から。…つまり「誰も使ったことのない道具で、原子炉の冷却という『大火事の消火』をしなくてはならない」という実態だったことが分かる。
・こんな危険な状態が放置されていた。3・11前でも1号機の脆弱性は専門家には明らかだったはずだが、「30分で電源回復」の虚構を誰もが真実であるかのように錯覚してしまった。
・こうした事実を踏まえると、1号機は三つの原子炉の中で最も早く事態が悪化し、メルトダウンと水素爆発に至ったことは不思議でも何でもなく、むしろ当たり前のように思える。→ 1号機は何ら原子炉の冷却ができないまま、メルトダウンまで一直線だった。野球でいえば「ノーヒットノーランの完封負け」だったのである。(※こうした失敗の検証と教訓化もなく、日本の原発は再稼働されつつある…)
・原子力発電所内部の電源(ディーゼル発電機や蓄電池など)と外部からの電源(送電線)が同時に失われるという、3・11で現実に起きた事態はまったく想定されていなかった。→ かくして、1977年から2011年に至るまで、34年間の長きにわたって「長時間の全電源喪失は考慮しなくてよい」「考慮したとしても30分間対応できればよい」という、まったく何の根拠もない「安全基準の穴」が放置され続けていた。→ そして3・11という最悪の結果を迎えた。
                         (2/24…2章 了)            

〔次回の〔中編〕は…【3章】原発黎明期の秘密と無法、【4章】住民軽視はそのまま変わらない…の予定です。→ 3月中の完成を目指します。〕
                         (2017.2.24)         


2017年2月16日木曜日

(震災レポート37)


(震災レポート37)  震災レポート・5年後編(3)―[世界状況論 ③]

・この章の目的は、宗教に関する世界史的知識を身につけて、現代の宗教対立を読み解くこと。…イスラム国やEUなど、国家や民族を超えたネットワークの動きが先鋭化している現状を、宗教の歴史をふまえて、しっかり押さえておきたい。…序章でも言ったが、資本主義、ナショナリズム、宗教という三点の掛け算で「新・帝国主義の時代」は動いている。→ 一章、二章の議論も重ね合わせながら、戦争を阻止するために、現在とどう向き合うかを考えてみたい。(佐藤優)
                                         

『世界史の極意』 佐藤優(NHK出版新書)                                 2015.1.10(2015.2.25 5刷)
                                           ――[後編]


【3章】宗教紛争を読み解く極意
――「イスラム国」「EU」を歴史的にとらえる



(1)イスラム国とバチカン市国――日本人に見えない世界戦略

○シリアから始まる「イスラム国」問題

・2014年6月以降、イスラム・スンニ派武装集団ISIS(「イラク・シリア・イスラム国」→ その後、「イスラム国(IS)」に改称)が、国際情勢を大きく揺るがした。…イスラム国の拡大は、シリア情勢と深く関係している。→ シリア情勢を読み解くキーワードは、「アラウィ派」が重要。
・シリアのアサド政権は、アラウィ派によって成り立っている(日本の新聞には、アラウィ派はシーア派の一派と書かれているが、両者はまったく違うことに注意)。→ アラウィ派は、キリスト教や土着の山岳宗教など、様々な要素が混じっている特殊な土着宗教。…ex. 一神教にはありえない輪廻転生を認めているし、クリスマスのお祝いもする(※う~ん、日本人みたい…?)(→ スンニ派、シーア派の違いは後述…)。
・シリアでも国民の7割はスンニ派で、アラウィ派は1割程度しかいない。→ なぜそのアラウィ派が、シリアを支配しているのか。これは、フランスの委任統治時代の影響(※またしても、欧米列強の干渉の結果か…)。
・第一次世界大戦後、フランスはシリアの支配にあたってアラウィ派を重用し、現地の行政・警察・秘密警察にアラウィ派を登用した。→ 植民地の支配では、少数派を優遇するのは常套手段(多数派の民族や宗教集団を優遇すれば、独立運動につながってしまうから)。→ だから、少数派を優遇することで、宗主国への依存を強化していくわけだ。…ジェノサイド(集団殺戮)が起きたルワンダでも、宗主国のベルギーは少数派のツチ族を(多数派のフツ族より)優遇した(※その結果のジェノサイド…フランスもベルギーも、このようなご都合主義の植民地経営によって、回りまわってテロという形で、今そのツケを払っている…?)。
・こうした特殊事情を抱えるシリアに「アラブの春」が押し寄せたとき、どうなったか。→ 「アラブの春」が起きたどの国でも、反体制勢力としてスンニ派の「ムスリム同胞団」が顔を出していた。…ところが、シリアにはムスリム同胞団がいなかった。現アサド大統領の父(前大統領)が皆殺しにしたから。→ そのため、反体制運動がまったくまとまらなかった。それでシリアは内戦状態になってしまった。
・さらに混乱を加速させたのが、レバノンからアサド支援で入ってきたシーア派の過激派組織ヒズボラ(神の党)。→ これでアサド側が盛り返す。←→ すると、今度はシーア派に対抗するために、アルカイダ系の人々が入って大混乱になった。→ そこにさらに便乗したのがイスラム国なのだ。(※う~ん、神学の学徒で、かつ元外務省主任分析官の面目躍如か…)

○イスラム国はなぜイラクを目指したのか

・イスラム国は、反体制派を装って資金や武器を獲得して、シリア北部を制圧し、勢力をイラクへと拡大していく。…なぜイラクなのか。
・シリアでは、(2014年6月の大統領選挙でアサドが勝ったため)アサド政権は簡単には潰れそうにないし、シリアで活動を続けるとアサド政権からの報復も怖い。…それにイラクには(シリアとは桁が違う)油田がある。…さらに重要なこととして、イラクではスンニ派のアイデンティティが変容したのだ。
・フセイン政権時代のイラクは、イランとの対立があったため、独裁下とはいえイラク人という国民意識が一応あった(スンニ派かシーア派かは、それほど大きな問題ではなかった)。→ ところが新生イラクでは、多数派のシーア派が権力を握り、スンニ派はないがしろにされた。…そこにつけこんだのがイスラム国だ。→ イスラム国に、イラクのスンニ派たちもなびいていった。…このようにして、イラクで急速に勢力を拡大していった(※油田と宗派か…)。
・このシリア問題とイラク問題で、中東情勢はどのように変わるのか。…そのポイントは、米国とイランの接近。…イスラム国の侵攻を受けた時点でイラクを統治していたマリキ政権は、イスラムの12イマーム(シーア派…後述)に属している。…マリキ政権はいわばアメリカの傀儡政権だが、宗教的に見ればイランの国教であるシーア派と同じなのだ。→ そのためイランから見れば、現在のイラクはサポートの対象。そしてアメリカもイスラム国を排除したい。→ そこで、イランのロウハニ大統領は「必要があれば米国と協力する」というコメントを発した。(※敵の敵は味方か…)
・イランはこれまで反米政権として知られてきたが、穏健派のロウハニ大統領が誕生してからは、アメリカに歩み寄る姿勢を見せてきた。→ 今回のイラク問題では、米国とイランの両方がイラクをサポートするという珍しい状態が起きている。
・イスラム国は、国家の支配を目標としていない。→ 世界イスラム革命を掲げ、世界をすべてイスラム化することを目標にしている。…(前章で述べたように)ウクライナ情勢をめぐって、それぞれの背後にいるロシアとアメリカの対立はますます深刻になっている。→ 両者の対立が深まれば深まるほど喜ぶのが、イスラム国なのだ。…だからこそ私たちは、「親ロシアか親米か」という二者択一からは距離を置いて、国際情勢を冷静に見なければならないのだ。

○イスラム原理主義の特徴

・イスラム国やアルカイダに代表されるイスラム原理主義の特徴は、単一のカリフ(皇帝)が支配する世界帝国の樹立をめざす点にある。…そして、そのための行動は必ず成功する。→ イスラム原理主義のために行動して、イスラム革命が成功すれば、これは当然成功。一方、戦死したとしても、アッラーのために戦って殉死したことになるから、殉教者はあの世で幸せになれる。…このように、イスラム原理主義のプログラムでは、革命に関与すれば必ず幸せが待っていることになる。→ だから、ドクトリン(教義,主義)さえ信じることができれば必勝だ。(※かくして自爆テロが、世界で絶えないことになる…)
・イスラム国は、インターネットを使ってこのことを広報し、民族や部族、国家を超えて、ネットワーク化しようとしている。(※イスラムは世界宗教…)
・このような体制では、イスラム主義に帰依した人々によって構成される権力の中心が、周縁を徹底的に収奪する帝国主義が出現する(※ex. 占領した異教徒を奴隷化…)。…おそらくその原イメージは、オスマントルコ帝国だろう。→ こうしたイスラム帝国主義が暴走すれば、ネットワークの利を生かして、欧米も日本も攻撃や収奪の対象になる可能性があるのだ。
(※先日ラジオ番組で宮台センセイが、サミットやオリンピックの会場は〝世界的な象徴〟となるから、テロの対象になる可能性は高まる、とコメントしていた…)

○ローマ教皇生前退位の背景

・この危機を深く認識しているのがバチカン(ローマ教皇庁)だ。…2013年2月、バチカンではローマ教皇の生前退位という異例の出来事があった。→(このことは日本では関心が薄く、マスメディアもあまり取り上げなかったが)この出来事には大きな意味がある。
・ローマ教皇の生前退位は、1415年以来の598年ぶりの出来事。…(前章でも記したとおり)このときは三人の教皇が鼎立していて、教会は腐敗していた。→ それを批判したヤン・フスを、教会が異端として火刑に処した。→ その後、フスの思想がルターに影響を与え、宗教改革が起きる(「宗教改革」はプロテスタントの用語で、カトリック側は「信仰分裂」と言う)。→ フスの火刑後、教会は鼎立する教皇をすべて退位させ、新しい教皇を選出して、教会統一を回復した。
・従って、2013年の教皇の生前退位は、当時と匹敵するような危機をカトリック教会が認識していることを示唆しているのだ。…カトリック教会内部にも、聖職者による教会運営のあり方や、避妊容認・同性愛容認を求める信者の声にどう対処するか、という問題もあるが、危機意識の根拠は別のところにある。…それがイスラム過激派への対応だ。

○バチカンの世界戦略

・バチカンの世界戦略の第一段階(1978年~)は、ヨハネ・パウロ2世(ポーランド人…中東欧社会主義国からの初の教皇)のときで、共産主義を崩壊させることだった。→ この戦略は、1991年のソ連崩壊で実現する。…第二段階は、イスラムに対しての戦略。→ キリスト教が巻き返すには、若くて健康な教皇が必要と考え、異例の生前退位となったのだろう。
・では、どうやってバチカンはイスラム原理主義を封じ込めるのか。…その手段は「対話」だ。→ 異文化対話を通じてイスラム穏健派を味方につける。そして、そのイスラム教徒が「テロ行為をする過激派がいると、私たちのイスラム教徒が世界から敵視されてしまう。そうならないためにも、過激派には退場願おう」と考えるように誘導していく。…このようなシナリオを描いている。
・ちなみに、バチカンにとって、イスラム過激派に次いで厄介なのが中国だ。…中国政府は、国内カトリック教会の高位聖職者の人事権がバチカンにあることを認めていない。→ そのため、バチカンと中国の間では、いまだ外交関係が存在しないのだ。
・新教皇フランシスコ(アルゼンチン出身)も、この保守路線と世界戦略を継承するだろう。→ 新教皇の下で、バチカンは中国に対しても「対話」を通じたソフトな巻き返し戦略を図るはずだ。←→ 中国は、今後、バチカンが攻勢をかけてくることを懸念している。

○プレモダンの思考へ

・キリスト教とイスラムの現在を象徴する二つの事象を取り上げた。…両者に共通しているのは、プレモダン(前近代的)な思考だ。…イスラム原理主義は、プレモダンの理想(※世界イスラム革命)を追求することによって、近代がもたらした社会の問題を解決しようとした。それは、資本主義がもたらした帝国主義の問題と言ってもいい。→ ここで注意したいのは、プレモダンを崇めているとはいえ、イスラム原理主義がモダンの問題に対応するために生じた、きわめて近代的な現象であるという点だ。…一方、カトリック教会も、近現代的な思考の制約を超えて、人間と社会の危機を洞察しようとする。(※う~ん、当方、宗教的な素養がないせいか、キリスト教にもイスラムにも、ほとんど〝未来性〟を感じることができないが…)
・プレモダンの思考の特徴は、「見える世界」を通じて「見えない世界」を見ること。…(私たちも含めた)近代人が「見える世界」を重視するのは、この時代のあり方そのものが近代的な思考に制約されているから。→ その象徴が資本主義経済だ。
・人間の労働力も商品化され、人間と人間の関係性から生み出される商品も、すべてカネに換算され、そのカネを増殖することが自己目的化するのが資本主義経済(※利潤の追求による自己増殖)。→ そうした資本主義経済に浸りきってしまうと、「目に見えない世界」への想像力や思考力が枯渇してしまう。つまり、超越的なものを思考することができなくなるのだ。〔※「奇跡のリンゴ」の木村さんも、「目に見えない世界」の大切さを語っていた(「震災レポート28」)。…もっとも、木村さんが重視するのは、「超越的なもの」ではなく、「土の中の微生物の世界」だが…〕
・こうした超越性の欠落を埋めるものがナショナリズムであり、私たちと超越性を安直に結びつけるもの、すなわち超越性へのショートカットが宗教的原理主義なのだ。→ 安直な超越性は、容易に人を殺す。…その愚を避けるために、私たちは歴史をさかのぼり、プレモダンの思考ときちんと向き合う必要がある。(※現下の重要課題の一つだろう…)

(2)キリスト教史のポイント

○イエスの登場

・キリスト教の誕生は、世界史の中ではローマの歴史(おおよそ1000年間)と重なっている。…ローマ共和制が始まる紀元前509年頃から西ローマ帝国が滅亡する476年までが古代ローマ史。→ そこから中世に入る。…キリスト教が成立していくのは、ローマ史の折り返し地点であり、帝政の時代と軌を一にしている。
・(世界史の教科書の「イエスの登場」の説明)…まず、ヘブライ人は、唯一神ヤハウェへの信仰をかたく守り、その中から選民思想や救世主の出現を待望するユダヤ教が確立する。…具体的には、前1000年頃にヘブライ人の王国が建設される。→ ダヴィデ王、ソロモン王のもとで栄えた後に、イスラエル王国とユダ王国に分裂し、前者はアッシリアに滅ぼされ、後者も新バビロニアに征服されて、住民はバビロンに連れ去られる(「バビロン捕囚」…バビロンは現在のイラク中央部)。→ そのヘブライ人たちは、(西アジアを統一した)アケメネス朝ペルシアによって解放され、パレスチナへ戻ってくる。そして、ヤハウェの神殿を再建する。…これがだいたい、ローマの共和制が始まるのと同じ頃で、このころにユダヤ教が確立したとされている。
・しかし、やがてユダヤ教は厳格に律法を守る派(パリサイ派)が権力を握る。→ 彼らはローマの支配のもとで、重税を課してユダヤの民衆を苦しめた(※いつの世も権力は腐敗する…)。→ そのため、民衆の間に救世主待望の気運が高まり、そこに登場したのがイエス。
・「イエス・キリスト」というのは、名前・名字ではなく、イエスというのは、当時のパレスチナにいたごく普通の男の名前(ex. 太郎、一郎のような)。キリストは、「油を注がれた者」…ユダヤでは、王様が戴冠するときに油を注ぐ習慣がある。→ 王様=救世主というのがユダヤ教の伝説的な考え方。…つまり「イエス・キリスト」とは、「イエスという1世紀に存在した男が、キリストという救い主であると信じている」という信仰告白なのだ。

○キリスト教神学の特徴

・19世紀に、キリスト教の中で「史的イエスの研究」があった。…啓蒙主義の隆盛期で、徹底的な実証研究の結果、1世紀にイエスという男がいたことは証明できない、という結論になった。同様に、いなかったことのアリバイ証明もできない。→ 「史的イエスの研究」は袋小路に入り、そのあと二つの流れが生じる。

①イエスが存在しないことを前提に、人間がいかにして神という概念を創ってきたかを考える方向。→ このアプローチが宗教学であり、基本的に無神論の立場をとる。
②イエスがキリストであると信じていた人たちが存在したことまでは実証できると考え、救いの内容について研究する方向に向かう。→ これが近代プロテスタント神学の主流派。

・通常の学問では、論争があったときは論理的に強いほうが勝つ。←→ 対して神学では、論理的に弱く理屈が間違っているほうが、政治介入によって勝つことが多いのだ。→ 従って、論争がまったく違う方向に向かい、結論が出ないで終わり、100年、200年と経つと、また同じ議論が蒸し返される。…そうやって問題が解決しないまま、進歩のない特殊な様式の研究がなされるわけだ。(※まさに、不毛な神学論争…)
・ちなみに、ヨーロッパの大学では、神学部がないと総合大学(ユニバーシティ)を名乗ることはできない。…神学は虚の部分を扱う虚学だが、虚の部分すなわち「見えない世界」を扱わないと学問は成立しない。…このような知恵をヨーロッパ人は持っているのだ。(※う~ん、神学にまったくの門外漢としては、「このような知恵」がイマイチわからない…)

○サウロの回心

・キリスト教の教祖・イエスは、自身をユダヤ教徒だと認識していた。→ しかし、(厳格な律法主義を掲げ、律法を守る人間だけが神に救済されるという)ユダヤ教の教えに異を唱える。…イエスは、罪人も神に救済されると言った(※う~ん、イエスは、悪人正機説の親鸞思想とも通底する…?)。←→ ユダヤ教からすれば、イエスは明らかに異端。→ そのため、彼は謀反の罪でユダヤ教の幹部たちに捕えられ、ローマの総督によって十字架刑に処される。→ 処刑後、イエスが復活したという信仰が広がり、キリスト教が成立していくことになる。
・初期キリスト教の伝播にあたって、決定的な役割を果たしたのがパウロ(改名する前はサウロと名乗っていた)。サウロはローマの市民権を持ち、宗教的にはユダヤ教のパリサイ派に属し、もともとはキリスト教徒を迫害する立場にいた。そのため、イエスの教えも神への冒涜だと感じていた。
・ところが、このサウロに回心が起きた。…キリスト教徒を捕縛し、エルサレムへ連行するためにダマスコ(現在のシリア・ダマスカス)へ向かう途中のことだ(詳細はP186)。…このように、サウロは光の中で〝復活のイエス〟に出会った(しかし、イエスの直弟子とは言えない。生きているイエスには会ったことがないから)。→ そんなサイロが、イエスの教えのあり方を根本的に変えたのだ。
・サウロは、(ユダヤ人共同体内部でイエスの教えを広めることに限界を感じ)共同体の外部にキリスト教を広めることを決心する。→ パウロと名を改め、小アジア(現在のトルコ・アナトリア一帯)、ギリシャ、ローマへと伝道の旅を続け、各地に教会を設けた。
・キリスト教を信じる人々を迫害していたパウロが、キリスト教徒に転向し、伝道者となった意義は、キリスト教を世界宗教へと変貌させた点にある。…パウロが伝道旅行を行った地域こそ、当時「世界」と認識されていたからだ。(※う~ん、イラク、パレスチナ、シリア、トルコ…現在の〝ホットスポット〟になっている地方ばかり出てくる…P187に「パウロ伝道の旅」の地図)
・イエスの死後2,3ヵ月では、信者数は多く見積もっても数百人程度だった。→『使徒言行録』には、その後、パウロの説教で3000人が洗礼を受けたと書かれている。→ ローマ帝政下、キリスト教は拡大を続け、313年に公認(ミラノ勅令)された頃には、信者は300万人前後まで増えた。
・このような爆発的な教勢の拡大は、パウロがキリスト教を世界宗教へと転換させたことが契機となったのだ。→ 現在、キリスト教の信者は、全世界で約20億人いると推定されている。…キリスト教という宗教をつくったのはパウロなのだ。…イエスはキリスト教の教祖で、開祖はパウロということになる。

○実念論という考え方

・392年、キリスト教はローマ帝国の国教となった。→ 中世に入ると、ヨーロッパ社会の支配的な価値観となっていく。
・中世初期のキリスト教に特徴的な思考法に「実念論」がある。…ex. 現実には様々な三角形があるが、すべてを含む一般的な三角形は実在するか? → 実在すると考える。つまり、目には見えないけれど、確実に存在するものがある、と考えるのが実念論。←→ それに対して、存在するのは個々の具体的な事実だけであり、三角形とか果物といった一般名詞は単なる名前にすぎない、と考える思想を「唯名論」という。→ 近代的な科学は、経験を重視するから、基本的には唯名論の延長にある。…実念論は神学の考え方に親和的。(詳細はP189)
・現在でも実念論の影響は残っている。…とりわけイギリスは、実念論が主流で、成文法という発想が出てこない(ex. 成文憲法がない)。…文字としての憲法はないが、確実に憲法は「存在する」という感覚をイギリス人は持っている。→ その感覚がそれぞれの時代状況に応じて、具体的な文書の形をとって表現される。…それが1215年のマグナカルタ(王権の制限や貴族の特権を確実にした文書)であり、1689年の権利章典(国会と議会の権利を明確にした文書)だと解釈できる。…あるいは、大きな問題が生じるごとに、判例として表現されるわけだ。→ イギリス人にとっての憲法は(国家の暴走に縛りをかけるといった約束事ではなく)理念として備わったもの、生得的な感覚に近いものだ。〔※この憲法観は、近代的な憲法理念(立憲主義)とは異なる、プレモダン(前近代的)なもの…?〕
・前章では、イギリスの特徴として、近代的な民族を超える原理で人々が統合されてきたことを挙げたが、もう一つ、実念論が国家の中核にあることも特徴となる。…イギリスは、国家も社会もプレモダンなのだ。(※イギリスの特徴は、意外にも国家も社会も前近代的なこと…?)

○宗教改革の本質は復古維新運動

・近世になると宗教改革が起こる。…宗教改革によって生まれたプロテスタンティズムというと、近代的な宗派だという勘違いがよくある(カトリックが「旧教」、プロテスタントが「新教」と日本語で書かれることも、誤解を拡大している)。
・宗教改革はルネサンスのあとに起きた。…ルネサンスはギリシャ・ローマの古典に還れという運動で、これを通じてはじめて中世という考え方が生まれた(※古典に対して中世)。…還るべき古典の時代と現在の間にはさまれているのは、ろくな時代ではない。…それを中世と言ったわけだ(だから中世という言葉には、最初からろくでもない時代というニュアンスがある…)。
・ルネサンスは復古運動だが、その中心には理性の信奉があり、その意味においてルネサンスには啓蒙主義につながる側面がある。→ そして、ルネサンスによって合理主義的要素がカトリックに入ってきたわけだ。←→ ところが、16世紀の宗教改革には、啓蒙主義とつながる要素はない。→ むしろ反知性主義的な運動と考えたほうがいい。(※これは意外な指摘…)
・スコラ哲学と呼ばれる中世の神学は、非常に緻密な体系から成り立っている(しかし、緻密すぎて、救われる感じがしない)。教会も腐敗してしまっている(世俗の権力と癒着して、暴力装置になって金儲けをしている)。→ 宗教改革をして、イエスが唱えた素朴な原始教会に戻ろう、というのが16世紀の宗教運動。…その意味で、宗教改革は復古維新運動なのだ。
〔※う~ん、16世紀の宗教改革は、反知性主義的な(素朴な原始教会に戻ろうという)復古維新運動か…〕

○宗教改革とウクライナ危機はつながっている

・この復古主義的なプロテスタント運動は、ドイツからオランダ、そしてさらに東へと広がっていく。→ ポーランドやチェコスロヴァキアにも波及するが、とくにチェコ地域はカルヴァン派の影響が強くなる。
・この流れに危機感を強めたカトリック側(ローマ教皇庁)は、立て直しをはかる。…中心的な役割を果たしたのが、イグナチウス・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエル。→ 彼らは1534年にイエズス会という教派をつくっている。…ロヨラは軍人だから、軍隊に準じた手法で訓練をするようになり、実質的には軍隊。
・イエズス会は、この軍人力を背景に、プロテスタントの打倒を目指して「プロテスタント征伐十字軍」を仕掛けた。→ 彼らの軍はあまりに強力なので、ボヘミア、スロヴァキアを席巻し、プロテスタントをすべて駆逐した後に、ロシア正教のウクライナまで入ってしまった。→ あわや正教対カトリックの大戦争が起こるか、という危機的状況になった(正教とカトリックは1054年に相互破門しており、お互いに悪魔の手先だと罵り合っていたから)。
・イエズス会もある程度の圧力をかけたが、ロシア正教側は、自らの伝統や儀式を改めようとはしない(ex. イコン(聖画像)を掲げて拝む、お香を焚きながら儀式を行う。「ノンキャリア組」の僧侶は結婚可など)。→ ローマ教皇庁は妥協案として特別の宗派を創設する(見た目は正教だが、魂はカトリックという教会…詳細はP194~195)。→ こうして誕生したのが「東方典礼カトリック教会」「東方帰一教会」あるいは「ユニエイト教会」。
・このユニエイト教会は、西ウクライナのガリツィア地方では現在も主流。←→ 一方、ウクライナ東部は、ロシア正教。…ウクライナ危機の対立の背景には、こうした宗教の違いもある。…つまり、フスの宗教改革、ルターの宗教改革は、遠く現代のウクライナ危機にまでつながっているのだ。
・現在、ユニエイト教会にロシアは強く反発している。→ いまだロシアとバチカンの関係が緊張しているのは、このユニエイト教会によって、カトリックがロシアの内部に浸食してくる可能性を、ロシア正教会が強く警戒しているから。(※この点では、中国と似ている…?)

○プロテスタント神学の変容

・宗教改革が引き起こしたカトリックとプロテスタントの抗争は、(前章で見たように)三十年戦争を経て、1648年のウェストファリア条約で一応の決着をみた。
・その17世紀は、「科学革命」の時代(天動説から地動説への転換、ガリレイやニュートンらによる力学の基礎の確立など)→ 科学革命を通じて、中世の教会的世界観は破壊されることになった。→ さらに、この合理主義の精神は、やがて18世紀に啓蒙思想となって、教会や絶対主義国家を支える権威や思想・制度・習慣に対する強烈な批判を展開していく。
・この啓蒙思想が席巻した18世紀以前と以後では、プロテスタント神学も大きな変容を遂げることになる。…18世紀以前のプロテスタンティズムでは、神は天上にいると信じられてきた。←→ しかしそれでは、ケプラー以降の天体観や宇宙観と矛盾してしまう。→ だから、矛盾しないところに神の場所を置かなければならなくなる。
・シュライエルマッハー(近代プロテスタント神学の父)は、宗教の本質は直観と感情だと言った。つまり、神様は心の中にいると考えた。→ しかし、それは危ういものを含んでいる。神が心の中にいるとなると、自分の主観的な心理作用と神を区別できなくなってしまうから。…神は絶対的存在だ。自らの心の中に絶対的存在を認めることで、人間の自己絶対化の危険性が生じたわけだ。→ この延長上に、神なんて自分の心の作用にすぎない、という無神論も出てきてしまう。

〔※う~ん、当方、生まれつきの無神論(?)のため、このへんが、この著者といちばん距離を感じてしまうところだが…。→ 当方なら、「人間の自己絶対化の危険性」を相対化するものは、「神」ではなく、「自然」ということになる。…例えば、木村さんの「奇跡のリンゴ」の世界とか、福岡伸一さんの「動的平衡」などの生物学の世界とか…。〕

→〔(佐藤優氏の関連著作)…『同志社大学神学部』光文社2012年、『サバイバル宗教論』文春新書2014年、『佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?―宗教と科学のガチンコ対談―』文芸春秋2016年(動物行動学の竹内久美子との対談本)…いずれも余裕なく未読。〕

○「不可能の可能性」としての神学

・神の場所を心の中にあると考えると、行き詰ってしまう。→ もう一度上を見なければならなくなる。
・カール・バルト(現代神学の父)は、神が物理的な意味での天上にはいない、ということを理解しながら、「上にいる神」と言った。→ 人間は神ではないから、神について知ることは一切できない。語ることもできない(※不可知論?)。←→ しかし説教をする牧師は、神について語らなくてはならない。…だから、神学というのは「不可能の可能性」に挑むことだと主張した。(※う~ん、神学の門外漢にはあまり説得力なし…?)
・カール・バルトは、第一次世界大戦に衝撃を受け、1919年に『ローマ書講解』を上梓した。→ この本から神の場所が再転回したと言ってもいい。なぜか…1914年に、神なしに人間社会を解釈する啓蒙主義が崩壊したから。(※う~ん、「崩壊」はちょっと言い過ぎでは…?)
・(序章で述べたように)イギリスの歴史家ホブズボームは、フランス革命が始まる1789年から第一次世界大戦が勃発する1914年までの時代を、「長い19世紀」と呼んでいる。…それは、要するに啓蒙の時代。→ (ロマン主義的な反動がヨーロッパの一部にあったとしても)基本的には科学技術と人間の理性に頼ることによって、理想的な社会をつくることができる、と考えられていた。…つまり、神がいなくても、理性を正しく使って合理的に考えれば、世界は進歩すると考えたわけだ。
・さらにまた、長い19世紀はナショナリズムの時代でもある。…ナショナリズムの台頭を背景に、心の中の絶対者の位置にはネイション(民族)が忍び込んでくる。→ ここに、国家や民族という大義の前に、人が身を投げ出す構えが出来上がってしまった。…言うまでもなく、その延長上に第一次世界大戦がある。(※う~ん、世界大戦は〝神の不在〟のせい…?)
・二つの世界大戦による大量殺人と大量破壊は、理性と無神論からなる啓蒙の時代を木っ端みじんに吹き飛ばした。→ 無神論の時代、すなわち啓蒙の時代は、1914年で終わり、それと同時に「不可能の可能性としての神」について語られるようになったのが、第一次世界大戦が終わった1918年からなのだ。(※これも、理性と無神論を「木っ端みじんに吹き飛ばした」というのは、言い過ぎではないか。…キリスト教者のバイアスがかかっている?)

○啓蒙から目をそらしたアメリカ

・近代人は、二つの世界大戦を反省し、バルトのように啓蒙の闇と向き合わなければいけなかったはずだ(※この程度の言い方なら、異論なし…)。←→ ところが第二次世界大戦で、アメリカが巨大な物量によって勝利を収めてしまった。
・アメリカはヨーロッパと違って、第二次世界大戦を経てもまだ啓蒙の精神が盛んで、非合理な情念(プレモダン的な「見えない世界」)が人間を動かすという感覚を、よく理解していない。→ そのため、啓蒙思想や合理的思考がもたらす負の帰結に対する洞察が働かず、問題は先送りされたままとなってしまった。→ その影響は、21世紀の現在にまで続いている。
〔※その一方で、アメリカには、進化論も信じないような〝草の根のキリスト教〟(※原始キリスト教?)がいまだに残っている、というような側面も、漏れ聞こえてくるが…〕
・アメリカ型の啓蒙精神によって、第一次世界大戦後のヨーロッパ知識人が格闘した啓蒙思想の闇の問題から目をそらされてしまったわけだ。→ そのツケが現在、格差問題や貧困、領土問題、民族紛争などの形で浮上してきている。
・前章で、ナショナリズムは近代人の宗教であると言った。…そこでは「不可能の可能性としての神」を直視することなく、目に見えない超越的なもの(※神?)の欠落を短絡的に埋める代償物としてナショナリズムが要請されてしまっているのだ。
〔※当方、アメリカについてもほとんど門外漢だが、現在進行中の米大統領選挙でも、大方の専門家の予想をくつがえす形(共和党・トランプの意外な健闘)で、(アメリカ型の?)ナショナリズムという近代人の宗教が急浮上してきているかに見える。…そして、日本でも同様に、そのアメリカのミニチュア版(?)が、不気味に浮上してきている…? ←→ その一方で、民主党・サンダースの意外な健闘(ある意味当然?)に見られるような、「格差問題や貧困」に対する批判的な勢力も台頭してきている。…そして、このような「長い21世紀」前半の動きは、ますます混沌とした形で、全世界に広がっているように見える…〕

(3)イスラム史から読み解く中東情勢

○イスラムの誕生

・次に、世界史の中のイスラムについて見ていく。…イスラムの開祖・ムハンマドは、570年頃アラビア半島西部のメッカで生まれた、とされている。
・当時、東ローマのビザンツ帝国とササン朝ペルシアが戦争を繰り返していたため、メソポタミア付近の東西交通路は往来が困難だった。→ その影響で紅海に近いメッカは、商品経由地として繁栄する(P202に、6世紀のアラビア半島の地図)。
・ムハンマドも、この地の商人の一族。…40歳のころ、神アッラーから最初の啓示を受け、イスラムの布教を始める(詳細はP202)。→ 唯一神アッラーへの信仰、偶像崇拝の禁止、神の前の万人の平等を唱え、大商人による富の独占を批判する。…当時のメッカは格差社会だった。(※イスラム教が、今も格差社会の貧困層に強い理由…?)
・メッカの支配層である大商人たちは、商売の邪魔になるムハンマドたちを迫害し、ムハンマドと信徒たちは北のメディナへと移住する。…これを「ヒジュラ(聖遷)」といい、移住した622年がイスラム歴元年とされた。
・ムハンマドたちはメッカと衝突を繰り返した末、630年にメッカを無血で占領し、多神教の神殿をイスラムの聖殿に改めた。→ それ以降、ムハンマドは周囲のアラブ諸民族も次々と支配下に治めていき、632年にはアラビア半島をほぼ制圧する。→ こうしてイスラム世界が世界史の中に展開していくことになる。(※「イスラム国」は、これを再現しようとしている…?)

○イスラムの特徴

・イスラムは一神教であるユダヤ教、キリスト教の影響を強く受けている。…アッラーとは、唯一神そのものを指す言葉であり、英語で言えば「ゴッド」と同じ。…偶像崇拝を禁じ(※遺跡も破壊…)、神の前の平等を説く点は、キリスト教と共通しているが、イスラムではさらに主張を徹底させていて、教徒内部の身分、階級、民族の差を認めない。→ だから、専門の神官階級は存在しない。(※う~ん、庶民層、貧困層に支持され、拡大しやすい宗教か…)
・イスラムの中で、ムハンマドは最初で最後の預言者であり、他に預言者はいない。…ムハンマドが神の啓示を受け、アラビア語で信者に語った言葉を集めたものが聖典コーラン。…原名の「クルアーン」は「読誦(どくじゅ)すべきもの」という意味だから、イスラムの信者はみんなコーランを声に出して読む。→ コーランを唱えることによって、神と直に接することができると考えられている。
・聖書と異なる点として、コーランは教義のほかに、日常生活のすべてを規定する法典としての性格を持っている。…ex. イスラムの「五行」といわれる規範…①信仰告白(アッラーのほかに神はいないと唱える)、②礼拝(1日5回メッカに向かって祈る)、③喜捨(収入の一部を困窮者に施す)、④断食(ラマダーン月の日の出から日没までは、飲食を禁じる)、⑤巡礼(一生に一度、メッカに巡礼する)。…ほかにも、お酒を飲まない、豚肉を食べない、利子を取らないなど、コーランには、日常生活の約束事が細かく規定されている。
・これらのいずれにも通底しているのは、アッラーへの絶対的服従。…「イスラム」とは「絶対帰依」という意味。→ イスラムではあらゆる行為が、アッラーへの絶対的服従として決められている。
(※う~ん、正直なところ門外漢には、非常に不自由で面倒くさそうな宗教…という印象。…知識人層には、あまり支持されない宗教か…?)

○スンニ派とシーア派はどこが違うのか

・イスラムを理解する上で、どうしても知っておかなければならないのが、スンニ派とシーア派の違い。…二つの宗派は、イスラム世界が拡大する中で生まれていった。
・ムハンマドの没後、イスラム教は最高指導者として「カリフ」を選挙で選出する。…「カリフ」とは「神の使徒の代理人」という意味。→ その四代目のカリフとなったアリーは、ムハンマドの従弟で、しかもムハンマドの娘の夫になった人物。→ その血統的に最も近いことを根拠に、アリーとその子孫が真の後継者だと主張する党派が現れる。…これがシーア派。「シーア」とは、「分派」「党派」という意味。
・このシーア派に対して、スンニ派は、代々のカリフを正統と認めるイスラム教の多数派。…ムハンマドの伝えた慣行「スンナ」に従う者を意味。(詳細はP206)
・シーア派では、最高指導者を「イマーム」と言い、アリーの子孫が二代目、三代目のイマームとなる。…このシーア派内部もいくつかの党派があるが、主流派がイランで権力を握っている12イマーム派と呼ばれる派。…この派は、11人目のイマームが9世紀末に亡くなったとき、12人目のイマームが登場したが、すぐにお隠れになってしまった。→ この隠れイマームが救世主として現れて、この世を救うという教義を持っている。
・この12イマーム派の教義は、現在の国際情勢とも密接な関係がある。それはイランの核兵器問題。…イランが核兵器を持ったとしても、イスラエルはそれを上回る圧倒的に多くの核兵器を所持している。→ 合理的に考えれば、イランは核を使わないと考えたくなる。←→ ところが、イスラエルが核で攻撃しても、お隠れになったイマームが現れて、イランを守ってくれるに違いない。…イランの支配者層がそう信じているとすると、イランが暴走する可能性もあるわけだ。
〔※う~ん、かつて〝神風特攻隊〟という非合理で理不尽な作戦(生き残った元隊員の証言…東京新聞より)を実行してしまった(そして今もそれを総括できていない?)日本は、このアナロジーをどう考えるべきか…? 人間にとって〝救世主〟という考え方の根強さ…?〕

○ワッハーブ派とカルヴァン派

・一方、イスラム過激派は、ほとんどスンニ派のハンバリー学派に属している。…スンニ派は主に四つの法学派に分かれているが、ハンバリー学派以外は政治的には大きな問題はない。→ イスラム原理主義やテロ運動のほとんどはハンバリー学派から出ているものだ。
・このハンバリー学派の一つに、18世紀中頃に宗教改革者ワッハーブによって創始されたワッハーブ派がある。…ワッハーブはサウジの王様と協力してワッハーブ王国をつくり、これが後のサウジアラビア王国の素地となった。→ そのため、現在でも、サウジアラビアの国教はワッハーブ派だ。…中東情勢、イスラム過激派の動きを見る場合、ワッハーブ派とサウジアラビアの結びつきについて理解しておくことが重要だ。
・ワッハーブ派は、コーランとハディース(ムハンマド伝承集)しか認めない(聖人崇拝も墓参りもしない)。→ ムハンマド時代の原始イスラム教への回帰を唱え、極端な禁欲主義を掲げる。…アルカイダというのは、このワッハーブ派の武装グループで、イスラム国もまた同様。…その他、北アフリカのイスラム・マグレブ諸国のアルカイダ、チェチェンのテログループ、アフガニスタンのタリバンなど、イスラムの過激派はすべてワッハーブ派の系統だ。
・キリスト教とのアナロジーで考えると、このワッハーブ派に近いのはプロテスタントのカルヴァン派(※確か佐藤優氏の宗派もこのカルヴァン派…?)。…ワッハーブ派とプロテスタンティズムは、復古維新運動である点で共通している。さらに、カルヴァンとは形が違うが、ワッハーブ派も世俗世界では禁欲的態度をとる。
・ただし、両者には決定的な違いがある。…キリスト教には、イエス・キリストという媒介項があること。→ キリスト教において、イエス・キリストという媒介項を必要とする理由は、人間には原罪があるから。←→ それに対して、イスラムには原罪という観念はない。…この楽観的人間論が最大の問題。→ だから神が命じれば、聖戦の名のもとにあらゆるものを破壊しても構わない、と考える。(※イスラム過激派の過激たる所以…?)
・キリスト教の場合、人間には原罪があるから、地上は悪の世界。つまり、天上界の自然状態と地上界の自然状態は、逆になっている。…キリスト教の世界観では、地上は罪のある者で占められているから、人間の世界で差別や抑圧、病気、苦しみ、貧困があることは自然な状態ということになる(※曽野綾子などの発言の根拠…?)。←→ それに対してイスラムの場合、ジンという妖怪が悪さをしている、ということになる。…自身の内なる悪についての反省がないので、一度信じることができれば、どんな暴力でも肯定されてしまうのだ。
(※う~ん、簡潔にまとめられているが、キリスト教側のバイアスはかかってないのか…?)

○イランが持つ二つの顔

・16世紀、イスラムの歴史に重大な転機が訪れる。…1501年、イランにサファヴィー朝が成立し、シーア派12イマーム派を国教に定める。
・それ以前は、モロッコから新疆(しんきょう)までがイスラムベルトとしてひとつながりになっていた。→ ところが、イランがシーア派になることによって、このベルトが切れてしまった。…サファヴィー朝の西はオスマン帝国、東はムガル帝国だが、どちらもスンニ派。…つまり、サファヴィー朝はスンニ派の大国にサンドイッチで挟まれてしまった。→ こうして、16世紀にイスラム世界は大きく二分されることになった。(P211に、16世紀のイスラム世界の地図)
・サファヴィー朝がシーア派を国教にしたのは、ペルシャ・アイデンティティ確立のため。…イラン人には、はるか昔のペルシャ帝国の輝かしい記憶が刷り込まれていた。→ サファヴィー朝において、民族主義的なアイデンティティとシーア派が結びついた格好になる。
・戦後のイランでは、親米のパーレビ―国王が強権的に近代化政策をとって世俗化を進めた(「白色革命」)。→ これによって経済は成長したが、格差拡大や支配層の腐敗など、国民の不満も高まる(※人間社会は、今も同じことを繰り返している…)。→ そこで起きたのが、シーア派指導者ホメイニによるイラン革命。…全国的な反体制運動が拡大し、国王は亡命。→ 1979年に、イスラム教を国家原理とするイラン・イスラム共和国が成立。
・なぜイラン革命は成功したのか。これはアメリカやイスラエルの完全な油断だ。…一度世俗化して、高度の消費文明を享受している国が原理主義化することはあり得ない、と高を括っていたわけだ。(※人はパンのみにて生くるにあらず? それとも、格差拡大や支配層の腐敗が原因…?)
・1979年のイラン革命のときも、サファヴィー朝成立時と同様に、12イマーム派の教義が現代用に組み立て直され、さらにペルシャ帝国主義が加味された。…現代のイランという国を見るときは、12イマーム派のイスラム原理主義と、ペルシャ帝国主義という二側面から見ないといけない。
・とくに日本では、二重にバイアスのかかったイラン情報が蔓延している。…①(ペルシャではなく)アラブ専門家の見たイラン情勢、②親PLO・反イスラエル的な偏見。…例えば日本の政治家の圧倒的多数は、イランはペルシャ人の国ということさえ知らない。アラブ諸国の一つだと思っている。(※マスメディアの社員記者も同様…?)
・イランが近年、ホルムズ海峡の封鎖をほのめかしたり、バーレーンにイラン革命を輸出しようとするのは、ペルシャ帝国主義の文脈で読み解くほうが正確だ。…あるいは、イランが、スンニ派原理主義であるパレスチナのハマスと良好な関係なのは、(宗教が動機ではなく)ペルシャ帝国主義的な発想にもとづいている。
・シーア派とスンニ派が対立するのは、イスラム教の中で分節化が行われる場合。←→ 対イスラエル、対キリスト教ということになると、シーア派とスンニ派は団結するのだ。→ だからイランは、同じ12イマーム派であるレバノンのテロ組織ヒズボラを支援すると同時に、ハマス(スンニ派)も全面支援する。…反イスラエルという戦略の上では、シーアとスンニの差異は些細な違いでしかないのだ。(※なるほど…)

○パレスチナが平和だった時代

・パレスチナは、ユダヤ教、キリスト教、イスラムすべてにとっての聖地。…(先述したように)地中海東岸のパレスチナは、紀元前1000年頃にヘブライ人が王国を建設した地域の名称(昔はカナーンとも呼ばれていた)。→ バビロン捕囚から解放された後に、彼らはパレスチナの中の都市エルサレムに神殿を再建する。→ その後、ローマの支配下に置かれたユダヤ人は、独立運動を起こすが、逆に徹底的に弾圧・迫害され、ユダヤ人はパレスチナの地から離散する。
・キリスト教では、イエスが十字架にかけられたゴルゴタの丘が、エルサレムにあった(現在のエルサレムにある聖墳墓教会は、ゴルゴタの丘があったとされる場所)。
・では、イスラムにとって、なぜエルサレムが聖地なのか…イスラムの伝承では、ムハンマドがある夜、天使ガブリエルに導かれて、エルサレムにある巨岩から天馬にまたがって昇天し、アッラーに謁見したと言われている。…つまり「ムハンマドの昇天」と言われる伝承に由来する。(詳細はP214~215)
・三つの聖地が併存するエルサレムは、ほとんどの時期は、三つの宗教は平和的に併存していた。→ ここで宗教的な紛争が起きるのは、1948年のイスラエル建国以降のことだった。

○パレスチナ問題の発端

・パレスチナは第一次世界大戦時、オスマントルコの領土だった。→ オスマントルコは、ドイツ、オーストリアの陣営に入って、バルカン戦争で奪われた領土奪回を目指した。
・イギリスは、中東でトルコと戦うが、このとき、戦争を有利に進めるために、三枚舌外交を展開する。

① 戦後のアラブ人の独立と引き換えに、アラブ人にオスマントルコに対して反乱を起こさせる。つまり、トルコの支配に憤るアラブ人のナショナリズムを利用した。
② フランス、ロシアとの間で、トルコ領を分割する秘密協定を結ぶ。
③ パレスチナへの帰還を切望するユダヤ人に、「民族的郷土(ナショナル・ホーム)」の建設を約束する(バルフォア宣言)。
…(※この三枚舌外交は、先日Nスペの特集でも取り上げていたが、ひどいもんだねぇ…)

・相互に矛盾している。→ ではオスマントルコが戦争に負けた結果、どうなったか。…パレスチナは、③のバルフォア宣言にもとづきながら、イギリスの委任統治領になり、ユダヤ人の入植を認めるということになった。→ パレスチナの地にユダヤ人がどんどん押し寄せ、とくに1930年代にヒットラーのユダヤ人撲滅運動が起こると、難を逃れるためにユダヤ人がパレスチナに次々と入ってきた。(※今の難民の流れと逆方向か…)
・これをアラブ人が黙認するわけがない。→ ユダヤ人の入植に反対するアラブ人は、イギリスの委任統治に対して、激しい抵抗運動を展開するようになる。
・第二次世界大戦が終わると、戦争で疲弊したイギリスに、パレスチナを統治する力は残っていない。→ 1947年に国連でパレスチナ分割案が決議される。…それは、パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家の二つに分け、エルサレムは国際管理地区にするというもの。→ しかし、若干、ユダヤ人に有利な内容だったため、アラブ人は拒否するが、ユダヤ人は受け入れる。…こうして1948年、イスラエルが建国された。

○ハマスの目的

・建国と同時に、イスラエルとアラブ諸国の間で第一次中東戦争が始まり、イスラエルが勝利。→ そこでさらに領土を拡大し、国家はイスラエルだけとなった。→ 四回におよぶ戦争や様々な交渉を経て、地中海に面したガザ地区と内陸部のヨルダン川西岸地区に、パレスチナ自治区ができた。(P218に地図)
・現下の問題は、ガザ地区を実効支配しているスンニ派原理主義過激派のハマス。…ハマスの思想も、(イスラム国やタリバンと同様 )世界はアッラーの神によって支配されるただ一つの帝国でなければいけない。そのためにはイスラム革命が必要であり、まず最初に、イスラエルをパレスチナから抹消しなければならない、と考える。→ そうなると、イスラエル政府とハマスの間に、交渉の可能性は開かれない。…ハマスにとって、パレスチナ民族の自立は目標ではなく、革命のための単なる道具にすぎない。
・なぜ、ガザ地区に住むパレスチナの人々は、ハマスに惹きつけられるのか。…(住民の大多数は、必ずしもハマスを支持しているわけではないが)ハマスのようなイスラム原理主義の中には、福祉を重視する人たちがたくさんいる。彼らは、アッラーの前で人は平等だと考えるため、生活はものすごく質素で、持っているものは同胞に分け与える。→ だから、一定の人々の心をつかむことができるのだ。
(※う~ん、このあたりが、イスラム問題の肝の一つか…)
・目下のハマスの戦略は、ヨルダン国王を打倒することに向けられている。→ ヨルダンにはパレスチナ難民が大勢いるので、彼らを動員して、ヨルダンで紛争を起こそうとしている。…現在のヨルダン王室はイスラエルと良好な関係を維持している。→ もしもヨルダンの王制が転覆すれば、サウジアラビア、アラブ首長国連邦など湾岸の王制も動揺する。→ その機会に乗じて、ハマスはイスラム国と提携して、中東に世界イスラム革命を輸出する拠点国家を建設しようとするわけだ。
(※う~ん、この状態では、当面は中東情勢の見通しは暗い…?)

(4)戦争を阻止できるか

○EUとイスラム国を比較する

・EUとイスラム国…この両者は、近代の基本的枠組みである国家や民族の枠を越えようとしている点では共通している。
・EUの本質をなすものとして、ラテン語の「コルプス・クリスティアヌム」という概念がある。…ユダヤ・キリスト教の一神教の伝統と、ギリシャ古典哲学、ローマ法という三つの要素から構成された文化総合体のこと(日本語に訳せば「キリスト教共同体」)。…これは、神学者エルンスト・トレルチ(1865~1923)の考え方。
・この体系は、中世に確立し、近代になって世俗化しているが、いまなおヨーロッパ的な価値観の根底をなしている。…EUもまた、この三つの価値観によって結びつけられている有機体だ。→ このことは、EUの広がりを見るとよくわかる。…EUがロシアやウクライナに延びないのは、コルプス・クリスティアヌム(キリスト教共同体)がカトリック・プロテスタント文化圏のものであり、正教文化圏を含みにくいから。→ 同様に、トルコがEU入りを希望しても、入れないのは、コルプス・クリスティアヌムの価値観を共有していないからだろう。
(※わが日本も、このEU的な価値観を共有していない…)
・では、EUはなぜ生まれたのか。…その最大の目的は、ナショナリズムの抑制…二度の世界大戦を経て、あまりにも大きすぎる犠牲者を出してしまった。→ ドイツ人もフランス人も戦争だけはしたくないと強く思って、それがEUという形に結晶しているわけだ。…従って、宗教的な価値観を中心とした結びつきには、民族やナショナリズムを越えていくベクトルがあることが確認できる。
(※う~ん、民族やナショナリズムを越えていくベクトルとなると、ヨーロッパではキリスト教的な価値観しかないのか…?)
・一方、イスラム国もまた、国家や民族の枠をグローバルなイスラム主義によって克服しようという運動。…イスラム国の組織形態は、ネットワーク型という特徴を持っている。(アルカイダのように、ウサマ・ビンラディンの命令で下部が動くという組織形態ではなく)小さなテロのユニットが無数にあり、それぞれに必ずメンター(宗教指導者)がつく。→ そのユニットがインターネットでつながって、世界中で結びついている。…しかし、EUと決定的に違うのは、イスラム国が国家と民族の枠を越えて、人を殺す思想になってしまっていることだ。
・イスラムには、ムスリムが支配する「イスラムの館」と、異教徒が支配している「戦争の館」という概念がある。→ イスラム原理主義の最終目標は、世界中の「戦争の館」を、ジハード(聖戦)によって「イスラムの館」に転換していくことなのだ。…この場合、国家や民族は越えたとしても、ナショナリズムと同じように、人を殺す思想になってしまう。
・では、こうしたグローバルに拡大する宗教原理主義の暴走にストップをかけることはできるのか。…そのヒントは、ネイションにある。

○イスラム原理主義の暴走を食い止める方策

・(2章でエトニ論を紹介したように)ネイションの基にはエトニがある。…つまり、ネイションが生まれるときには、共通の価値、記憶、言語、血統、領域といった事柄がエトニとして事後的に発見される。→ このエトニの議論に、イスラム原理主義を無力化する鍵がある。
・イスラム原理主義の特徴として次の5点がある(ゲルナーの『民族とナショナリズム』より)。

①イスラム原理主義は(儒教のように哲学的思弁を駆使せず)簡単で、宗教と道徳が一致しているため、近代化の嵐の中でも生き残ることができた。
②イスラム原理主義が、儒教より強いのは、強力な超越的観念を持つから。
③イスラム原理主義においては、超越的な神とこの世の人間が直結する。…信仰の仲介者がいないので、政治的、道徳的言説の内容が曖昧で、幅が広くなる。→ それゆえにイスラム原理主義は広域で影響を発揮することができる。
④超越的な唯一神を極端に強調すれば、知的整合性を無視することができる。
⑤近代的な学問手続きや論理整合性を無視して、「大きな物語」をつくることができる。
(※う~ん、これらの特徴を一言でいえば、反知性主義的ということではないか…)

・こうしたイスラム原理主義の特徴を熟知して、その暴走を事前に食い止めようとしたのが、(前章で紹介した)レーニンとスターリン。→ ムスリム・コミュニストの力が強まり、イスラム原理主義がソ連を席巻する可能性が生まれたとき、スターリンは脅威を除去するために、次のような方策をとった。

①イスラム原理主義が尊重する信仰対象、習慣などを尊重し、摩擦を起こさないようにする。→ スターリンは、イスラム法を尊重せよと訴えた。
②イスラム系諸民族の中にあるエトニを刺激して、(イスラムへの帰属意識よりも)民族意識を強化する。→ その結果、イスラム原理主義が浸透する土壌がなくなる。

・(前章で解説したように)現実には上からの強制的な民族アイデンティティを付与したため、ソ連崩壊後には、ナショナリズムの暴走が始まった。→ しかし、スターリンの戦略から学べることもある。…それは、エトニを刺激し、ネイションを対置することで、イスラム原理主義の浸透を防ぐということ。
(※民族・ナショナリズムによって、宗教原理主義を制する…?)

○第一次世界大戦時と現在とのアナロジー

・ここまで、歴史をアナロジカルに捉えることを強調してきた。…そこで本書の仕上げとして、第一次世界大戦との類比で現在を捉えてみよう。
・2014年は、第一次世界大戦勃発から100年目にあたる。…その大戦では、新しい兵器(毒ガス、戦車、機関銃、潜水艦など)が次々と開発され、実戦に投入された。→ 戦場と銃後の区別がなくなり、非戦闘員までが動員される総力戦になったのも、この戦争が初めてだった。…犠牲者数も(諸説あるが)900万人から1500万人と推定され、それ以前の戦争の犠牲者数とは桁違いだった。→ その結果、戦勝国であるイギリスでさえ疲弊し、旧・帝国主義政策、つまり植民地支配による富の収奪システムが揺らぎ始めたのだ。
・第一次世界大戦の特徴として、さらに指摘しておきたいのは、戦争観の変化。…ヨーロッパでは中世から近代にかけて、戦争をするには正しい理由が必要とされていた(正戦論)。←→ しかし、帝国主義的な戦争である世界大戦には、どの国も納得するような正しい理由などあり得ない。→ そこで、平等(無差別)的な戦争観が持ち込まれた。…(正義・悪という二元論を超えて)宣戦布告や交戦規則、捕虜の取り扱いなどの規則遵守を重視する戦争観だ。
・しかし、この戦争観も後の第二次世界大戦で変化していった。…(日本が宣戦布告の前に真珠湾を攻撃したように)戦争によって得られる利益のほうが大きければ、国際ルールなど反古にしてもよい、そんな発想だ。→ それと同じ発想で行動しているのが、現在のロシア。…クリミアをロシアに編入することは、国際社会からの非難や制裁を補って余りあるほどの多大な利益をもたらす、と考えている。
・もう二つほど、補助線を引いておく。

①(先にも述べたが)アメリカは、第二次世界大戦を経てもまだ啓蒙の精神が盛んで、合理主義を信奉している。→ これは第一次世界大戦前の、科学技術と合理主義を絶対視する思想にまでさかのぼることができるだろう。…アメリカのこのスタンスは、基本的に現在も変わらない。(※現下のアメリカの「トランプ現象」は、どう考えたらいいのだろう…?)
②ソ連型社会主義の崩壊後(冷戦の終結後)、資本主義国がカネに対する統制を失いつつある(※マネー資本主義の跋扈…)。…社会主義という目に見える脅威が存在したときは、資本主義国は自国での革命を阻止するため、富裕層に集中する富を累進課税や法人税で吸い上げ、中下層に再分配していた。←→ しかし、共産主義国が崩壊し、再分配の必要がなくなった。→ その結果、富が上位の何パーセントかに集中する著しい格差が資本主義国を覆っている。
(※敵なしの資本側がやりたい放題…。→ ピケティは、富の再配分を提言…)

・以上の情報を総合してみる。…まず、第一次世界大戦によって、帝国主義国が握っていた植民地と富が揺らいだ。→ そして、社会主義国の崩壊によって、資本主義国のマネーへのコントロールが揺らいでいる。…どちらも、権力基盤が不安定になっていることを物語っている。→ そして、ロシアのクリミア編入や、いまだ続くアメリカの合理主義信奉(※?)を見ると、冷戦時代の二大大国が現在、第一次世界大戦前後の状況と酷似する場にいる、ということが理解できる。(※中国は、どういう位置づけになるのか…?)
・まとめると、現下の情勢と第一次世界大戦前後の状況をアナロジカルに捉えることができるのだ。…(当時の世相について書かれた文献によると)第一次世界大戦の前夜、これから何かが起こる、しかし何が起きるかは分からない、という不安の空気が蔓延していたようだ。→ 現在も、まさにそうではないだろうか。先行き不透明で複雑な状況に時代は陥っている。(※確かに…)

○新・帝国主義は何を反復しているのか

・時代はどこへ向かっていくのか…そのことを考察する前に、本書のまとめをしておく。

〔1章〕
・資本主義は必然的にグローバル化を伴って、帝国主義に発展する。…第一次世界大戦後の共産主義の出現は、資本主義のブレーキ役となったが、1991年のソ連崩壊(冷戦の終結)によって再び資本主義は加速し、新・帝国主義の時代が訪れている。→ 19世紀後半からの帝国主義と現代の新・帝国主義を、アナロジカルに捉えることが、第1章の大きなポイントだった。
〔2章〕
・帝国主義の時代には、資本主義がグローバル化していくため、国内では貧困や格差拡大という現象が現れる。→ 富や権力の偏在がもたらす社会不安や精神の空洞化は、社会的な紐帯を解体し、砂粒のような個人の孤立化をもたらす。→ そこで国家は、(上からの)ナショナリズムによって人々の統合を図ることになる。(※まさに現在、日本で起きつつある現象か…)
・それと同時に、帝国内の少数民族は、程度の差こそあれ民族自立へと動き出す。…こうした動向でも、旧・帝国主義と新・帝国主義はよく似ている。→ 上からの公定ナショナリズムや排外主義的なナショナリズムで人々が動員される一方、ハプスブルク帝国の中でチェコ民族が覚醒したように、現代ではスコットランドや沖縄がエトニの発見にもとづいて、自身の民族性を認識するようになってきた。(※中国でも、少数民族や台湾が同様の動き…?)
・帝国主義の時代には、現在の国民よりもっと下位のネイション、つまりもっと小さい民族に主権を持たせることで危機を乗り越えようという動きが出てくる。…以上が第2章の核となるアナロジーだった。
〔3章〕
・沖縄やスコットランドとは対照的に、国民国家の危機をグローバルな理念で乗り越えようとする動きも出てくる。それが宗教的な理念。…時代こそ違うが、キリスト教でもイスラムでも、社会の危機に対して、復古主義・原理主義的な運動が起こり、地域や領土を越えて拡散していく点では共通している。…現代のEUも見方によっては、西ローマ帝国さらにはローマ帝国への回帰と言うこともできるだろう。(※EUは〝未来性〟ではなく〝復古〟か…?)

○プレモダンの精神をもって、モダンをリサイクルする

・このように、巨視的に歴史を見る力やアナロジカルな見方によって、現代がどのような時代なのかを把握することが可能になる。→ しかし、本当に難しい問題はその先にある。…はたして、時代はどこに向かっていくのかという問題だ。(※確かに、そこが知りたい…)
・19世紀末に生まれた帝国主義は、二つの世界大戦による大量殺人と大量破壊にまで行き着いてしまった。→ ヨーロッパが殺し合いをしなくなったのは、あまりにも大きすぎる犠牲をこのとき払ったからだ。…いわば、帝国主義は臨界点を迎えてしまったわけだ。
・一方、現代の新・帝国主義は、第三次世界大戦には至っていない。しかし、ウクライナ、パレスチナ、イラク、シリアなどでは、核を使わない戦争が続いている。→ こうした戦争や紛争を解決するには、たった一つしかない。…それは(ヨーロッパがそうであったように)もうこれ以上殺し合いをしたくないと双方が思うことだ。(※う~ん、極めて簡潔な提言だが…)
・その境界線を定量化することはできない。…数百万人かもしれないし、数千人かもしれない。しかし、その一線は必ず存在する。→ だとすれば、その一線をできるだけ下げるようにするのが、戦争を阻止するという本書の目的にかなうことになる。…そのためには、どうすればいいのか。→ 二つの可能性があると考える。

①もう一度、啓蒙に回帰すること。…人権、生命の尊厳、愛、信頼、といった手垢のついた概念に対して、不可能だと知りながらも、語っていく。…それは、バルトの言う「不可能の可能性」を求めていくことだ。(※なるほど、そうきたか…ここで神学とのアナロジーが完成するわけか…。そして、一定の説得力はある…)
・近代が限界に近いことは確かだ。その兆候はいたるところに現れている(※「資本主義の終焉」という水野和夫氏とも通底…)。…しかし、近代を超える思想として提出されたものが、ことごとく失敗しているのも事実だ。→ 啓蒙主義の帰結を反省して、あらゆる理念や概念を相対化した結果、人々は何も信じることができなくなって、動物的に行動するだけになってしまう。…いまや政治も経済も、動物行動学者の想定するような世界になっている。
(※確かに、マネー資本主義なども、ある意味で反倫理的で動物的だし、政治も動物レベル…?)
・だが、近代は限界に近づいているものの、国民国家や資本主義のシステムは、そう簡単には崩れない。…国民国家の成立が均質の労働力を生み、資本主義を育ててきた。→ その綻びが見え始めたとはいえ、いま世界で起きていることは、しょせんコップの中の嵐であり、現行システムの調整だと思う。(※う~ん、「長い21世紀」の、先はまだ長い…?)
・だとすれば、近代の枠組みの中で戦争を止めるには、近代の力を使うしかない。→ それが啓蒙主義。…モダンのリサイクルと言ってもいいかもしれない。(※当面の弥縫策…?)

② もう一つは、プレモダンの精神、言い換えれば「見えない世界」へのセンスを磨くこと。…(本章で何度も述べたように)「見える世界」の重視という近代の精神は、旧・帝国主義の時代に戦争という破局をもたらした。→ 新・帝国主義の時代には、目に見えなくとも確実に存在するものが再浮上してくると思う。
・イギリスは、実念論が国家の中核にある。…「目には見えなくとも存在するもの」が、この国では近代的な民族を超える原理となって人々を統合してきた。→ (イギリスのみならず)現下の情勢を見ても、もはや合理的なこと(※目に見える数値・実証主義?)だけでは、国家や社会の動きは説明できないだろう。…実念論の時代の再来だ。→ だからこそ私たちは、「見えない世界」へのセンスを磨き、国際社会の水面下で起こっていることを見極めなければならないのだ。……以上をまとめると、プレモダンの精神をもって、モダンをリサイクルする、ということになる。

〔※この著者は、「見えない世界」を、神学的な「超越的なもの」とのアナロジーで考えようとしていると思われるが、当方としては、(先述したように)「見えない世界」を、「神」ではなく「自然」に、例えば、「自然農法」の木村秋則さん(「震災レポート28」参照)や、生物学者・福岡伸一さんの「センス・オブ・ワンダーの世界」、さらには「縄文の世界」(「アフリカ的世界」?)などにも通底していくような方向で展開できたら、と思っている…〕

・歴史への向き合い方も、私たちはイギリスに学ばなければいけない。…イギリスの歴史教科書は、過去の過ちをふまえて、歴史には国家や民族によって複数の見方があることを、徹底的に教え込もうとしていた。
・私たちもまた、歴史は物語であるという原点に立ち返る必要がある。→ そのことを自覚した上で、よき物語を紡いで、伝えること。…そして、歴史が複数あることを知るために、そして「見えない世界」へのセンスを磨くために、アナロジカルに考えないといけない。
⇒ 近代の宗教である資本主義やナショナリズムに殺されないために、私たちはアナロジーを熟知して、歴史を物語る理性を鍛え上げていかなければならないのだ。

〔※宗教の門外漢が、世界史の中の宗教について、よき専門家の案内で学ばせてもらったが、最後に勝手な感想を述べさせてもらうと……いま、世界中を席巻しているかに見える一神教の世界(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)を、(否定するのではなく)相対化していく、という視点・方向性が、(一神教が根付きにくいと言われる?)この日本という国の、世界史的・地政学的(?)な役割の一つなのではないか、などと妄想してしまうのだが…〕
                               (5/30…3章 了)            


 今回までで、資本主義、民族問題(ナショナリズム)、宗教という三つの要素によって、現下の「世界状況」を読み解くための、当面の最低限の知識を少しは学べたかな、という感触は得られたようです。→ 当初は、引き続いて「日本状況論」へ向かう予定だったのですが、この間たまってしまった未読本に目を通すため、次回は少し遅れそうです。…それではまた…(今夏の暑さがもう始まるなか、オバマ米大統領の「広島スピーチ」を読みながら…)。
                                   (2016.5.30)          

2016年5月23日月曜日

(震災レポート36)

(震災レポート36)
 震災レポート・5年後編(2)―[世界状況論 ②]


・本章のテーマは、世界史上の民族問題とナショナリズムを考慮しながら、これからの国家のゆくえを展望すること。→ 民族問題に効率的にアプローチするためには、中東欧とロシア帝国に注目すること。なぜなら、民族という概念が根づいたのは、まずは中東欧だったから。そして、民族問題の複雑さを理解するにはロシア帝国を取り上げるのが適切と考えるから。…現代日本のナショナリズムを考えるためにも、世界史の教養は必須なのだ。(佐藤優)



『世界史の極意』
  佐藤優(NHK出版新書)
    2015.1.10(2015.2.25 5刷)
 ――[中編]



【2章】民族問題を読み解く極意
  ――「ナショナリズム」を歴史的にとらえる


(1)民族問題はいかにして生じたのか


○中世末期の西欧と中東欧の違い

・中世のヨーロッパでは、教会と社会が一体化していた。→ だから中世の人間には、近代人のような民族意識はない。…中世のヨーロッパ人にとっては、人間であることはキリスト教徒であることとイコールだった。(※う~ん、ヨーロッパの歴史におけるキリスト教の重たさ、というのは、ちょっと日本人には実感的に理解不能か…)
・西欧では、比較的早い段階で、国家というまとまりが成立していった。…英仏の場合、1339~1453年の百年戦争後に中央集権化が進んで、領土的なまとまりを形成していく(詳細はP95~96)。イベリア半島も、国のまとまりはけっこう早い。→ キリスト教徒がイスラムを追い出すレコンキスタ(国土回復運動)とともに、1143年にポルトガル王国ができ、1479年にはスペイン王国が成立する。
・つまり、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルといった西欧では、比較的早い段階で主権国家の条件が整備されていった。←→ それに比べて、中東欧を含む15世紀末の神聖ローマ帝国(ドイツ)は、混沌としている。…その範囲は、オランダ、ベルギー、フランス東部、スイス、オーストリア、チェコなどのかなりの地域まで含むが、実態は「名ばかり国家」だった。→ 皇帝はいても権力はなく、帝国の中に数百もの領邦が分立しているような状態。(※日本の戦国時代のようなイメージか…)


○16世紀に始まるハプスブルク帝国の興隆

・絶対主義の時代が始まる16世紀は、ハプスブルク家が世界史の中心を担う時代。…ハプスブルク家は、もともとはスイス北東部の弱小貴族だった。→ ところが1273年に、瓢箪から駒のような形で、ハプスブルク家の総領ルドルフが、神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれる(ローマ教皇から冠を授与されて皇帝になる…詳細はP97~98)。…ハプスブルク家の得意技は、結婚政策(※政略結婚はどこも同じか…)。→ その全盛期は、(イギリスとフランスを除いた)西ヨーロッパの大半を手に入れるほどの隆盛を極めた。(詳細はP98~99)


○三十年戦争の二つの側面

・このハプスブルク家がヨーロッパの主導権を握っていた時代に起こったのが、ルターの宗教改革。…16世紀、当時のローマ・カトリック教会の教皇が贖宥状(罪の償いを軽減する証明書)を販売した(※地獄の沙汰も金次第!)のに対して、ドイツのマルティン・ルターは、贖宥状を買うだけで神の罰が解消されるはずがないと批判し、聖書を拠りどころにした信仰の重要性を説く。→ このルターに始まったカトリック教会への批判運動は、ヨーロッパ全体をカトリックとプロテスタントに塗り分け、内戦・戦争に発展していった。
・そのピークとなる戦争が、神聖ローマ帝国を舞台として1618年に始まった三十年戦争(詳細はP100)。…つまり三十年戦争は、カトリック対プロテスタントという宗教戦争と、ハプスブルク家対フランス・ブルボン家の対立という二つの側面を持った国際戦争として拡大していった。→ この三十年戦争の後、1648年に、終戦処理のための講和会議で締結された条約が、ウェストファリア条約。


○ウェストファリア条約の意義

・このウェストファリア条約によって、宗教戦争は終結し、神聖ローマ帝国内の各領邦国家も含めて、それぞれの国が内政権と外交権を有する主権国家として認められた。→ つまり、ウェストファリア条約こそが、「主権国家によって構成されるヨーロッパ」という世界秩序をつくりあげ、戦争をもたらしたカトリックとプロテスタントの長年にわたる対立に終止符を打ったことで、まさに中世と近代を画する結節点となった(ヨーロッパの主権国家体制の確立)。
・序章で、「戦争の時代」は今なお続いていると述べた。→(さらにマクロな視点に立つなら)私たちは今なお、ウェストファリア条約で形成された近代システム(主権国家体制による世界秩序)の延長を生きていると言えるのだ。
・(ウェストファリア条約~フランス革命の時代の、ヨーロッパの国際政治史)…激しい領土変更を伴う戦争が相次いだ。…ドイツは、(領邦国家の一つであった)プロイセンが力をつけ、領土を拡大。…オーストリア・ハプスブルク家は、ウィーンに迫るオスマントルコとの戦いに勝利し、1699年にハンガリーを奪う。…ポーランドは、18世紀後半に、隣接していたロシア、プロイセン、オーストリアの三国に分割されてしまった。→ 現在のウクライナ西部にあたるガリツィア地方は、オーストリア・ハプスブルク領となる(後述)。


○ナショナリズムを輸出したナポレオン戦争

・ここまで、中世末期から近代初期までのヨーロッパの国際情勢をたどってみたが、この時期には民族問題やナショナリズムは存在しない。君主のもとで中央集権化は進んでも、領域内の住民の国家に対する帰属意識は希薄だ。→ つまり、ウェストファリア条約によって主権国家システムは成立したが、いまだに「国民」や「民族」と訳される近代的なネイションは生まれていない。(※この段階では、「国家」という意識を持っているのは支配階級だけ…)
・近代的なネイションは、1789年のフランス革命によって誕生した。…男性普通選挙を含む憲法の制定、徴兵制の実施など、領域内の住民が国家の政治に参加する権利を持つと同時に、住民自らが兵士となって国家を守る。→ フランス革命では、国家の主権が(国王ではなく)国民にあるという原則が打ち立てられた。…このように、国民(nation)と国家(state)が一体となった国家を「国民国家」(nation state)という。
・フランスで生まれた国民国家や自由の理念は、ナポレオン戦争によって、ヨーロッパ中に輸出されていく。…ナポレオンのヨーロッパ遠征の破壊力のすさまじさ。→ ナポレオン全盛期には、(ロシアを除く)ヨーロッパ大陸のほとんどを支配下に置く。…西南ドイツ諸国も支配下に置いたことで、1806年に神聖ローマ帝国も完全に消滅した。
・(世界史の教科書)…「封建的圧政からの解放を掲げるナポレオンの征服によって、被征服地では改革が促されたが、他方で外国支配に反対して民族意識が成長した。→ まず、スペインで反乱が起こり、またプロイセンでは、シュタイン・ハルデンベルクらが農民解放などの改革をおこなった。」
・ヨーロッパ諸国は、フランス国民軍の強さを目の当たりにした。…ドイツはいまだ多数の領邦国家が分立している状態。→ その中で、哲学者のフィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」という演説を行い、ドイツ民族の一体化を訴えている。…ドイツに顕著なように、ナポレオンによって征服された国々では、民族意識や国民意識の覚醒を訴えるナショナリズムが発揚していく。


○19世紀から始まる中東欧の民族問題

・(中東欧の状況)…ナポレオン失脚後のウィーン体制では、(ロシア皇帝がポーランド王を兼ねることになったため)ポーランドは実質的にロシアの支配下に置かれた。…ハプスブルク朝のオーストリア帝国は、(現在のハンガリーを含む)当時最大の多民族国家(ドイツ人、マジャール人、チェコ人、ポーランド人、ルーマニア人、スロヴァキア人、ウクライナ人、セルビア人、マケドニア人など)。→ これらの民族が、19世紀のナショナリズムの中で、自治・独立を求める動きを強めていった。
・1848年、フランスの二月革命の影響はウィーンにも及び、帝国内のスラブ人やマジャール人(ハンガリー人)、イタリア人の民族運動が高まる。→ スラブ人は独立を求めて、プラハでスラブ民族会議を開いた。…ハンガリーは、1867年に自治を認められ、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立。
・オスマントルコが支配していたバルカン半島でも、19世紀後半に大きな変化があり、「ヨーロッパの火薬庫」の様相を呈していく。…露土戦争(1877~78年)において、トルコは、南下政策をとるロシアに敗れ、ルーマニア、セルビア、モンテネグロがトルコから独立。→ この敗戦で、トルコはバルカン半島の領土の大部分を失う。(※う~ん、ロシアとトルコの戦争の歴史は古い…。P107に第一次世界大戦前のヨーロッパの地図)
・1908年には、トルコで起きた革命の混乱に乗じて、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合し、ブルガリアがトルコから独立。←→ しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナにはスラブ民族であるセルビア人住民が多く、セルビアはこの併合に反発。(※う~ん、複雑…!)
・その後に起きるバルカン戦争が第一次世界大戦の火種となっていくが、その構図は、ロシアをリーダーとする汎スラブ主義と、ドイツ・オーストリアを中心とする汎ゲルマン主義との民族的な対立。―→ フランス革命以降に広がったナショナリズムが、中東欧において複雑な民族問題を構成し、第一次世界大戦の背景となっていった。…この流れを押さえておいてほしい。(※う~ん、この程度の世界史の流れを押さえておかないと、世界の中の日本の位置づけや、現代日本のナショナリズムについて、さらには今後の国家の行方を、展望することはできない、ということか…)



(2)ナショナリズム論の三銃士
  ――アンダーソン、ゲルナー、スミス


○三人の知的巨人

・中世末期から三十年戦争を経て第一次世界大戦にいたる流れから、現代を生きる私たちは何を汲み取るべきか。…そのための強力な武器が、ベネディクト・アンダーソン(代表作『想像の共同体』)、アーネスト・ゲルナー、アントニー・D・スミス、という三人のナショナリズム論。(詳細はP108~109)


○「想像の共同体」と道具主義

・ナショナリズムの問題を考えるときの、「原初主義」と「道具主義」という考え方がある。…原初主義とは、日本民族は2600年続いているとか、中国民族は5000年続いているといったような、民族には根拠となる源が具体的にある、という実体主義的な考え方。→ この場合の具体的な根拠として挙げられるのは、言語、血筋、地域、経済生活、宗教、文化的共通性といったもの。〔※日本の場合は、言語、血筋、宗教に加えて、最近では文化的な共通性(和食とか和製○○とか)を強調する傾向…?〕
・きわめて素朴な議論だが、ここには大きな問題がある。ex. ウクライナ人とロシア人……988年に導入されたロシア正教がロシア人のアイデンティティ形成にとって不可欠だったと言われているが、その年にキリスト教を受け入れたのは、現在のウクライナの首都キエフの大公だったウラジミール一世。→ そうすると、キエフなきロシアというのは考えられるのか。あるいは、ウクライナというのも、その意味ではロシア人ではないか、ということになる。→ 原初主義的発想では、すぐに袋小路に入ってしまう。
・それに対して道具主義は、民族はエリートたちによって創られる、という考え方。…つまり、国家のエリートの統治目的のために、道具としてナショナリズムを利用するのが、道具主義。(※近現代の日本のナショナリズムは、この〝道具主義〟の色合いが強い…?)
・この道具主義の代表的な論者が、アンダーソン。…国民というのはイメージとして心に描かれた想像の政治的共同体。→ つまり、日本の国民というのは、「自分たちは日本人なんだ」とイメージしている人たちの政治的共同体だ、ということ。…イメージだから、実体的な根拠はない。→ 国民意識というのは、自分たちは同じ民族だというイメージをみんなが共有することで成り立つものである、というのがアンダーソンの考え方。(※う~ん、「共同幻想論」と通底する考え方か…?)(※オリンピックなども、国民意識のための〝道具〟として使える…?→ 安倍政権がオリンピック招致に熱心だった理由…?)


○標準語はいかにつくられるのか

・では、どうすれば同じ民族というイメージが共有されるのか。→ アンダーソンが強調するのは、標準語の使用。……標準語というのは、自然に存在するものではない。…日常の話し言葉は、地域によって様々…現在の日本にも、地域ごとに方言がある。→ では、標準語はどのようにつくられていくのか。アンダーソンは「出版資本主義」の力だとする。
・書籍の出版は、初期の資本主義的企業であり、初期の出版市場は、もっぱらラテン語の読書人たちを対象としていた(ラテン語を読める人間は少数のエリートなので、市場としては旨味がない)。→ 16世紀前半、ルターの宗教改革の時代に、ルターがドイツ語で著作を書き、聖書のドイツ語訳を出版した。これが飛ぶように売れた(ルターは名の通った最初のベストセラー作家となった)。⇒ そして重要なことは、ルターのドイツ語訳の聖書が普及したことで、標準的なドイツ語を読み書きする空間が生み出されるようになった、ということ。
・話し言葉はあまりに多様なので、話し言葉ごとに本をつくっていたら、出版業はたいして儲からない。→ そのために、「出版用の言語」がつくられていくことになる。…それが国語や標準語というシステムになっていく(というのがアンダーソンの分析)。
・アンダーソンの考え方では、民族とは想像された政治的共同体、すなわち想像上の存在(※「幻想された共同体」?)。→ だから、小説や新聞が大きな役割を果たす。…ある小説を読む読者共同体ができる。→ そこに「われわれ」という共通認識が生じる。…「われわれ」を感じることができるような文学形態(ex. 小説)は、ナショナリズムと表裏一体の関係にある。
〔※う~ん、「出版用の言語」=国語、標準語 → その国語や標準語というシステムが、「われわれ」という共通認識を持てるような空間を生み出し、それに小説や新聞(現代ではネットも?)が大きな役割を果たし、それらは、ナショナリズムと表裏一体の関係にある、ということか…?…一定の説得力はあるが、ちょっと単純化しすぎる嫌いも…〕


○公定ナショナリズムとは何か

・アンダーソンの議論でもう一つ重要な概念に「公定ナショナリズム」というものがあり、ここに道具主義が絡んでくる。これは簡単に言うと「上からのナショナリズム」で、アンダーソンはその例として帝政ロシアを挙げている。
・ナポレオンの侵略後、国民国家やナショナリズムの理念がヨーロッパ諸国に広まっていったことはすでに触れたが ←→ こうしたフランス発の理念に対抗するため、ロシアは「正教、専制、国民性」というスローガンを掲げた。…この第三の原則「国民性」が、この時期に新しく加えられた。
・さらに19世紀末になると、アレクサンドル三世の治世のもと、ロシア語が、バルト海地方すべての学校の授業の言語として義務づけられる。…このように、支配者層や指導者層が、上から「国民」を創出しようとするのが公定ナショナリズムだが、それは王権の正統性を支える新たな道具になると同時に、「新たな危険を伴った」とアンダーソンは指摘している。
(※この構図は、明治以降の近代日本にも、そのまま当てはまるのでは…?)
・(「新たな危険」とは)…「国民性」をつくるということは、君主もまた国民の一人に数えられることになる。→ 従って君主は、国民の代表として、国民のために統治をしなければいけない。←→ 仮に、それに失敗すると、国民からは同胞に対する裏切り行為と糾弾されてしまう…そういう危険性があるわけだ。


○ゲルナーのハイライト

・次に紹介するゲルナーも、道具主義の代表的な論客。〔主著『民族とナショナリズム』〕…(ナショナリズムの思想があって、ナショナリズムの運動が生じるのではなく)ナショナリズムの運動があって、ナショナリズムの思想が生じる。→ その結果、「民族」「国民」と訳されるネイションが生まれてくる。…つまり、(民族が最初にあってナショナリズムが生まれるという原初主義的な通念は誤りで)ナショナリズムという運動から民族が生まれる(発見される)、というのがゲルナーの考え方。
・また、民族という感覚は(アンダーソンと同様に)近代とともに生まれたものとする。…ex. 日本の江戸時代でも薩摩と会津の人間は、同じ民族だという感覚は持っていなかった。
・『民族とナショナリズム』の中でとくに注目してほしいのは、ナショナリズムに対する誤った四つの見方の指摘。

①ナショナリズムは自然で自明であり、自己発生的である、という見方。
②ナショナリズムは観念の産物であり、やむを得ず生まれたため、ナショナリズムはなくても済ますことができる、という考え方。←→ ゲルナーは、ナショナリズムは近代特有の現象と認めながら、同時にそれを消去することはできない、と言っている。
③(マルクス主義者への皮肉)…マルクス主義者は、労働者階級に「目覚めよ」とメッセージを送ったのに、そのメッセージが民族に届いてしまったことについて、「宛先違い」だったと弁解する。…この見方は誤っている。→ なぜ民族に人々が動かされてしまうのかを考えなければいけない、ということ。(※う~ん、日本の戦後思想も、いまだにこの部分について、ほとんど決着がつけられていないのではないか…?)(※現在のフランスでも、庶民階層の多くが、国民戦線という右翼政党を支援しているらしい。…トッド『シャルリとは誰か?』より)
④ナショナリズムは、先祖の血や土地から「暗い力」が再び現れたものだという見方。…これは明白にナチズムを指している。←→ これもまた、ゲルナーは否定する。


○ナショナリズムが産業社会に生まれる理由

・なぜゲルナーはナショナリズムを近代特有の現象だと考えたのか。…それは、産業社会でないと、人々の文化的な同質性が生まれないから。
・産業社会になると、人々は身分から解放され、移動の自由を獲得するので、社会は流動化する(1章のイギリスの「囲い込み」参照)。→ 社会が流動化すると、見知らぬ者同士でコミュニケーションをする必要が出てくる。→ 普遍的な読み書き能力や計算能力といったスキルを身につけることが必須になる。→ 一定の教育を広範囲に実行するためには、国家が必要。…国家は社会の産業化とともに、教育制度を整え、領域内の言語も標準化する。→ こうした条件があって、広範囲の人々が文化的な同質性を感じることができるというわけだ。(※日本では、明治の文明開花期か…)
・こうして、産業化によって流動化した人々の中に生まれていく同質性が、ナショナリズムの苗床になる、というのがゲルナーのナショナリズム論。…1章で、資本主義社会の本質は「労働力の商品化」であるというマルクスの考えを紹介したが、ナショナリズムの形成にも労働力の商品化が大きくものを言ったのだ。
(※労働力の商品化 → 社会の産業化 → 読み書き・計算の能力の必要性 → 国家による教育制度の整備と言語の標準化 → 広範囲の人々に文化的な同質性 → ナショナリズムの形成…ということか。)


○「エトニ」という新たな視点

・アンダーソンもゲルナーも、民族やナショナリズムが近代的な現象であるという点では共通している。→(そして先述のとおり)知識人の間では、原初主義は素朴な議論として斥けられ、道具主義のほうが常識的な議論として受け取られている。←→ しかし、知識人の外側は違う。…知識人ならざる多くの近代人(※一般大衆?)には、民族がはるか昔から存在しているように感じられている。…いったい、それはなぜか。
・アントニー・D・スミスの画期的なナショナリズム論。…(アンダーソンの、民族とは「想像された政治的共同体」という考えに対して)スミスは、近代的なネイションを形成する「何か」がある、と考える。…それを表す概念が、現代フランス語の「エトニ」(古典ギリシア語の「エノトス」)…すなわち「共通の祖先・歴史・文化を持ち、ある特定の領域との結びつきを持ち、内部での連帯感を持つ、名前を持った人間集団」。…(※我々で言えば「日本人」「大和民族」か…)
・スミスによれば、近代的なネイションは、必ずエトニを持っている(エトニが存在しないところに、人為的に民族を創造することはできない)、ということ。←→ しかし、エトニを持つ集団が必ずネイション(国民、民族)を形成するわけではない。→ そのごく一部がネイションの形態を取るのであり、ネイションが自前の国家を持つことができる場合はさらに限られる。(※つまり「エトニ」は、「ネイション」や「自前の国家」になるための必要条件か…)
・このエトニという観念が、歴史と結びつくことによって、政治的な力が生まれる。→ この力によって、エトニは「民族」に転換する。(※う~ん、民族主義派が「歴史教育」を重視するわけか…)
・ここでいう「歴史」は、実証性が担保されている必要はない。つまり、史料にもとづいた客観的な歴史記述である必要はない。人々の感情に訴える、詩的で、道徳的で、共同体の統合に役立つ物語としての歴史(1章で述べた「ゲシヒテ」)。…これが民族形成に不可欠なのだ。→ 民族がはるか昔から存在しているように感じられる理由もここにある。
(※まさに、戦前の「歴史教育」であり、現在の安倍政権が目指すものも、これの〝平成版〟か…)


○三人のナショナリズム論の違い

・アンダーソンの論……(本人の意図とは離れて)「想像の共同体」は人為的につくられるというふうに読まれる傾向が強くある。…とりわけ日本ではそうだった。→ 近代的なネイションは操作可能だということになる。そう誤解される理由は、彼のナショナリズム論には、経済基盤(※マルクス主義的に言うと「下部構造」か)に対する観点が希薄なこと。つまり、イメージやシンボルがあれば、ネイションはつくることができる。→ こうした点ばかりが着目され、「国民国家などフィクションだ」という形で、国家を相対化することに焦点をしぼってアンダーソンの論は使われてしまったようだ(※主に左翼的な視点か…?)。
・ゲルナーの論……経済基盤への着目という点では、すっきりしている。→ 労働力の商品化ひいては産業化が、ナショナリズム誕生の必要条件と言っている。←→ しかし、産業化によって生まれたナショナリズムが、なぜ過去から連綿と続く民族的根拠があるようにイメージされるのか、そして、なぜ人々はナショナリズムに命を賭けるような行動を取るのか、という問いに答えることができない。(※この問いは、宗教問題とともに、現下の世界の最大の難問の一つか…)
・この点を説明しようとしたのがスミスだ。…つまり、ネイションにはエトニ(※共通の祖先・歴史・文化などを持つ、名前を持った集団)という「歴史的な」根拠があるということ。


○フスの物語

・三人の中で、スミスのナショナリズム論は、原初主義にもっとも近い議論。→ だからこそ、知識人の間では、アンダーソンやゲルナーの議論のほうが好まれる(※多くの左翼知識人も?)。←→ しかし私自身は、スミスの言う「エトニ」の概念は決定的に重要だと考える。(※このあたりが、この著者のユニークさであり優秀さか…)
・ネイションという言葉は、ラテン語の「ナチオ(natio)」。…中世の大学の中で出身地を同じくするサークルのことを意味する。…日本語なら、「郷土会」や「同郷団」。
・チェコの宗教改革者フス(ルターの宗教改革以前に活動)が学んだカレル大学には、ボヘミア、ザクセン、バイエルン、ポーランドという四つのナチオがあった。→ フスが参加したのは、ボヘミアのナチオ。…このナチオには、チェコ人、スロヴァキア人、南スラブ人、マジャール(ハンガリー)人がいて、ここだけがチェコ語を用いていた。
・このナチオが、15世紀のフス派の反乱によって政治的意味を持つようになった。…当時の教会の腐敗(三人の教皇による、贖宥状の販売や傭兵を使った戦争)を批判し、チェコ語の聖書をつくったのがフス。→ しかしフスは、異端の烙印を押され、1415年に火刑に処された。→ ボヘミアのフス派はこれに反抗し、1419年にフス戦争を起こす。→ カトリック軍に対して善戦するが、最終的には内部分裂を起こし、フス派内急進派は、穏健派とカトリックの連合軍に敗れた。
・このフス戦争を通じて、民族のアイデンティティとチェコ語という言語、フス派の宗教改革が結びついて、エトニすなわちネイションという考え方の基本が、カレル大学のボヘミアのナチオから出てきた。→ 近代になって、チェコ民族が成立したのは、チェコというエトニが中世に形成されていたから。…フスはそれを結晶化する役割を果たした。
・フス自身は、(自らを近代的なチェコ民族と思っていたわけではなく)…チェコという出身地やチェコ語という言語と結びついた自己意識があっただけだ。→ この自己意識が、フス戦争を通じて、チェコ人というエトニの輪郭を強力につくりあげた。→ このチェコ・エトニが、近代になってチェコ人が国家を形成する民族意識の母体になったのだ。
・チェコ民族の成立からわかることは、あらかじめエトニという要因があることで、民族ができあがるとは言えないということ。…エトニは、民族意識が生まれた後、「歴史的な」根拠として事後的に発見される(※「後づけ」「後知恵」?)。→ 発見するのは、文化エリート。…フスの物語をチェコ民族のエトニとして発見したのは、パラツキ―という文化エリートだった(後述)。
・その意味では、民族問題をつくっているのは常に文化エリートとも言える。…ex. 日本の場合でも、日本的なエトニというのは、本居宣長によって「漢意(からごころ)に非ざるもの」という形で、『源氏物語』や平安時代の中にあると読み込まれた。←→ しかし平安時代の人々に、本居宣長が言ったような「漢意に非ざるもの」という意識は、おそらくなかっただろう。(※日本のネイションの萌芽は、江戸時代にあった、ということか…?)
⇒ つまり、(エトニがあるからネイションができるのではなく)ネイションができるからエトニが(※事後的に)発見されるのだ。

〔※う~ん、このことは、これから数年、(〝憲法改正〟に向けて)日本の文化エリートが、どのような日本・エトニを新たに発見してくるのか、そして、日本人がどのエトニに同調していくのか、あるいはしないのか…非常に重要になってくると思われる。…とにかく日本人には、戦前・戦中に、大和・エトニに根こそぎもっていかれた、という〝前科〟があるのだから…。〝風化〟という問題は、震災や津波という自然災害だけではなく、戦争(原発も)という人災にも当てはまる問題だ。そして「70年」という年月は、それを風化させるのに十分すぎる時間だと思われる…〕



(3)ハプスブルク帝国と中央アジアの民族問題


○マジャール人の覚醒

・18世紀のオーストリア・ハプスブルク帝国内は、神聖ローマ帝国と同様、大小の領邦が分立し、非常に多くの民族を含んでいた。←→ 外では、プロイセンが強国として力をつけ、ハプスブルク帝国を脅かす存在になっていた。→ そこでハプスブルク帝国は、中央集権的な国家をつくるために、農奴解放、宗教寛容政策や教会改革など、「上からの近代化」をめざす。…その中で、帝国内の民族問題につながる影響を与えたのが、ドイツ語の公用語化政策だった。
・しかし、このドイツ語化政策は両刃の剣だった。→ 王朝が普遍的な帝国的言語としてドイツ語を押しつけようとすればするほど、ドイツ語を話す臣民に肩入れしているようにみなされ、それだけ他の臣民の反感を募らせた。←→ しかし、そうしなかった場合には(実際、王朝は他の言語、とりわけハンガリー人の言語に譲歩した)、それは結果的に帝国統一の推進にとって後退であったばかりか、今度はドイツ語を話す臣民が貶められたと感じることになった。(※う~ん、国家の統治にとっての、言語の扱いの難しさ…)
・このドイツ語化政策に、帝国内でもっとも反発したのがハンガリーのマジャール人だった。…ドイツ語が帝国の公用語になれば、(ドイツ語を話せない)マジャール人貴族たちは職にあぶれ、既得権益を失ってしまう。→ そこでマジャール人の支配階級は「上からのナショナリズム」を志向し、マジャール語の防衛に乗り出した。…つまり、一方では、ハンガリー地域内に公定ナショナリズムが生まれていく。
・他方で、ハンガリーでは民衆的ナショナリズムも育っていく。→ 識字率の上昇、マジャール語出版物の普及、自由主義的知識人の成長などによって、民衆的ナショナリズムが刺激され、(アンダーソンの言う)出版資本主義による「想像の共同体」の素地ができていった。
・両者のナショナリズムが最高潮に達するのが、1848年のウィーン三月革命。→ ハンガリーの議会は、封建的な貴族州議会を廃止し、責任内閣制を掲げたほか、農奴解放やマジャール語の公用化を宣言する。←→ しかし、翌49年、革命はロシア軍の援助を受けたオーストリア軍により鎮圧され、民族的自由は再び奪われる。(※う~ん、中東欧は複雑…)


○公定ナショナリズムと帝国主義

・ハンガリーのナショナリズムに見られる、公定ナショナリズムと民衆的ナショナリズムの相克は、その後も続いた。…1866年、オーストリアはプロイセンとの戦争(普墺戦争)に敗れ、ハンガリーの自治が認められた。→「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の成立(オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼任するが、外交・軍事・財政以外は、ハンガリー独自の憲法、議会、政府を持つ)。…(※これも複雑!…詳細はP130~131)
・これは、帝国内のマジャール人以外の民族から見れば、一種のハンガリー優遇策。そのためハンガリー国内でも、他の民族からの自治を求める声が強まっていった。←→ それに対して、ハンガリー王国は「公定ナショナリズム」を突きつける。→ 国内でマジャール語化政策を打ち出し、他民族にマジャール語を強制していく。
・オーストリア=ハンガリー二重帝国は、第一次世界大戦に敗れる。→ その結果、オーストリアとハンガリーは分離し、1918年にハンガリーは独立。のみならず二重帝国は解体され、チェコスロヴァキア、ユーゴスラビアが独立、ハンガリー王国東部の地域はルーマニアが獲得。……アンダーソンは、公定ナショナリズムの本質を、民衆的ナショナリズムに対する権力集団の応戦だと言う。(※日本の民衆は、権力側の公定ナショナリズムにやられっぱなし…?)
・ハンガリーでは民衆的ナショナリズムが育つなか、自らの権益を守りたいマジャール人貴族たちの公定ナショナリズムによって、王国内の他民族にマジャール化を迫った。
⇒ 新・帝国主義の時代である現在も、帝国主義は公定ナショナリズムと親和性を持ちやすい。…その典型は、中国。
・現在の中国に見られるナショナリズムの高揚は、中国指導部にとって両義性を持っている。→ 中国指導部が公定ナショナリズムを巧みに操作し、共産主義イデオロギー(※実態は、支配者層の既得権益の擁護?)にもとづく権力の中枢を、民族の代表に転換することに成功するならば、ナショナリズムの高揚は体制を強化することになる。←→ それに対して、現在形成されつつある中華民族というナショナル・アイデンティティによって、「お前たちは我々の代表ではない」と共産党指導部が拒否されれば、高揚するナショナリズムは体制にとって危険なものになる。…近代的な民族が育ちつつある中華帝国をアナロジカルに分析する上で、公定ナショナリズムという概念は、非常に有用なのだ。

〔※日本を含めた中国の周辺国にとって、中国が脅威となるのは、(戦前の日本がそうであったように)中国の民衆的ナショナリズムが、中国指導部の公定ナショナリズムに巧みに操作・同調させられることによって、排外主義的なナショナリズムの高揚につながってしまうときだろう。そして最悪なのは、それに対抗する形で、日本の排外的なナショナリズムにも火がついてしまう、という事態だろう(そうなれば、過去の歴史が示すように、いちばん被害を被るのは、いつも民衆の側という結果になる)。→ これを防ぐためには、支配者層による上からの公定ナショナリズムと、生活的な基盤に根ざした民衆的ナショナリズムとを、意識的に峻別する視点・論理そして物語を獲得していく。→ そうすることで、他国の民衆の側とも協調・連帯して、共にそれぞれの支配者層と対峙していく、ということだろう…〕


○オーストリア・スラブ主義とパラツキー書簡

・次にチェコ民族を見てみる。…現在のチェコ共和国の中西部をボヘミアという(宗教改革者フスの出身地)。…ハプスブルク帝国の中では、最も工業化の進んだ地域で、新聞・雑誌を含めチェコ語の出版物も数多く刊行され、文化エリートが育ちやすかった。→ その中にあって、チェコ人は支配者階級であるドイツ人との対立を深め、民族意識を覚醒させていく。
・チェコのナショナリズムを見る上で重要なのは、オーストリア・スラブ主義の思想。1848年のウィーン三月革命によって、ボヘミア地域にも一定の自治が認められた。→(ハンガリーの場合は、ここからマジャール人の公定ナショナリズムが生まれていったが)、ボヘミアは違った。→ ボヘミアは、オーストリア帝国内にいるスラブ民族の連帯を主張するようになる。…これをオーストリア・スラブ主義という。
・オーストリア・スラブ主義を典型的に表すものに、「パラツキー書簡」がある(パラツキーは、チェコの歴史家・民族運動の指導者)。…1848年の革命によって、ドイツ連邦の各地でドイツ統一の運動が強まる。→ このときフランクフルト国民議会が開かれ、二つの立場に分かれる。…①オーストリアを中心にドイツを統一しようという大ドイツ主義。②オーストリアからは分かれて、プロイセン中心で統一しようとする小ドイツ主義。
・ボヘミアのパラツキーのもとにも、大ドイツ主義の代表の一人として参加要請があった。→ この参加要請を拒否した書簡が「パラツキー書簡」(チェコの民族運動を語る上では決定的に重要な資料)。(その要旨)…私はスラブ民族につながるチェコ人…チェコ民族は小さな民族だが、太古以来固有の民族性を持ったひとり立ちの民族だった。その支配者たちは古い時代からドイツの君主たちの連邦に加入してきたが、しかしチェコ民族は自分がドイツ民族に属するとは決して考えなかったし、またどんな時代にも他の民族からドイツ民族の一部と考えられたことはなかった。…つまりパラツキー書簡には、まず自分がチェコ民族であることが堂々と宣言されている…(詳細はP135)。


○「われわれはフスの民族だ」

・パラツキーはチェコ民族の父。→「われわれはフスの民族だ」というイメージを流布することによって、民族のアイデンティティを確立していく。→ そして宗教的にも、(ドイツのプロテスタンティズムではなく)チェコ土着であるフス派のプロテスタンティズムであるという物語をつくっていく。…つまり、パラツキーによって、フスの物語がエトニとして発見されていくわけだ。
・ただし、彼の主張は、(単純なチェコ民族独立主義ではなく)オーストリアからドイツを切り離し、チェコ人、スロヴァキア人、ポーランド人、スロベニア人などのスラブ系諸民族の連邦的な帝国にオーストリアを再編すべきというもの。…これがオーストリア・スラブ主義。→ 従って、同じスラブ民族であっても、「世界帝国」をめざすロシアとの連帯は拒絶する。また、ドイツはドイツでまとまればいいじゃないか、と考えている。←→ ただし、オーストリア帝国にはいっさい手を出してほしくない、と。(※う~ん、中東欧諸国の微妙な立ち位置…)
・こうしてパラツキーは、フランクフルト国民議会への出席要請をはねつけ、他方では、プラハでスラブ民族会議を開き、帝国内のスラブ民族の統合を掲げる。→ 以降、チェコの民族運動は、オーストリア・スラブ主義を基調に動いていく(とりわけ、スロヴァキア人との連邦を構想し、1918年に兄妹民族によるチェコスロヴァキア共和国を建設)。


○ムスリム・コミュニスト

・ここから中央アジアの歴史を見ていく…ナショナリズムが「人を殺す思想」として培養されていく姿がよくわかるから。
・帝政ロシア時代までの中央アジアは、国家が存在しない土地であり、「トルキスタン(トルコ系の人たちが住む土地)」と呼ばれていた。…当然、近代的な民族意識はない。
・遊牧民は、血縁にもとづく部族意識。…農耕民は、定住するオアシスを中心とする地縁意識。…そしてどちらもスンニ派ムスリム(イスラム教徒)という宗教意識を持っている。…言語は、トルコ系言語とペルシャ系言語であり、双方を話すバイリンガルも多い地域だった。
・1920~30年代、スターリンはトルキスタンに恣意的な分割線を引いていく。…おそらくそれは、ロシア革命がヨーロッパに波及しなかったことと関係している。
・マルクス主義の考え方によれば、資本主義が最も発達したところから革命が起きて、社会主義になっていくはず。←→ ところが、現実に革命が最初に起きたのは、後発資本主義国のロシアだった。→ 革命の指導部は、ロシア革命がやがて西欧に拡大していく、と考えたが、その予想は外れてしまった。
・ここで、スターリンとレーニンは見事な方向転換をする。→「万国のプロレタリアート、団結せよ」というスローガンに加えて、「万国の被抑圧民族、団結せよ」を並べるのだ。…本来、この二つは矛盾する。プロレタリアートの観点からすれば、民族には意味がない。…被抑圧民族の観点からすると、階級区別は意味を持たない。→ それを同居させてしまうところが、スターリンとレーニンの手腕。
・さらにレーニンは、潜在的な被抑圧民族として、中央アジアやコーカサスの少数民族に目をつける。→ そうして、ムスリム・コミュニストという概念をつくってしまう。…このムスリム・コミュニストに、中央アジアでプロレタリアート革命を実行してもらおうというのが、レーニンの魂胆だった。
(※こういう政治的策略は、後で高いツケが回ってくるのが歴史の常…)


○トルキスタンの分割

・レーニンのねらいは成功した、いや、成功しすぎた。→ トルキスタンのムスリムに力がつきすぎてしまい、次々とムスリム系の自治共和国が生まれていった。…このままでは、マルクス・レーニン主義まで危うくなってしまう。中央アジアに単一のイスラム国家が生まれてしまう。→ イスラム原理主義革命の拡大に危機感を募らせたのがスターリンだった。
・そこでスターリンは、1920~30年代に「上から」複数の民族をつくっていく。→ トルキスタンを、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギス、トルクメニスタン、カザフスタンという五つの民族共和国に分割した(P140に地図)。(※う~ん、こういう成り立ちだったのか…)
・しかし、これらは上から人為的につくられた民族であるため、様々な矛盾が生じた(詳細はP141)。…このように中央アジアでは、1920~30年代に(ほとんど民族意識がないところで)「上から」民族がつくられた。…公定ナショナリズムの典型。
・その結果、どうなったか。→ ソ連崩壊後、中央アジア諸国では部族を中心とするエリート集団が権力を握り、他方で、経済的困窮からイスラム原理主義が拡大していく。(※経済的困窮は、イスラム原理主義が拡大していく最大の要素か…)
・ソ連時代にはそれなりに存在していた市民層も、伝統的な部族社会に吸収されるか、イスラムに対する帰属意識を強める方向に分解が進んだ。→ 1990年代のタジキスタン内戦のように国家が分裂し、民族ごとに国家がいくつも登場して、激しい殺し合いをするかたちで、民族意識が高まってしまう。…これは、ナショナリズムが「人を殺す思想」になってしまうことを端的に示している。
(※このタジキスタン内戦というのは、ほとんど記憶にないが、日本では報道されていたのだろうか…?)



(4)ウクライナ危機からスコットランド独立問題まで


○ウクライナ危機のプロセス

・以上をふまえて、現下の国際情勢について考えてみる。…2014年は、新・帝国主義の時代がいよいよ本格化してきたことを印象づける一年だった。…それを象徴しているのがウクライナ危機。→ この地では、ナショナリズムが文字どおり「人を殺す思想」となっている。
・(今回のウクライナ危機にいたる推移)…2010年2月に大統領に就任したヤヌコビッチは、親ロシア派だが、EUとの経済連携強化を進めていた。→ ところが、2013年11月に、その協定交渉を突然中止し、ロシアとの関係を強化する方針を表明。←→ これに反発する大規模なデモや反政府集会が連日続き、多数の死者も出たことで、事態は緊迫化。→ ヤヌコビッチ大統領が野党側に譲歩するも(大統領選の前倒し実施など)、反政府派のデモは収束せずに激化し、首都キエフを掌握。→ その後、ヤヌコビッチ大統領は行方不明となり、大統領代行による暫定政権が発足。→ このウクライナでの「革命」に続き、2014年3月には、ウクライナのクリミア自治共和国で住民投票が行われ、(ロシアへの)編入を要求。→ そしてロシアは、クリミア編入を決定。→ その後、4月以降は、ウクライナ東部を親ロシア派勢力が掌握し、分離独立を主張。←→ それに対し、新政権は治安部隊を投入したが、事態は混迷を深めたまま内戦状態に。→ ドネツク州、ルガンスク州を実効支配する親ロシア派と、ウクライナ中央政府の間で9月に停戦協定が結ばれたが、武力衝突が完全に収まったわけではない。


○ウクライナ情勢の本質は何か

・しかし、こうした現象面の事実だけを追っていても、ウクライナ問題の本質は何ひとつわからない。→ ウクライナ情勢を解く鍵は、ウクライナ人が持つ「複合アイデンティティ」にある。…ウクライナは、西部と東部・南部で歴史や民族意識が大きく異なるのだ。
・ウクライナ西部は、第二次世界大戦までは、ロシアによって一度も支配されたことがない土地で、強烈なウクライナ民族意識を持っている。宗教もユニエイト教会(ローマ教皇の指揮監督下)の信者が多数派。←→ これに対して、ウクライナ東部・南部はまったく違った歴史を持っている。…17世紀にはロシア帝国領に組み込まれ、ロシアと密接な関係を持った地域。ロシア語を日常的に話す住民が多数派。宗教もロシア正教。→ 従って、人々はそれほど強いウクライナ民族の自覚を持っているわけではない。(詳細はP144~147)
・今回のウクライナ政変で機関車の役割を果たしたのは、西部の民族主義者たち。…西ウクライナの民族主義には長い歴史がある。→ ソ連が崩壊していくプロセスの中で、西ウクライナを中心にウクライナ語の使用などを訴えた激しい民族解放運動が起きる。…その中心になったグループが、「西ウクライナ・ルフ」。
・彼らの基本的な考え方は、「ウクライナが独立した際には核兵器を保全しながら、大国としてロシアに対抗していく」という強硬なものだった。→ 今回のウクライナの反体制派の中心は、この西ウクライナグループだ。…彼らは、祖国をロシアから完全に切り離し、純粋なウクライナを構築したいという強い願望を持っている。……現在ウクライナで進行している「革命」の背景には、こうした歴史的・文化的な根深い対立構造があるのだ。→ 従って、西部と東部・南部では、ロシアに対する距離感もまったく異なる。…西部の民族主義者たちは、ロシアからの影響を排除し、EUとの連携強化を目論んでいる。←→ それに対して、東部・南部はロシアに強い親近感を示し、ウクライナからの分離独立にも肯定的な住民が多数いるのだ。
(※う~ん、複雑…! そして、このウクライナ問題は、今も解決の筋道が見えてこない…)


○アイルランド問題とのアナロジー

・ウクライナでの異なるナショナリズムの衝突をどのように考えればいいのか。→ アナロジー(類比)のモデルとして、(前章でも扱った教科書)『イギリスの歴史「帝国の衝撃」』を参照する。
・まず、イギリスとアイルランドの歴史的経緯……もともとアイルランドは大多数がカトリックだったが、スペインがイングランドを攻撃する拠点としてアイルランドを利用したため、イングランドはアイルランドを取り締まるようになり、後にはプロテスタントが入植するようになった。→ さらに17世紀には、イングランドの内戦で勝利したクロムウェルがアイルランドに侵攻、4万人のアイルランド人を農場から追い出し、それらの土地を自分の兵士に分け与えたという。→ 19世紀には、アイルランドはイギリスの正式な植民地となる。…19世紀半ばに襲った飢饉では、約100万人の餓死者がアイルランドに出たが、イギリス政府は冷淡な態度しか示さなかった。……こうした経緯の中で、アイルランドは断続的に抵抗を繰り返し、1922年、北部アイルランドはイギリスの一部として残留し、他のアイルランドはアイルランド自由国(49年にアイルランド共和国)として独立する。(※これも複雑…!)
・そして歴史教科書は、「アイルランド:なぜ人びとはアイルランドと大英帝国について異なる歴史を語るのか?」というタイトルの章で、二つの戦いについて説明されている。

①第一次世界大戦で、イギリス国王と大英帝国のために20万人以上のアイルランド人が兵士として従軍し、そのうちの3万人以上が戦死した。
②大戦中の1916年、アイルランドの首都ダブリンでアイルランドの一団が武装蜂起して(イースター蜂起)、独立アイルランド共和国樹立を宣言したのち、イギリス軍によって鎮圧された。

・つまり、一つの島に二つの異なる態度があった。

①フランスでイギリス国王と帝国のために戦い、死をも辞さないアイルランド人(イギリスの一員と感じている)。
②ダブリンで国王と帝国に対して、死ぬ気で戦いを挑んだアイルランド人(イギリスの支配から脱するべきと思っている)。

⇒ その上で読者に、歴史について自分の意見を述べよ、という課題を提示している。
(※う~ん、日本ではこんな教科書にお目にかかったことはない…詳細はP148~152)


○同質性が高いほどナショナリズムは暴発しやすい

・ウクライナ危機とアイルランド人の問題は、どのような点でアナロジーを構成できるか。……ナショナリズムの衝突を考える上で重要なことは、アイルランドとウクライナも、同質性が高い地域で殺し合いが起きた、ということ。…アイルランド人の中には、イギリス社会で中産階級に上昇する人もいた。→ 多くのアイルランド人は、複合的なアイデンティティの持ち主だと考えられる(同質性が高いなら、暴力的な衝突は起きにくい、と考えたくなるが、まったく逆なのだ)。⇒ ナショナリズムは、同質性が高いほど、その差異をめぐって、暴発しやすいのだ。
(※う~ん、政治党派も、宗教でも、その傾向ありか…?)
・ウクライナ人もロシア人も、同じ東スラブ人だから、同質性は比較的高いと言える。

①ロシアとの協調を求める東部・南部のウクライナ人。
②ロシアの影響を排除し、親欧米を掲げる西部のウクライナ人。

・ウクライナが独立したのは、ソ連が崩壊した1991年(およそ四半世紀前)→ そのため、40代以上のウクライナ人は、ソ連人として過ごした年数も長く、複合アイデンティティを持っている。←→ しかし彼らは今、自分たちがロシア人なのか、ウクライナ人なのか、アイデンティティの選択を迫られている。→ そして、そのアイデンティティの選択次第で、隣人と殺し合いをする状況が生まれてしまうのだ。……このように、アイルランドの歴史を参照すると、ウクライナ危機の構図は、同質性の高いナショナリズムの衝突という形で整理することができる。(※う~ん、ウクライナ危機の複雑さが少し分かってきたか…)


○スコットランド独立問題

・まったく同じ構図を、2014年9月に行われたスコットランド独立の是非を問う住民投票に見て取ることができる。……1707年の「連合法」によって、スコットランドはイングランドに併合された。…それまで、スコットランドは独立した王国だった。→ 民族の記憶は、300年程度では消えない。(P154にイギリスの地図)
・スコットランドの人々が恐れたのは、このまま人材も資源も流出し、ロンドンに吸い取られていく未来だ(人口530万人の自分たちで回していったほうが豊かになれる、という計算もあったかもしれない)。→ イングランドとの格差が広がり、独自の言語も廃れ、軍事負担も過剰に課せられている。…こんな問題提起が噴出し、民族意識に火がついた。
・幸いなことに、スコットランドでは殺し合いではなく、住民投票という形で、アイデンティティの選択が行われた。しかし、武力衝突の可能性がなかったわけではない。…仮に、スコットランドが独立を可決していたらどうか。→ イギリスは北海油田を失うことになり、イングランドがこれを認めることは断じてなかったはず。→ イングランド・スコットランド戦争、あるいはスコットランド内部のイングランド統合派とスコットランド独立派が衝突することになる。
・実際は、独立反対の票が上回り、スコットランドはイギリスに残留することになったが、これで一件落着と考えることはできない。……ギリシア語では「クロノス」と「カイロス」という二つの異なった時間概念が存在する。

①クロノス……日々、流れていく時間のこと。年表や時系列で表される時間。
②カイロス……ある出来事が起きる前と後では意味が異なってしまうような、クロノスを切断する時間。(※戦争とか今回の震災とかを内に取り込んだ時間概念、ということか…)

・スコットランドの住民投票では、イングランド人とスコットランド人では、カイロスが異なることが可視化された。…住民投票にあたり、イギリス政府だけでなく、国政レベルの与野党はすべて独立に反対して、スコットランドに「独立した場合、経済的に困窮することになる」と圧力をかけた。←→ このことに対して、多くのスコットランド人は、自分たちが差別されているという認識を抱いた。…つまり、スコットランド人にとっては、今回の住民投票が、過去の苦渋の記憶が蘇るようなカイロスになった。←→ しかし、イギリス人にその意識はなかったのだ。(※う~ん、この構図は、沖縄と本土との関係にアナロジーできるか…)
・おそらく、スコットランド独立派が、イギリスからの分離独立を諦める可能性はない。…数年後に再び、独立の是非を問う住民投票を提起する可能性は十分にある(詳細はP157)。


○「ぼんやりとした帝国」としてのイギリス

・イギリスは、ここまで述べてきた近代の国民国家の原理とは、少し異なるところがある。→(アンダーソンの言)…「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」という国名の中に、民族を示唆する言葉はどこにもない。…イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人は民族名。しかし、グレートブリテン人、北アイルランド人という民族は存在しない。→ これが示唆するのは、この国では、王あるいは女王の名のもとに、民族を超える原理で人々が統合されてきたということ。…アイルランド問題やスコットランド問題も、このようなイギリス的統合のあり方が機能不全に陥りつつあることを示唆しているのかもしれない。(※そして今後、イギリスでは「EUからの離脱」を問う住民投票も控えているらしい…)
・ゲルナーもまた、イギリスの特殊性をこう表現している…「イギリスはぼんやりとしたまま帝国になった」。…イギリスの歴史教科書『帝国の衝撃』でも、インド支配をテーマとした章で、次のように問いかけている。…イギリス人の歴史家の多くは、イギリス人が最終的にインドを支配するようになったのは、偶然の結果であったと主張している。→ あなたはどう考えますか。イギリス人は単に「いつの間にか支配者になった者たち」だったのだろうか。それとも彼らは、自分たちの行為をきちんと理解していたのだろうか。
・イギリス政府がスコットランドの心情を理解せず、ぼんやりとしたまま「いつの間にか支配者になった」と考え続けるのであれば、スコットランドのナショナリズムは、今後もずっとくすぶり続けていくことになるだろう。


○スコットランドに自らを重ねる沖縄メディア

・このスコットランド独立運動に対して、日本のメディアの多くは、地域間の格差といったような「地域主義」の視点で報道していた。…これは、日本人記者の多くが、ロンドンの中央政府やイングランド人の世界観に立って、スコットランドを見てしまっている証拠だ。つまり、スコットランド独立運動が民族問題であることを軽視してしまっている。⇒ メディア報道のみならず、日本人は大民族なので、少数派の発想や感情を理解するのに不得手なところがある。
・それに対して、沖縄の報道は違った。…『琉球新報』の社説は、スコットランドの独立を問う住民投票を「世界史的に重要な意義がある」としている。…「冷戦終結以降、EUのように国を超える枠組みができる一方、地域の分離独立の動きも加速している。国家の機能の限界があらわになったと言える。もっと小さい単位の自己決定権確立がもはや無視できない国際的潮流になっているのだ。沖縄もこの経験に深く学び、自己決定権確立につなげたい。」
・沖縄人にとっては、スコットランドの住民投票は他人事とは思えない。…本土の人間と沖縄人とでは、同じ出来事が違う意味をもって受け取られている。→ つまり、イングランド人とスコットランド人と同様に、この両者でもカルロスが異なるのだ。
・スコットランドの住民投票からおよそ2ヵ月後、沖縄県知事選(2014.11.14)が行われ、翁長氏(前那覇市長)が当選した。…沖縄メディアは、県知事選を意識してスコットランドの住民投票を報じていたのだ。→ この選挙は、沖縄の自己決定権を主張する翁長候補と、すでに沖縄人は日本人に完全に同化したと考えている仲井眞前知事との間での、沖縄の自己決定権をめぐる住民投票の要素をあわせ持っていたから。
・その結果、翁長氏がおよそ10万票の差をつけて当選した。…これ以上の基地負担を拒否するという沖縄人の強い意志がこの背景にはある。


○ナショナリズムへの処方箋

・私は、ここ数年の間で、「エトニ」が沖縄の中で強化されていると見ている。→ もはや、沖縄(琉球)民族というネイション形成の初期段階に入っていると見たほうがいいかもしれない。←→ しかし、この現実が多くの日本人には見えていない。
・沖縄のエトニは、沖縄の地に自分たちのルーツがあるという自己意識を持つ人々と、沖縄の外部ではあるが、沖縄の共同体に自覚的に参加していく意思のある人々から形成されている。→ しかも基地問題、オスプレイの配備問題を通じて、沖縄人は、本土の沖縄に対する差別や無関心をますます強く自覚するようになってきている。
・「あなたがいったい何者であるのかを決定づける最大の要素の一つは、受け継がれてきた文化遺産、すなわちあなたの歴史にあります。しかし、異なる人びとが異なる観点から同じ出来事を見たときに、果たして歴史は同じものであり続けるでしょうか?」(『イギリスの歴史「帝国の衝撃」』)→ 一つの事実に複数の見方があるということを理解するようになると、思考の幅が広がる。→ そして、自分と異なるものの見方、考え方をする人がいても、そのことに対して感情的に反発することが少なくなるはずだ。…平たく言えば、「他人の気持ちになって考える」こと(※ナショナリズムの相対化?)が、ナショナリズムの時代には決定的に重要になってくる。(※内乱や戦争を起こさないために…)
・(この章で見たように)世界史の中でナショナリズムが高揚する時代は、帝国主義の時代と重なっている。…資本主義が発達して、グローバル化が進んだ末に、帝国主義の時代が訪れることは前章で説明した。→ 同時に、帝国主義の時代には、国内で大きな格差が生まれ、多くの人びとの精神が空洞化する。⇒ この空洞を埋め合わせる最強の思想がナショナリズムなのだ。
・新・帝国主義が進行する現在、ナショナリズムが再び息を吹き返している。…合理性だけでは割り切れないナショナリズムは、近現代人の宗教と言うことができるだろう。→ 宗教である以上、誰もが無意識であれナショナリズムを自らのうちに抱えている。…その暴走を阻止するために、私たちは歴史には複数の見方があることを学ばなければいけないのだ。

〔※う~ん、ナショナリズムは、近現代人の宗教か…。→ そしてそれは、私たちの〝精神の空洞〟を埋め合わせるようにしのび込む…。先日も、日本の若者が「イスラム国」に接触(?)しようとして、トルコで保護された、という事件があったが、この事例も、現代日本の若者の〝精神の空洞〟に、「イスラム国」がしのび込んできた、ということか…? → そして今後は、もっと多数の若者の〝精神の空洞〟に、日本の支配者層による「上から」の公定ナショナリズムが、様々な方策を駆使して、充てんされていく危険性…?〕

 (5/9…2章 了)            

〔今回のテーマは、民族主義(ナショナリズム)でした。次回(3章)は、最後の宗教を取り上げます。…それによって、現下の世界情勢を理解していくための、最低限の基礎的な知識を得ておこう、というのが当面のねらいです。〕

 (2016.5.9)